All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話:魔狼の盾③

 アクセルが踏み込まれる。 強烈なGが全身を襲い、背中がシートに叩きつけられた。 タイヤがコンクリートの床を激しく擦り、鼓膜を劈くようなスキール音が地下駐車場に反響する。 車体は弾かれたように前に飛び出し、急勾配のスロープを一気に駆け上がった。 地上に出た瞬間。 視界を暴力的に染め上げたのは、けたたましく回転する赤と青の閃光だった。「包囲網……っ」 思わず声が漏れる。 駐車場の出口を取り囲むように、数台のパトカーが鼻先を突き合わせてバリケードを作っていた。制服警官たちが、パトカーのドアを盾にしてこちらへ銃口を向けている。 止まる気配はない。 千隼の右足が、さらに深くアクセルペダルを床に押し付けた。 エンジンの回転数が跳ね上がり、車内を満たす機械音が悲鳴のように甲高く変わる。「伏せて!」 千隼の怒声。 私は両手で頭を抱え、ダッシュボードの下へ身を屈めた。 直後、鼓膜が破れるかと思うほどの轟音が車内を揺るがした。 凄まじい衝撃。 金属と金属が噛み合い、ひしゃげ、千切れる不快な音が連続して鳴り響く。車体が大きく左へ傾き、右側のタイヤが完全に宙に浮いたのがわかった。「くそっ……!」 千隼の腕が急激にハンドルを切り返す。 タイヤがアスファルトを削り取る焦げ臭い匂いが、エアコンの吹き出し口から一気に流れ込んできた。 ガンッ、と重い音を立てて車体が水平に戻る。 フロントガラスには巨大な蜘蛛の巣状のヒビが走り、視界はひどく歪んでいた。それでもSUVはバリケードを粉砕し、夜の幹線道路へと強引に躍り出た。 背後から、無数のサイレンの音が追いかけてくる。「怪我は!?」「ないわ。あなたは!?」 身を起こしながら叫ぶ。 千隼の横顔は、ダッシュボードのメーターの光に青白く照らされていた。額からの出血が増えている。ワイシャツの袖口は完全に赤く染まり、ハンドルを握る手のひらから、ポタポタと黒い滴がフロアマットに落ちてい
last updateLast Updated : 2026-03-04
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第132話:魔狼の盾④

 千隼はブレーキペダルを蹴りつけるように踏み込みながら、サイドブレーキを一瞬だけ引き、ハンドルを強引に右へ切った。 車体後部が慣性で外側へ大きく振り出される。 シートベルトが鎖骨に深く食い込み、息が詰まった。内臓が遠心力で片側に寄るようなひどい吐き気。 トラックの巨大なフロントグリルが、私の座る助手席の窓ガラス越しに、数センチの距離をかすめて通り過ぎていく。大型エンジンの熱気すら伝わってきそうな距離。 ギリギリのところで車体の向きを変え、千隼は再びアクセルを全開にした。 白煙を上げるタイヤがグリップを取り戻し、細い路地へと車を弾き飛ばす。「警察だけじゃない……。不来方の私兵も混ざってるわね」 サイドミラーに映る、ライトを消したままピタリと追走してくる黒いセダンの列を見て、私は吐き捨てるように言った。「どいつもこいつも、しつこい蝿だ」 千隼の低い声には、苛立ちよりも冷酷な殺意が濃く滲んでいた。 路地の両脇を流れる電柱やブロック塀が、恐ろしい速度で後方へとすっ飛んでいく。少しでもハンドル操作を誤れば、即座に鉄の塊と化して潰れる速度域。 だが、千隼の動きには微塵のブレもなかった。 血まみれの両手が、生き物のようにハンドルを滑り、的確にタイヤの角度を制御している。 それは、ただの暴走ではない。 極限まで研ぎ澄まされた、純粋な身体能力と空間認識能力による、物理法則への完全な支配だった。 大通りへ抜ける直前。 前方の視界が、不自然にパッと明るくなった。 路地の出口を塞ぐように、横向きに停められた二台の大型ワンボックスカー。その隙間から、数人の男たちがこちらへ向かってアサルトライフルの銃口を構えているのが見えた。 不来方の部隊か。「千隼!」 止まる猶予などない。 急ブレーキを踏めば、蜂の巣にされるだけだ。 千隼の右足は、わずかにアクセルを戻しただけで、決してブレーキには触れなかった。「……伏せろッ!!」 怒鳴り声と同時。 千
last updateLast Updated : 2026-03-04
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第133話:魔狼の盾⑤

