ログイン無口で繊細な32歳の美形部長・南條司は、仕事だけを武器に他人と距離を置いて生きてきた。 社内異動で現れた伊吹蓮は、璧な業務と人懐こい笑みで部署に溶け込みながら、司にだけ“当然”のように近づく。 五年前、濡れ衣を着せられた新人の蓮を、司はたった一言で救っていた―― 出張の夜、手違いで一部屋しかないホテル。 距離を保つはずの司は、静かな密室で蓮の体温と視線に追い詰められていく。 帰任後の金曜、宅飲みはいつしか合図になり、終電を失うことさえ二人の暗黙の約束へ変わる。 名前を呼ぶだけで崩れてしまいそうな理性、触れられるたびに確かめたくなる“次”。 静かな部屋に残るのは、鍵の音と、離れられなくなる予感だけ。
もっと見る南條がオフィスに足を踏み入れたのは、朝の始業十五分前だった。
それは決して早くもなく、遅くもない。朝礼に間に合うよう、業務メールの整理と一日の予定を軽く確認するための、南條にとって最適な時間だった。エレベーターのボタンに触れる手の動きひとつにも無駄がない。革のビジネスシューズは今日も新品同様の艶を保ち、ネイビーのスーツには皺ひとつなく、結ばれたネクタイの結び目にゆるみはなかった。
社内の空調はすでに稼働しており、冬の乾いた空気の中に静かな機械音が満ちている。デスクの並ぶフロアに照明が点いていても、人の気配はまだまばらで、複合機の起動音や誰かのキーボードを叩く微かな音が天井に吸い込まれていった。
南條はフロアを一瞥すると、奥にある自席へと向かう。彼の席は、営業企画部の中央にあるL字デスクのひとつ。管理職席として壁寄りに置かれた配置で、全体を見渡せる位置にある。椅子を静かに引き、端正な所作で腰を下ろす。ディスプレイを起動し、無言のままメールソフトを立ち上げると、瞬時に未読の山が表示された。
「本日より営業企画部に一名異動があります」
人事部からのメールは、その未読の中にあった。添付されているPDFには、異動者の氏名とこれまでの所属、着任日などが事務的に記載されている。南條は件名を読んだ段階で大方の内容を把握し、メールを開く前に既視感のある溜息を胸の内に吐いた。
また一人、関係構築の手間が増える。
それが最初の感想だった。
異動者の名は「伊吹 蓮」。営業本部直属の戦略チームからの転属とある。年齢はまだ二十代、入社五年目。今どきの異動事情としては珍しくない背景だ。形式上は南條の部下になるが、彼がこうした異動に対して毎回抱くのは、歓迎ではなく、慎重な距離感の取り直しだ。管理職という立場にいる限り、誰かと“近すぎてはいけない”。新人でもベテランでも、その線引きには変わりがない。
午前九時、営業企画部の朝礼が始まった。
部内全員が立ったまま輪を作り、順に報告を行う。空気は整然としていて、無駄な会話はない。南條が目を向けると、若手社員が二人、中央の入り口付近に並んで立っていた。そのうちの一人が、総務の案内を受けて静かに一歩前に出る。
「本日付で営業本部戦略チームから異動してまいりました、伊吹 蓮と申します」
低く、よく通る声だった。落ち着きのある口調。立ち姿に余計な緊張がなく、目線はまっすぐに正面を見ている。
「よろしくお願いいたします」
その一礼が済んだ瞬間、南條はふと、足元に冷たい水をひとしずく垂らされたような気配を覚えた。
この男を、どこかで見たことがある。
だが、それは“顔”による記憶ではなかった。見た目ははっきりと初対面のものだ。黒髪は清潔感のあるショート、長すぎず短すぎず整えられた眉、やや伏し目がちの目元は涼しげで、整った輪郭は目を引くがどこか中性的でもある。背格好も平均的で、パリッとしたシャツとネイビーのスーツが彼の若さに妙な信頼感を添えていた。
初対面のはずだ。だが、なぜか“懐かしさ”のようなものが胸の奥に引っかかっている。
伊吹が南條の目の前で、ほんのわずかだけ口元を緩めた。
「お久しぶりです、部長。覚えてませんか?」
その声は、ごく小さく、だが確かに南條にだけ向けられていた。
周囲の数人が軽く笑った。冗談だと思ったのだろう。けれど南條は笑えなかった。思わず数秒、伊吹を見つめてしまっていた。笑顔でも、挑発でもない。だがその目は何かを探っている。まるで過去の記憶の奥底を、指先で掘り起こそうとするかのように。
