残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です

残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です

last updateDernière mise à jour : 2026-01-23
Par:  中岡 始En cours
Langue: Japanese
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無口で繊細な32歳の美形部長・南條司は、仕事だけを武器に他人と距離を置いて生きてきた。 社内異動で現れた伊吹蓮は、完璧な業務と人懐こい笑みで部署に溶け込みながら、司にだけ“当然”のように近づく。 五年前、濡れ衣を着せられた新人の蓮を、司はたった一言で救っていた―― 出張の夜、手違いで一部屋しかないホテル。 距離を保つはずの司は、静かな密室で蓮の体温と視線に追い詰められていく。 帰任後の金曜、宅飲みはいつしか合図になり、終電を失うことさえ二人の暗黙の約束へ変わる。 名前を呼ぶだけで崩れてしまいそうな理性、触れられるたびに確かめたくなる“次”。 静かな部屋に残るのは、鍵の音と、離れられなくなる予感だけ。

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Chapitre 1

1.異動の朝

南條がオフィスに足を踏み入れたのは、朝の始業十五分前だった。

それは決して早くもなく、遅くもない。朝礼に間に合うよう、業務メールの整理と一日の予定を軽く確認するための、南條にとって最適な時間だった。エレベーターのボタンに触れる手の動きひとつにも無駄がない。革のビジネスシューズは今日も新品同様の艶を保ち、ネイビーのスーツには皺ひとつなく、結ばれたネクタイの結び目にゆるみはなかった。

社内の空調はすでに稼働しており、冬の乾いた空気の中に静かな機械音が満ちている。デスクの並ぶフロアに照明が点いていても、人の気配はまだまばらで、複合機の起動音や誰かのキーボードを叩く微かな音が天井に吸い込まれていった。

南條はフロアを一瞥すると、奥にある自席へと向かう。彼の席は、営業企画部の中央にあるL字デスクのひとつ。管理職席として壁寄りに置かれた配置で、全体を見渡せる位置にある。椅子を静かに引き、端正な所作で腰を下ろす。ディスプレイを起動し、無言のままメールソフトを立ち上げると、瞬時に未読の山が表示された。

「本日より営業企画部に一名異動があります」

人事部からのメールは、その未読の中にあった。添付されているPDFには、異動者の氏名とこれまでの所属、着任日などが事務的に記載されている。南條は件名を読んだ段階で大方の内容を把握し、メールを開く前に既視感のある溜息を胸の内に吐いた。

また一人、関係構築の手間が増える。

それが最初の感想だった。

異動者の名は「伊吹 蓮」。営業本部直属の戦略チームからの転属とある。年齢はまだ二十代、入社五年目。今どきの異動事情としては珍しくない背景だ。

形式上は南條の部下になるが、彼がこうした異動に対して毎回抱くのは、歓迎ではなく、慎重な距離感の取り直しだ。管理職という立場にいる限り、誰かと“近すぎてはいけない”。新人でもベテランでも、その線引きには変わりがない。

午前九時、営業企画部の朝礼が始まった。

部内全員が立ったまま輪を作り、順に報告を行う。空気は整然としていて、無駄な会話はない。南條が目を向けると、若手社員が二人、中央の入り口付近に並んで立っていた。そのうちの一人が、総務の案内を受けて静かに一歩前に出る。

「本日付で営業本部戦略チームから異動してまいりました、伊吹 蓮と申します」

低く、よく通る声だった。落ち着きのある口調。立ち姿に余計な緊張がなく、目線はまっすぐに正面を見ている。

「よろしくお願いいたします」

その一礼が済んだ瞬間、南條はふと、足元に冷たい水をひとしずく垂らされたような気配を覚えた。

この男を、どこかで見たことがある。

だが、それは“顔”による記憶ではなかった。見た目ははっきりと初対面のものだ。黒髪は清潔感のあるショート、長すぎず短すぎず整えられた眉、やや伏し目がちの目元は涼しげで、整った輪郭は目を引くがどこか中性的でもある。背格好も平均的で、パリッとしたシャツとネイビーのスーツが彼の若さに妙な信頼感を添えていた。