 私の身体は、千隼の左腕によってシートに縫い付けられていた。 それでも、凄まじい衝撃が車のフレームを伝って内臓を激しく揺らす。 金属がひしゃげ、アスファルトを削る不快な摩擦音。 千隼の身体が、私の頭の上で大きく跳ね、運転席のドアパネルに激しく叩きつけられる鈍い音がした。「ぐっ……!」 短い、くぐもった声。 車体はコントロールを失い、コマのように回転しながら大通りの中央分離帯に乗り上げ、火花を散らしながら数メートル滑走して、ようやく停止した。 白煙。 ラジエーター液の焦げる甘い匂いと、エンジンオイルの臭気が入り混じる。 チリチリと、熱を持ったエンジンパーツが冷えていく音がする。 静かだった。 サイレンの音は遠く、追手はバリケードを突破した私たちの変則的な動きに巻き込まれ、後方で足止めを食らっているようだった。「……千隼?」 私の頭を押さえつけていた左腕の力が、ふっと抜ける。 恐る恐る顔を上げる。 完全に失われた窓ガラスの枠から流れ込む夜風が、火照った頬を撫でた。 運転席のドアは無惨に内側へひしゃげ、千隼の右肩から脇腹にかけてを圧迫していた。「千隼ッ!!」 シートベルトの金具を弾き飛ばすように外し、彼の身体にすがりつく。 千隼は、ひしゃげたハンドルに額を押し当てたまま、動かなかった。 肩が浅く上下している。生きている。 だが、内側に折れ曲がったドアパネルに激突した右半身は、ただの打撲で済んでいるはずがない。スーツの生地は破れ、むき出しになった皮膚には細かいガラス片が突き刺さり、どす黒い血がとめどなく溢れ出して、革シートをどす黒く染め上げていた。「……馬鹿、馬鹿じゃないの!?」 声がひどく震えた。 自分を盾にして車をぶつけるなんて、自殺行為以外の何物でもない。 震える指先で、千隼の頬に触れる。 氷のように冷たかった。「……お怪我は、ありま
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第134話:雨の廃屋での熱①

 ひしゃげた車のフレームから立ち上る、ラジエーター液の焦げる甘ったるい匂い。 遠くから幾重にも重なって響くパトカーのサイレンが、鼓膜の裏側をヤスリで削るように苛立てていた。 大通りの中央分離帯で完全に沈黙した鉄の塊から這い出し、黒々とした木々が鬱蒼と茂る斜面へと足を踏み入れた途端、空から冷たい水滴が落ちてきた。 雨だ。 最初はぽつり、ぽつりと葉を打つ程度だったそれは、数分も経たないうちに、氷のように冷たい凶器となって全身を打ち据え始めた。「……っ、こっちよ、足元気をつけて」 斜面のぬかるみに足を取られそうになりながら、右肩にのしかかる巨大な質量を必死に支える。 ズリッ、と。 濡れた枯れ葉を踏みしめる千隼の靴底が滑り、その分厚い身体が大きく傾いた。とっさに両腕でその腰を抱え込もうとするが、成人男性の、それも極限まで鍛え抜かれた筋肉の塊を、私の腕力で支えきれるはずがない。 泥だらけの斜面に膝をつきそうになった瞬間、私の肩に回されていた太い腕が、ぐんと力強く引き絞られた。「……すみません。少し、滑りました」 耳元で、ひどく掠れた声がする。 強がっているのは明白だった。私の肩に押し当てられた千隼の胸元からは、さっきから不規則で荒々しい心音が伝わってくる。吐き出される息は熱を帯び、雨の冷たさとは対極にある異常な熱気を孕んでいた。 右半身をかばうように歩くその姿。 ドアパネルに激突した右肩から脇腹にかけて、引き裂かれたスーツの下はどうなっているのか。暗闇と雨に阻まれて視覚的な確認はできないが、私の肩を濡らす生温かい液体の感触と、濃密に鼻を突く鉄の匂いが、事態の深刻さを雄弁に物語っていた。「喋らないで。呼吸に集中して」 急な斜面を登り切った先に、木々の間に半ば埋もれるようにして建つ、黒いシルエットが見えた。 屋根瓦は崩れ落ち、窓ガラスのほとんどが割れたまま放置された廃屋。かつては林業の作業小屋か何かだったのだろう。 鍵の壊れた引き戸に肩をぶつけるようにして押し開けると、湿ったカビの匂いと、腐りかけた木材の臭
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第135話:雨の廃屋での熱②

