All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話:忘れられた故郷へ③

 路面の轍にタイヤが取られるたび、車体が大きくバウンドする。 その振動が伝わるたびに、千隼の喉の奥から痛みを堪えるような微かな音が漏れた。「母さんはね、その村を捨てるようにして東京に出てきたの」 沈黙を埋めるように、私は口を動かし続けた。 自分の不安を誤魔化すためでもあった。 隣に座る巨大な体温が、このまま永遠に冷え切ってしまうのではないかという恐怖を、声帯を震わせることで必死に押さえ込もうとしていた。「何もない、退屈な場所だって笑ってたわ。……でも、一つだけ、記憶に残ってるものがあるって」「……それは……?」「大きな、柘榴(ザクロ)の木。家の門の横に、血みたいに赤い実をつける木があるって。……だから、それを見つければ、家はわかる」 千隼は何も答えない。 ただ、握りしめられた手から伝わってくる熱と、かすかな脈動だけが、彼がまだこちらの世界に踏みとどまっていることの証明だった。 ギュガッ、ギュガッというワイパーの音だけが、等間隔で時を刻んでいく。 どれだけの時間が経ったのか。 燃料メーターの針が赤いラインに触れそうになった頃、フロントガラスの向こうの景色が不意に開けた。 切り立った崖に沿うように作られた細い道の先に、すり鉢状になった小さな盆地が見える。 濃い霧が底の方に溜まり、数軒の古びた家屋の屋根が、灰色の海に浮かぶ島のように点在していた。 村だ。「着いたわ。……千隼、聞こえる? 着いたのよ」 手を強く握ると、ピクリと指先が動いた。 私は道幅が少し広くなっている路肩に軽バンを寄せ、サイドブレーキを強く引いた。 エンジンを切ると、車内に満ちていた騒音が嘘のように消え去る。 代わりに、屋根を叩く雨音と、遠くで鳴る水路の水音だけが、耳鳴りのように響いてきた。 ドアを開け、外に出る。 山越えをしたせいか、気温は先ほどよりもさらに低くなっていた。 吐
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第152話:忘れられた故郷へ④

 崩れ落ちた土壁。窓ガラスの割れた空き家。 人の姿どころか、野良犬一匹、カラスの鳴き声すら聞こえない。 ただ、湿った草の匂いと、腐朽していく木材の匂いだけが、濃厚に漂っている。 右肩にのしかかる激痛に耐えながら、視線を左右に這わせる。 母の記憶にあった目印。 赤い実をつける木。 五分ほど歩いただろうか。 心臓が破裂しそうに脈打ち、首筋から吹き出した汗が泥と混じって冷たく流れ落ちる頃。 村の一番奥、山の斜面に張り付くように建てられた大きな古い家屋の前に、それはあった。 手入れもされず、四方八方に枝を伸ばした巨大な柘榴の木。 季節外れで実はついていないが、黒々と捻くれたその幹の形は、異様なほどの存在感を放っていた。「……あった。あれよ」 声に出しても、隣からの返事はない。 柘榴の木の横には、半分崩れかけた大谷石の門柱があり、そこには赤錆の浮いた鉄格子の門扉が閉ざされていた。 門柱の表札は、風雨に晒されて完全に文字が読み取れなくなっている。 私は千隼を引きずりながら門扉に近づき、左手でその鉄の冷たい棒を握りしめた。 体重をかけて押し込む。 ギィィィッ……。 蝶番が悲鳴を上げ、金属が削れる甲高い音が霧の中に響き渡った。 足を踏み入れると、かつては庭だったであろう空間が、腰の高さまである雑草に完全に埋め尽くされていた。 濡れた葉がヤッケにこすれ、ズザザという音を立てる。 庭の奥にあるのは、黒ずんだ板張りの平屋。 雨戸はすべて閉め切られ、軒先の瓦はいくつか地面に落ちて砕けている。 玄関の引き戸の前にたどり着いた時、私の右足の感覚は完全に消失していた。 ただ気力だけで立っている状態だ。 泥だらけの手で、木枠のガラス戸に触れる。 鍵はかかっていなかった。 横に引くと、ガラガラという重い音を立てて戸が開いた。 瞬間、中から押し寄せてきたのは、強烈なまでの「時間」の匂いだった。 乾い
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第153話:温かいスープと戸惑い①