初対面のはずだ。だが、なぜか“懐かしさ”のようなものが胸の奥に引っかかっている。

伊吹が南條の目の前で、ほんのわずかだけ口元を緩めた。

「お久しぶりです、部長。覚えてませんか?」

その声は、ごく小さく、だが確かに南條にだけ向けられていた。

周囲の数人が軽く笑った。冗談だと思ったのだろう。けれど南條は笑えなかった。思わず数秒、伊吹を見つめてしまっていた。笑顔でも、挑発でもない。だがその目は何かを探っている。まるで過去の記憶の奥底を、指先で掘り起こそうとするかのように。

「…すまない、記憶にない」

南條はようやく、それだけを絞り出した。伊吹は表情を変えず、ただ一度、穏やかにうなずいた。

「ですよね」

それだけを残して、すっと輪の外へ戻っていった。

朝礼が終わり、業務が始まっても、南條の頭の片隅には伊吹の顔がしつこく残り続けた。記憶の断片に似た誰かを思い出そうとするたび、まるで煙のように指の隙間を抜けていく。学生時代か、若手の頃か。だが、そのどちらにも“伊吹 蓮”という名前は結びつかない。

PCの画面に視線を戻すと、伊吹の名前がすでにいくつかの業務報告の宛先に入っていた。着任当日だというのに、彼はもう部内のSlackチャンネルに的確なコメントを投げていた。営業戦略部での経験があるだけに、資料の読み込みも速く、表現に曖昧さがない。

“使える”部下だ。それは間違いなかった。

だが、だからこそ、南條の中の違和感は増していく。伊吹は南條にだけ、ほんの少しだけ態度を変えている。それは愛想でも、馴れ馴れしさでもない。“自然すぎる懐き方”とでも言うべき、他者には見せない柔らかさが、南條に向けられている気がした。

そして南條自身もまた、その微細な“差”に気づいてしまったことを、自分の中で整理できないでいた。

午後、部内会議で伊吹が初めて本格的に発言した。

資料に目を落としながらも、視線は適切に相手の顔を捉え、発言のテンポに間がない。相手の問いを咀嚼してから返すまでの速度が絶妙で、根拠となる数値もすでに頭に入っているのがわかる。背伸びをする若手によくある“準備しすぎた痕跡”がない。

会議後、隣にいた主任の佐倉がぽつりと漏らした。

「やりにくいっすね、あの人。完璧すぎて」

その言葉が示すのは、単なる嫉妬ではなかった。伊吹は“無難に優秀”というより、最初から“手を抜かないタイプ”に見えた。失敗も、軽口も、迷いも、彼の所作からは感じられない。

完璧な部下。だが、人間らしい隙がない。

夕方、業務がひと段落したタイミングで、伊吹が控えめに南條の席に声をかけてきた。

「今日の進め方、もし気になった点があればご指摘いただけますか」

「特にない。よくやっていたと思う」

「ありがとうございます。…南條部長が資料を確認されるタイミング、わりと朝イチが多いんですね」

「…ああ」

思わず南條の動きが止まった。伊吹はそれ以上何も言わず、ほんの一拍の間を空けて、静かに去っていく。去り際に、声も表情も、仕事上の礼儀を欠いたところは一つもなかった。

