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残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です
残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です
Auteur: 中岡 始

1.異動の朝

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-01-23 15:43:45

南條がオフィスに足を踏み入れたのは、朝の始業十五分前だった。

それは決して早くもなく、遅くもない。朝礼に間に合うよう、業務メールの整理と一日の予定を軽く確認するための、南條にとって最適な時間だった。エレベーターのボタンに触れる手の動きひとつにも無駄がない。革のビジネスシューズは今日も新品同様の艶を保ち、ネイビーのスーツには皺ひとつなく、結ばれたネクタイの結び目にゆるみはなかった。

社内の空調はすでに稼働しており、冬の乾いた空気の中に静かな機械音が満ちている。デスクの並ぶフロアに照明が点いていても、人の気配はまだまばらで、複合機の起動音や誰かのキーボードを叩く微かな音が天井に吸い込まれていった。

南條はフロアを一瞥すると、奥にある自席へと向かう。彼の席は、営業企画部の中央にあるL字デスクのひとつ。管理職席として壁寄りに置かれた配置で、全体を見渡せる位置にある。椅子を静かに引き、端正な所作で腰を下ろす。ディスプレイを起動し、無言のままメールソフトを立ち上げると、瞬時に未読の山が表示された。

「本日より営業企画部に一名異動があります」

人事部からのメールは、その未読の中にあった。添付されているPDFには、異動者の氏名とこれまでの所属、着任日などが事務的に記載されている。南條は件名を読んだ段階で大方の内容を把握し、メールを開く前に既視感のある溜息を胸の内に吐いた。

また一人、関係構築の手間が増える。

それが最初の感想だった。

異動者の名は「伊吹 蓮」。営業本部直属の戦略チームからの転属とある。年齢はまだ二十代、入社五年目。今どきの異動事情としては珍しくない背景だ。

形式上は南條の部下になるが、彼がこうした異動に対して毎回抱くのは、歓迎ではなく、慎重な距離感の取り直しだ。管理職という立場にいる限り、誰かと“近すぎてはいけない”。新人でもベテランでも、その線引きには変わりがない。

午前九時、営業企画部の朝礼が始まった。

部内全員が立ったまま輪を作り、順に報告を行う。空気は整然としていて、無駄な会話はない。南條が目を向けると、若手社員が二人、中央の入り口付近に並んで立っていた。そのうちの一人が、総務の案内を受けて静かに一歩前に出る。

「本日付で営業本部戦略チームから異動してまいりました、伊吹 蓮と申します」

低く、よく通る声だった。落ち着きのある口調。立ち姿に余計な緊張がなく、目線はまっすぐに正面を見ている。

「よろしくお願いいたします」

その一礼が済んだ瞬間、南條はふと、足元に冷たい水をひとしずく垂らされたような気配を覚えた。

この男を、どこかで見たことがある。

だが、それは“顔”による記憶ではなかった。見た目ははっきりと初対面のものだ。黒髪は清潔感のあるショート、長すぎず短すぎず整えられた眉、やや伏し目がちの目元は涼しげで、整った輪郭は目を引くがどこか中性的でもある。背格好も平均的で、パリッとしたシャツとネイビーのスーツが彼の若さに妙な信頼感を添えていた。

初対面のはずだ。だが、なぜか“懐かしさ”のようなものが胸の奥に引っかかっている。

伊吹が南條の目の前で、ほんのわずかだけ口元を緩めた。

「お久しぶりです、部長。覚えてませんか?」

その声は、ごく小さく、だが確かに南條にだけ向けられていた。

周囲の数人が軽く笑った。冗談だと思ったのだろう。けれど南條は笑えなかった。思わず数秒、伊吹を見つめてしまっていた。笑顔でも、挑発でもない。だがその目は何かを探っている。まるで過去の記憶の奥底を、指先で掘り起こそうとするかのように。

「…すまない、記憶にない」

南條はようやく、それだけを絞り出した。伊吹は表情を変えず、ただ一度、穏やかにうなずいた。

「ですよね」

それだけを残して、すっと輪の外へ戻っていった。

朝礼が終わり、業務が始まっても、南條の頭の片隅には伊吹の顔がしつこく残り続けた。記憶の断片に似た誰かを思い出そうとするたび、まるで煙のように指の隙間を抜けていく。学生時代か、若手の頃か。だが、そのどちらにも“伊吹 蓮”という名前は結びつかない。

PCの画面に視線を戻すと、伊吹の名前がすでにいくつかの業務報告の宛先に入っていた。着任当日だというのに、彼はもう部内のSlackチャンネルに的確なコメントを投げていた。営業戦略部での経験があるだけに、資料の読み込みも速く、表現に曖昧さがない。

“使える”部下だ。それは間違いなかった。

だが、だからこそ、南條の中の違和感は増していく。伊吹は南條にだけ、ほんの少しだけ態度を変えている。それは愛想でも、馴れ馴れしさでもない。“自然すぎる懐き方”とでも言うべき、他者には見せない柔らかさが、南條に向けられている気がした。

そして南條自身もまた、その微細な“差”に気づいてしまったことを、自分の中で整理できないでいた。

午後、部内会議で伊吹が初めて本格的に発言した。

資料に目を落としながらも、視線は適切に相手の顔を捉え、発言のテンポに間がない。相手の問いを咀嚼してから返すまでの速度が絶妙で、根拠となる数値もすでに頭に入っているのがわかる。背伸びをする若手によくある“準備しすぎた痕跡”がない。

会議後、隣にいた主任の佐倉がぽつりと漏らした。

「やりにくいっすね、あの人。完璧すぎて」

その言葉が示すのは、単なる嫉妬ではなかった。伊吹は“無難に優秀”というより、最初から“手を抜かないタイプ”に見えた。失敗も、軽口も、迷いも、彼の所作からは感じられない。

完璧な部下。だが、人間らしい隙がない。

夕方、業務がひと段落したタイミングで、伊吹が控えめに南條の席に声をかけてきた。

「今日の進め方、もし気になった点があればご指摘いただけますか」

「特にない。よくやっていたと思う」

「ありがとうございます。…南條部長が資料を確認されるタイミング、わりと朝イチが多いんですね」

「…ああ」

思わず南條の動きが止まった。伊吹はそれ以上何も言わず、ほんの一拍の間を空けて、静かに去っていく。去り際に、声も表情も、仕事上の礼儀を欠いたところは一つもなかった。

けれど、その背中が去った後、南條の中には“見られていた”感覚だけが確かに残った。

誰にでも同じように接しているようで、彼は南條だけを“特別に観察している”。

だが、その距離感は絶妙で、一線は越えてこない。

それが、かえって厄介だった。

業務が終わるころには、南條の胸に残ったものは疲労ではなかった。焦りでも、不快感でもない。

ただ、うっすらと滲む“名前のない不安”だった。

それは記憶の奥底を、誰かの指先が静かになぞっているような感覚。

懐かしさと、名残のようなもの。

けれど、その正体が思い出せない。

南條はネクタイを緩めながら、窓の外に沈む夕日を見やった。

その色は、冷たく整ったオフィスの蛍光灯と、まるで無関係のように揺らいでいた。

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  • 残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です   38.伝えたい言葉

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