 板間に倒れ込んだ衝撃で、肺から残っていた空気がすべて押し出された。 ゴホッ、と乾いた咳が漏れる。 床板の隙間から舞い上がった何十年分もの埃が、鼻腔の奥にへばりついて粘膜を激しく刺激した。 全身の骨という骨が軋み、筋肉は完全に石のように硬直している。指一本動かすことすら、途方もない労力を要求されるような絶望的な疲労感。 すぐ真横で、ヒュー、ヒューという浅く掠れた呼吸音が聞こえる。 千隼だ。 泥だらけの板間に顔を半分押し付けたまま、ピクリとも動かない。青白い首筋には冷や汗がびっしりと浮き、閉ざされたまぶたが小刻みに痙攣している。 助かったのか、それとも、ただ死に場所を古い家屋に変えただけなのか。 混濁する意識の中で、必死に自分の身体を動かそうと脳から指令を出し続けるが、神経の伝達が途絶えたように、手足はまったく反応してくれなかった。 静寂。 外で降り続く冷たい雨の音だけが、薄暗い空間を支配している。 そう思っていた。 ミシッ……。 鼓膜が、異音を拾った。 雨音ではない。木材が、重みによって軋む音。 心臓がドクンと大きく跳ね上がり、凍りついていた血液が急激に沸騰するのを感じた。 追手か? 不来方の猟犬たちが、先回りしてこの家に潜んでいたのか。 動かない首を必死に捻り、音のした家の奥、暗い廊下の先へと視線を向ける。 カチリ、という乾いた金属音。 次の瞬間、廊下の天井から、オレンジ色をした白熱灯の光がパッと点灯した。 急な眩しさに目を細める。「……誰だ。そこで倒れているのは」 低く、ひどく嗄れた男の声だった。 プロの殺し屋の出す、冷たく無機質な響きではない。明らかな怯えと、自らを奮い立たせるような威嚇が入り混じった、年老いた人間の声。 光の逆光の中に、二つのシルエットが浮かび上がっている。 前に立っているのは、白髪の老人。太く短い薪のような木の棒を両手で握りしめ、震える切っ先をこちらに向けている。その後ろに
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第154話:温かいスープと戸惑い②

 白熱灯の光が、泥だらけの私の顔を正面から照らし出した。「警察は……駄目……お願いだから……」 息も絶え絶えに懇願する。 老人が構えていた薪の先が、わずかに下がる。 その後ろから恐る恐る顔を出した老婆が、私の顔をじっと見つめた。 泥と血にまみれた輪郭。乱れた髪。 だが、その濁った老婆の瞳が、私の目元を捉えた瞬間。「……えっ?」 老婆の口から、間の抜けたような音が漏れた。 老人の背中を掴んでいた手が離れ、彼女はフラフラと数歩、私の方へ歩み寄ってくる。 危険だと制止しようとする老人の声を無視して。「お前さん……その目は……」 老婆の顔の筋肉が、小刻みに震え始めていた。 何かを必死に探し出すような、過去の記憶の底をかき回すような、切実な視線。 私は、母から聞かされていた「誰もいないはずの放置された実家」という情報が、完全に間違っていたことに気がついた。 絶縁状態だと言っていた。帰る場所などないと言っていた。 だが、この家には。「私……小鳥遊、咲良……」 渇いた唇を舐め、最後の力を振り絞って名乗る。「お母さん……桔梗(ききょう)の……娘です……」 ガタンッ! 老人の手から薪が滑り落ち、板間に激突する鈍い音が響いた。 老婆は、雷に打たれたようにその場にへなへなと座り込み、両手で顔を覆った。「桔梗……桔梗の、娘……」 嗚咽。 指の隙間から、とめどなく涙が溢れ出し、畳の縁を濡らしていく。 老人もまた、信じられないものを見るように目を見開き、わなわなと震える唇を噛み締めていた。 かつて村を捨て、極道の
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第155話:温かいスープと戸惑い③