けれど、その背中が去った後、南條の中には“見られていた”感覚だけが確かに残った。

誰にでも同じように接しているようで、彼は南條だけを“特別に観察している”。

だが、その距離感は絶妙で、一線は越えてこない。

それが、かえって厄介だった。

業務が終わるころには、南條の胸に残ったものは疲労ではなかった。焦りでも、不快感でもない。

ただ、うっすらと滲む“名前のない不安”だった。

それは記憶の奥底を、誰かの指先が静かになぞっているような感覚。

懐かしさと、名残のようなもの。

けれど、その正体が思い出せない。

南條はネクタイを緩めながら、窓の外に沈む夕日を見やった。

その色は、冷たく整ったオフィスの蛍光灯と、まるで無関係のように揺らいでいた。

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1.異動の朝
南條がオフィスに足を踏み入れたのは、朝の始業十五分前だった。それは決して早くもなく、遅くもない。朝礼に間に合うよう、業務メールの整理と一日の予定を軽く確認するための、南條にとって最適な時間だった。エレベーターのボタンに触れる手の動きひとつにも無駄がない。革のビジネスシューズは今日も新品同様の艶を保ち、ネイビーのスーツには皺ひとつなく、結ばれたネクタイの結び目にゆるみはなかった。社内の空調はすでに稼働しており、冬の乾いた空気の中に静かな機械音が満ちている。デスクの並ぶフロアに照明が点いていても、人の気配はまだまばらで、複合機の起動音や誰かのキーボードを叩く微かな音が天井に吸い込まれていった。南條はフロアを一瞥すると、奥にある自席へと向かう。彼の席は、営業企画部の中央にあるL字デスクのひとつ。管理職席として壁寄りに置かれた配置で、全体を見渡せる位置にある。椅子を静かに引き、端正な所作で腰を下ろす。ディスプレイを起動し、無言のままメールソフトを立ち上げると、瞬時に未読の山が表示された。「本日より営業企画部に一名異動があります」人事部からのメールは、その未読の中にあった。添付されているPDFには、異動者の氏名とこれまでの所属、着任日などが事務的に記載されている。南條は件名を読んだ段階で大方の内容を把握し、メールを開く前に既視感のある溜息を胸の内に吐いた。また一人、関係構築の手間が増える。それが最初の感想だった。異動者の名は「伊吹 蓮」。営業本部直属の戦略チームからの転属とある。年齢はまだ二十代、入社五年目。今どきの異動事情としては珍しくない背景だ。形式上は南條の部下になるが、彼がこうした異動に対して毎回抱くのは、歓迎ではなく、慎重な距離感の取り直しだ。管理職という立場にいる限り、誰かと“近すぎてはいけない”。新人でもベテランでも、その線引きには変わりがない。午前九時、営業企画部の朝礼が始まった。部内全員が立ったまま輪を作り、順に報告を行う。空気は整然としていて、無駄な会話はない。南條が目を向けると、若手社員が二人、中央の入り口付近に並んで立っていた。そのうちの一人が、総務の案内を受けて静かに一歩前に出る。「本日付で営業本部戦略チームから異動してまいりました、伊吹 蓮と申します」低く、よく通る声だった。落ち着きのある口調。立ち姿に余計な緊張がなく、
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2.見た目という情報
午後のオフィスは、淡く射し込む自然光と空調の低い音に包まれ、静かな集中の気配を漂わせていた。パーティションに囲まれた島の中、キーボードの打鍵音と紙をめくる微かな音だけが、かすかに時を刻む。南條司は、整然と並んだ資料のひとつに視線を落としたまま、ほんの数秒、手を止めた。斜め前の席、伊吹蓮が立ち上がり、何かの確認をしに複合機の方へ向かっていく。姿勢がいい。自然な動作の中に、若さに裏打ちされた柔軟さと、場慣れした落ち着きが同居している。伊吹は入社五年目。いわゆる“若手”ではあるが、すでに他部署での実績を重ねてから、営業企画部に異動してきたという経緯がある。中途採用でも転職組でもない。社内異動組の二十七歳。南條は、彼のそうした経歴を一通り確認している。数字に強く、プレゼンの組み立てもそつがない。