All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話:「お前は私のものだ」③

 自分を、ただの切り捨てるべき「重し」として。 プツン、と。 私の中で、何かが焼き切れる音がした。 恐怖も、焦燥も、冷たい雨の感覚すらも、すべてが真っ白に塗り潰されていく。 腹の底から、どろりとした、マグマのような熱い怒りが込み上げてきた。「……ふざけないで」 低く、震える声が出た。 自分でも驚くほど、冷え切った声だった。 千隼の虚ろな瞳が、わずかに揺らぐ。「お、嬢……?」「誰が、置いていくって言ったの。誰が、あなたを捨てるって言ったのよ」 私は、止血のために押し当てていた両手を離した。 べっとりと血に染まった自分の手のひらを、暗闇の中で見つめる。 冷たい。 彼の命の熱が、私の手から滑り落ちていく。 そんなこと、絶対に許さない。「お嬢は助かるって……私が、あなたを切り捨てて生き延びて、それで『論理的でよかった』なんて、私が本気で納得すると思っているの! ?」 声が裏返った。 怒りだけじゃない。どうしようもない悲しさと、彼に伝わらないもどかしさが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って爆発しそうだった。「俺は……貴女の、盾だから……」 千隼が、うわ言のように繰り返す。 それが、彼の世界を構成するすべてなのだ。私を守り、私のために死ぬこと。 狂犬と呼ばれるこの男にとって、己の命の価値など、私の靴の裏の泥ほどにも等しい。 私は、血まみれの右手を高く振り上げた。 迷いはなかった。 パァンッ! ! ! 雨音のする廃屋に、鼓膜を裂くような乾いた打撃音が響き渡った。 叩きつけた手のひらに、強烈な痺れが走る。 千隼の顔が、勢いよく横へ弾き飛ばされた。 音が消えた。 屋根から落ちる水滴の音だけが、やけに大きく聞こえる。 私は、肩で大きく息をしながら、殴り飛ばした自分の右手を強く握りしめた
last updateLast Updated : 2026-03-07
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第142話:「お前は私のものだ」④

 それは、普段の論理を重んじる小鳥遊咲良の声ではなかった。 私の中に流れる、泥のように重く、他者を平伏させる久遠の血そのものが発する、傲慢な絶対者の響き。「あなたは、私のものよ」 千隼の息が、ピタリと止まった。 胸ぐらを掴む私の手に、彼の心臓が大きく跳ねたのが伝わってくる。「盾だの、足手まといだの、勝手なこと言ってんじゃないわよ。あなたの命も、あなたの血も、あなたのその馬鹿みたいにでかい身体も、全部私のものなの。……私が定めた『資産』なのよ」 一語一語、彼の脳髄に直接刻み込むように言い放つ。「私の資産(おまえ)を、勝手に捨てるな」 息が詰まるような沈黙が落ちた。 千隼は、目を大きく見開いたまま、瞬きすら忘れたように私を見つめている。 その瞳の奥で、何かが急速に変化していくのがわかった。 死の淵に半分足を踏み入れていた虚ろな光が、完全に消え去っていく。 代わりに、泥の底から湧き上がるような、黒々と燃える執着の炎が、凄まじい勢いで瞳孔を満たしていく。「あなたがここで死ぬことは、私の資産の目減りよ。大損害なの。そんなこと、この私が許すと思う?」 私は、掴んでいた胸ぐらから手を離し、今度は彼の血まみれの頬を両手で強く挟み込んだ。 冷え切っていた彼の肌が、私の手のひらの熱を吸って、急速に温度を取り戻していくのがわかる。「立て。そして生きなさい。……これはお願いじゃない、久遠組組長としての、絶対の命令よ」 私の言葉が響き終わるより早く。 ドンッ、と。 私の腰に、千隼の無傷の左腕が激しく回された。「……っ!」 凄まじい力で引き寄せられ、彼の分厚い胸板に再び顔を埋めさせられる。 先ほどの、熱に浮かされた力のない抱擁とは全く違う。 背骨が軋むほどの、圧倒的な拘束力。 耳元で、荒々しい吸気音が鳴った。 私の匂いを、肺の底まで貪るように吸い込む音。「……あぁ」
last updateLast Updated : 2026-03-07
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第143話:「お前は私のものだ」⑤

