All Chapters of 残業は、あなたのためだけに~部長、あなたを壊すのは俺です: Chapter 31 - Chapter 40

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31.待ちわびた金曜

金曜の午後は、決まって時計の針が遅く感じられた。それは季節のせいでも、天候のせいでもなく、南條自身の内側で時が膨張し、緩慢になっているせいだった。デスクの上には、午前中に処理した書類の山と、これから目を通すべき案件のリストが並んでいる。普段であれば、彼は静かに淡々とそれらをさばき、効率的に一日を終えるのが常だった。だが今は、どうにも指先が落ち着かない。パソコンの画面を眺めるふりをしながら、南條は無意識に右手で腕時計のベルトをなぞる。時刻はまだ十五時半。あと二時間ほどすれば定時になるが、今この瞬間から終業までの時間が、まるで透明なゼリーの中に閉じ込められたように重たく感じられる。それでも書類の山は、黙って彼を待ってくれるわけではない。南條は一つ深呼吸をして、タスクに意識を戻そうとした。けれど、ふとした瞬間、頭の片隅に“今夜”という言葉が浮かぶ。金曜。伊吹と過ごす夜。「もう、約束は暗黙のものになっているのかもしれない」と、心のどこかで思う。それに気づくたび、南條の胸の奥には、小さな焦りと戸惑いが混じった熱が灯る。これまでは、誰かと約束を交わすことなど、むしろ煩わしいと感じてきた。予定に縛られることも、誰かを待つことも、必要以上に情を持つことも。自分には縁のない感情だったはずだ。なのに――今日に限っては、ほんのわずかでも時間が早く過ぎてくれたらいいのに、と思ってしまう自分がいる。その自覚が、なおさら南條を落ち着かなくさせた。午後の会議は淡々と進み、誰もが一週間の終わりを意識しながら、それぞれのデスクに戻っていく。社内には、徐々に「週末」の空気が漂いはじめていた。誰かが近くで「今日は定時で帰れるかな」と囁くのが聞こえる。南條も、ごく自然な顔で会釈しつつ、そっと時計を見やる。十六時十五分。普段なら気にしないはずの小さな針の動きが、妙に気になる。伊吹は午後の外出から、まだ戻ってきていない。「すぐ帰社します」とだけスケジューラーにメッセージが残っている。それを見て、ほんの少しだけ胸が高鳴った。会うことが、こんなにも自分にとって意味を持つのかと、改めて戸惑う。デスクの引き出しの中で、スマートフォンが静かに震えた。画面を見ると、伊吹からのメッセージが届いている。「あと三十分くらいで戻ります」それだけの短い文面なのに、無
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32.並ぶ影

玄関のドアを閉めると、外の世界のざわめきが一気に遠のく。伊吹の部屋は、いつものように柔らかな照明が灯っていた。廊下からリビングへと続く足音も、なぜか今夜はほんの少しだけ軽やかだった。南條はコートを脱いでハンガーにかける。ソファの上には、仕事帰りに伊吹が置いたらしい、シンプルなマグカップが二つ並んでいる。コーヒーの香りが、ほのかに部屋に漂っていた。金曜の夜。この空間で過ごすことが、いつの間にか「特別」から「当たり前」になってきた。なのに、ふたりきりになった瞬間の胸のざわつきは、相変わらず消えていない。「お疲れさまです」キッチンから顔を出した伊吹が、いつもの優しい笑顔で声をかけてくる。南條は小さく頷き、足元の緊張を誤魔化すように、そっとソファに腰を下ろした。伊吹が自分の隣に座る。その距離は、まるで吸い寄せられるように自然だ。しばらくの間、ふたりは何も言わずに並んで座っていた。部屋の静けさは、決して重苦しいものではなかった。南條は手の甲を膝の上で組み、視線を少し下げて伊吹の横顔を盗み見る。伊吹は、ただじっと前を見ているだけなのに、不思議と安心できる。何も話さなくても、沈黙そのものが心地よい。マグカップに手を伸ばすと、コーヒーはまだ温かかった。指先にその熱が伝わる。まるで、伊吹の体温を受け取るように感じた。「今日は…どうでしたか」伊吹が静かに問いかける。南條は少し考えてから、ぽつりと答えた。「特に変わったことはなかった。ただ…一週間が長く感じた」「…僕もです。金曜日が来るの、待ち遠しかった」伊吹は言葉を濁さず、素直に微笑んだ。その無邪気さに、南條は胸が温かくなるのを感じる。しばらくマグカップを弄んでいたが、ふいに指先が伊吹の手に触れた。南條ははっとして手を引きそうになるが、伊吹がそっと自分の手を包んでくる。「大丈夫ですか」「…ああ」その短い返事に、ふたりの距離が少しだけ縮まった。南條は、今なら自分から伊吹に寄り添える気がした。仕事でもなく、役割でもなく、“ただの自分”として隣にいたい。そう思った瞬間、自然と体を寄せていた。伊吹の肩に頭を預けると、伊吹が驚いたように息をのむのが分かった。けれど、彼はそのまま優しく肩を抱いてくれる。「…南條さん、珍しいですね」「こういうのも、たまにはいいと思って」わず
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33.自分から…