だが、それ以上に目につくのは、無駄のない佇まいと、どこか他人の懐に自然と入り込むような“空気”だった。ふと、複合機の前で伊吹がふとした拍子にこちらを振り返った。視線が交わる。すぐに伊吹は軽く会釈し、コピーを手に戻っていく。その瞬間、南條の胸にごくわずかな違和感がよぎった。何でもない一連の動作が、妙に滑らかで、演出されていないようでいて、どこか“見られている”ことを意識したような、計算の匂いを感じたからだ。整った顔立ちだとは思う。目鼻立ちは端正で、頬は適度に引き締まり、若々しいが軽薄には見えない。黒髪は額にかからない程度に整えられ、スーツの着こなしも無理がない。シャツの第一ボタンはきちんと留め、ネクタイは結び目が崩れていない。しかし、それらの“整い方”が、どこか作為的ではないか。南條の職業的な目は、そうした部分を無意識に拾い上げる。なのに——「南條部長、こちら、目を通していただいてもよろしいですか」肩越しに届いた声に、南條はわずかに体を起こした。伊吹が、自分のノートPCの画面を指し示している。「構成案の数字、更新した部分があるので…見解を伺えればと」「…わかった」椅子を軽く引き、伊吹のモニターに目を落とす。グラフの色使いは控えめで、比較の軸が明確になっている。既存資料との差分が分かりやすく、視線の流れを妨げる無駄がない。「資料としての体裁は問題ない。ただ、ここ——前年度比のところ、比較項目をもうひとつ追加できるな」「ここの列ですね」伊吹はするりと操作し
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3.線を引く人、線を越えない人
夕方六時、オフィスの照明がわずかに色を変える。白昼に近いクリアな光から、どこか柔らかい黄味を帯びた明かりへ。蛍光灯の設定が自動で切り替わる仕組みだとわかっていても、その変化は南條司の目に、妙に象徴的に映った。定時を過ぎてもフロアにはまだ十数名が残っており、キーボードを打つ音やプリンターの駆動音が、点在する静寂の中に散らばっている。だが、昼間とは明らかに違う空気があった。電話のベルはもう鳴らない。コピー用紙の補充をする者もいない。上司に提出する報告書を手早く整える者の気配だけが、淡々と時間を削っている。南條はデスクに座り、眼鏡を外して机の隅に置いた。目元に指を添えて軽く揉む。資料に集中しすぎて、瞼の奥がじんわりと重たい。今日は来客対応こそなかったが、細かい調整ごとや差し戻しの対応で、頭を使いすぎた。南條は三十二歳。もう二十代の頃のような、無理はきかなくなっている。「お疲れさまです」背後から聞こえた声に、自然と手の動きを止めた。振り返らずとも、誰の声かはすぐにわかった。「少しだけ、お時間いいですか」振り向くと、伊吹蓮が立っていた。今日も変わらず、着崩しのないスーツ姿。第一ボタンまで締めた白いシャツに、締まりのある濃紺のネクタイ。どこかしら、営業部らしからぬ静けさをまとう男だった。「いいが、手短にな」「もちろんです」伊吹は、手にしていたタブレットをすっと差し出す。画面には、今週提出予定の案件整理リストが表示されていた。南條はそれを受け取り、最初の数行に目を通す。「この順序で提出の優先度を整理したいのですが…問題ないでしょうか」「大きなズレはない。ただ、四件目と六件目は順番を入れ替えた方がいい。得意先の決済スピードが違う」「なるほど…確かに」南條がそう言うと、伊吹は静かにうなずいた。自席に戻る様子はない。何か続きを口にする気配を残したまま、そこに立ち続ける。「それだけか」南條が促すと、伊吹は少し口元を緩めてから言った。「すみません。ついでに、ひとつだけ確認を」「…なんだ」「南條部長、今日は目元が少し赤いですね。花粉ですか」唐突にそう言われ、南條の手が、無意識に目元に触れる。「いや、花粉症ではない」「そうでしたか。光の疲れですかね。照明が変わった直後って、目にくることありますし」「…よく見てるな」思わず、そう口にしていた。揶揄の
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4.信じてくれた人
