All Chapters of 未来より長い、あの日の記憶: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

悠斗は2時間並んで、ようやくパンプキンケーキを手に入れた。やっとの思いで買ったパンプキンケーキを、大切そうに胸に抱きしめる。今は胸の傷口が痛んでも、全く気にならない。しかし、傷口の鈍い痛みは、胸を刺されたときに彩花が言った言葉を思い出させる。「あなたの血は、これで絶えるのよ」と。それに、子供に先天的な異常があるとされた、海外の検査報告書は偽造されたものだと、彩花が泣きながら訴えていたことも同時に思い出した。あの時は、彩花が悲しみのあまり取り乱しているだけで、責任逃れのため泉に濡れ衣を着せようとしているのだとさえ考えていた。しかし、一度彩花の妊婦健診に付き添った時のことを思い出す。その時、医者はエコー写真を指差しながら、にこやかにこう言っていた。「お子さんは順調に育っていますよ。どの数値もとても健康的です」あの時の彩花は、嬉しそうに目を細めて笑っていた。そして、自分の手を彼女のお腹に当てて、胎動を一緒に感じさせてくれたんだ。自分も、この子が生まれてくるのを心から待ち望み、父親になる喜びを心待ちにしていた。もし、本当に子供が健康だったとしたら……もし、あの報告書が本当に偽造されたものだとしたら……悠斗の心臓がどくんと重く沈む。いや、そんなはずはない。泉は時々、我儘なところはあるけれど、根は悪い人間じゃないんだ。様々な考えが頭を駆け巡り、割れるように痛む。悠斗は深呼吸をして、心に芽生えた疑念を必死に押し殺した。今はこんなことを考えている場合じゃない。彩花が、パンプキンケーキを待っているんだから。自分と彩花はまだ若い。また子供を授かることはできるはずだ。悠斗は車を家へと走らせた。雨足がどんどん強くなっていく。悠斗の車が西山霊園のそばを通りかかった時、一台の黒い車と山道ですれ違った。スモークガラスの向こう、後部座席にぼんやりと見えた横顔は、なんだか見覚えがあるような気がした。悠斗の心臓が一瞬どくんと跳ねた。訳のわからない不安が彼を襲う。彩花?なぜあんな車に乗っているんだ?いや、違う。彩花は今、家でパンプキンケーキを待っているんだから。彩花に会いたい。今すぐに会いたい。そんな思いが、悠斗を焦らせる。悠斗は、さらにアクセルを踏み込んだ。雨で滑りやすくなった山道を、車は加速していった。もっと
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第12話

悠斗は、消毒液の匂いが立ち込めるなかで目を覚ました。ベッドのそばで、華奢な誰かが忙しそうに動いているのが、ぼんやりと見える。悠斗は手を伸ばし、その人の手首をぐっと掴んだ。「パンプキンケーキは食べた?美味しかったか?」手首を掴まれたその人は一瞬動きを止め、それからゆっくりと振り返った。彩花ではなく泉だ。悠斗の目に宿っていた光は、相手が誰なのかはっきりとわかると、すっと消えてしまった。悠斗は失望したように手を離す。「なんでここにいるんだ?海外出張中じゃなかったのか?」泉は悠斗の落胆した様子にも構わず、目を真っ赤にしながらその手を握った。「社長、やっと目を覚ましたんですね!本当に心配したんですから!社長が事故にあったって聞いて、夜通しのフライトで急いで帰ってきたんですよ」泉はそう言いながら、興奮のあまり悠斗の胸に飛び込もうと身をかがめた。しかし、悠斗は手で泉の肩を押し返しす。「俺のパンプキンケーキはどこだ?それに彩花は?彩花はここに来てないのか?」押し返された泉は、呆然とした表情を浮かべた。泉は不機嫌そうに答える。「社長が意識不明の時に、ぎゅっと握りしめてたあのぐちゃぐちゃの包みのことですか?とっくにゴミ箱に捨てましたよ」悠斗の頭の中が真っ白になる。あれは彩花のために買ったものなのに、どうしてこいつは捨てたりなんかしたんだ?悠斗はベッドから勢いよく起き上がると、手の甲に刺さっていた点滴の針を乱暴に引き抜いた。