 ドサッ、と重い音がして、巨体が壁に寄りかかる。 その瞬間、千隼の口から「……っ」という、声にならない短い呼気が漏れた。 暗闇に目が慣れてくるにつれ、輪郭が浮かび上がってくる。 壁に後頭部を預け、荒い息を吐く千隼の顔は、血の気というものが完全に失せ、青白く透き通るようだった。額に張り付いた前髪から、雨水と血が混ざった赤い滴がポタポタと床に落ちている。「傷を、見せて。服を脱ぐわよ」 震えを隠しきれない声で言いながら、千隼の正面に膝をついた。 指先が、氷水にでも浸かっていたかのように冷たくなっている。感覚の鈍った指で、泥と血にまみれたスーツのジャケットの襟に手を掛けた。 左半分はすんなりと脱がせることができた。 問題は、衝撃をまともに受けた右半身だ。「……お嬢、俺が自分で」「動かないでって言ってるでしょ」 制止しようと伸びてきた左手をピシャリとはね除け、血だまりのように赤黒く染まった右の袖に指を這わせる。 ワイシャツの生地が、べったりと皮膚に張り付いていた。 凝固しかけた血液が接着剤の役割を果たし、布と肉が一体化してしまっている。 無理に引っ張れば、傷口を再び抉ることになる。「……少し、痛むわよ」 小さく声をかけ、ワイシャツの第一ボタンから順番に引きちぎるように外していく。 ビリッ、という湿った音が廃屋に響く。 布を少しずつ、慎重に肉から剥がしていく。 そのたびに、千隼の喉の奥からギリッと歯を食いしばるような微かな摩擦音が聞こえた。私の指先に、彼の腹筋が硬く痙攣する感覚が直接伝わってくる。 べりべり、と。 最後に癒着していた脇腹の生地を剥がし終えた瞬間。 露出したその凄惨な有様に、私は息を呑んだ。 鍛え上げられた分厚い胸板から脇腹にかけて、広範囲にわたって皮膚がどす黒く変色している。重度の打撲による内出血だ。 それだけではない。砕け散ったフロントガラスの破片が、あちこちの皮膚を浅く、あるいは深く切り
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第136話:雨の廃屋での熱③

 胃の奥が雑巾のように絞り上げられ、吐き気がこみ上げてくる。 怖いわけじゃない。ただ、この圧倒的な暴力の痕跡をすべてこの男一人に背負わせてしまった自分の無力さが、どうしようもなく苦しかった。「……泣かないでください」 頭上から、降ってくるような声。 見上げると、千隼がひどく困ったような、それでいて熱っぽく潤んだ瞳で私を見下ろしていた。 血まみれの右手を動かそうとした彼を睨みつけ、私は乱暴に目元を拭った。「泣いてない。……傷口にガラスが残ってる。取るわよ」 自分のワイシャツの裾を両手で力任せに引き裂いた。 ビリッという甲高い音が鳴る。 清潔な布切れの代わりになどならないかもしれないが、このまま放置するわけにはいかない。 引き裂いた布を指に巻き付け、肉に食い込んだ細かいガラス片を、指先の腹の感覚だけを頼りに取り除いていく。 傷口に触れるたび、千隼の体がビクッと小さく跳ねる。 その反応に私の指先も震え、余計な力を込めてしまう。「っ……」「痛い?」「……いいえ」 嘘だ。 額には脂汗がびっしりと浮き、呼吸のペースが明らかに乱れている。 だが彼は、痛みを堪えることよりも、私の指先が自分の肌を這い回ることそのものに、別の種類の熱を帯び始めているようだった。 傷口を拭うたびに、千隼の喉仏が大きく上下する。 血と泥を拭き取り終え、最も出血の酷い右肩に、固く丸めた布を力強く押し当てた。「押さえてて」 千隼の左手を取り、止血の布の上から強く押さえつけさせる。 その瞬間、極度の緊張と集中が途切れたのか、私自身の身体に強烈な異変が襲いかかってきた。 寒い。 ガチガチと、奥歯が勝手に鳴り始めた。 全身はずぶ濡れで、外の気温は一桁台まで落ち込んでいるはずだ。冷たい夜風が、壁の隙間から容赦なく吹き込んでくる。 アドレナリンで麻痺していた感覚が戻り、手足の先から急速
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第137話:雨の廃屋での熱④