金曜の夜は、深く静かだった。食事を終え、ふたりでコーヒーを飲み終えた後、伊吹の部屋は徐々に眠る街の空気に包まれていく。南條はソファの端に座り、窓の外をぼんやり眺めていた。灯りを落とした部屋は、間接照明のやわらかな光に照らされている。その光が、すぐ隣でくつろぐ伊吹の横顔にも淡く影を落としていた。このところ、金曜の夜にここで過ごすことが当たり前になっていた。けれど“当たり前”と言い切れるほど、南條の中の高鳴りはまだ収まらない。今も、膝の上で組んだ手の平が、無意識にわずかに震えている。伊吹はそんな南條の様子を知ってか知らずか、テレビもつけず、静かに隣に座っているだけだった。「司さん」名前を呼ばれ、南條は自然と顔を向けた。伊吹の瞳が、やわらかく細められている。ただそれだけで、心臓の奥が跳ねる。言葉は何も必要なかった。南條はそっと、伊吹の肩にもたれかかった。ほんのわずか、触れるだけの距離。伊吹は驚いたように息を呑んだが、やがて肩に自分の手を添え、南條の背をゆっくりと撫でた。南條は自分の変化を、はっきりと自覚していた。いつもなら、誰かに自分から近づくことはしない。どこかで線を引き、“ここから先には踏み込ませない”という理性に従って生きてきた。けれど今夜は、その境界線が自然と消えていた。「…蓮」自分から伊吹の名前を呼ぶ。声はわずかに掠れていたが、はっきりと届いた。伊吹は驚いたように南條を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。南條は小さく息を吸い、そっと伊吹の頬に手を伸ばす。そのまま、ためらいがちな動きで唇を重ねた。伊吹の体がびくりと反応し、次の瞬間には優しく、けれど確かに応えてくれる。唇が触れ合い、少しずつ深くなっていく。呼吸が混ざり、南條の内側の熱が、じわじわと強くなるのを感じた。キスをやめると、南條は少しだけ間を置いた。自分の指先が、伊吹の首筋へと滑っていく。指で触れるたびに、伊吹の呼吸が浅くなるのが分かった。その様子を見て、南條はさらに身体を近づける。「……俺から、こうするのは…変かな」囁くように言うと、伊吹がゆっくり首を横に振る。「嬉しいです、司さん」伊吹の手が、南條の手の甲を包み込む。その温もりが、南條の戸惑いを消していく。南條はもう一度、伊吹の唇を確かめるようにキスした。「蓮…」もう一度名前を呼ぶ
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34.与える悦び