昼過ぎの新幹線。乾いた車輪音が規則的に響き、窓の外では冬の陽が斜めに田畑を照らしていた。ぼんやりと視線を流しながら、伊吹蓮は缶コーヒーのぬるさを確かめ、口をつけずに膝に置いた。南條司の隣席からは、軽く眠っている気配がする。背筋は真っ直ぐなまま、眼鏡越しの目元を閉じて、浅く、静かな呼吸。車内の小さな揺れに合わせて、ネクタイの先が微かに揺れていた。伊吹はその揺れに目を奪われたまま、ふと目を細める。――五年前も、こんなふうに自分はこの人を見ていた気がする。入社して間もない春。新人の浮ついた熱気と不安が社内を包んでいた時期。伊吹は営業部での配属が決まり、あるプロジェクトの研修に参加していた。グループワークの中で「営業担当」という肩書を任され、右も左もわからぬまま、がむしゃらに走っていた。相手企業の情報を調べ、先輩たちのプレゼン資料を研究し、自分なりに見せ方を考えた。誰にも負けたくない気持ちと、何かで認められたいという焦りが入り混じっていた。けれど、会議の当日の朝。資料のデータがすべて、端末から消えていた。オフィスに鳴るキーボード音と、人の足音と、プリンターの紙送り。すべてが遠く聞こえた。自分の席のパソコンを呆然と見つめたまま、伊吹は数分、何もできなかった。削除した覚えなどなかった。だが、事実としてファイルはなかった。その直後、教育係を務めていた先輩社員が、周囲にこう告げた。「伊吹くん、昨日の夜、バックアップ取ってなかったって言ってたよね?」事実ではなかった。そんな会話はしていないし、実際、伊吹は深夜にもう一度確認していた。ただ、USBにコピーするのを忘れていただけだった。「新人だから仕方ないよな」「まあ、最初は誰でもやらかすからさ」会議室の準備をする誰かが、そう言った。笑いを含んだその声に、伊吹は返す言葉を見つけられなかった。自分に非があるのかもしれない。確かに、バックアップを怠ったのは事実だった。会議の冒頭、責任の所在を曖昧にしたまま、先輩社員がまとめ役として口を開いたときだった。「少し、待ってください」静かに割り込んできたのが、南條だった。その時点で、伊吹は彼を「プロジェクト全体のサポートに入ってくれているベテラン社員」程度にしか知らなかった。穏やかな声と、涼しげな目元、資料を読むときにだけ眼鏡をかける仕草。その印象だけが記憶に残って
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5.出張の空と、ホテルの鍵
フロントの向こうで、雨に濡れた自動ドアが音もなく閉じた。外はすっかり薄暗くなっていて、ガラス越しに見える駅前ロータリーには、まだスーツ姿の人影がまばらに行き交っている。小雨は霧のように細かく、地面に滲む街灯の明かりを淡く霞ませていた。地方の取引先との打ち合わせは、無事に終わった。数時間に及んだプレゼンも、想定よりは好感触だったし、クライアントの反応にも好意的な空気があった。上出来だと、自分で思える内容だった。けれど、今、伊吹の胸を静かに満たしているのは、達成感ではなかった。ロビーのソファに南條と並んで座りながら、伊吹は自分の心音がいつもより微かに速いことに気づいていた。革張りのソファは深く、ホテル特有の柔らかな香りが空調と共に漂っている。消毒液のわずかな残り香に、微かに甘い芳香剤が混ざった匂い。視界の隅では、スタッフが台車を押してエレベーターへと消えていく。フロントのカウンターでは、チェックインの手続きが進んでいた。受付のスタッフが、予約画面を確認しながら小さく首を傾げる。「申し訳ございません。ご予約は、こちらの“シングルルーム”一室のみとなっております」その言葉に、伊吹は横目で南條を見た。南條は表情を動かさず、淡々と答える。「…手配ミスだな」穏やかな声だった。責めるでもなく、苛立ちも見せない。ただ、確認するように視線をスクリーンに落とすと、フロントの女性は少し身を縮めて恐縮したように頭を下げた。伊吹は、つい口元を引き締めた。笑いそうになる自分を、誤魔化すように顎に手を添える。「俺、気にしませんよ。全然、大丈夫です」その声に、南條がゆっくりと顔を向けた。目元は相変わらず読めないが、数秒の沈黙ののち、静かにうなずいた。「そうか」手続きが終わると、カードキーが2枚、台紙に挟まれて手渡された。伊吹が受け取り、南條に1枚を差し出す。ふたりは無言でエレベーターへと歩き出した。薄い絨毯の廊下を抜け、客室のフロアへ。鍵を差し込むと、カチリと軽い音がしてドアが開く。先に伊吹が入る。蛍光灯の照明が、自動的にパッと灯った。部屋の中は、どこにでもあるビジネスホテルの作りだ。シングルルームというにはやや広めで、ベッドが中央にあり、その脇にソファと小さなローテーブルがある。天井からは柔らかな白い光。窓際のカーテンは薄く閉ざされていて、その向こうに、にじんだ駅