 ◇ 次に目を覚ました時、視界いっぱいに広がっていたのは、見知らぬ古い木目の天井だった。 雨の匂いと、古い畳の匂い。 そして、微かに漂う消毒液の刺激臭。 背中には、冷たい土間ではなく、天日干しされたようなふかふかの布団の感触があった。 弾かれたように身体を起こす。 泥だらけだったワイシャツとスカートは脱がされ、大きめの清潔な綿のパジャマに着替えさせられていた。身体を拭いてもらったのか、皮膚にこびりついていた泥の感触もない。「……千隼!」 焦燥感に駆られて横を向く。 同じ部屋の、一メートルほど離れた場所に敷かれた布団。 そこに、巨大な身体が横たわっていた。 上半身は裸にされ、右肩から脇腹にかけて、真っ白な晒(さらし)とガーゼが幾重にも分厚く巻かれている。 顔の泥も綺麗に拭き取られ、額には水で濡らした手ぬぐいが乗せられていた。 胸が、ゆっくりと、一定のリズムで上下している。 生きている。 呼吸が安定している。 安堵で視界が滲みそうになった時、部屋の襖が静かに開いた。「おや、気がついたかい」 お盆を持った老婆……祖母が、皺だらけの顔をほころばせて入ってきた。 お盆の上には、湯気を立てる二つのお椀と、水差しが乗っている。 部屋に漂い始めたのは、昆布と鰹節の、ひどく懐かしい出汁の匂い。「お爺さんが、村の診療所の先生をこっそり呼んできてくれたんだよ。内緒にしてくれって頼み込んでね」「先生が……?」「あぁ。傷口を縫って、化膿止めの注射も打ってくれた。……ひどい怪我だったけど、あの若い衆、ものすごい生命力だって先生も驚いてたよ」 祖母は私の布団の脇にお盆を置き、優しく背中を撫でた。「桔梗の残した子が、生きてうちの敷居を跨いでくれるなんて……仏様に感謝しなきゃならないねぇ」 その優しい声色に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第156話:温かいスープと戸惑い④

 だが、その瞳には、完全な警戒と殺意が宿っていた。 ここはどこだ。この女は誰だ。お嬢に危害を加える気か。 口に出さずとも、その刺すような視線が周囲の空間を切り裂いている。「千隼、駄目、動かないで!」 私はお椀を置き、慌てて彼の左腕を押さえつけた。「ここは安全よ。母さんの実家……私の、祖父母の家なの。追手はいない。手当てもしてもらったわ」 私の言葉を聞き、千隼の瞳に浮かんでいた殺意が、ゆっくりと霧散していく。 だが、その代わりに浮かび上がってきたのは、完全な「理解不能」という戸惑いの色だった。 極道として、そして狂犬として生きてきた彼にとって、見知らぬ人間の家で、武器も取り上げられ、無防備に寝かされているという状況そのものが、脳の処理能力を超えているのだ。「お目覚めかい、若い衆」 祖母が、シワだらけの顔に温かい笑みを浮かべ、もう一つのお椀を両手で持ち上げた。「ひどい熱だったよ。咲良を命懸けで守ってくれたんだねぇ。……ありがとう。さぁ、あんたもこれを少しでも口に入れなさい。血を作らなきゃいけないんだから」 湯気を立てるスープの入ったお椀が、千隼の目の前に差し出される。 千隼は、そのお椀と、祖母の顔を、まるで未知の爆発物でも見るかのように凝視した。「……」 無言。 彼の喉仏が、大きく上下する。 左手がゆっくりと動き、差し出されたお椀を受け取ろうとするが、指先が空中でピタリと止まる。 受け取れないのだ。 彼がこれまで生きてきた裏社会の論理において、他者から与えられるものには、必ず裏があった。 見返り。代償。あるいは、毒。 純粋な善意や、無償の優しさというものを、彼は細胞レベルで学習していない。 どう反応すればいいのか、何を要求されているのかがわからず、ただ警戒のプログラムだけが空回りを続けている。「……なんだ、これは」 ひどく掠れた、怯えすら混じったような低い声。
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第157話:温かいスープと戸惑い⑤