「社長、安静にしててください。手から血が出てますよ!」泉は声を上げて、悠斗を止めようとした。しかし悠斗は狂ったように、ゴミ箱の中身をすべて床にぶちまけてパンプキンケーキを探し始める。「どこだ?」悠斗は顔を上げ、泉を今にも殺しそうな目つきで睨みつけた。「どこに捨てたんだ?」泉は悠斗の狂気じみた様子にぎょっとして、眉をひそめる。「もう3日も経ってますよ?とっくに腐ってしまってますし。清掃員さんが片付けでもしたんでしょう」3日?自分は3日間も意識がなかったというのか?なら、彩花はこの3日間どこにいたんだ?自分が事故に遭ったことを知っているのか?一度でも見舞いに来たのか?「彩花は?」悠斗は壁に手をつき、諦めきれない様子で再び尋ねた。「彩花は来たのか?」泉はため息をつき、首を振った。
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第13話

悠斗が松葉杖をつき、憔悴しきった顔で会社に駆けつけると、社員たちは皆、不安そうに小声で話し合っていた。社長室では、秘書と数人の役員がみな青ざめた顔をしており、悠斗の姿を見るなり急いで駆け寄ってきた。「社長、なんとかしてください!」悠斗の声はひどく疲れていた。「一体どういうことだ?ちゃんと説明しろ!」秘書がすぐに前に出て報告した。「漏洩したデータは複数の競合他社やメディアに渡り、極めて深刻な状況です。協力会社や取引先からの損害賠償請求額は、暫定的な見積もりだけでも、グループの流動資産の6割を超えています」悠斗は話を聞くうちに、どんどん気持ちが沈んでいった。この損害は松浦グループの経営基盤を揺るがしかねない。今すぐ手を打たなければ、とんでもないことになるだろう。「すぐに徹底的に調査しろ!最近、中核データに触れたやつを一人残らず調べ上げろ!」悠斗は鋭い声で命令したが、興奮のあまり胸に鈍い痛みが走った。命令を受けた役員たちが部屋を出て行ったので、社長室には悠斗と秘書だけが残された。悠斗は椅子に崩れるように座り、ズキズキと脈打つこめかみを押さえる。どうしてこんなことに?一体誰が?何の目的でこんなことを?これまでのビジネスで、敵に回した人間は確かに少なくない。だから、ライバル会社かもしれないし、あるいはかつての提携先という可能性もある。しかし、相手が誰であれ、今回は本気でこちらを潰しにきている。ふと、右手のほうの半開きになっている引き出しの目が留まった。なんだか胸騒ぎがする。引き出しは鍵をかけておいたはずなのに。誰かが開けたのか?まさか、自分がいない間に誰かがここに入ったとでもいうのか?悠斗が引き出しを開けると、中には分厚い茶封筒が入っていた。訝しみながら封筒を取り出し、中身をデスクの上に広げる。一番上にあったのは、悠斗が自らサインした泉との示談書だった。その下には、何枚かの黄ばんだ紙が束になっていた。それは何年も前に受けた、悠斗の生殖能力に関する診断書だった。【精子の活動性が著しく低い】、【自然妊娠の確率はゼロに近い】という文字が目に飛び込んできた。さらに、分厚い医療明細書と診療記録の束。体外受精、排卵誘発、採卵手術、胚移植……その記録は数年にも及んでいた。最後に、カラー写真の束も
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第14話

健二の家は、喧騒から離れた山の中腹にあり、街の夜景を見下ろすことができた。彩花はここで体を休めている期間、時々悠斗の情報を耳にしていた。事故はひどく、体中の骨が何カ所も折れていたらしい。3日間も意識不明だったらしいが、命に別状はなかったそうだ。彩花はネットニュースに書かれた医学用語を眺めても、心は少しも揺れなかった。ただ、悠斗が受けた苦しみが、自分が受けた苦しみに比べてどれほど足りないかを考えていた。その日の午後、彩花はソファに座り、目の前のノートパソコンの画面をじっと見ていた。画面には、悠斗の社長室が映し出されている。突然その社長室のドアが開けられ、悠斗が松葉杖をつきながら、苦しそうに中へ入ってきた。