「…すまない、記憶にない」
南條はようやく、それだけを絞り出した。伊吹は表情を変えず、ただ一度、穏やかにうなずいた。
「ですよね」
それだけを残して、すっと輪の外へ戻っていった。
朝礼が終わり、業務が始まっても、南條の頭の片隅には伊吹の顔がしつこく残り続けた。記憶の断片に似た誰かを思い出そうとするたび、まるで煙のように指の隙間を抜けていく。学生時代か、若手の頃か。だが、そのどちらにも“伊吹 蓮”という名前は結びつかない。
PCの画面に視線を戻すと、伊吹の名前がすでにいくつかの業務報告の宛先に入っていた。着任当日だというのに、彼はもう部内のSlackチャンネルに的確なコメントを投げていた。営業戦略部での経験があるだけに、資料の読み込みも速く、表現に曖昧さがない。
“使える”部下だ。それは間違いなかった。
だが、だからこそ、南條の中の違和感は増していく。伊吹は南條にだけ、ほんの少しだけ態度を変えている。それは愛想でも、馴れ馴れしさでもない。“自然すぎる懐き方”とでも言うべき、他者には見せない柔らかさが、南條に向けられている気がした。
そして南條自身もまた、その微細な“差”に気づいてしまったことを、自分の中で整理できないでいた。
午後、部内会議で伊吹が初めて本格的に発言した。
資料に目を落としながらも、視線は適切に相手の顔を捉え、発言のテンポに間がない。相手の問いを咀嚼してから返すまでの速度が絶妙で、根拠となる数値もすでに頭に入っているのがわかる。背伸びをする若手によくある“準備しすぎた痕跡”がない。
会議後、隣にいた主任の佐倉がぽつりと漏らした。
「やりにくいっすね、あの人。完璧すぎて」
その言葉が示すのは、単なる嫉妬ではなかった。伊吹は“無難に優秀”というより、最初から“手を抜かないタイプ”に見えた。失敗も、軽口も、迷いも、彼の所作からは感じられない。
完璧な部下。だが、人間らしい隙がない。
夕方、業務がひと段落したタイミングで、伊吹が控えめに南條の席に声をかけてきた。
「今日の進め方、もし気になった点があればご指摘いただけますか」
「特にない。よくやっていたと思う」
「ありがとうございます。…南條部長が資料を確認されるタイミング、わりと朝イチが多いんですね」
「…ああ」
思わず南條の動きが止まった。伊吹はそれ以上何も言わず、ほんの一拍の間を空けて、静かに去っていく。去り際に、声も表情も、仕事上の礼儀を欠いたところは一つもなかった。
けれど、その背中が去った後、南條の中には“見られていた”感覚だけが確かに残った。
誰にでも同じように接しているようで、彼は南條だけを“特別に観察している”。
だが、その距離感は絶妙で、一線は越えてこない。
それが、かえって厄介だった。
業務が終わるころには、南條の胸に残ったものは疲労ではなかった。焦りでも、不快感でもない。
ただ、うっすらと滲む“名前のない不安”だった。
それは記憶の奥底を、誰かの指先が静かになぞっているような感覚。懐かしさと、名残のようなもの。
けれど、その正体が思い出せない。南條はネクタイを緩めながら、窓の外に沈む夕日を見やった。
その色は、冷たく整ったオフィスの蛍光灯と、まるで無関係のように揺らいでいた。
身体の奥に刻まれた熱が、波紋のように静かに広がっていた。絶頂の余韻がまだ肌に残る。呼吸を整える間もなく、南條は伊吹の腕の中で身を丸めていた。ふたりの間を流れる空気は、つい先ほどまでの昂ぶりを信じられないほど穏やかで、どこか眩しく、柔らかなものだった。シーツがほんのりと汗で湿り、重ねた肌と肌がしっとりと馴染んでいる。窓の外には夜の帳が降りて、街灯の光も遠く霞んでいた。ベッドの脇で灯るスタンドの明かりが、ふたりの輪郭を淡く照らし出している。伊吹の指先が、南條の肩先をなぞる。ごく弱い力で、ただそこにいる証のように。南條は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。肺の奥に残る伊吹の香り。ほんのり甘いシャンプーの匂いと、汗と体温の混じりあった、人の温もりだけが満ちている。「…蓮」南條が、小さく名前を呼ぶ。その声はどこまでも柔らかく、どこまでも静かだった。