ベッドに腰を下ろしたまま、南條は伊吹と向き合っていた。先ほどまでのキスの余韻が、まだ唇に残っている。呼吸は浅く、胸の奥がじんと熱い。伊吹の視線を感じるたびに、逃げ場のない場所に立っているような心地がした。だが不思議と、それは不安ではなかった。南條はゆっくりと手を伸ばし、伊吹のシャツの一番上のボタンに指をかけた。小さな音を立てて外れる。伊吹が一瞬、息を止めたのが分かる。「司さん…」名前を呼ばれただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。南條は何も言わず、次のボタンに指を移した。ひとつ、またひとつ。露わになっていく伊吹の肌は、思っていたよりも温かく、わずかに湿り気を帯びている。南條は指先で鎖骨のラインをなぞり、そこに唇を落とした。軽く触れるだけの口づけ。それだけで、伊吹の喉から小さな息がこぼれる。肩に、胸に。南條は急がず、確かめるように唇を這わせていった。伊吹の身体が、触れられるたびにわずかに揺れる。その反応が、南條の内側を静かに刺激する。「……っ」伊吹が、声を抑えきれずに漏らす。南條はその音に、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分が触れたことで、伊吹がこんなふうに反応している。それは、これまで味わったことのない感覚だった。唇は腹筋へ、さらに下へと移っていく。シャツの裾に指をかけ、ゆっくりと引き上げると、伊吹の身体がわずかに強張った。「……司さん、無理しなくていいですから」伊吹の声は優しかった。だが南條は首を横に振り、静かに答えた。「……したいんだ」自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。その言葉に、伊吹の瞳が揺れる。南條はそのまま、伊吹の腹部に唇を落とした。温度を確かめるように、ゆっくりと。伊吹の手が、南條の髪に触れる。指先が絡み、そっと撫でる。その仕草に、胸が満たされていく。触れているのに、同時に触れられている。与えているつもりが、いつの間にか受け取ってもいる。「司さん……」伊吹の声が、少し震えている。南條は顔を上げ、伊吹を見つめた。その表情は、驚きと、信じられないものを見るような眼差しが混ざっている。「……そんな顔、するな」そう言いながら、南條は再び唇を下ろす。今度は少しだけ、深く。伊吹の呼吸が乱れ、身体が小さく跳ねた。伊吹の手が、南條の背中に回る。服の上から、ゆっくりと撫でる
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35.恥じらいと告白

南條は、自分の手のひらがわずかに汗ばんでいることに気づいた。伊吹のシャツはほとんど脱がされていて、淡く浮かぶ胸の起伏や、腹筋のしなやかなラインが薄明かりの中でやけに生々しく見えた。自分の行為が、こんなにも相手を反応させるのだという実感は、まだ慣れないくせに、身体の奥をじわりと熱くする。伊吹の指が、そっと南條の髪に触れる。その優しさに、少し安心しながらも、心臓の音はどこまでもうるさかった。「……司さん、無理しなくていいですよ」伊吹がまたそう囁いた。南條は首を横に振った。自分の内側で膨らんでいく“欲しい”という感情を、もう誤魔化したくなかった。「……俺、したいんだ。……蓮を、もっと……」喉が渇いて、声が掠れてしまう。けれど伊吹は、そんな南條の言葉に、ただ静かに頷いてくれる。指先で、伊吹の下腹部に手を這わせる。そこに触れると、伊吹の呼吸がひときわ高くなる。南條は、その熱を確かめるように、ゆっくりと指を滑らせた。自分の動きが、どこかぎこちないのは自覚していた。だが、伊吹の反応はとても素直だった。唇を少し開けて、喉を鳴らし、時折、低く名前を呼ぶ。南條は、その反応を確かめるように顔を下ろした。伊吹のものにそっと唇を触れ、少しだけ舌でなぞる。恥ずかしさと、欲望が、せめぎ合う。「……司さん」伊吹の声が、どこか切なげに震える。南條は一瞬ためらったが、思い切って、伊吹を口に含んだ。舌先で慎重に、その熱と硬さを確かめる。伊吹の手が、ゆっくりと南條の髪を撫でる。自分の中で「したい」という思いが膨らみ、それが実際の行動になっていく。今まではただ受け入れる側だった自分が、こうして“欲しがる”ことを認めるのは初めての体験だった。「……俺から、欲しがってるの、変か」勇気を振り絞って、唇を離し、声を絞り出すように言った。伊吹は驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと息を吐き、微笑む。「全然変じゃないです。……すごく、嬉しいです」そう言いながら、伊吹は南條の頬を優しく撫でた。指先が、愛おしそうに輪郭をなぞる。南條はその手に目を閉じて身を預ける。また唇を落とす。今度は、舌を使ってじっくりと伊吹を愛撫する。口の中に広がる、伊吹の熱と鼓動。そのすべてが、生々しくて、どうしようもなく愛しかった。「……司さん、そんなにされたら……」
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36.名を呼び合う