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6.あなたの熱を、初めて知る
部屋の明かりは落とされていた。遮光カーテンの隙間から、かろうじて外の明かりが差し込んでいる。隣のビルの看板が、ぼんやりとした青い光を断続的に映し出し、それが壁にかすかに滲んでいた。伊吹は天井を仰いで、息を殺すように静かに呼吸をしていた。シャワーの湿気はまだ部屋に残っている。ホテル特有の乾いたリネンの香りと、微かに漂うボディソープの匂いが混ざって、今夜だけの空気をつくっていた。隣の男は、南條司。白いルームウェアの胸元が、規則正しい上下運動を続けている。眠っているのか、それとも起きているのか。伊吹にはわからない。ただ、さっきシャワーを終えて、浴室から出てきた南條の後ろ姿が、目に焼きついていた。濡れた髪をタオルで押さえながら、黙って着替えを取る横顔。何も言わず、淡々とした動作。でも、その背中がどこか、伊吹には遠くて近い、不思議な温度に感じられた。肩が触れたのは、偶然だった。伊吹が横を向いて寝返りを打ったとき、南條の腕とぶつかった。柔らかく、でも確かに温かい感触。すぐに距離を取るべきだったのかもしれないが、南條は動かなかった。ほんのわずか、肩が揺れたような気もしたが、拒むような仕草ではなかった。「……部長の体温、落ち着くんですよ」伊吹の声は、夜の闇の中に沈んだ。自分でも意識しないほど小さな声だったが、南條に届いたのは、たしかだった。返事はない。だが、その沈黙の質が、少しだけ変わった気がした。まるで、相手のまぶたの裏側で何かが揺れているような、そんな気配。伊吹は、ゆっくりと腕を動かした。指先が、シーツをなぞるようにして滑り、そっと南條の肩に触れる。薄い布越しに伝わる体温は、想像していたよりもずっと高く、やわらかだった。触れた場所が、こちらの熱で火照ってしまいそうになる。指先はすぐに離れた。ほんの一秒もなかったかもしれない。それでも、その一瞬に、伊吹の心臓は跳ねた。それ以上は、できなかった。南條の呼吸が少しだけ深くなった気がして、伊吹はそれ以上の動きを控えた。いくら自分が南條に惹かれているからといって、それをここで押しつけるわけにはいかない。彼が目を覚まし、拒絶されたときのことを考えると、たとえようのない恐怖があった。それでも、触れてしまった。触れたいと思ってしまった。ずっと昔から、叶うわけがないと思っていた感情を、抑えきれなかった。南條のま
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7.忘れないで
「ピピッ、ピピッ」という控えめなアラームが、ホテルの一室に静かに響いた。ベッドの上、伊吹は目を閉じたまま手を伸ばし、スマートフォンを探る。指先が端末に触れた瞬間、アラームは途切れ、部屋の中に再び静寂が戻った。深く息を吐きながら、伊吹はゆっくりと目を開けた。カーテン越しに差し込む陽の光が、やわらかくベッドのシーツを照らしている。光はどこまでも穏やかで、まるで昨夜のことなど何もなかったかのような、澄んだ朝だった。背中に微かに伝わる温もりを意識しながら、伊吹はゆっくりと体を起こした。隣では南條がまだ眠っている。仰向けの姿勢のまま、整った横顔はいつもよりわずかに幼く見えた。昨夜、肩越しに見た彼の後ろ姿。かすかに動いた肩。拒絶しなかった沈黙。それは、言葉よりも確かな余韻として、伊吹の体に残っていた。バスルームのドアを静かに開け、伊吹は歯を磨く。鏡の中には、どこか気持ちが追いついていない自分の顔が映っていた。昨夜、何かが始まりかけていた。触れる寸前の熱。触れてしまいそうな心。だが一線は、まだ越えていない。越えないまま、朝が来た。伊吹は顔を洗い、タオルで水気を拭き取りながら、鏡に映る自分の目をじっと見つめた。その奥にあったのは、後悔ではなく、確かな期待だった。背広に袖を通し、ネクタイを締めながら、ベッドの方へと目をやる。南條が、まぶたを閉じたまま寝返りを打った。