Todos los capítulos de 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Capítulo 271 - Capítulo 280

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第271話:合理的な敗北と、狂犬の沈黙⑥

 私の知略が、彼を殺そうとしているのだ。「……咲良」 千隼の左手が、私の震える手をそっと包み込んだ。 彼の手のひらは、火傷しそうなほど熱かった。「貴女のせいじゃない。俺の罪だ。……俺が、あの日、自分の手を血で汚したから……」「違う! あなたは、お父さんを守るために……」「それでも、俺は人殺しだ」 千隼の声は、ひどく静かで、どこまでも冷たかった。「俺は、貴女の隣にいる資格なんて最初からなかったんです。……ただの、便利な暴力装置として、使い捨てられるべきゴミだった」 彼の手が、私の手をゆっくりと自分の胸元から引き剥がす。「俺が特捜部に行けば、すべて終わる。……それが、お嬢にとっても、久遠組にとっても、一番合理的な選択です」 合理的。 その言葉が、私の耳の奥で呪いのように響いた。 観音聖が好んで使う、冷徹で血の通っていない言葉。 千隼までもが、その言葉を使い、自分自身を盤面から消去しようとしている。「……」 私は、彼から引き剥がされた自分の両手を、空中で虚しく震わせたまま、言葉を失っていた。 何と言えばいいのか。 彼を引き留める言葉が見つからない。 私が「行かないで」と言えば、彼は確実に不来方の罠に嵌まり、私ごと久遠組を破滅に導く。 かといって、「行って」と言えるはずもない。 私のためにすべてを投げ出そうとする彼を前に、私の持てるすべての論理と知略は、完全に無力化されていた。 部屋の中に、絶望的な沈黙が落ちた。 空気清浄機の低いモーター音だけが、耳鳴りのように無機質に鳴り続けている。 千隼は私から数歩距離を取り、ゆっくりと背を向けた。 彼の広い背中が、ひどく小さく、そして永遠に手の届かない場所へ消えてしまいそうに見える。「……明日、朝一番で
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第272話:手放す勇気①

  カチャリ。 金属製のドアノブが回転する音が、耳の奥でひどく大きく響いた。 リビングの出口へと向かう黒いスーツの背中が、ゆっくりと遠ざかろうとしている。 足が、勝手に動いた。 絨毯を擦る鈍い音を立てて駆け寄り、その厚い生地を両手で力任せに掴み取る。「……お嬢、離して」 振り返らずに、低く乾いた声が落ちる。千隼の背中の筋肉が岩のように強張り、私の指先を拒絶するようにわずかに身をよじった。「離さない!」 叫び声が、ペントハウスの広いリビングにビリビリと反響する。 千隼がゆっくりと首だけを向けた。石膏のように蒼白な顔。血の気が完全に失せた唇。すべてを諦めきった瞳。 その顔を見た瞬間、私の中で何かが完全に決壊した。 右手が、スーツの背中から離れる。 空を切って、迷いなく振り抜いた。 パーンッ! 乾いた破裂音が、静まり返った部屋に弾け飛んだ。 手のひらに、じんわりとした痺れと熱が走る。 千隼の顔が、右側に大きく弾かれていた。 時間が止まったかのような静寂。空気清浄機のモーター音だけが、やけに鮮明に聞こえる。 千隼は弾かれた顔の向きのまま、微動だにしない。「……ふざけないで」 声が、震えていた。 視界が急激に歪み、熱い水滴が次々と頬を伝い落ちる。「ふざけないでよ、我妻千隼! あなたが一人で特捜部に行って、一人で罪を被って……それで私が、安全な場所で笑って生きていけると思っているの!?」 千隼がゆっくりと顔を戻す。叩かれた左頬が赤く腫れ上がり、そこに私の手のひらの形がくっきりと浮かんでいた。 大きく見開かれた瞳孔が、小刻みに揺れている。「……お嬢の資産を、これ以上毀損させるわけには……」「資産じゃない!」 私は両手で彼の胸ぐらを掴み、思い切り引き寄せた。 分厚い胸板の奥で、異常な
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第273話:手放す勇気②

