All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話:祖父母の涙④

 自分の血に塗れた手が、この綺麗な場所を汚してしまうのではないかという強迫観念。「座りなさい」 私は少しだけ声を張って、彼を呼び止めた。 千隼の肩がビクッと跳ねる。「……ですが」「いいから、私の隣に座りなさい。これは命令よ」 強い言葉を使うと、千隼は逆らうことができない。 彼は戸惑いながらもゆっくりと向き直り、私の隣に、まるで針の筵にでも座るかのように、背筋をピンと伸ばして正座した。「そんなに固くならないでいい。……お前さんも、命懸けでうちの孫を守ってくれたんだろう」 泰造が、千隼の顔をじっと見つめて言った。「礼を言うのはこっちの方だ。……ありがとう」 祖父が深く頭を下げる。 千隼は目を見開き、息を呑んだ。 彼にとって、誰かから心からの感謝をされ、頭を下げられることなど、おそらく人生で初めての経験だったはずだ。 喉仏が大きく上下し、膝の上で握られた左手が微かに震えているのが見えた。「さあさあ、温かいうちに食べようね」 志乃が、お盆に乗せた朝食を運んできた。 湯気を立てる白いご飯、ワカメと豆腐の味噌汁、少し焦げ目のついた厚焼き卵、そして大根の煮物。 ごくありふれた、質素な日本の朝食。 ちゃぶ台に四人が並んで座る。 千隼は、自分の前に置かれたお椀と箸を、まるで爆発物でも見るかのような目で凝視していた。「……いただこう」 泰造の声を合図に、私と志乃が手を合わせる。 千隼も慌てたように、左手一本で不器用に手を合わせた。「千隼、右手使えないんだから、お茶碗持てないでしょ。私が手伝うわ」「……いえ、結構です。犬食いで十分……」「馬鹿なこと言わないで」 私は彼のお茶碗を手に取り、箸でご飯をすくって彼の口元に運んだ。「ほら、口開けて」「……っ
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第162話:祖父母の涙⑤

 居間の空気が、シンと静まり返った。 千隼の横顔は、自分自身を深く切り裂くような、耐え難い自己嫌悪に満ちていた。 昨日、泥まみれになりながらも「俺のものだ」と狂喜していた男の姿はそこにはない。 この温かく、清浄な空間が、彼の内側にある「怪物」としての自覚を否応なしに突きつけ、彼を激しく切り刻んでいるのだ。 私は、お茶碗をちゃぶ台にコトッと置いた。 ◇ 朝食が終わり、泰造と志乃が裏の畑の様子を見に出て行った後。 雨上がりの冷たい風が、開け放たれた縁側から流れ込んでくる。 庭の奥にある巨大な柘榴の木から、水滴が葉を伝って落ちる音がしていた。 千隼は縁側に腰を下ろし、その柘榴の木をただぼんやりと見つめていた。 藍色の作務衣の背中が、どこか小さく、ひどく頼りなげに見える。 私は縁側に出ると、彼のすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に腰を下ろした。 千隼はビクッと身体を強張らせ、少しだけ私から距離を取ろうとした。「……逃げないで」 私はその左腕を掴み、引き留める。「……逃げていません」「嘘。さっきからずっと、私と目を合わせようとしないじゃない」 千隼は深く息を吐き出し、ようやくこちらを向いた。 その瞳の奥には、やはり暗く重い葛藤が渦巻いている。「お嬢。……アンタは、ここに残るべきだ」 静かな、けれど決意を秘めた声だった。「ここにいれば、あいつらの手は届かない。俺が囮になって山を降りれば、アンタはこの村で、普通の人間として生きていける。……この温かい家族と一緒に」「また、そんなこと言うの」 私の声が、自然と低くなる。「昨日、言ったはずよ。私の資産を勝手に捨てるなって。あなたは私のものだって」「……わかっています」 千隼の左手が、縁側の木目を強く握りしめた。「アンタがそう言ってくれたから、俺は生き延びることができた。
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第163話:祖父母の涙⑥