南條の呼吸は、もはや自分のものとは思えないほど浅く、熱かった。ベッドのシーツはふたりの体温で湿り、空気さえも甘く重たい。伊吹の肩に手を添えて体を跨がると、視線が絡み、息が止まりそうになる。伊吹はやわらかく南條の腰を支え、膝を立てて待っていた。「……司さん、来て」低く絞られた声に、南條はふるえる指で自らの腿を押し開いた。自分で受け入れることの恥ずかしさに、顔が火照る。だがその羞恥すら、今夜は新鮮な昂ぶりになっていた。「蓮……」名前を呼ぶと、伊吹は優しい眼差しのまま南條の腰に手を添えた。南條はゆっくりと、伊吹の熱を受け入れていく。最初は戸惑いの混じる痛みと、じりじりとした熱。それが次第に溶け、奥に押し広げられる感覚が快感へと変わっていく。「……大丈夫、ですか」伊吹が心配そうに問う。南條はこくりと頷き、浅く息を吐く。自分の動きでふたりの身体がひとつに重なっていく、その現実が全身を震わせた。やがて、南條は膝をついて上体を起こし、ゆっくりと腰を上下させる。伊吹の両手がしっかりと自分の腿を支えているのが分かる。その手の温かさが、心細さを消し去った。「……司さん、すごく……綺麗です」伊吹の息が、荒く、熱く、途切れがちになる。南條はそれに応えるように、僅かにペースを速める。肌と肌が打ち合い、微かな水音と、喘ぎが混ざり合う。「蓮……」南條は何度も名前を呼んだ。呼ぶたび、伊吹の奥のほうまで自分が受け入れていると実感する。伊吹は南條の背に手を回し、ゆっくりと上半身を引き寄せる。「司さん、こっち……」ふたりはぴたりと胸を合わせ、伊吹が体勢を変える。ベッドの上で、南條は背中をシーツに預け、今度は伊吹がゆっくりと自分の中へ沈み込む。伊吹は南條の脚を自分の腰に絡め、何度も深く突きあげる。南條はその律動に息を詰め、快感の波が全身を突き抜けていくのを感じた。「……蓮、もっと」掠れた声で名を呼ぶと、伊吹は目を細めて頷き、さらに深く、さらに強く自分を貫いてくる。ふたりの名前が交互にベッドルームの静寂を切り裂く。夜明け前、薄いカーテン越しの光がわずかに肌を照らし始めていた。伊吹が南條の髪を撫でながら、低く囁く。「司さん、大好きです」その言葉に、南條の瞳が潤んだ。快感と、幸福と、愛しさが一気に溢れて、涙がこぼれる。伊吹はそれ
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37.すれ違う予感

オフィスの蛍光灯が、ガラス越しの夕暮れと交錯し、床に不規則な明暗の帯を落としていた。パソコンの画面には案件の進捗表が並び、南條司は右手のペンをゆっくりと回しながら、資料の数字を何度も見返していた。静かな夕刻だった。日中の喧騒が嘘のように、フロアは静まり返っている。社員のほとんどは定時を過ぎて帰宅の準備に入り、残っているのは数人、あるいは業務の区切りがつかない者たちだけ。南條は自分もその一人になったのだと、どこか他人事のように思う。「南條部長、すみません」背後から伊吹蓮の声が届く。その響きに、わずかに心臓が跳ねた。けれど、南條は表情を変えずに振り向く。「何か」淡々とした声。だが、胸の奥では微かな緊張が跳ねていた。伊吹は、書類を一式まとめて抱えている。その顔には、わずかな疲労と、それでも消えない熱のようなものが漂っていた。「例の新規プロジェクト、やっぱり僕が担当することになりました」書類の端を指先で整えながら、伊吹は報告する。その声は嬉しさと緊張とが入り混じっている。南條は頷き、淡々と応じる。「そうか。……大きな仕事だな」「はい。失敗は許されないみたいで。全社的な注目案件ですから」言いながら、伊吹は少しだけ肩をすくめた。自嘲とも、意気込みともとれる仕草だった。南條は、デスクの端に目を落としたまま、伊吹の声を受け止めていた。案件の内容も、プレッシャーも、すべて分かっているつもりだった。だが、伊吹の言葉の端々からにじむ高揚と不安、その両方が、南條の心に波紋を広げていく。「成功すれば、昇進と……異動の話も来るかもしれないって、人事から言われました」伊吹はふっと笑った。どこか遠くを見るような、やわらかな微笑みだった。「……そうか」南條はそれしか返せなかった。ほんの少しだけ、手元のペンを強く握る。伊吹は何かを言いかけて口をつぐみ、しばらく沈黙が流れた。フロアの奥で誰かがコーヒーカップを置く音が微かに響く。「頑張れ」それだけ。部下として、上司として、何気なくかけるべき言葉だった。だがその響きが、自分でも驚くほど重く、乾いているように感じた。伊吹は、ほんの一瞬だけ南條をまっすぐ見た。それから、柔らかく笑って「はい」とだけ答えた。いつもなら、このあとも短い雑談が続いた。だが今夜は、ふたりともそれ以上言葉を重ねることなく、それぞれのデスクに戻っ
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38.伝えたい言葉