その仕草の一つ一つが、昨夜から続いているように思える。伊吹は胸の奥に広がる熱を押しとどめながら、静かに声をかけた。「部長、起きてください。朝です」しばらくして、ゆっくりと南條がまぶたを開いた。目が合う。だがその中に、昨夜のことを思い出させる色はなかった。「何時だ」「七時をちょっと過ぎたところです」南條は片腕で目元を覆いながら、息を整えるように数度瞬きをした。「着替えは…」「準備してあります。シャツも一応アイロンかけときました」「悪いな」その一言で、すべてが“いつもの南條”に戻ったような気がして、伊吹は少しだけ目を伏せた。朝の支度は淡々と進んだ。ビジネスホテルの簡素なインテリアの中で、二人のやりとりはごく事務的なものに終始していた。昨夜、あれほど近くにいたはずの人が、今は少し遠い。まるで一晩の間に、その距離がなかったふりをするかのように。だが、ふとした沈黙の端々に、確
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8.誘われた夜
金曜の夜、定時を少し過ぎた頃。オフィスの空気は徐々に弛緩し、週末の気配がそこかしこに滲み出していた。残務を片づける社員のキーボード音が一定のリズムを刻み、どこかの席から小さく笑い声が漏れる。南條司はデスクの上に資料を広げたまま、閉じたノートPCの上に両手を重ねた。意識的に深く息を吐き、ひと息ついたつもりでも、思考はまったく切り替わらない。今週は出張続きで慌ただしく、その締めくくりが今日だった。やるべき仕事は終えた。にもかかわらず、胸の内にはどこか置き去りにされたような空白が残っていた。その空白を埋めるように、隣の席の男がすっと立ち上がった。「部長、今夜って空いてますか」問いかけたのは、伊吹遥。入社して五年、部署内では一番の若手だが、要領の良さと明るい性格で誰とでも打ち解ける。今回の出張で南條と同行し、各所で実務を任される場面も多かった。「空いてるかどうかって…今から?」「はい。急にすみません。今夜、うちで軽く飲みませんか。打ち上げってことで」伊吹はカジュアルな口調で言ったが、南條の目を見てくるその表情には妙な真剣さがあった。「悪いが…そういうのは、他のメンバーとやったらどうだ」「他のメンバーじゃ意味ないんです。今回の出張、一緒に頑張ったのは部長だけですから」南條が眉をわずかに寄せたのを見て、伊吹は口調を和らげ、少しだけ声を落とした。「迷惑だったら、断ってもらって大丈夫です。でも…どうしても、一度ちゃんとお礼を言いたくて」そして、伊吹は軽く頭を下げた。演技には見えない。その姿勢に、南條は一瞬、何かを掬い取られたような気がした。沈黙が数秒流れたあと、南條は立ち上がった。「…少しだけだ。すぐ帰る」伊吹の顔に安堵が浮かんだ。「はい。ありがとうございます」駅前で伊吹と落ち合い、近くのスーパーで簡単な惣菜や缶ビールを買った。誘った当人は普段着のスウェットにパーカーを羽織っただけというラフさで、逆に南條の私服姿の方が浮いて見えた。シャツとジャケットを無難に合わせたつもりだったが、鏡の前で迷ったことを思い出し、思わず襟元に指をやる。伊吹の部屋はワンルームのマンションだった。間取りはシンプルで、掃除は行き届いていた。生活感がありながらも、妙に居心地がいい。ローソファとローテーブルの位置がちょうど良く、カーテンの色も目に優しい。「どうぞ、好きなと
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9,ひとつめの音
背中合わせに並んだまま、ふたりはしばらく黙っていた。室内は静まり返り、時計の針が進む音さえも吸い込まれるほどの静寂に包まれている。ベッドの中央には目に見えない境界線が引かれているようだった。とはいえ、それはどちらかが強く意識して作ったものではない。ただ、初めての場所と、初めての距離感に戸惑った結果だった。時刻は、すでに日付を跨いでいる。外の世界の喧騒はとうに途絶え、寝静まった街の気配だけが、薄いカーテン越しに伝わってくる。伊吹は仰向けのまま、暗がりに目を凝らしていた。天井の形を見つめているつもりが、すぐに視界の端が、隣に横たわる南條の姿を捉える。布団の中の人の気配は、不思議なほど鮮明だった。