顔は青白く目は窪み、あごには無精ひげが伸び放題だった。おまけに、まだ病院のパジャマを着ている。彩花は目の前の画面に釘付けになり、思わず息をひそめた。続いて、悠斗の秘書が早口で悠斗に報告を始めた。音声は聞こえなくても、悠斗の顔がどんどん険しくなっていくのを見れば、その内容は想像できた。きっと、会社の機密情報が漏れたことを知ったのだろう。そして悠斗が報告を聞きながら、視線をデスクの半開きになった引き出しに向けた。彩花は息を殺す。悠斗が、自分の用意したとっておきの「サプライズ」を目にするまで、あと少しだ。悠斗は引き出しを開け、中のものを取り出すとデスクの上に広げた。彼が一枚ずつそれをめくっていく。その動きはだんだんゆっくりに、そしてぎこちないものになっていった。ごふっ――大量の血が悠斗の口から吹き出し、診断書と彩花のカルテの上に飛び散った。悠斗は前のめりに倒れ込み、デスクの縁からずるずると床に崩れ落ちていく。顔を上げていたが、その視線は虚ろで、何もない壁を見つめていた。その目には、骨の髄まで凍るような絶望と、すべてを失う恐怖が浮かんでいる。このような目には見覚えがあった。どこで見たのだろう?ああ、そうだ。母が助からなかったと知らされた時、手術室の外で子供の無事を祈っていた時、自分の目もこんなふうだったのではないか?悠斗もついにこの味を知ったのだ。しかし、これでは足りない。全然足りない。母のまだ温かかった血、子供の冷たくなった体、そして、ボロボロになりながらやり遂げ
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第15話

泉は何度も悠斗に電話をかけていた。しかし、聞こえてくるのは「ただいま電話に出ることができません」という自動音声ばかりだった。その時、ストレッチャーに乗せられた悠斗が運ばれてくるのが見えた。「社長!」泉は叫びながらよろよろと駆け寄ったが、看護師に救急処置室の前で止められてしまった。泉は後からついてきたほかの秘書を捕まえて尋ねる。「一体何があったんですか?」秘書は今キャパオーバー寸前だった。会社はめちゃくちゃになるし、社長は立て続けに倒れるしで本当に大変だった。彼は汗だくになりながら答える。「こっちにもさっぱり……診断書を社長にお渡ししたら、急に血を吐いて倒れられたんですもの」診断書?泉の顔からサッと血の気が引いた。心臓が激しく脈打つ。まさか、自分がデータを改竄させた、あの偽の診断書のことか?彩花の子供に遺伝的な欠陥があると書いた、あの……悠斗はあれを見たのだろうか?泉の心が一瞬でどん底まで沈む。どれくらい時間が経っただろうか。医者が出てきて、悠斗は峠を乗り越えたと告げた。しかし、意識は戻らないままだった。ベッドで固く目を閉じた悠斗を見つめる泉の胸中は複雑だった。恐ろしさもあったし、心配もあった。でもそれ以上に、悔しさと憎しみがこみ上げてきた。全部彩花のせいだ。彩花が大人しく運命を受け入れていれば……子供さえ産まなければ……こんなことにならなかったのに。意識のない悠斗は、耐えがたい苦痛に満ちた夢を見ていた。夢の中で日和に会った。日和は濁った目でじっとこっちを見つめ、「なぜ意識を失った私を、引きずってまで続けさせたの?」と問いかけてくる。次に、ぼんやりとした小さな人影が現れ不満そうな声で話しかけてきた。「パパ。どうして僕のこと、いらなくなっちゃったの?」悠斗の心は見えない手にぎゅっと鷲掴みにされたようで、息もできないほど苦しかったし、手を伸ばしてその小さな体を抱きしめたかった。「いらないなんて思ってない」と伝えたいのに。「後悔している」と言いたいのに……しかし、その影は煙のように、指先が触れた瞬間に消えてしまった。そして、場面は法廷に切り替わる。髪を振り乱した彩花が真っ赤な目でこっちに向かって叫んでいた。「悠斗、子供を返して!」「待ってくれ!行くなよ!」自分の声で悠斗は悪夢から飛び
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第16話