居酒屋の個室には、ほんのりとした照明が落ちていた。木目の壁、障子の隙間から漏れる柔らかい光。金曜の夜だというのに、室内は驚くほど静かだった。奥の席には南條司と伊吹蓮、ふたりきり。グラスに注がれたビールは半分ほど減っている。卓上の小皿には枝豆と唐揚げ、ささやかな料理が並んでいるが、誰も手をつけないまま冷えていく。壁の向こうから、ときおり賑やかな笑い声や、誰かが箸を落とす乾いた音が聞こえてきた。そのたび、南條はグラスを指でゆっくりと回した。「お疲れさまでした」先に口を開いたのは伊吹だった。低く、けれど温度を帯びた声。南條はほんの一瞬だけ目を上げ、それからまた視線を落とす。「本当に、よくやってくれた。……プロジェクト、成功だ」「ありがとうございます」伊吹は、どこかすっきりした顔で微笑んだ。緊張と期待、不安と高揚――そのすべてを背負い続けていた男の表情には、ようやく解放された余白があった。「昇進も、異動も、決まりました。明日付けで。しばらくは新しい部署で研修漬けです」静かに語られる現実。その言葉が、南條の胸に小さく突き刺さる。グラスの縁を指でなぞり、彼は小さく息を吐いた。「……おめでとう。みんな、喜んでた。お前なら当然だって」「部長も、そう思いますか」「……ああ」「じゃあ、良かった」伊吹はそう言って、少し俯いた。長い睫毛が影を作り、その奥の瞳は淡く揺れていた。外では春の気配を含んだ夜風が、静かに店先ののれんを揺らしている。テーブルの上には、祝福の言葉も、惜別の実感も、まだどこか遠いもののように漂っていた。沈黙が流れる。伊吹がグラスに口をつける。その横顔を、南條は盗み見るようにそっと見つめた。「……俺は」南條は、意を決して声を発した。言葉を探す間、舌先が一瞬だけ唇をなぞる。「俺は、君に感謝してる。……いや、違う。君に……助けられてきた。何度も。俺の方が、支えられてきたんだ」「そんなこと、ないです」「ある。……自分の弱さも、みっともないところも、君の前だと全部曝け出せた。こんなふうに感じたのは、君が初めてだ」言い終えてから、心臓が一段と速く打ち始める。伊吹は驚いた顔で、南條を見た。「……司さん」伊吹が、そっとその名を呼ぶ。「俺は、君と……君と、生きていたい。仕事でも、プライベートでも。君を失いたくないんだ」はっきり
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39.休日の約束