「お嬢のものだ。……ああ、そうだ。俺の血の一滴まで、全部お嬢の所有物だ」  千隼は、私の背中に回した手を首の後ろへと滑らせ、私の髪の根元を乱暴に掴んだ。  ぐい、と顔を上げさせられる。  至近距離でぶつかり合う視線。  彼の瞳は、血の涙を流しているかのように赤く充血し、ギラギラと異様な熱を放っていた。 「勝手に死んだら、損害になるんだろう? ……なら、死ねねぇな」  ひび割れた声で、彼が笑う。  血だらけの顔に浮かんだその笑みは、凄惨でありながら、どうしようもなく私を惹きつける絶対的な魔力を帯びていた。 「立てと言われたら、這いつくばってでも立つ。生きろと言われたら、地獄の底からでも戻ってくる。……それが、お嬢の犬の役目だ」  千隼の右手が、ゆっくりと持ち上がる。  あんなに深く肉が裂け、動かすこともできなかったはずの右腕。  血に濡れたその太い指先が、私の頬にこびりついた泥を、優しく拭い去った。 「泣き顔は似合わないぜ、お嬢」  その言葉に、私はようやく、自分の目からとめどなく涙が溢れ出していることに気がついた。  拭っても拭っても、視界が滲んでいく。  安心したからではない。彼のこの常軌を逸した執着と、それに絆されている自分の感情の重さに、心が押し潰されそうだったからだ。 「……泣いてないって、言ってるでしょ」  鼻をすすり、私は彼の腕の中で必死に強がった。  千隼は、喉の奥で低く笑うと、私の額に自分の額をコツンと押し当てた。 「ええ。泣いてませんね。……さあ、どうしますか、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。このカビ臭い部屋で、朝を待ちますか? それとも、這ってでも山を降りますか」  その声には、痛みの欠片も混じっていなかった。  ただ、私からの次の「命令」を渇望する、絶対的な服従の色だけが濃く滲んでいる。  私は、彼の熱い額に自分の体温を押し返しながら、ゆっくりと息を吐き出した。  雨音は、まだ止む気配がない。  だが、私の震えはすでに完全に収まっていた。  胃の
last updateLast Updated : 2026-03-07
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第144話:泥塗れの決行①

 灰色の光が、腐りかけた板壁の隙間から細い糸のように差し込んでいた。 ピチャリ、と。 屋根から落ちる水滴が、土間にできた水たまりを叩く単調な音で、意識が浮上する。 全身の関節が錆びついたように強張っていた。身じろぎしようとして、背中から腰にかけて走った鈍い痛みに、思わず顔をしかめる。固く湿った土の上に、直接横たわっていたからだ。 首を動かすと、べり、と皮膚が何かに張り付いて剥がれる嫌な音がした。 凝固した血液だ。 私の頬は、千隼の分厚い胸板にぴったりと押し付けられたままだった。彼を包み込むように回した両腕は、感覚が麻痺して自分のものとは思えないほど重い。 鼻腔を満たしているのは、一晩かけてすっかり冷え切った鉄の匂いと、土の匂い。 心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。 死体のように冷たくなっているのではないかという恐怖が、一瞬だけ脳裏をよぎる。 恐る恐る、胸板に押し当てた耳に神経を集中させた。 トクン……トクン……。 ゆっくりとした、だが確かなリズム。 生きている。 張り詰めていた肩の筋肉から、ふっと力が抜けた。大きく息を吐き出すと、私の頭上から、掠れた低い声が降ってきた。「……おはようございます」 見上げると、千隼が薄く目を開けてこちらを見下ろしていた。 顔色はまだ和紙のように白い。唇は乾燥してひび割れ、微かに血が滲んでいる。だが、昨夜の死の淵を彷徨うような虚ろさは消え、その瞳にははっきりとした意志の光が宿っていた。「……おはよう。傷は?」「動かさなければ、どうということはありません。血も、止まっているようです」 私はゆっくりと身体を起こし、彼の右肩から脇腹にかけてを覆っている布の塊を確認した。 止血のために押し当てた私のワイシャツの切れ端は、彼自身の血をたっぷり吸ってどす黒く変色し、完全にカチカチの塊となって傷口を塞いでいた。無理に剥がせば再び出血を引き起こす。このままにしておくしかなかった。
last updateLast Updated : 2026-03-07
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第145話:泥塗れの決行②