 熱い。 火傷しそうなほどの、圧倒的な熱量。 極限状態の運動と、おそらくは怪我による発熱が混ざり合った、異常な体温だった。 濡れた衣服越しでも、その熱は私の凍える肌を容赦なく侵食してくる。 ドクン、ドクンという、ひどく重く、力強い心音。 それが私の鼓膜を直接震わせ、内臓の奥底まで響き渡る。 鼻腔を満たすのは、濃密な血の匂いと、雨の匂い、そして……微かに混じる、男の汗の鋭い匂い。「……冷え切ってる。駄目だ、もっとこっちに」 千隼の左腕が、私の背中をさらに強く抱き込む。 逃げ場などなかった。 負傷している右腕さえもが、不器用な動きで私の腰に回され、その巨大な体躯で私を完全に包み込んでしまう。 皮膚と皮膚の間に隙間など一ミリもないほどの、執拗な密着。 私の震えを止めるためだけではない。それは明らかに、何か別の、どろりとした飢餓感に突き動かされた行動だった。「千隼、右肩、血が……」「構いません。……それより、お嬢の体温が下がる方が問題だ」 千隼の顎が、私の頭頂部に擦り付けられる。 硬い髪の毛が、私の額をチクチクと刺激した。 頭上から降ってくる呼吸音が、少しずつ、形を変えていく。 痛みを堪える荒い息遣いから、何かを貪り食う前の獣のような、深く、湿った吸気音へ。 すうぅっ……と。 私の髪の匂いを、首筋の匂いを、肺の底まで吸い込むような強烈な音が響く。「……生きてる」 耳元に落とされた声は、ひどく甘く、そして重かった。 ぞくり、と。 寒さとは全く違う震えが、私の背筋を駆け上がる。「あの密室で、通信が切れた時……お嬢の心音が聞こえなくなった時……俺がどう狂いそうになったか、わかりますか」 千隼の顔が、私の首筋へと滑り落ちてくる。 雨に濡れ
last updateLast Updated : 2026-03-06
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第138話:雨の廃屋での熱⑤

「あっ……ちはや、待って……」 痛い。 吸い上げられる皮膚がちぎれそうなほど痛いのに、不思議と嫌悪感はなかった。 むしろ、首筋から注入される千隼の熱が、私の血管を巡り、凍りついていた身体の芯をドロドロに溶かしていくような錯覚に陥る。 胃の奥が熱い。 下腹部のあたりに、重く、甘い痺れが溜まっていく。「待てない。……足りない」 千隼の唇が首筋から離れ、今度は耳たぶを乱暴に咥え込んだ。 ザラリとした熱い舌先が、耳の裏の柔らかい肉を執拗に舐め上げる。 耳元で響く、くちゃり、という水音。 それに混じって、彼の痛みに耐える「ぐっ……」という微かな唸り声が聞こえた。 傷口が開いているはずだ。動けば動くほど、私の服を彼の血が汚していくのがわかる。 それなのに、彼は私を抱く腕の力を少しも緩めようとしない。 自らの肉体を削りながら、私の存在を細胞の隅々まで刻み込もうとするような、狂気じみた執着。「血が、出るわ……お願いだから……」「流せばいい。……この血は全部、お嬢のために流れるようにできてる」 耳元で囁かれる声は、理性を手放した熱に浮かされていた。 左手が私の背中から滑り落ち、腰のくびれをなぞり、ワイシャツの裾の下へと潜り込んでくる。 指先が、雨で冷え切った私の素肌に直接触れた。 ビクッと腰が跳ねる。 指先には、彼自身の血がべったりとこびりついているはずだ。その生温かい液体の感触が、背中のラインに沿って、赤黒い線を引くように這い上がってくる。「……俺のものです」 確認するような、重く低い呟き。 千隼の顔が上がり、至近距離で視線が絡み合った。 暗闇の中でも、その瞳がギラギラと異様な光を放っているのがわかる。 普段の、私の足元に跪く忠実な大型犬の目ではない。
last updateLast Updated : 2026-03-06
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第139話:「お前は私のものだ」①