「……馬鹿ね」 私は小さくため息をつき、彼の手のひらの上に、自分の手を重ねた。「え……」「あなたがいない世界で飲むスープなんて、砂を噛んでるのと同じよ」 千隼が目を見開く。 私は彼の指の間に自分の指を滑り込ませ、強く、決して解けないように絡め合わせた。「私を普通の女の子に戻そうなんて、傲慢なこと考えないで。……私がこの泥沼に足を踏み入れたのは、誰かに強制されたからじゃない。私が、自分で選んだの」「咲良さん……」「それにね」 私は彼の肩に頭を預けた。 彼の体温が、作務衣越しに私の頬に伝わってくる。「私に『普通の幸せ』を教えてもらうって、約束したでしょう。クレープを食べた時に。……あれ、嘘だったの?」 千隼の喉が、ヒュッと鳴った。 絡め合わせた手に、ギュッと強い力が返ってくる。「嘘なわけが、ないでしょう……」「なら、勝手にいなくならないで。……あなたがどこまで血にまみれていようと、私はあなたを手放さない。この首輪は、一生外してあげないんだから」 千隼は、私の肩に顔を埋めた。 彼の大きな身体が、微かに震えているのがわかった。「……本当に、残酷な人だ」 くぐもった声が、私の胸の奥を震わせる。「俺に、こんな温かい場所の記憶を刻み込んでおいて……それでも、地獄へ一緒に来いと言うんですか」「ええ。地獄の底まで、道連れよ」 私がそう言うと、千隼は喉の奥で、ひどく甘く、そして重たい笑い声を漏らした。「……御意」 雨上がりの冷たい空気の中、私たちは互いの体温だけを頼りに、強く指を絡ませ合っていた。 彼の中の自己卑下や葛藤が、この一度の対話で完全に消え去ったわけではないだろう。 それでも、彼が再び私の
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第164話:【過去編】檻の中の令嬢とスラムの犬①

 分厚い革張りの表紙は、長い年月を経て角が擦り切れ、手垢で黒ずんでいた。 祖母の志乃が、震える指先でゆっくりとその表紙を持ち上げる。 カサリ、と古い紙が擦れ合う音が、雨上がりの静かな居間に響いた。 台紙に貼り付けられた写真の数々は、どれもすっかりセピア色に退色している。だが、そこに定着させられた光と影の輪郭は、二十数年という時間を飛び越えて、私の網膜を強く打った。「……これが、お母さん」 私の口から、無意識にため息のような声が漏れた。 写真の中にいるのは、まだ十代の後半と思しき、若き日の母・桔梗だった。 私の記憶にある、安アパートで疲れた顔をして笑っていた母ではない。上質な絹の振袖に身を包み、結い上げた黒髪にはべっ甲の簪が挿されている。背筋はピンと伸び、その佇まいは非の打ち所がないほど洗練されていた。 だが、その顔に笑顔はなかった。 カメラのレンズを見つめる瞳は、まるで静かな湖面のように凪いでいる。私の持つアメジストの色とは少し違う、漆黒の瞳。その奥には、一切の感情の揺らぎが読み取れない。 どこか、精巧に作られた日本人形のような、冷たくて硬質な美しさだった。「……そうだよ。桔梗が、ちょうど十八の時のお正月だね」 志乃は、写真の表面を指の腹でそっと撫でた。「この子は、本当に器量良しだった。勉強もできたし、お作法も完璧だった。私やあの人から見ても、自慢の娘だったんだよ」 祖母の声が、微かに震える。「でもね……今になって思えば、この子は息を止めて生きていたんだ。白河という古い家の、重たいしきたりの底で。……私たちが、この子を綺麗なガラスの箱に閉じ込めてしまっていた」 後悔の念が、言葉の端々にこびりついている。 私は、写真の中の母の瞳をじっと見つめた。 感情がないのではない。諦めているのだ。自分の意志で生きることを。 その感覚は、痛いほどによくわかった。私もまた、「目立たず、風景の一部として生きる」という処世術を身につけていたからだ。
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第165話:【過去編】檻の中の令嬢とスラムの犬②

