忘却の恋、覚醒の裏切り のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

23 チャプター

第1話

「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側に座り、手入れの行き届いた顔に隠しきれない軽蔑を浮かべていた。以前の花音であれば、目を真っ赤にして「お金のために彼と一緒にいるのではありません」と反論していただろう。しかし今の彼女は、ただ静かに頷くだけだった。「分かりました」裕子は明らかに呆気に取られた様子だったが、すぐに冷笑を浮かべた。「身の程を知っているようで安心したわ」裕子は「身の程」という言葉を、まるで花音と高橋碧斗(たかはし あおと)との間にある絶望的な格差を強調するかのように言い放った。花音は視線を落として黙り込み、その小切手を受け取ると、そのまま背を向けて立ち去った。邸宅に戻った頃には、すでに日はとっぷりと暮れていた。ここはあまりに広すぎて、彼女は今でも時折迷子になりそうになる。唯一見慣れているのは、リビングのテーブルにある写真だけだった。写真の中の碧斗は彼女の腰を愛おしそうに引き寄せ、真冬の雪さえ溶かしてしまいそうなほど、甘く優しい眼差しを彼女に向けていた。花音はそっと写真に触れ、三年前の雨の夜を思い出した。あの年、路地の入り口で血まみれになって意識が朦朧としている碧斗を拾った。「あなたは誰?」と彼女が尋ねる。「俺……分からないんだ」彼は茫然と首を振り、雨水が血の混じった雫となって髪から滴り落ちていた。そうして、彼女は記憶を失ったこの男を自宅へと連れ帰った。わずか十平米の古びたアパートに、二人で身を寄せ合った。壁の塗装はボロボロと剥げ落ち、水道は水漏れが絶えず、冬は三枚の布団を被らなければ眠れないほど寒かった。しかし、そんな最も貧しい場所で、最も純粋な愛が育まれた。肩を寄せ合うようにして生きる日々のなかで、いつしか互いの存在だけが、この世界のすべてになっていた。碧斗は花音が残業のとき、会社の前で三時間も待ち、彼女を迎えに行った。生理痛で冷や汗を流す夜は、一晩中眠らずに彼女のお腹をさすってくれた。彼女が三回も見つめては諦めた高価なネックレスを買うために、内緒で一日五つのバイトを掛け持ちしたこともあった。唯一、彼女が困り果てていたのは、彼が夜ごと熱烈に睦み合いをせがんでくることだった。
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第2話

花音は独り、家路についた。帰宅後、リビングで救急箱を引っ張り出すと、自分で消毒と薬を塗り、包帯を巻いた。傷口から這い上がるような細かな疼きが、絶え間なく神経を蝕んでいく。二階へ上がろうとしたとき、リビングの隅にあるグランドピアノがふと目に留まった。記憶を取り戻したばかりの碧斗が、「ピアノを教えてあげる」と言って買い与えてくれたものだった。しかし、それから随分と時が流れた今、ピアノの蓋には厚い埃が積もっている。それは、とうの昔に埃を被り、輝きを失ってしまった二人の愛そのものだった。目頭が熱くなるのを堪え、花音は部屋に入って荷造りを始めた。服、身分証明書、クレジットカード……一つ一つ整理するその手つきは、過去の自分に別れを告げるかのように、ひどく緩慢だった。整理が半分ほど済んだとき、突然ドアが開いた。碧斗が入り口に立っていた。ジャケットを腕にかけ、ネクタイは少し緩んでいる。広げられたスーツケースを見て、彼は不快そうに眉を寄せた。「何をしているんだ?」「荷物をまとめているの」花音は低く伏せたままで答え、手を止めずに服を畳んだ。眉を寄せた彼が近づくにつれ、鼻先を掠めたのは、今日一日中、彩葉が纏っていたあの甘い香水の香りだった。彼は花音の手首を掴んだ。その力は、彼女が痛みで顔をしかめるほどに強い。「今日、彩葉と食事をしたのがそんなに気に入らないのか?だからって家出の真似事か。向こうは怪我をさせられたのに、お前を責めることもしなかった。それなのに、自分のほうが先にへそを曲げるとはな」花音が顔を上げると、そこには隠しようのない苛立ちを浮かべた碧斗の瞳があった。「高橋家と白鳥家は代々、深い付き合いがあるんだ。帰国したばかりの彼女を支えてやってくれと、両親からも頼まれている。少しは聞き分けを良くしたらどうだ?」聞き分け。その言葉が鋭い刃となって花音の心臓を抉る。彼女は掌の中の衣類を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめた。これ以上ないほど聞き分けよく、静かに身を引こうとしている自分に、まだ何を望むというのだろう。「何か言え!」碧斗が不意に声を荒らげた。花音は黙って背を向け、荷造りを続けた。その頑なな沈黙が、碧斗の苛立ちを爆発させた。「いいだろう。いつまでそんな子供じみた真似が続けられるか、試
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第3話