 誰が見ても、異常な逃亡者だ。「何か、使えそうなものは……」 薄暗い廃屋の中を見回す。 隅の方に、錆びついたトタンのロッカーが倒れていた。引き戸は歪んで半分開いている。 歩み寄り、冷たい金属の縁を掴んで無理やりこじ開けると、埃っぽいカビの匂いが顔面に吹き付けてきた。 中に入っていたのは、林業の作業員が置いていったらしい、色褪せたモスグリーンのナイロンヤッケと、泥だらけの長靴、そして半分破れた麻袋だった。 私は迷わずヤッケを引っ張り出した。 ところどころ破れ、油汚れのような黒いシミがついているが、今の私たちにとっては最高の偽装服だ。「千隼、これを着て。左腕からなら通せるわね」「……お嬢、俺のことはいい。貴女が着てください。ひどく冷えている」 差し出したヤッケを見て、千隼が眉根を寄せる。 私は小さく舌打ちをした。「寝言は寝て言いなさい。こんな血の匂いをプンプンさせて歩かれたら、すぐに猟犬に見つかるわ。匂いと色を隠すためのものよ」 反論を許さない口調で言い捨て、ヤッケを彼の肩に被せる。 千隼は渋々といった様子で無傷の左腕を通した。右腕は袖に通さず、そのままヤッケの布地で傷口全体を覆い隠すように前を閉める。 サイズが小さく、彼の分厚い胸板のせいで前のファスナーは半分しか上がらなかったが、それでも赤黒い血の染みはかなり隠蔽できた。 問題は、私の方だ。 白いワイシャツは、薄暗い森の中でも致命的なほど目を引く。 私は土間の水たまりに目を落とした。 雨水が溜まり、周囲の土がドロドロのペースト状になっている。 私はその前にしゃがみ込み、両手で惜しげもなく冷たい泥をすくい上げた。「なっ……お嬢、何を!」 千隼の鋭い声が響く。 私は彼を無視して、すくい上げた泥を自分の白いワイシャツに無造作になすりつけた。 べちゃり、という不快な音とともに、胸元から腹にかけて、どす黒い茶色の染みが広がっていく。 さらに泥を
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第146話:泥塗れの決行③

「あなたもよ。綺麗な顔を残しておく必要はないわ」 そのまま、彼の手の届かない右側の頬から額にかけて、泥を塗りたくった。 千隼の顔がわずかに引きつる。 屈辱感からではない。自分が守るべき「久遠の組長」に、自らの手で泥を塗らせてしまったという、護衛としての強烈な自己嫌悪だ。 だが、今の彼に抵抗する力はない。 数分後。 廃屋の中にいるのは、もはや裏社会を震え上がらせる久遠の女帝でも、狂犬と呼ばれた若頭でもなかった。 ただの薄汚れた、名もなき遭難者の男女。「行くわよ」 私は立ち上がり、ヤッケのポケットから見つけた使い古しの軍手を両手にはめた。 千隼の左脇に自分の右肩をねじり込むように入れ、彼の腰に腕を回す。「立ちなさい。右足はかばって。私の肩に体重をかけていいから」「……すみません」 千隼の巨大な身体が、ゆっくりと壁から離れる。 ズシッ、と。 私の右肩に、凄まじい質量がのしかかってきた。 足の裏が土間に沈み込み、膝がガクッと折れそうになる。必死に太腿の筋肉に力を込め、踏みとどまった。 千隼は右足を引きずり、ほとんど左足一本と私の肩への支えだけでバランスを取っている状態だ。 一歩、足を踏み出す。 ただそれだけの動作で、全身からじわりと汗が吹き出した。 引き戸を開け、外に出る。 冷たい朝の空気が、肺の奥まで突き刺さってきた。 雨に濡れた木々の葉が、白々とした光を反射している。森全体が、湿った土と腐葉土の濃密な匂いを放っていた。「斜面を下るわ。滑らないように、木に捕まりながら慎重に」 斜面は、昨夜の雨で完全に泥の滑り台と化していた。 むき出しになった木の根が、あちこちで蛇のようにうねっている。 一歩下るごとに、千隼の重みが私の右半身を強烈に引きずり降ろそうとする。 軍手をはめた左手で、近くの太い枝や幹を掴み、必死にブレーキをかけながら進む。 ザッ、ズリッ。 千隼の靴底が泥を滑るたびに、私の肩に鋭い痛みが走
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第147話:泥塗れの決行④