 千隼の口元にスプーンを差し出す。 彼は、信じられないものを見るように私を見つめた。「お嬢……危険です。そいつらと、どんな取引を……」「取引なんてしてない。ただ、善意で助けてくれたのよ。家族だから」「……家族……善意……?」 千隼の口の中で、その単語が反芻される。 彼にとって、それは外国語よりも難解な概念だった。 久遠組という組織の中での「家族(ファミリー)」は、血の掟と暴力による恐怖で統制されたものだ。見返りのない温もりなど、存在しない。「いいから、飲みなさい。組長の命令よ」 強引にスプーンを口に押し込む。 千隼は反射的に口を開き、温かい液体を飲み込んだ。 その瞬間、彼の目が見開かれる。 出汁の旨味と、生姜の温かさが、彼の冷え切った内臓をゆっくりと溶かしていく。「……っ」 二口、三口とスープを運ぶたび、彼の岩のように強張っていた筋肉から、ふっと力が抜けていくのがわかった。 毒など入っていない。 代償も求められない。 ただ、「傷ついているから」という理由だけで与えられる、圧倒的なまでの無防備なケア。「味が、するでしょう」「……はい」「それが、温もりよ」 千隼は、半分ほど空になったお椀を見つめ、大きく息を吐き出した。 その顔には、狂犬としての獰猛さも、護衛としての張り詰めた緊張感もない。 ただ、途方もない安堵と、自分の中の暴力性が一時的に無効化されてしまったことへの、静かな戸惑いだけが浮かんでいた。「……理解、できません。俺は……彼らにとって、ただの得体の知れない暴力の塊のはずだ」「そうね。でも、彼らは私が大切に思っている人間だから、あなたも大切に扱ってくれているの」 私は空いた手で、千隼の額にかかった前髪を
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第158話:祖父母の涙①

 薄い灰色の光が、障子の破れ目から古い畳の上に細い線を描いていた。 雨は上がったらしい。トタン屋根の端から、時折ぽたりと水滴が落ちる音だけが、静まり返った部屋に響いている。 私は重い瞼をゆっくりと押し上げた。 敷きっぱなしの布団から、天日干しされた綿の懐かしい匂いがする。ここ数日の、血と硝煙と冷たいコンクリートの臭いに慣れきっていた鼻腔が、その柔らかさに一瞬戸惑った。 首を巡らせる。 手を伸ばせば届く距離に、もう一つの布団が敷かれていた。 我妻千隼。 彼は仰向けのまま、彫像のようにピクリとも動かず眠っていた。 掛布団から覗く右肩には、村の医者が巻いてくれた分厚い白いガーゼと包帯が、痛々しく巻きつけられている。そこから覗く浅黒い肌には、細かい擦り傷が無数に走り、紫色の打撲痕が斑模様を作っていた。 いつもなら、私がわずかに寝返りを打っただけで、その気配を察知して鋭く目を開けるはずの男。 それが今は、泥のように深い眠りに沈んでいる。 限界だったのだ。何十人もの武装した男たちを素手で制圧し、私を庇って車の鉄板に身体を打ち付け、雨の斜面を泥だらけになって下ってきた。強靭な肉体と精神力だけで保っていた糸が、この安全な空間に辿り着いたことで完全に緩んだのだろう。 荒かった呼吸は、今は信じられないほど静かで、一定のリズムを刻んでいる。 少しだけ身を乗り出し、彼の額にかかった黒い前髪を指先でそっと払った。 熱は下がっている。 乾燥して微かにひび割れた唇。 私はその無防備な顔をしばらく見つめ、大きく息を吐き出してから、音を立てないように布団を抜け出した。 借り物の少し大きめのパジャマの裾をまくり上げ、冷たい板間の廊下へと出る。 奥の台所から、トントンという規則正しい包丁の音と、出汁の温かい匂いが漂ってきていた。 ◇ すりガラスの引き戸をそっと開けると、むわっとした白い湯気が顔を包み込んだ。「おや、目が覚めたかい」 土間のある古い台所で、コンロの前に立っていた祖母の志乃が振り返った。 深い皺の刻まれた顔
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第159話:祖父母の涙②