スタッフがうやうやしく差し出したそのネックレスを、花音は呆然と見つめることしかできなかった。彩葉が満足げに目を細め、それを受け取ろうと手を伸ばす。指先が箱の縁に触れた、その瞬間だった。「あらっ!」短い悲鳴と共に、ネックレスが箱から滑り落ちた。硬い大理石の床に叩きつけられたクリスタルネックレスは、パリンッという乾いた音を立てて無惨に砕け散った。一瞬、花音の呼吸が止まった。耳の奥では、破片が飛び散る鋭い音だけが反響している。頭の中が真っ白になり、彼女は本能のままに突き動かされるように駆け寄った。彩葉を突き飛ばすようにして退けると、震える手で地面の破片を拾い集める。碧斗の顔色が瞬時に険しくなった。よろめいた彩葉を抱きとめ、花音へ向ける視線には刺すような冷たさが宿っている。「花音、一体何の真似だ!」花音は血走った目で彼を見上げ、声を震わせた。「何の真似……?これは、おばあちゃんの形見なのよ!あなた、以前にはっきり言ったじゃない。いつか必ず、買い戻してあげるって……なのに、そんなことさえ、もう覚えていないの?」碧斗は一瞬、何かに触れたかのように呆然としていた。しかし、すぐにその瞳から微かな揺らぎは消え去り、冷ややかな色に塗りつぶされた。「そんな昔のことを、いちいち覚えているわけがないだろう」彼は不快感を隠そうともせず、さらに言葉を重ねる。「それに、彩葉に悪気はなかった。それをお前は、わざわざ突き飛ばすなんて。いつからそんなに狭量な女になったんだ」「ごめんなさい……私の不注意のせいで……」彩葉は瞳を潤ませ、消え入りそうな声で彼の袖を掴んだ。碧斗はわずかに眉を寄せ、彩葉の涙を指先で拭ってやった。その声は驚くほど優しく、慈しむような響きを湛えていた。「君のせいじゃない。気にするな」そして、彼は花音に冷ややかな一瞥を投げ、有無を言わせぬ口調で告げた。「このネックレスは俺が修理に出す。お前も、これ以上見苦しい真似はやめろ」そう言い残すと、彼は彩葉の肩を抱き寄せ、ネックレスを手に取った。そして、一度として振り返ることなく、その場を立ち去った。花音はその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見つめていた。心臓の一部を無理やり抉り取られたような、息もできないほどの激痛が彼女を襲う。オークションが終わる頃、外は冷たい雨が降り始めていた。
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第4話