「桔梗。先日の茶会の作法、少し肩に力が入っていたな」 上座に座る父・泰造の低い声が、静寂の空間に落ちる。「申し訳ありません、お父様。以後、気をつけます」 桔梗は深く三つ指をつき、滑らかな声で応えた。 感情の起伏はない。ただ、求められた「正解」の形を、反射的に出力するだけ。「お前は白河の看板だ。いずれ、然るべき家柄の者へ嫁ぐ身。些細な隙も見せてはならん」「はい。承知しております」 会話は、そこで終わる。 桔梗にとって、家とはそういう場所だった。 自分は人間ではない。この歴史ある屋敷を飾るための、最も高価で美しい調度品の一つ。 それを悲しいと思ったことはない。生まれた時からそう教え込まれ、それ以外の生き方を知らなかったからだ。 ただ、時折。 縁側に座り、高くそびえる土塀の向こう側に広がる四角い空を見上げていると、胸の奥がチリチリと痺れるような感覚を覚えることがあった。 塀の外からは、車のエンジン音や、遠くを走る電車の微かな振動、誰かの笑い声が風に乗って運ばれてくる。 あそこには、混沌とした、生々しい「命」がひしめき合っている。 泥にまみれ、汗を流し、大声で泣き笑いする人間たちの世界が。(……少しだけ、見てみたい) その日。 桔梗は、自身の十七年の人生で初めて、ほんのわずかな「規律からの逸脱」を試みた。 月に一度、呉服屋へ仕立ての相談に赴く日。 いつもなら、お付きの女中を連れて黒塗りの送迎車に乗り込むところを、「今日は少し、外の風に当たりたいから」と理由をつけ、一人で屋敷の門を出たのだ。 もちろん、遠くへ行くつもりはなかった。 ただ、自分の足で、他人の視線を感じながら、街の空気を吸ってみたかっただけだ。 仕立ての良い淡い水色のワンピースに、日傘をさして歩く桔梗の姿は、街角でもひどく目を引いた。 すれ違う人々が、振り返って彼女を見る。 だが、桔梗はその視線に怯えるどころか、妙な高揚感を感じていた。 アスファルトから立ち上る、埃と排気ガ
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第166話:【過去編】檻の中の令嬢とスラムの犬③

「テメェ、どこのシマで好き勝手やってるか、わかってんだろうな!」「調子に乗ってんじゃねぇぞ、この野良犬が!」 鈍い打撃音。 肉を殴りつけ、骨が軋むような、およそ人間が発するべきではない生々しい暴力の音。 桔梗は息を呑み、日傘の柄を強く握りしめた。 逃げなければ。 頭ではわかっているのに、足がアスファルトに縫い付けられたように動かない。 バキッ! というひときわ大きな音の後、一人の男が、桔梗の数メートル先の足元へと転がり出てきた。 安物のスーツを着た男は、顔面を赤く染め、口から泡を吹いて気絶している。 その後ろから、ゆっくりと、一人の影が歩み出てきた。「……誰が野良犬だ。俺は狼だ。噛み殺される前に、自分の首輪の長さを確認しとけよ」 低く、腹の底を震わせるような、粗野な声。 現れたのは、桔梗とさして年齢の変わらない、十代後半の若い男だった。 着古した黒の革ジャンに、色落ちしたジーンズ。 シャツの襟元は破れ、むき出しになった浅黒い胸元には、すでに幾つもの生傷が刻まれている。 男の拳は赤黒く染まり、そこからポタポタと、自分の血か他人の血かわからない液体が、路地の地面へと滴り落ちていた。 男が、前髪を乱暴に掻き上げる。 その瞬間。 男の視線と、路地の入り口で立ち尽くす桔梗の視線が、正面から激突した。「……あん?」 男は、薄暗い路地裏に全く似合わない、水色のワンピースを着た桔梗を見て、怪訝そうに眉をひそめた。 桔梗の心臓が、早鐘を打った。 恐怖ではない。 男の瞳の奥で燃え盛る、強烈な「熱」に当てられたのだ。 その瞳は、飢えていた。 金に、力に、そして自分を縛り付けるすべてのものを破壊するための暴力に。 白河家の人間が誰も持っていなかった、泥臭く、獰猛で、圧倒的な生命力。「おい、お嬢ちゃん。……ここは、あんたみたいな綺麗なもんが来る場所じゃねぇぞ」 男は、血に濡
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第167話:【過去編】檻の中の令嬢とスラムの犬④