 丸いちゃぶ台の前に、祖父の泰造が胡座をかいて座っていた。分厚い老眼鏡を鼻眼鏡にし、古い新聞を広げている。「客人は座っとれ。……お前さんは、まだ顔色が悪い」 ぶっきらぼうな、けれど気遣いの滲む声。 私は小さく頭を下げて、ちゃぶ台の隅にちょこんと正座した。 畳の縁の擦り切れ具合や、黒光りする太い大黒柱。この家に私が足を踏み入れるのは初めてのはずなのに、不思議なほど既視感があった。母が夜の安アパートで、私を寝かしつけながらぽつりぽつりと語ってくれた、「何もないけれど、静かな場所」の風景そのものだったからだ。 志乃が、湯飲みにお茶を注いで私の前に置いてくれた。 両手で包み込むと、陶器の温かさが冷え切った指先にじんわりと染み込んでいく。「……あの」 私は湯飲みの縁を見つめたまま、口を開いた。「昨日は、突然押しかけてしまって……本当に、ありがとうございました。怪我の治療まで」「礼なんていらないよ」 泰造が新聞から目を離さず、短く応えた。「……私、何も説明していないのに」「桔梗の残した子だ。それ以上、何を聞く必要がある」 新聞をめくる音が、静かな部屋にカサリと響く。「でも、私たちは……」 言い淀む。 自分たちの素性を、どう説明すればいいのか。 関東一円を裏で支配する暴力団、久遠組の三代目組長。そして、その若頭であり、人を殺すことを生業としてきた男。 警察と、得体の知れないフィクサーの私兵に追われ、日本中どこにも逃げ場がない状態。 そんな事実を告げれば、この老夫婦の平穏な日常を完全に破壊してしまうことになる。絶対に、本当のことは言えない。「少し、厄介なトラブルに巻き込まれて。……彼が、私を庇って逃がしてくれたんです」 嘘ではない、ギリギリの輪郭だけを言葉にする。 泰造は新聞を畳み、ゆっくりと老眼鏡を外した。 濁った、けれど底光
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第160話:祖父母の涙③

 台所の方で、志乃が着物の袖でそっと目元を拭う気配がした。 胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。 裏社会で「久遠の女帝」として振る舞い、冷徹な論理で大人たちを屈服させてきた私。誰にも弱みを見せず、常に盤面をコントロールしなければ生き残れない世界。 そんな張り詰めた糸が、この老夫婦の無条件の肯定の前に、どうしようもなく緩んでいく。「……ありがとうございます」 絞り出すように言った声は、情けないほど震えていた。 私は膝の上に置いた手を強く握りしめ、視界が滲むのを必死に堪えた。 ◇「……いい匂いですね」 ふいに、背後の廊下から掠れた声がした。 びくりと肩を揺らして振り返る。 すりガラスの引き戸の向こうに、長身の影が立っていた。 ガラリ、と戸が開く。 千隼だった。 昨日祖父から借りた、少し丈の短い藍色の作務衣を着ている。右腕は袖に通さず、胸元で包帯を巻いたまま固定していた。 髪はまだ寝癖がついて乱れ、顔色は悪いが、その瞳にははっきりとした光が戻っている。「千隼、起きて大丈夫なの?」 私が慌てて立ち上がろうとすると、彼は無傷の左手で軽くそれを制した。「……これ以上寝ていたら、身体が腐りそうですから」 千隼はゆっくりと歩み寄り、ちゃぶ台から少し離れた板間の境界線で立ち止まった。 そして、その場に音もなく膝をつき、両手を床について深く頭を下げた。「この度は、突然の無礼とご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。俺のような得体の知れない者を助けていただき……何と御礼を申し上げてよいか」 極道としての、完璧なまでの平伏。 そのあまりにも張り詰めた空気に、泰造と志乃は一瞬たじろいだ。「あ、頭を上げなさいな。傷が開くよ」 志乃が慌てて声をかける。 千隼はゆっくりと顔を上げたが、その視線はどこか所在なさげに宙を泳いでいた。 ちゃぶ台、古時計、仏
last updateLast Updated : 2026-03-11
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