 千隼の瞳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がしたような気がした。 死んだように濁っていた黒曜石の瞳に、泥の底から湧き上がるような熱い光が、凄まじい勢いで流れ込んでくる。「……パートナー」 千隼の口から、掠れた音が漏れた。「そうですか。……俺は、捨てられるわけではないのですね」 彼の手が、私の胸ぐらを掴む手にそっと重ねられた。 火傷しそうなほど熱い手のひら。ごつごつとした指の腹が、私の震える指先をゆっくりと解き、そのまま私の両手を自らの胸の中央、激しく鼓動する心臓の真上へと押し当てた。「俺の命を、勝手に終わらせるなと。……お嬢と共に、泥を被って生きろと」「そうよ。……一緒に生きるの。不合理でも、泥臭くても。不来方の盤面なんて、二人でめちゃくちゃに壊してやるのよ」 千隼の口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。 蒼白だった顔に赤みが戻り、頬の平手打ちの痕すらも、狂おしい歓喜の刻印のように見えた。「……御意。俺の女王」 彼が深く息を吸い込む。 そのまま、大きな両腕が私の背中に回り、骨が軋むほどの力で抱き寄せられた。「俺の命は、貴女のものです。……地獄の底まで、共に行きましょう」 耳元で囁かれる声は、重く、甘く、そして決定的な服従の響きを持っていた。 ◇ 夜が白々と明け始めている。 分厚い遮光カーテンの隙間から、薄青い光が絨毯の上に細い線を引いていた。 ダイニングテーブルの上には、複数のタブレット端末と、印刷された図面が乱雑に広げられている。 不来方玄の本邸――白金にある広大な洋館の平面図。そして、周辺の防犯カメラの配置図や、警備会社の巡回ルートを記したデータだ。 私はマグカップに残った冷たいコーヒーを飲み干し、間取り図の一点に赤いペンで丸をつけた。「……やっぱり、おかしいわ」 図面を覗き込む千隼が、
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第274話:手放す勇気③

 私はペンをテーブルに置き、千隼の顔を真っ直ぐに見上げた。「だから、あなたは置いていくわ」 空気が、ピタリと止まった。 千隼の瞳孔が、一瞬にして極限まで収縮する。「……は?」 低い、地を這うような音が彼の唇から漏れた。「お嬢。今、なんと」「あなたには、別のフロント企業――不来方のダミー会社を襲撃してもらう。派手な陽動作戦よ。不来方の私兵の目を、そちらに釘付けにするの」「ふざけるな!」 千隼が、両手でテーブルをバンッと叩いた。 コーヒーカップが跳ね、図面が床に滑り落ちる。「俺を置いて、一人で本邸に乗り込むつもりですか! あんな罠だらけの死地に!」「一人じゃないわ。……観音聖のバックドアを使う」 千隼の顔が、さらに険しく歪んだ。「あいつの……?」「そうよ。昨夜、観音に極秘でメッセージを送ったわ。不来方のシステムに存在する、セキュリティホールの座標をね。……観音も、不来方の裏帳簿を狙っている。私の提供したバックドアを使えば、彼は外部から不来方のシステムに侵入できる」 私は床に落ちた図面を拾い上げ、埃を払う。「システムがダウンすれば、あの物理的な罠も作動しない。その隙に、私が裏帳簿を奪う」 千隼の呼吸が荒くなる。「そんな不確かな作戦で、貴女を一人で行かせるわけにはいきません! もし観音が裏切ったら? もしシステムが落ちなかったら?」 彼が一歩踏み出し、私の両肩を強く掴み込む。 痛い。だが、その痛みよりも、彼から発せられる強烈な焦燥と恐怖が、肌を刺すように伝わってくる。「俺が行きます。罠ごと全部、俺が叩き壊す。だから……」「駄目よ」 私は、肩を掴む彼の手の上に、自分の手を重ねた。「私を信じて、千隼」 彼を見つめる。「私は、あなたにこれ以上、私のせいで血を流させたくないの。……あなたが罠に
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第275話:手放す勇気④