伊吹がすぐ傍で「はい」と返す。心音が、胸の奥でそっと弾んだ。ふたりの視線が絡む。伊吹は南條の髪を優しく撫で、濡れたままの額を指で拭う。その仕草に、南條は少しだけ頬を緩める。「…変かな。まだ、こうしていたいなんて思うのは」囁くようなその言葉に、伊吹が微笑んだ。「変じゃないです。俺も…ずっと、司さんの隣にいたい」息を呑むような、淡い幸福感が部屋を包む。愛の告白でも、激情の言葉でもない。けれど、互いの心をまっすぐに温めていく。南條は、ごく自然に伊吹の胸元に顔を埋めた。伊吹の心臓の鼓動が、額越しに伝わる。指先が、シーツの上でそっと伊吹の手を探し、握りしめる。細く長い指が絡み合う。どちらの手も、熱がこもっていた。「…これからも、何度もこうして君と…」その言葉は、まるでひとりごとのように静かで、しかし、伊吹の心に真っ直ぐ届くものだった。南條の声は震えも、迷いもなかった。ただ、未来を欲する淡い祈りだけがそこにあった。伊吹が、静かに抱き寄せる。「もちろんです、司さん」その一言に、南條は目を細めた。どこまでも柔らかな微笑みが、伊吹の胸の上に咲く。ふたりのあいだの距離は、もうどこにもなかった。肩も、胸も、指先も、互いの温もりを残したまま、ただしっかりと寄り添い続けている。窓の向こうでは、春を待つ街の灯りが、静かに瞬いていた。部屋の空気はまだ冬の残り香をまとっているが、南條の胸にははっきりと、何か新しい季節が生まれ始めているこ
シーツの上に重なる影が、柔らかなランプの灯りに揺れていた。窓の外はすでに宵の気配を帯び、カーテン越しに滲む淡い光が、静かに部屋を包み込む。南條はベッドの中央で横たわり、伊吹の体温を肌で受け止めていた。唇にはまだキスの余韻が残り、指先には伊吹の熱が絡みついている。すべてがゆっくりと、丁寧にほどかれていく。伊吹がそっと南條の髪を撫で、耳の裏に唇を落とした。くすぐったいような温もりに、南條は目を細め、無意識に肩を震わせる。自分の鼓動が大きくなっていく。鼓膜に、胸に、全身に、その波が伝わっていく。「…司さん」伊吹の声が低く、どこか熱を帯びて響く。その音に、南條の胸が大きく脈打つ。伊吹の手が肩から腰へと滑り、ゆっくりと南條を仰向けに寝かせる。ベッドの上の空気が、一層密度を増していく。「大丈夫?」伊吹が、静かに問いかける。南條は頷き、息を飲み込む。「…来て」言葉にすることが、こんなにも難しいとは思わなかった。けれど、心も身体も、今は伊吹だけを求めている。自分からその手を取って、引き寄せる。伊吹が優しく微笑み、もう一度、そっとキスを落とす。指先がゆっくりと、南條の太腿を撫でる。腰を浮かせると、シーツが肌に張りつき、少しだけ冷たい。だがその冷たささえ、伊吹の熱で上書きされていく。南條は、わずかに膝を開く。その動きが合図になる。伊吹が丁寧に手を伸ばし、準備を進めていく。潤滑剤の冷たい感触。指が、ゆっくりと南條の奥へと差し入れられる。何度か呼吸を整え、身体の奥に溜まっていた緊張を吐き出す。伊吹の指がゆっくりと広がり、南條の身体が柔らかく受け入れていく。「痛くない?」「うん、大丈夫…」ささやきが夜の静けさに吸い込まれる。ふたりの間に、もう余計な言葉はいらなかった。伊吹の手が、南條の膝裏をそっと支える。体位を少し調整しながら、視線を合わせる。南條の瞳が濡れている。痛みや不安ではなく、幸福に押しつぶされそうなほどの熱に満たされて。「…司さん、入れるね」「…うん」伊吹の動作はどこまでもゆっくりで、慎重だった。自分のものを南條の入口に宛がい、ひと息ついてから、ゆっくりと腰を進めていく。最初は圧迫感と微かな痛みが混ざる。だが、奥まで迎え入れるたび、南條の中にあった戸惑いが一枚ずつ剥がされていく。「…あ…っ」思わず漏れた声が、室内に響く。伊吹が顔を寄せて、「大丈