肩越しにわずかに聞こえる呼吸、布団がわずかに上下する微かな動き。そこにいるはずの誰かを、指先がまるで触れているかのように錯覚する。息を吸い込む音が、やけに大きく響いた。南條は横向きのまま、背を向けている。眠っているのかどうか、確信はなかった。それでも、彼の背中がどこか硬く張っているように見えたのは気のせいではない。伊吹は、右手をゆっくりと動かし始めた。指先が、わずかに南條の肩に触れた。触れた瞬間、南條の身体がびくりとわずかに震えた。その反応が、拒絶でないことを祈るように、伊吹は手のひらをそのまま肩に乗せた。厚手のTシャツ越しに伝わる熱が、じわじわと掌に広がっていく。「…起きてますよね」伊吹の声は、囁くよりも静かだった。応える声はなかった。だが、南條の肩がほんの僅かに揺れる。まるで、呼吸と一緒に迷いが滲み出しているようだった。「…触っても、怒らないでください」それは確認でも、許可でもなかった。ただ、伝えておきたかっただけだ。伊吹の指はゆっくりと肩から上腕に滑り、そして再び戻る。何度か撫でるうちに、南條の身体の緊張が徐々に緩んでいくのが、手のひら越しに伝わってきた。やがて、南條がゆっくりと仰向けに寝返りを打った。薄暗い中で、ふたりの視線がぶつかる。伊吹は言葉を選ぼうとしたが、何も出てこなかった。ただ、その目の奥にある熱を隠すことはできなかった。南條は、しばらくその視線を受け止めていたが、やがて少しだけ首を傾け、目を伏せた。それだけで、もう抗われないものがあると分かった。伊吹はそっと、南條の頬に触れた。指先が輪郭をなぞると、肌がわずかに震えた。乾い
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10.始まりの熱
静まり返った寝室の暗闇で、伊吹は南條の肌の温度を指先で辿っていた。背中合わせに並んだままの最初の緊張、仰向けに寝返った南條が自分の方へ視線を投げたあの瞬間の熱、それらすべてが伊吹の胸を焼くように残っている。シャツのボタンに触れると、その下の胸板がわずかに震えた。伊吹は焦らず、一つ一つ丁寧に外していく。南條は抵抗しない。ただ、恥ずかしそうに目を伏せ、細い喉を微かに動かしている。その仕草が、余計に伊吹を煽った。「…やっぱり、きれいですね」そう呟くと、南條のまつげがかすかに揺れた。黙って唇を引き結び、身体を強張らせている。だが、指先が肌に触れたとき、拒絶の気配はない。ただ、受け入れることもできずにいる戸惑い――それだけだった。全てのボタンを外し、シャツをゆっくりと脱がせる。素肌が暗がりの中に浮かび上がる。陶器のような白さ、胸元の細い筋、鎖骨の上の小さなほくろ。伊吹は思わず見惚れて、唇を落とす。肌の感触は滑らかで、すぐ下に鼓動が脈打っているのが分かる。「…嫌なら、ちゃんと言ってくださいね」ささやくと、南條は小さく首を振った。伊吹は安心し、もう一度唇を這わせる。首筋、鎖骨、胸の先へ。肌の上を舌でなぞると、南條の身体が微かに弾む。乳首に唇を寄せ、そっと舐め、軽く吸う。そうすると、南條は小さく息を呑み、肩をすくめて目を閉じた。その反応が、伊吹の理性をさらに薄くする。手のひらを胸に広げ、親指でゆっくりと乳首を転がす。南條の呼吸が少しずつ速くなり、抑えきれない吐息が唇からこぼれる。普段はどこまでも冷静な人が、こんなにも敏感に揺れる。その事実に、伊吹の胸が高鳴った。「…声、出してください。…もっと聞きたいです」その囁きに、南條は少しだけ睫毛を震わせる。それでも恥ずかしそうに、顔を横に向けたまま声を噛み殺している。伊吹は指を胸元から下腹部へと滑らせていく。Tシャツの裾を捲り、素肌の感触を味わう。下腹部を優しく撫でると、南條の筋肉が無意識に収縮する。自分のスウェットを脱ぎ捨て、肌と肌がぴたりと重なる。南條の体温が自分の胸に伝わってきて、背筋がぞくりとした。腕を回して、相手の背をそっと撫でる。互いの呼吸が絡み合い、ベッドの中の空気がじわじわと熱を帯びていく。もう一度唇を重ね、今度は少し強引に舌を差し入れる。最初は戸惑っていた南條の唇が、徐々に伊吹の動きに応じて開い
last updateDernière mise à jour : 2026-01-23
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