医師は表情を少し引き締めた後、ため息をついた。「松浦さんが昔のことをお尋ねになるというのならお話ししますが……実はずっと、奥さんのことが不憫だと思っていたんですよ。でも、奥さんは、とても優しくて強い女性でした」悠斗はごくりと息をのむ。「教えてください。あの時の診断結果は、一体何だったんですか?」医師はもう一度ため息をつき、ゆっくりと続ける。「あの時の検査結果ですが……問題があったのは、あなた……松浦さんの方でした。奥さんは診断書を持って一人で私を訪ねてきて、本当のことはあなたに伝えないでほしいと、そう懇願されました。プライドが高いから、真実を知ったらきっとショックで耐えられないだろうからと。まったく、奥さんの深い愛情には頭が下がるばかりでした」デスクの引き出しの診断書の原本を見つけてはいたものの、こうして医師の口から直接聞くと、やはり胸に鈍い痛みが走った。彩花はこれほどまでに自分を愛してくれていたのだ。子供ができないという汚名を一身に背負い、両家の親族や世間からのプレッシャーに一人で耐えるほどに。それに引き換え自分はどうだ?自分は一体、何をしてきたというんだ?自分は、泉が彩花を何度も傷つけるのを見過ごしてきたどころか、法廷で声を枯らしてまで訴える彩花を前に、示談書にサインまでしたのだ。悠斗は椅子から崩れ落ち、冷たい床に額をすりつけた。最初は声を殺して嗚咽していたが、やがて抑えきれなくなり、声をあげて泣きじゃくり始めた。医師は慌てて立ち上がり、悠斗を起こそうとする。「松浦さん、まずは立ってください。まだ怪我が治っていないんですから。それに、もう過ぎ去ったことです。今では医学も進歩していますから、まだチャンスはありますよ」「チャンス?」悠斗は涙でぐしょぐしょの顔を上げ、医師の白衣の裾をぐいと掴んだ。「先生、もう一度検査してください。俺にまだ可能性があるのかどうか知りたいんです」しかし、悠斗の声は喉に詰まり、言葉になっていなかった。悠斗を不憫に思った医者は、ため息をつきながら頷くしかなかった。検査の手配はすぐに行われ、結果もすぐに出た。何年も前とまったく同じ結論が書かれた診断書を手に取ると、悠斗の手は震え、その薄っぺらい紙一枚すら持っていられないほどだった。血も涙もない医学的結論が、白黒の文字ではっき
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第17話

健二が悠斗の病院搬送後の知らせを伝えにきた時、彩花は大きな窓から西山霊園の方をぼんやりと眺めていた。「松浦は気づいたみたいだ」健二の声からは感情が読めない。「会社で吐血して倒れた後、一人であの時の医者に会いに行ったらしい。それで、再検査をして新しい診断結果を手に入れたそうだ。今頃、後継者を失った絶望と、自分自身への疑念に苛まれながら、その痛みにどっぷり浸っているはずだ」目を伏せる彩花の姿は、すべてを見透かしたような、冷たい態度だった。「気づいたからって何だっていうんですか?真実が分かっても死んだ人は生き返らないし、痛みだって少しも軽くはならないんです。悠斗みたいな人が一番大事にしてるのは、自分の会社と、あとはあのくだらない男のプライドくらいですから、自分の代で家系が途絶えるって知った今、会社が潰れるよりショックなんじゃないですか」悠斗のことは手に取るように分かっていた。仕事ならやり直せる。しかし、生物学的な「不能」の宣告は、彼を壊すのには十分なのだ。健二が彩花の向かいに座る。「苦しみなんて、ほんの始まりに過ぎない。松浦の心を苦しめるだけじゃ足りない。全然、足りないんだ」健二は膝を指で軽く叩いた。「あの時、あいつは俺の父親が病気で、社内が混乱しているのに乗じ、外資と組んで黒崎グループの株価を不正に操作した。そして強奪同然の価格で、うちの主要事業と特許を奪い取りやがった。だから、父は無念のまま死に、俺は故郷を去るしかなかったんだ」あの壮絶な企業間戦争は、健二の心に刻まれた、決して癒えることのない傷跡だった。