南條がオフィスに足を踏み入れたのは、朝の始業十五分前だった。それは決して早くもなく、遅くもない。朝礼に間に合うよう、業務メールの整理と一日の予定を軽く確認するための、南條にとって最適な時間だった。エレベーターのボタンに触れる手の動きひとつにも無駄がない。革のビジネスシューズは今日も新品同様の艶を保ち、ネイビーのスーツには皺ひとつなく、結ばれたネクタイの結び目にゆるみはなかった。社内の空調はすでに稼働しており、冬の乾いた空気の中に静かな機械音が満ちている。デスクの並ぶフロアに照明が点いていても、人の気配はまだまばらで、複合機の起動音や誰かのキーボードを叩く微かな音が天井に吸い込まれていった。南條はフロアを一瞥すると、奥にある自席へと向かう。彼の席は、営業企画部の中央にあるL字デスクのひとつ。管理職席として壁寄りに置かれた配置で、全体を見渡せる位置にある。椅子を静かに引き、端正な所作で腰を下ろす。ディスプレイを起動し、無言のままメールソフトを立ち上げると、瞬時に未読の山が表示された。「本日より営業企画部に一名異動があります」人事部からのメールは、その未読の中にあった。添付されているPDFには、異動者の氏名とこれまでの所属、着任日などが事務的に記載されている。南條は件名を読んだ段階で大方の内容を把握し、メールを開く前に既視感のある溜息を胸の内に吐いた。また一人、関係構築の手間が増える。それが最初の感想だった。異動者の名は「伊吹 蓮」。営業本部直属の戦略チームからの転属とある。年齢はまだ二十代、入社五年目。今どきの異動事情としては珍しくない背景だ。形式上は南條の部下になるが、彼がこうした異動に対して毎回抱くのは、歓迎ではなく、慎重な距離感の取り直しだ。管理職という立場にいる限り、誰かと“近すぎてはいけない”。新人でもベテランでも、その線引きには変わりがない。午前九時、営業企画部の朝礼が始まった。部内全員が立ったまま輪を作り、順に報告を行う。空気は整然としていて、無駄な会話はない。南條が目を向けると、若手社員が二人、中央の入り口付近に並んで立っていた。そのうちの一人が、総務の案内を受けて静かに一歩前に出る。「本日付で営業本部戦略チームから異動してまいりました、伊吹 蓮と申します」低く、よく通る声だった。落ち着きのある口調。立ち姿に余計な緊張がなく、
Terakhir Diperbarui : 2026-01-23 Baca selengkapnya