「……っ!」 男が反射的に身をすくませ、その手を払いのけようとする。 だが、桔梗の手は止まらない。 柔らかい布が、男の頬にこびりついた血と泥を、そっと拭い取った。「な、何してんだ、テメェ……」 男は完全にペースを崩され、狼狽したように声を荒らげた。 暴力には暴力で返すことしか知らない彼にとって、この無防備な接触は、殴られるよりもはるかに理解不能な攻撃だったのだ。「痛くないのですか?」 桔梗は、ハンカチに赤黒い染みが広がるのを静かに見つめながら、小首を傾げた。「痛ぇわけねぇだろ。こんなかすり傷」 男は乱暴に桔梗の手からハンカチを奪い取り、自分で顔の汚れを拭った。 真っ白だったハンカチが、無残に汚れていく。「……どうして、あんな乱暴なことを」「生きるためだ。この街じゃ、舐められたらその日のうちに身ぐるみ剥がされて、裏路地に沈む。……俺は、誰にも舐められねぇ。力で全部ねじ伏せて、いつかこの街の頂点に立ってやるんだよ」 男の言葉には、一片の迷いもなかった。 底辺から這い上がるための、純粋な野心。 桔梗は、その強烈な自我の輝きに、どうしようもなく惹きつけられている自分に気がついた。 自分は、用意された箱の中で、誰かが敷いたレールの上を歩くだけの人生。 だがこの男は、自分の力だけで、泥の中から空を掴もうとしている。「……野蛮ですね」「あぁ、そうだよ。俺はスラムの野良犬だからな」 男は鼻で笑い、汚れたハンカチを桔梗に突き返そうとした。 だが、桔梗はそれを受け取らず、代わりにじっと男の瞳の奥を覗き込んだ。「でも……あなたは、とても『自由』に見えます」 その言葉に、男の動きがピタリと止まった。「自由、だと?」「ええ。私にはないものを、あなたはすべて持っている」 桔梗の瞳の奥にある、深く、重たい「
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第168話:【過去編】野犬の恋と歪む正義①

 ◇「……この写真は」 私の指先が、セピア色に褪せたアルバムの一葉でぴたりと止まった。 縁側から吹き込む風が、古い紙の匂いを鼻先へ運んでくる。 隣に座る祖母の志乃が、私の視線の先を覗き込み、深く、重い息を吐き出した。「ああ。それは……不来方(こづかた)さんだよ。不来方玄。あの頃はまだ、将来を有望視された、本当に立派な若い検事さんだった」 不来方。 その三文字が鼓膜を打った瞬間、首の裏にじっとりと冷たい汗が浮くのを感じた。 あの地下の取調室で対峙した、枯れ枝のような首と、爬虫類のように濁った目を持つ老人の姿が脳裏にフラッシュバックする。 だが、写真の中に収められている青年は、その異様な老人と同一人物だとは俄かには信じがたいほど、端正な顔立ちをしていた。 仕立ての良さが写真越しにも伝わってくる、濃紺の三つ揃えのスーツ。整えられた髪。レンズを真っ直ぐに見据える瞳には、一点の曇りもない「正しさ」への強い自負が満ちている。 泰造の傍らに立ち、背筋を伸ばして微笑むその青年は、どこからどう見ても完璧なエリートだった。「お前のお爺さんも、不来方さんのことをえらく買っていてね。……桔梗の婿にするなら、彼しかいないって、本気で考えていたんだよ」 志乃の声が、微かに震える。 私は写真の隣のページに目を移した。そこには、不来方と並んで縁側に座る、桔梗の姿があった。 二人の間には、不自然なほどの距離が空いている。桔梗は膝の上で両手を固く組み、視線を足元に落としていた。その硬直した肩のラインから、彼女がこの青年に対してどれほどの息苦しさを感じていたかが、痛いほどに伝わってくる。「……お母さんは、彼のこと、どう思っていたの?」 私の問いに、志乃はゆっくりと首を横に振った。「嫌っていたわけじゃない。ただ……不来方さんの目は、桔梗という人間そのものを見てはいなかったんだろうね。……あの子が本当に息をしていたのは、
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第169話:【過去編】野犬の恋と歪む正義②