 くぐもった、男たちの声。 一組や二組ではない。横並びになって、斜面を下から上へと捜索してきているのだ。 距離は、おそらく百メートルもない。 木々の隙間から、黒いタクティカルウェアを着た男たちの影が、ちらちらと動いているのが見えた。「……不来方の猟犬どもです」 千隼が、唇の動きだけで囁く。 その声には、再び冷酷な殺意が混じり始めていた。 彼が私の肩から体重を抜き、自分の力だけで立とうとするのがわかった。盾になろうとしているのだ。「馬鹿、動かないで」 私は声を出さず、千隼のヤッケの胸ぐらを強く引っ張り、すぐ横にあった巨大な倒木の陰へと引きずり込んだ。 根元からえぐり倒された大木の、土の壁のようになった根の裏側。 大人二人が身をかがめれば、なんとか視界から隠れることができる窪みだ。 泥だらけの地面に這いつくばるようにして、千隼を押し込む。 私もそのすぐ横に身を投げ出し、完全に息を潜めた。 倒木の腐った木肌の匂いと、濡れた土の匂いが鼻先を塞ぐ。 真横には、千隼の顔があった。 泥だらけの顔。熱を帯びた鋭い瞳が、私をじっと見つめている。 互いの肩と膝がぴったりと触れ合っている。 先ほどの斜面を下る運動のせいで、二人の体温は異常なほどに跳ね上がっていた。 狭い窪みの中で、熱気が逃げ場を失い、濃密な空気の塊となってまとわりついてくる。 ドクン、ドクンという心音が、自分のものなのか千隼のものなのか、もはや区別がつかなかった。 ザッ、ザッ……。 斜面を登ってくる重い足音が、確実に近づいてくる。 五十メートル。三十メートル。 私は、思わず息を止めた。 肺が酸素を求めて悲鳴を上げるが、少しでも呼気を漏らせば、その音で気づかれる距離だ。 千隼の左手が、泥だらけの地面を這い、私の冷たくなった指先を強く握りしめた。 その力強さが、言葉を持たない絶対的な安心感となって私の血管を巡る。『この倒木の裏はどうだ
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第148話:泥塗れの決行⑤

「驚きました」 至近距離で、千隼が低く囁く。「……何が」「あの泥です。アンタが顔に塗りたくった泥が、血の匂いを完全に消臭していた。……でなければ、警察犬に嗅ぎつけられていたはずだ」 千隼の瞳が、泥にまみれた私の顔を、まるで何か尊いものを見るかのように見つめている。 私はフッと鼻で笑った。「言ったでしょ。生き延びた方が勝ちなのよ。……それに」 私は、自分の指先についた泥を、千隼の汚れた頬に軽くこすりつけた。「フレンチのフルコースを食べるような綺麗なドレスより、今のこの泥だらけの服の方が、あなたとお似合いだわ」 千隼の目が、わずかに見開かれる。 次いで、彼の喉の奥から、くっ、と低い笑い声が漏れた。 それは、傷の痛みも追手の恐怖もすべて忘れ去ったような、純粋で深く、それでいてひどく重たい歓喜の響きだった。「……最高ですね。どんな高級なスイートルームよりも、今のアンタの隣の方が、俺の居場所だと実感できる」 千隼の左手が伸びてきて、私の後頭部に絡みつく。 泥だらけの指が、私の髪の奥へと入り込み、乱暴なほどの力で私の顔を彼の方へと引き寄せた。 唇が触れ合う寸前の距離。 互いの呼吸が混じり合う。 彼から漂う汗と泥、そして微かな血の匂いが、私の脳髄を直接撫で回すように甘く痺れさせた。 言葉など必要なかった。 ただ、この冷たい土の上で、同じ泥にまみれ、同じ熱を分け合っているという圧倒的な事実だけが、私たちを強力に繋ぎ止めている。「……休んでる暇はないわ。今の連中の背後を突いて、山を下る」 私は千隼の胸を軽く押し返し、窪みから身を乗り出した。 立ち上がり、再び千隼を支えるために肩を入れる。 彼の体重が、先ほどよりもずっと重く、だが同時に確かな熱として私の身体に預けられる。 木々の隙間から、遠く下の方に、アスファルトの黒い帯が見え始めていた。 幹線道
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第149話:忘れられた故郷へ①