休日の朝、目覚ましが鳴る前に南條司は自然と目を開いた。白い天井に、柔らかな春の光が滲んでいる。平日のあの重たい起床の気配とはまるで違う、空気そのものが軽い。ベッドの上でしばらくぼんやりと呼吸し、手のひらを開いたり握ったりしてみる。昨夜は遅くまでメールのやり取りがあったはずだが、まったく疲労感がない。スマートフォンを手にとると、既読がついた伊吹から「おはようございます 駅前で十一時に」と短いメッセージ。それだけなのに、南條の胸はふわりと温かくなった。普段なら、休みの日に人と出かけるなどほとんどしない。だが今日は違う。――休日に会う約束が、こんなにも待ち遠しいものだったとは。仕事終わりの金曜の夜、密室で交わす体温も確かに特別だ。けれど、ただ一緒に日差しの中を歩く未来を想像することが、今は何より心地いい。南條は静かに起き上がり、ゆっくりシャワーを浴びる。鏡に映る自分の顔が、どこか柔らかく見える。そう思いながら髪を梳かし、迷いながらも少しだけ明るい色のシャツを選ぶ。誰に見せるわけでもない服装選びが、今朝は妙に楽しい。待ち合わせの駅前は、春の陽射しに満ちていた。大きな花屋の店先には色とりどりの花が並び、通りを行き交う人々の表情もどこか緩んで見える。南條は約束の五分前に着き、周囲を見渡す。程なくして伊吹が現れる。濃紺のカーディガンに白いシャツ、よく馴染んだジーンズ。その姿を見つけた瞬間、心臓が一拍遅れて大きく跳ねる。「おはようございます」伊吹は柔らかく微笑む。その声が、今朝の空気と同じくらい澄んでいる気がする。「おはよう。……待たせたか?」「いえ、僕も今着いたところです」互いにぎこちなく、けれど自然に並んで歩き出す。目指すカフェは、駅から十分ほどの静かな路地裏にある。休日の午前中、まだ混み合う前の時間帯。二人が通された席は、窓際の明るいテーブルだった。伊吹がメニューを覗き込んでくる。南條は自分の手元のカップを少しだけ動かし、その指先の動きに気を取られる。コーヒーの香り、温かいカップの手触り。ガラス越しに射し込む日差しが、テーブルの上に静かな陰影を落とす。「ここ、前から来たかったんです。……なんとなく、司さんと一緒に来たら似合うなと思って」伊吹のそんな言葉に、南條は小さく目を伏せた。――そうやって、まっすぐ気持ちを伝えてくれる。
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40.カーテン越しのキス

カーテン越しの午後の日差しは、柔らかく部屋の空気を丸く包んでいた。休日の午後、南條は伊吹の部屋のリビングに座っている。大きくも狭くもないこの部屋に、彼が足を踏み入れるのはもう何度目だろう。だが、今日は今までとはどこか違う。仕事も金曜の夜も関係なく、伊吹の隣にいるだけで、なぜか心が不思議と満たされていく。テレビは消したまま。コーヒーカップももう空だ。時計の針は、昼と夜の境を曖昧に曳くように、少しゆっくり動いているように見えた。静けさは落ち着きにも似ているが、それだけではない。南條の胸の奥、いつもより高めの鼓動が、脈打つ音で時間の流れを刻んでいた。ソファに並んで座るふたり。伊吹はいつものようにリラックスして見えるが、膝の上に置いた手がわずかに揺れている。南條自身も、指先にじんと残る熱を意識していた。昼間から人の部屋でこうして座っている自分に、まだわずかな違和感と照れが残る。だが、もうその感情に抗おうとは思えなかった。伊吹がふと顔を向ける。目が合うと、互いに何かを読み取るように、そっと視線を重ねた。窓から差し込む光が伊吹の横顔に淡い輪郭を描き、南條の眼にはそれがやけに眩しく映った。何も言わずにいると、沈黙だけが間に漂う。だがその沈黙は、決して気まずくはなかった。むしろ、どこか満ち足りた、静謐な期待のようなものがあった。「司さん」伊吹が小さな声で名前を呼ぶ。南條は、心臓が跳ねる音を自分で聞いてしまいそうだった。呼ばれるたび、胸の内側の何かが溶けていく。「何」声を出した瞬間、自分の声がほんのわずか震えていることに気づいた。伊吹は微笑む。その表情は、以前よりもずっと柔らかくて、どこか甘やかな響きを帯びていた。伊吹の手が、そっと南條の手の甲に触れる。指先から伝わる体温は、昼間の穏やかな気温とはまるで違う、もっと個人的な熱だ。南條はその手を振り払うこともできず、ただ受け止めていた。「…今日、会いに来てくれて嬉しいです」「俺も、こうしていると、落ち着く」嘘ではなかった。むしろ、最近はこうして伊吹といる時しか、自分の輪郭がくっきりする気がしない。職場では部長、上司、南條という“役割”をまとっている。でも、この部屋で伊吹の隣に座るときだけは、司という名前だけの自分になれる。再び沈黙が訪れる。だが、その間にも互いの手は離れなかった。カーテン越しの光が床に伸びていく
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