 その瞳の奥で、確かな熱が揺らぐ。 美しい。血筋、教養、そしてこの従順な佇まい。彼女は、法と秩序で世界を正すという己の完璧な人生設計において、隣に置くべき最後の、そして最高のピースだった。「桔梗さん。今日の着物も、よく似合っている。……だが、少し顔色が悪いのではないかな」 不来方は気遣うような口調で言いながら、手を伸ばした。 桔梗の膝の上に置かれた、真っ白な指先へ。 彼の指が触れる直前。桔梗はごく自然な動作で、茶托を直すふりをして手を引いた。 空を切った不来方の指先が、微かに宙で止まる。「お気遣い、ありがとうございます。ただの寝不足ですので」「そうか。ならば良いが。……来月、君のお父様と私の父を交えて、正式な食事の席を設けることになった。君には、何の心配もいらない。すべて私が手筈を整える」 君を守る。君を正しく導く。 不来方の口から紡がれる言葉は、常に「自分が主体」の論理で構成されていた。 桔梗の意思を問う隙間はない。彼にとって、圧倒的な正義と知性を持つ自分が彼女の人生の舵を取ることこそが、彼女にとっても最大の幸福であると信じて疑わなかったからだ。「……はい」 桔梗は短く答え、視線を庭の飛び石に落とした。 胸の奥が、重い鉛を飲んだように苦しい。 この男の傍にいると、真綿で首を絞められているような錯覚に陥る。清潔で、正しくて、一切のノイズがない世界。それは、桔梗が長年閉じ込められてきた白河家の「ガラスの箱」と同じ成分でできていた。 肺が、酸素を求めて悲鳴を上げている。 泥臭く、不規則で、熱を帯びた空気を吸い込みたいという衝動が、彼女の身体を内側から叩き続けていた。 ◇ その日の夜。 桔梗は、音を立てずに自室の窓を開け、暗い庭へと降り立った。 用意された着物ではなく、仕立ての古い木綿のワンピースに身を包み、財布だけを小さな鞄に押し込んで、裏木戸から夜の街へと駆け出す。 向かう先は決まっていた。 繁華街か
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第170話:【過去編】野犬の恋と歪む正義③

「息なら、てめぇの立派な屋敷でいくらでもできるだろうが」「あそこには、空気がありません」 桔梗は両手で自分の膝を抱え、薄暗いガード下の奥を見つめた。「すべてが決められていて、誰かが用意した道の上を歩くだけ。……自分が生きているのか、ただの飾りの人形なのか、わからなくなるんです」 彼女の静かな、けれど切実な吐露。 龍之介は何も言わず、ただ自動販売機で買ってきた缶コーヒーを、無言で彼女の膝の横に置いた。 触れると、火傷しそうなほど熱い。 桔梗は冷え切った両手でそれを包み込んだ。じんわりとした熱が、手のひらから身体の芯へと広がっていく。「……俺の生きてる場所は、泥水すするような底辺だぞ」 龍之介が、前を見据えたまま低い声で言う。 その声には、自分と彼女の間に横たわる、決して埋まらない身分と環境の差に対する苛立ちが混じっていた。「油断すりゃ背中から刺される。明日の飯の保証もねぇ。綺麗な着物も、美味い紅茶も出してやれねぇ」「そんなもの、必要ありません」「はっ、世間知らずのお嬢様が、知ったような口を……」「龍之介さんの手は、温かいからです」 桔梗が、缶コーヒーから片手を離し、龍之介の右手にそっと自分の手を重ねた。 節くれ立ち、喧嘩のタコがいくつもできた、荒々しい男の手。 龍之介の肩が、ビクッと強張る。「……おい」「この前、ハンカチで血を拭いた時、わかりました。あなたの身体は、不格好で、傷だらけで……でも、誰よりも力強く生きようとしている熱で満ちている」 桔梗は、彼の手を強く握り返した。 その掌から伝わってくる生々しい命の鼓動が、桔梗の干からびた肺に、強烈な酸素を送り込んでくる。「私に、あなたの空気を分けてください」 龍之介は、重ねられた真っ白な手をしばらく見つめ、やがて深く、重い息を吐き出した。 振り払うことはしなかった。 代わりに、彼の大
last updateLast Updated : 2026-03-14
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