「今度は……」健二の目が刃のように鋭く光る。「俺の番だ」健二は傍に置いていたタブレットを手に取り、いくつかのファイルを表示させた。「これから、俺が持っている松浦グループの内部データと、不正操作の疑いがある分析レポートを、匿名で主要な取引先と金融庁に全部に送りつける。松浦は人の弱みにつけ込んで黒崎グループを乗っ取り、俺を追い出した。今度は、俺がやり返す番だ。あいつが王様気取りでいるこの街から、完全に追い出してやる」彩花は黙って聞いていた。口を挟むことはしない。健二の憎しみが、ビジネスの戦場での勝敗や誇りに根差したものだとすれば、自分の憎しみは大切な家族の血と涙が、深く深く染み込んだものなのだ。数日後、彩
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第18話

西山霊園を出た後、彩花はそのまま車で警察署へと向かった。抱えている分厚いファイルケースには、証拠が入っている。泉によってジュースに薬を盛られ、早産になってしまったこと。そして、悠斗が泉をかばい、示談書にサインを強要したことのなどの証拠だった。彩花はまっすぐ受付窓口へと向かった。「訴訟をやり直したいんです。河内泉を傷害罪と毒物混入の罪で。それから、松浦悠斗を犯人を匿い証拠隠滅した罪で訴えます」分厚いファイルケースを差し出す彩花の声は、高ぶる感情からか僅かに震えていた。今度こそ、証拠はすべて揃えた。犯人には、法の下で当然の裁きを受けてもらる。そして、何でも思い通りになると思い込んでいる悠斗にも、その甘さがどんな結果を招くのか、思い知らせてやるのだ。彩花は警察署のロビーに立ち、警官が訴状と証拠を受け取って手続きを始めるのを見ていた。「はい、訴えは受理しました。これから手続きに入りますので、いつでも連絡が取れるようにお願いします」彩花は警官に向かってゆっくりと深く頭を下げた。ぽとり、と涙が床に落ちる。「ありがとうございます。今度はもう、絶対に折れたりしませんので!」健二の家に戻り、ドアを開けると、おいしそうな料理の匂いがした。家政婦がダイニングテーブルに料理を並べながら、にこやかに声をかけてきた。「さあ、どうぞおかけになって。温かいうちに召し上がってくださいね」彩花は手を洗ってダイニングテーブルの前に座る。テーブルにずらりと並んだ料理は、驚いたことに彩花の好物ばかりだった。一口食べてみると、それは母が作ってくれた料理の味だった。思わず目頭が熱くなり、声を詰まらせる。「これ、すごく美味しいです。母が作ってくれた味と、そっくりで……」優しそうな家政婦は、それを聞くと照れくさそうにはにかんだ。「お口に合ったようでなによりです。たくさん召し上がって下さいね。なにより、あなたはもう少し太らないと。それと、この料理は全部、旦那様に言われて作ったんです。お祝いですって……」家政婦が言い終わらないうちに、健二がドアを開けて入ってきた。彩花は健二が手にケーキの箱を持っているのに気づき尋ねる。「黒崎さん、甘いものがお好きなんですか?」それに健二は答えず、ケーキの箱をダイニングテーブルに置いて、開けるように彩花に合図した
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第19話

「河内!」悠斗は、泉の後ろ姿に向かって獣のように叫び、彼女が反応するよりも早く、悠斗はその首を強く掴んだ。「うっ!」泉の背中が病室の冷たい壁に叩きつけられる。その痛みで、泉は目の前が真っ暗になった。「お前が遺伝子検査の結果を偽造したんだな!」悠斗は指に力を込め、声を絞り出す。「それに、俺の子を殺しただけじゃなく、彩花との仲を何度も引き裂こうとしやがって!」顔が赤紫色に変わった泉は、悠斗の腕をめちゃくちゃに掻きむしりながら、なんとか途切れ途切れに言葉を発する。「私じゃありません……社長、きっと彩花さんが……私を陥れようと……してるんです」この女はこの期に及んで、まだ言い逃れをするつもりのようだ。それどころか、彩花に罪をなすりつけようとしている。