 千隼の荒い呼吸が、頭上から降ってくる。 長い、永遠にも思える沈黙。 やがて。 千隼がゆっくりと膝を折り、私の目の前にしゃがみ込んだ。 私を包み込む彼の手が、小刻みに震えている。「……必ず」 地面の底から響くような声。「必ず、ご無事で。……もし、お嬢の身に何かあれば、俺は観音も、不来方も、この街の人間もすべて道連れにして死にます」 狂気に満ちた、純粋すぎる誓い。「わかったわ。……だから、あなたも無茶はしないで。生きて、私を迎えに来て」 千隼は私の手のひらに深く口づけを落とし、ゆっくりと立ち上がった。 その顔には、もはや迷いはなかった。 己の役割を全うするための、冷徹な猟犬の目。 ◇ 遮光カーテンを少しだけ開ける。 外は完全に白み、雨上がりの東京の空に、薄いピンク色の朝焼けが広がり始めていた。 私はデスクの上のパソコンに向かい、最後に残ったタスクを実行する。 画面には、観音聖の個人回線へと繋がる暗号化されたチャットツールが開かれている。 キーボードの上に指を置き、冷たいプラスチックの感触を確かめた。『不来方邸の地下金庫へのバックドア座標を送信する。 条件は一つ。私が内部に潜入したタイミングで、システムの主電源を落とすこと。 裏帳簿のデータは共有する。 乗るか反るか、五分以内に返答を』 エンターキーを、ターン、と叩く。 データが暗号の海へと吸い込まれていく。 背後で、鞄のジッパーが閉められる音がした。 千隼が出発の準備を終えたのだ。 彼はダミー会社襲撃のための黒いタクティカルジャケットを身に纏い、腰のホルスターに愛用の大型ナイフを滑り込ませる。 振り向くと、彼が真っ直ぐに私を見つめていた。「……行きます」「ええ。気をつけて」 千隼は数歩歩み寄り、私の後頭部に手を添えて、前髪の隙間に
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第276話:毒蜘蛛の糸、魔術師の鋏(前編)①

 地上四十五階。分厚い防弾ガラスの向こう側に広がる東京の夜景は、音を持たない光の明滅としてのみ存在している。 黒鉄ホールディングスの会長室。 極限まで温度を下げられた室内は、埃ひとつ落ちていない無機質な空間だった。空気清浄機が吐き出す微かな風が、ミントと微かなシトラスをブレンドした人工的な香りを部屋の隅々にまで行き渡らせている。 巨大なマホガニーのデスクの中央。 観音聖の白く細い指先が、音の出ない特殊なキーボードの上を滑らかに移動していた。 照明を落とした部屋の中で、三枚並んだ湾曲モニターの青白い光だけが、観音の端正な顔の輪郭を冷ややかに照らし出している。 メインモニターの中央に、暗号化されたチャットツールのウィンドウが浮かび上がっていた。『不来方邸の地下金庫へのバックドア座標を送信する。 条件は一つ。私が内部に潜入したタイミングで、システムの主電源を落とすこと。 裏帳簿のデータは共有する。 乗るか反るか、五分以内に返答を』 文字の羅列の下に、幾重にもロックが掛けられた圧縮ファイルが添付されている。 観音の薄い唇の端が、わずかに持ち上がった。 銀縁眼鏡の奥の瞳が、ディスプレイの光を反射して鋭く細められる。 指先がキーボードのショートカットを叩き、即座に添付ファイルのダウンロードを開始した。同時に、手元で走らせていた自作の解析プログラムのウインドウを前面に呼び出す。 プログレスバーが右端へと伸びていく数秒の間、観音の呼吸は完全に一定のリズムを保っていた。 展開されたフォルダ。 そこには、三次元の座標データと、複雑なコードの羅列、そして別フォルダにまとめられた大量の財務データが格納されていた。 観音はまず、バックドアの座標とコードの構造を目で追った。 不来方の本邸のシステムは、古いながらも物理的に隔離された強固なものだ。外部からの侵入を拒む分厚い壁。それを、この短い時間でどうやってこじ開けたのか。 マウスのホイールを回し、コードの深層へと視線を潜らせていく。 アナログな保守業者のメンテナンス用ポート。そこを起点に、何
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第277話:毒蜘蛛の糸、魔術師の鋏(前編)②

 眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げる。 なるほど。そういうことか。 紅は、単なる二重スパイではなかった。不来方と共謀し、特捜部の捜査の手が及んだ際、すべての不正資金の流れが黒鉄会に行き着くよう、完璧なスケープゴートの罠を張っていたのだ。 不来方は、久遠組を潰した直後、特捜部を使って黒鉄会もろとも社会的に抹殺する腹積もりだった。紅はそれに加担し、最終的に観音を売って逃げる算段をつけていた。 観音は、椅子の背もたれにゆっくりと身体を預けた。 怒りはない。 己の足元に仕掛けられていた毒牙の存在に気づけなかったことへの焦りもない。 ただ、この隠された数式を寸分の狂いもなく暴き出し、目の前に提示してみせた久遠咲良の知力に対する、純粋な感嘆だけがあった。 あの時、紅の挑発に乗って狂犬の過去を突きつけられ、顔面を蒼白にしていた小娘。彼女はあの後、絶望に沈むどころか、冷徹な頭脳をフル稼働させてこの罠の全貌を調べ上げたのだ。「……素晴らしい」 誰もいない部屋で、温度のない呟きが落ちる。 彼女は、確実にこちら側の人間だ。感情に溺れることなく、冷たい数字と論理で世界を俯瞰できる。あの野蛮な狂犬の隣など、彼女には相応しくない。 観音はマウスを操作し、紅の裏切りを示すデータをすべて独自の暗号化フォルダへと隔離した。 カチャリ。 背後で、重厚な扉のノブが回る金属音が響いた。 観音はモニターから視線を外すことなく、手元のタブレット端末へディスプレイの表示を切り替える。 防音の効いた室内へ、廊下の空気が流れ込んでくる。 同時に、無菌室のようなこの空間を力ずくで侵犯する、むせ返るような匂いが鼻腔を突いた。 濃厚なジャスミンの香水。それに混じる、女の体温と、微かな煙管の煙の匂い。 カツッ、カツッ。 硬いヒールの音が、厚い絨毯に吸収されながらも、確実にこちらへ向かって近づいてくる。「遅くまでご苦労様。……少し、お邪魔してもいいかしら?」 鈴を転がすような、甘く、そして自身の価値を疑
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第278話:毒蜘蛛の糸、魔術師の鋏(前編)③

 そのひどく人間臭く、不合理な欲望の塊が、観音の目には極めて滑稽に映った。「……それで?」 観音はタブレットの画面を指先でなぞりながら、淡々と先を促す。「君の個人的な感情の清算の報告を聞くために、僕は時間を割いているわけじゃない」 冷ややかな言葉に、紅の眉がわずかにピクリと動いた。 だが、彼女はすぐに余裕の笑みを作り直し、小さなポーチの中から銀色のUSBメモリを取り出した。 カリン、と。 大理石のデスクの上に、その金属片が放り出される。「もちろん、手ぶらで来たわけじゃないわ。……不来方の連中から、うまく引き出してきた情報よ」 紅は煙管を灰皿に置き、身を乗り出してきた。「不来方が抱え込んでいる、特捜部の内部の協力者リスト。それに、久遠のフロント企業を叩くための、具体的な強制捜査のスケジュールの断片よ。……これがあれば、あのジジイの先手を打って、黒鉄会の被害を最小限に抑えられるはずよ」 得意げな口調。 彼女は、自分が持ってきた情報が、この盤面を左右する決定的な手札であると信じ込んでいる。 観音は視線をUSBメモリに落とし、ゆっくりと手を伸ばしてそれを拾い上げた。 冷たい金属の感触。 親指と人差し指で挟み込み、ノートパソコンのポートへと静かに差し込む。 画面に新しいウインドウがポップアップし、中身のデータが読み込まれていく。 観音はモニターの光を眼鏡に反射させながら、表示されたリストとスケジュール表を一瞥した。 数秒間の沈黙。 空気清浄機の低いモーター音だけが、部屋の空気をかき回している。「……どう? 私の働き、悪くないでしょう?」 紅が、称賛を待つような声で問いかける。 観音はマウスから手を離し、ゆっくりとチェアの背もたれに身体を預けた。 そして、顔の向きを変えずに、眼球だけを動かして紅を見た。「……素晴らしいよ」 温度のない声が、
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第279話:毒蜘蛛の糸、魔術師の鋏(前編)④