ベッドのシーツは柔らかく、長い午後の日差しがカーテン越しに溶け込んでいる。窓から差し込む光は淡く、やがて夕暮れの気配が部屋の隅々まで染めていく。南條は伊吹の隣に座ったまま、しばらく静かに指先を見つめていた。部屋の空気は、休日らしい静けさに満ちていたが、その中心にあるベッドの上だけは、どこか張り詰めた緊張が漂っている。伊吹は、南條の横顔をそっと見つめている。微かに震える南條の睫毛。落ち着きなく動く唇。何も言わずとも、その小さな仕草のすべてが、今日この瞬間にかかる期待と高揚、そしてほんのわずかな不安を語っていた。「…司さん」名前を呼ばれて、南條は伊吹の方を向いた。瞳が重なる。カーテン越しの光が、南條の頬に淡く影を落とす。伊吹の手がそっと南條の頬に触れる。指の腹がゆっくりと肌を撫で、頬骨から耳の下へ、首筋へと伝っていく。「緊張してる?」伊吹の囁きは、ほとんど息の音だけだった。「少しだけ」南條は素直に認める。その言葉に、伊吹がやわらかく微笑む。ふたりの間にあった距離が、まるで目に見えない糸で少しずつほどかれていくようだった。「…俺もです」伊吹がそう言って、そっと南條の手を取る。指先が絡まり合い、体温がゆっくりと混ざりあう。南條の掌は、汗ばむほどに熱かった。だが、それは決して不快なものではない。ただ、相手に触れている実感が心の奥まで伝わってくる。ゆっくりと、伊吹が南條の手を自分の胸元へ導く。南條の指先が、伊吹のシャツのボタンに触れる。普段なら意識しない、ささやかな動作が、このときだけは意味を持つ。ひとつ、またひとつとボタンを外していく。シャツの隙間から、伊吹の素肌がのぞく。伊吹は、何も言わずに南條の手の動きを受け入れている。その沈黙が、むしろふたりの間の信頼と親密さを強く感じさせた。南條は自分の動作に戸惑いながらも、どこか誇らしいような高揚を覚えていた。これまでの自分なら、こんな風に誰かの服に触れ、脱がせることなど想像もできなかった。だが今は、迷いながらも自分の手で伊吹に触れたいと、はっきりと思えた。「…好きだよ」小さく囁いてみる。伊吹は、開きかけたシャツの間から南條を見つめ、目尻に細い皺を浮かべた。「俺も。司さんの全部が、好きです」その言葉に、南條の胸が熱く満たされた。まるで、どこかで絡まっていた糸が、静かに解かれていくようだった。伊吹がそ
カーテン越しの午後の日差しは、柔らかく部屋の空気を丸く包んでいた。休日の午後、南條は伊吹の部屋のリビングに座っている。大きくも狭くもないこの部屋に、彼が足を踏み入れるのはもう何度目だろう。だが、今日は今までとはどこか違う。仕事も金曜の夜も関係なく、伊吹の隣にいるだけで、なぜか心が不思議と満たされていく。テレビは消したまま。コーヒーカップももう空だ。時計の針は、昼と夜の境を曖昧に曳くように、少しゆっくり動いているように見えた。静けさは落ち着きにも似ているが、それだけではない。南條の胸の奥、いつもより高めの鼓動が、脈打つ音で時間の流れを刻んでいた。ソファに並んで座るふたり。伊吹はいつものようにリラックスして見えるが、膝の上に置いた手がわずかに揺れている。南條自身も、指先にじんと残る熱を意識していた。昼間から人の部屋でこうして座っている自分に、まだわずかな違和感と照れが残る。だが、もうその感情に抗おうとは思えなかった。伊吹がふと顔を向ける。目が合うと、互いに何かを読み取るように、そっと視線を重ねた。窓から差し込む光が伊吹の横顔に淡い輪郭を描き、南條の眼にはそれがやけに眩しく映った。何も言わずにいると、沈黙だけが間に漂う。だがその沈黙は、決して気まずくはなかった。むしろ、どこか満ち足りた、静謐な期待のようなものがあった。「司さん」伊吹が小さな声で名前を呼ぶ。南條は、心臓が跳ねる音を自分で聞いてしまいそうだった。呼ばれるたび、胸の内側の何かが溶けていく。「何」声を出した瞬間、自分の声がほんのわずか震えていることに気づいた。伊吹は微笑む。その表情は、以前よりもずっと柔らかくて、どこか甘やかな響きを帯びていた。伊吹の手が、そっと南條の手の甲に触れる。指先から伝わる体温は、昼間の穏やかな気温とはまるで違う、もっと個人的な熱だ。南條はその手を振り払うこともできず、ただ受け止めていた。「…今日、会いに来てくれて嬉しいです」「俺も、こうしていると、落ち着く」嘘ではなかった。むしろ、最近はこうして伊吹といる時しか、自分の輪郭がくっきりする気がしない。職場では部長、上司、南條という“役割”をまとっている。でも、この部屋で伊吹の隣に座るときだけは、司という名前だけの自分になれる。再び沈黙が訪れる。だが、その間にも互いの手は離れなかった。カーテン越しの光が床に伸びていく