悠斗は腕の力をさらに強めた。ゴキッ——かすかだが、ぞっとするような骨が軋む音が響き、泉ははっきりと死の気配を感じ取った。殺される、本当にこの人に殺される!泉は最後の力を振り絞り、声にならないほどの嗚咽を漏らしながら懇願した。「私が悪かったんです……私がやりました。殺さないで……」その言葉を聞くと、悠斗はようやくゆっくりと手を緩めた。「ゴホッ……ゲホゲホッ」泉は壁を伝って床に崩れ落ち、両手で喉を押さえながら、激しく咳き込んだ。悠斗は一歩下がり、床で無様にうずくまる泉を冷たく見下ろす。「これから、俺が聞くことにだけ答えろ。もし一つでも嘘を言えば、死ぬほど辛い目にあわせてやるからな」びくりと体を震わせた泉は、何度も頷いた。悠斗がビジネスの世界でライバルを容赦なく叩き潰すのを目の当たりにしてきた。それに、彩花に対する彼の冷酷さも、身をもって知っている。この男は、優しいときは天にも昇る気持ちを味わわせてくれるが、一度非情になれば人を地獄の底に突き落とすこともできるのだ。悠斗はそばにあった椅子を引き寄せ、泉の向かいに腰を下ろした。「あの遺伝子の欠陥診断書のことだが、ジュースに薬を盛って早産させるより前から、お前の計画はもう始まっていたんだな?」思わず否定しようとした泉だったが、顔を上げた途端、悠斗の冷酷な目と視線がぶつかり、喉まで出かかった言葉を飲み込む。「はい!そうです!」泉は這うようにして跪き直した。「あの頃、社長は私にとても優しくしてく
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第20話

「そんなことしてません!」泉の声はひどく震えていた。「あの夜、社長は酔っていました。それに、すごく力が強かったから、私には突き放せなくて……」「そうか?」悠斗は落ち着いた様子でスマホを取り出す。「あの晩泊まったのは五つ星ホテルだ。監視カメラは完備されているはずだ。もし、ルームサービスが水を届けたあたりの映像を、詳しく調べさせたら……どうなるんだろうな?」「だ、だめです!社長!」泉はもつれるように悠斗の足元に駆け寄り、震える手で悠斗のズボンの裾を固く掴んだ。「私がやりました。社長の水に薬を入れたのは私です。でも、それは愛しているからなんです」泣きじゃくる泉のメイクは崩れ、髪も乱れている。そして、昔の情に訴えかけるかのように、思い出を語り始めた。「私は卒業してすぐにこの会社に入りました。秘書見習いから、社長のそばで働ける今の地位まで、一歩ずつ上ってきたんです。私の青春のすべてを、この会社と、社長に捧げてきました。こんなに、狂おしいほど社長を愛しているのに……社長の目には彩花さんしか映っていなかったんです!」話しながらどんどん興奮してきた泉は、まるで自分がひどい目に遭った被害者であるかのように続ける。「あれが私にとって唯一のチャンスでした。一度だけでも、あなたを手に入れたかったんです」そう言うと泉は突然立ち上がり、なりふり構わず悠斗の胸に飛び込んだ。震える唇で、キスをしようとする。「離れろ!」悠斗は体をかわして力いっぱい泉を突き飛ばした。「汚らわしい!近づくな!」突き飛ばされた泉はよろめきながら数歩後ずさり、再び壁に背中を打ち付けた。痛みに、くぐもったうめき声を上げる。「俺を愛しているだと?河内、お前の仕事ぶりは評価していた。だから昇進させてきたんだ。だが、まさかお前がこんな良からぬことを考えているとは思ってもみなかったよ」良からぬこと?泉は床に突っ伏し、声を上げて泣きじゃくる。悠斗はゆっくりとしゃがみこみ、泉の顎を強く掴んだ。「彩花たちにわざと嫌がらせをするために、例の神主と組んで、999回も階段を登らせるなんてくだらないことを考えたのも、お前だな?」泉の泣き声がぴたりと止まる。悠斗は泉の答えを必要としなかった。なぜならその反応が、何よりの証拠だったから。泉の顎から手を離す。「最後の質問だ」
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