 血の匂いと、荒い吐息。 暗闇の中でギラギラと光る、捕食者の瞳。 千隼の顔が近づいてくる。火傷しそうなほどの熱を孕んだ唇が、私のそれに重なる直前。 ふっ、と。 私を締め付けていた強靭な腕の力が、唐突に抜け落ちた。「……え?」 間の抜けた声が漏れたのと同時に、千隼の巨大な体躯が、まるで太いワイヤーを切断された鉄骨のようにぐらりと傾いた。 壁に寄りかかっていたはずの背中がずるりと滑り落ち、九十キロ近い全質量が、無防備な私の身体にのしかかってくる。「ちょっ……千隼! ?」 咄嗟に両手でその分厚い胸板を支えようとするが、成人男性の、それも極限まで鍛え抜かれた筋肉の塊を私の腕力で止められるはずもない。 なすすべもなく、私たちは重なり合うようにして、冷たく湿った土間の上へ倒れ込んだ。 背中を打つ鈍い衝撃。肺から空気が押し出され、短い咳き込みが漏れる。 だが、自分の痛みなど気にする余裕は一秒もなかった。 私の上に覆いかぶさるように倒れ込んだ千隼は、ピクリとも動かない。 顔のすぐ横、私の耳元に彼の頭が落ちている。 聞こえてくるのは、ヒュー、ヒューという、細い管を空気が擦過するような浅く異常な呼吸音だけだ。 頬に触れる彼の肌は、先ほどまでの燃えるような熱さが嘘のように、急速に温度を失い始めている。びっしりと冷や汗が浮き、首筋に触れた指先から伝わってくる脈拍は、ひどく弱く、不規則に乱れていた。「嘘でしょ……千隼、しっかりして!」 下敷きになった状態から必死に身をよじり、彼の上半身を仰向けに転がす。 暗闇に目が慣れてきても、その顔色の悪さは痛いほどにわかった。血の気が完全に引いた唇は青白く変色し、固く閉じられたまぶたが小刻みに痙攣している。 右肩から脇腹にかけての止血のために押し当てていた布切れは、完全に赤黒く染まりきり、床の土にまでドロドロとした染みを作り出していた。 出血多量による、急激な血圧の低下と意識の混濁。 理性を焼き切るような先
last updateLast Updated : 2026-03-06
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第140話:「お前は私のものだ」②

 外では、相変わらず冷たい雨が降り続いている。 壊れた屋根の隙間から滴り落ちる雨水が、土間のあちこちで等間隔の水音を立てていた。その単調なリズムが、刻一刻と迫るタイムリミットを告げる秒針の音のように聞こえる。 パトカーのサイレンは遠ざかったが、不来方の私兵たちがこの山狩りを諦めるはずがない。懐中電灯と重火器を持ったプロの猟犬たちが、斜面を這い上がり、確実にこの廃屋へと網の目を狭めているはずだ。「……お、嬢」 微かな、掠れた音が耳を打った。 最初、風の音かと思った。 だが、私の手のひらの下で、千隼の胸がわずかに上下している。 ゆっくりと、彼が重い薄皮を持ち上げるように目を開いた。 焦点の定まらない、虚ろな瞳。 そこには先ほどの狂気じみた熱はなく、ただ、死の淵を彷徨うような透明な疲労だけが沈殿していた。「千隼! わかる? 私よ!」 顔を近づけ、必死に呼びかける。 彼の乾いた唇が、わずかに動いた。「……逃げ、て……ください」 ヒュッと、喉の奥が鳴る。 吐き出された言葉は、ひどく理路整然としていて、だからこそ私の心臓を冷たい刃でえぐり取った。「馬鹿なこと言わないで! 今動いたら、血がもっと……」「……俺の右足は、もう使い物にならない。歩くことすら、不可能です」 千隼は、痛覚すら麻痺しているのか、ひどく淡々とした声で自らの肉体の限界を告げた。「連中は、必ずこの山をシラミ潰しに探す。……こんな九十キロもある肉塊を引きずっていれば、十分と経たずに追いつかれる。……お嬢一人なら、この暗闇と雨に紛れて、包囲網の隙間を抜けられるはずだ」 千隼は、ひどくゆっくりとした動作で、私の腕を押し退けようとした。 まったく力が入っていない、羽虫のような抵抗。 それでも彼は、必死に私を自分から遠ざけようとしていた。「俺は、ただの足
last updateLast Updated : 2026-03-06
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