 室内の温度が、さらに数度下がったような錯覚。 紅の身体が、微かに震え始めていた。 彼女の目は、完全に捕食者に追い詰められた小動物のように、部屋の出口を探して泳いでいる。「ち、違うわ……私は、そんなつもりじゃ……」 言い訳を口にしようとするが、震える唇からはまともな音が紡げない。 観音は、微動だにせず、ただ静かに彼女の狼狽を観察していた。 怒りも、失望もない。 ただ、計算式に組み込まれていたバグが、予想通りのタイミングでエラーを吐き出したことを確認しているだけの視線。「君の働きは、これまで本当に素晴らしかったよ、紅」 観音の静かな声が、静寂の部屋に響く。「だが、君は『千隼への執着』という過去の感情に囚われすぎた。そのせいで、目の前の盤面全体の動きを見誤り、自分の足元に仕掛けられた毒牙にすら気づけなくなっていた。……感情というノイズは、本当に計算を鈍らせる」 紅が、椅子から立ち上がろうとして、足をもつれさせてデスクに手をついた。 ヒールの金具が床を擦る嫌な音が鳴る。「聖……待って、これは誤解よ……私は、貴方を裏切るつもりなんて……」 彼女の指が、観音のスーツの袖口に伸びる。 観音は、その手を避けることはしなかった。 ただ、彼の瞳の奥の絶対的な冷たさが、紅の指先を空中で凍りつかせた。「誤解かどうかは、もはや問題ではない」 観音は、タブレット端末を手に取り、画面を数回タップした。「君の価値を、もう一度証明してもらう必要がある。……まだ挽回のチャンスはあるよ」 紅の顔に、すがるような光が戻る。「……何でもするわ。聖、言って」「不来方のダミー会社の一つに、彼が特捜部と交わした裏取引の決定的な物証が保管されているという情報がある」 観音は、画面に表示された住所を紅に向けた。
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第280話:毒蜘蛛の糸、魔術師の鋏(後編)①

 雨に濡れたアスファルトが、街灯の光をぬらぬらと反射している。 港区の裏通りにひっそりと建つ、古びた雑居ビル。その入り口に、黒いハイヒールのつま先が降り立った。カツン、と鋭い音が、湿気を帯びた夜の空気に吸い込まれていく。 紅は、真紅のチャイナドレスの裾をわずかに持ち上げ、水たまりを避けるようにしてビルのエントランスへと足を踏み入れた。 むせ返るようなジャスミンの香水が、カビと埃の匂いが染み付いたビルの空気を強引に上書きしていく。 エレベーターホールは薄暗く、天井の蛍光灯が寿命を迎えかけてチカチカと不快な点滅を繰り返していた。壁には剥がれかけたテナントの案内板が掛かっている。 五階。不来方玄がダミー会社として使用している、表向きはしがない貿易会社のオフィス。 紅の赤い唇が、ゆっくりと弧を描いた。 観音聖から指定された場所。ここで、不来方が特捜部と交わした裏取引の決定的な物証を回収すれば、彼女の価値は再び証明される。 エレベーターの呼び出しボタンを、細い指先で押し込む。 ウィーン、という古びたモーター音とともに、鉄の箱が降りてくるのを待ちながら、紅はコンパクトミラーを取り出してルージュの乱れを直した。 鏡の中に映る自分の顔は、完璧な美しさを保っている。 あの小娘――久遠咲良の、青ざめて震えていた顔を思い出す。 千隼の過去を突きつけられた時の、あの無防備で滑稽な絶望の表情。自分が完全に手懐けたと思っていた猛獣が、実は自分の全く知らない血と泥の歴史を持ち、別の女と匂いを共有していたという事実を突きつけられた時の、あの屈辱にまみれた目。「……本当に、世間知らずのお嬢様ね」 コンパクトを閉じ、小さなポーチにしまう。 千隼は、あんな清潔なガラスの箱の中では息ができない。彼は、血の匂いと裏切りのスリルが渦巻く、この泥水のような世界でこそ輝く生き物だ。 いずれ、あの小娘の重圧に耐えかねて、千隼は必ず私のところへ戻ってくる。私たちには、同じスラムのドブ泥の匂いが染み付いているのだから。 チーン、というくぐもった音とともに、エレベーターの扉が開いた。
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