 木々の隙間から覗く空が、白みきった鉛色に変わっていた。 視界の端を、黒いアスファルトの帯が横切っている。 斜面を覆っていた腐葉土が途切れ、コンクリートの擁壁へと変わる境界線。そのすぐ裏側に生い茂る背の高い夏草の中に身を潜め、荒い息を吐き出した。 すぐ目の前を、大型トラックが水しぶきを上げて通り過ぎていく。 タイヤが濡れた路面を叩く鋭い音が、過敏になった鼓膜を暴力的に揺らした。「……トラックの数が、増えてきたわ」 泥だらけの夏草を掻き分けながら、隣で荒い息を繰り返す横顔を盗み見る。 千隼は目を固く閉じたまま、擁壁の冷たいコンクリートに後頭部を預けていた。モスグリーンのナイロンヤッケの下で、分厚い胸板が不規則に上下している。 額には脂汗がびっしりと浮き、泥と混ざってどす黒い染みを作っていた。 熱だ。 私の肩に預けられる体重は、斜面を下り始めた時よりも明らかに重くなっている。皮膚越しに伝わってくる体温は、火傷しそうなほどに高い。大量の血液を失った身体が、傷口に入り込んだ泥や細菌と戦うために、強制的に熱を作り出しているのだ。「千隼。わかる?」「……ええ」 掠れた、ひどく重い声。 目を開けようとするが、まぶたが痙攣するだけで、焦点は虚空をさまよっている。 限界はとっくに超えている。 このままここに留まれば、追手の猟犬たちに見つかる前に、傷口からの感染症と発熱で命を落とす。「車を探す。……少しだけ、ここで待ってて」 立ち上がろうとした瞬間、泥だらけの左手が伸びてきて、私のヤッケの裾を力強く握りしめた。 熱い。 布越しでもわかるほどの高熱。「……駄目だ。離れないでください」「すぐ戻るわ。この道を少し下ったところに、農業用の倉庫みたいな屋根が見えたのよ。あそこなら、軽トラの一台くらい……」「一人で行かせるわけには、いかない」 千隼は壁に手をつき、無理やり
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第150話:忘れられた故郷へ②

 胸の奥で、張り詰めていた糸が少しだけ緩むのを感じた。「乗って。助手席、倒すから」 千隼を助手席側に回り込ませ、ドアを開ける。 シートを限界まで後ろに倒し、彼を押し込むようにして座らせた。 巨体が狭いシートに沈み込むと、古いスプリングがギイッと悲鳴を上げる。千隼はそのまま、力なく窓ガラスに頭を預けた。 急いで運転席に回り込み、泥だらけの軍手を外してキーを回す。 キュルキュルという頼りないセルの音の後、車体全体を激しく揺らすような振動とともに、古いエンジンが目を覚ました。 燃料メーターの針は、半分より少し下を指している。 遠くへ逃げるには十分だ。 私はシフトレバーをドライブに入れ、アクセルを踏み込んだ。 タイヤが泥を跳ね上げ、軽バンは舗装された県道へと躍り出た。 ルームミラーには、遠ざかっていく果樹園と、私たちが転がり出てきた暗い森の輪郭が映っている。 パトカーの赤色灯も、追手の黒いセダンも見えない。 フロントガラスに、再び細かい水滴が当たり始めた。 ワイパーのスイッチを入れると、劣化したゴムがガラスを擦るギュガッ、ギュガッという不快な音が車内に響く。「……どこへ、向かってるんですか」 隣から、熱に浮かされたような声が聞こえた。 千隼の顔は青白く、呼吸のペースは明らかに早い。 ヒーターのスイッチを最大にすると、吹き出し口から埃の焦げたような匂いとともに、生温かい風が吹き出してきた。「山を越えるわ。この県道をずっと北に抜けた先に、古い村があるの」「村……?」「ええ。母さんが、昔住んでいた場所」 ハンドルを握る手に、じわりと汗が滲む。 泥だらけの指先が、プラスチックの冷たい感触を確かめるように強く握りしめられていた。「絶縁状態で、一度も帰ったことはないって言ってたけど……誰も住んでいない古い実家だけが、そのまま放置されてるはずなの。不来方の連中も、久遠のネットワークにも載っていない、完全に忘れられた場
last updateLast Updated : 2026-03-09
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