出発を前に余計な波風を立てたくはなかった。これ以上、彼に異常を悟られ、不測の事態が起きるのを避けるため、花音は数秒の沈黙の後、感情を押し殺して小さく頷いた。それから、ズキズキと疼く足首を無理やり叱咤し、クローゼットの中から会食に相応しい一着を選び出した。三十分後、二人は目的地に到着した。煌々と明かりが灯る高橋家の邸宅。碧斗の背を追うようにして足を踏み入れると、真っ先に視界に入ってきたのは、ソファに腰掛ける彩葉の姿だった。彼女は一目で上質と分かる気品溢れるツイードのセットアップを品よく着こなし、裕子と親しげに談笑している。傍らでは碧斗の父の高橋宗一郎(たかはし そういちろう)も満足げに頷いており、そこにはまるで絵に描いたような「睦まじい家族」の光景が広がっていた。「碧斗、来たわね!」裕子が相好を崩して駆け寄ってきたが、花音の存在など最初からそこになかったかのように無視し、碧斗の腕を取った。「彩葉が、ずっと待っていたのよ」碧斗はふと無意識に背後の花音を振り返った。彼は、彼女が傷ついた表情を見せるか、あるいは悲しみを堪える様子を見せるだろうと思っていた。しかし、花音はただ淡々とそこに佇んでいるだけだった。まるで、この場のすべてが自分とは無関係であるかのように。「花音さんもいらしたの?」彩葉がわざとらしく驚いて見せ、それから慈しむような微笑みを浮かべた。「どうぞ座って。遠慮しないでね」裕子がようやく花音を一瞥し、冷淡な声を放った。「来たからには、粗相のないようにしなさい。泥を塗るような真似は許さないわよ」花音は何も答えず、ただ黙って頭を下げた。ディナーの席で、裕子と彩葉は令嬢界隈の社交話に花を咲かせ、宗一郎と碧斗は会社のプロジェクトについて議論を交わしていた。花音に言葉をかける者は、一人としていなかった。彼女はまるで透明人間にでもなったかのように、目の前の料理を静かに口に運ぶ。その耳には、裕子の嘲笑が容赦なく突き刺さっていた。「やはり、家柄の釣り合いというのは何より大切ね。身の程を知らない女の子というのは、見ていて痛々しいわ。彩葉と碧斗は幼馴染だもの、気心も知れているし、これほどお似合いの二人はいないわね」そんな言葉は、もう耳にタコができるほど聞かされてきた。かつての碧斗なら、冷ややかな顔で裕子の言葉を
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第5話

花音は伏せ目がちに、嘘を吐いた。「裕子さんが見舞いに来てくださったの。私はもう大丈夫だから、先にお帰りくださいと伝えたところよ」裕子がこれに合わせ、わざとらしく数言の気遣いを見せてから、用事があると言い置いて病室を去った。部屋には、花音と碧斗だけが残された。「あの時は……」碧斗がベッド脇まで歩み寄る。その声は掠れた。「事故があまりに突然で、咄嗟に反応できなかったんだ」花音は短く「分かってる。気にしていないわ」と答えた。碧斗は不意を突かれたように固まった。「……怒っていないのか?」「ええ、怒っていない」碧斗は彼女の瞳をじっと見つめ、そこに隠されたはずの恨みや悲しみの欠片を探そうとした。しかし、彼女の眼差しは凪のように静まり返り、まるで死んだ淵のように冷めていた。彼は急に苛立ちに駆られ、彼女の頬に触れようと手を伸ばした。「そんな態度を取るな。俺は……」「本当に怒っていないの」花音は顔を背けてその手を避け、静かだが拒絶の滲むトーンで告げた。「休みたいの。彩葉も怪我をしたのでしょう?彼女のそばにいてあげて」そう言い終えると、彼女は瞳を閉じ、彼に背を向けた。ベッドの傍らで、碧斗が長い間自分を見つめている気配がした。やがて、重苦しい沈黙の後にドアが閉まる音が響いた。それからの数日間、碧斗は毎日花音の病室を訪れた。彼はベッド脇で書類を片付け、時折「痛みはないか」と問いかけたが、花音は首を振るだけだった。けれど、彼女が眠りから覚める時、傍らに彼の姿があることは一度もなかった。聞こえてくるのは、看護師たちの潜めるような噂話だけだ。「隣のVIP病室にいる白鳥さんの恋人、本当に素敵ね。一晩中付き添っているそうよ」「高橋グループの御曹司なんだって。あんなに格好いいのに、一途なのね」花音は聞こえないふりをして、そっと目を閉じた。退院の日、碧斗は自ら車を運転して迎えに来た。花音はまだ完治していない足首をかばいながら、ゆっくりと車まで歩いた。しかし、車のドアを開けようとした瞬間、彼女の動きがピッタリと止まった。助手席には、すでに彩葉が座っていた。「花音さん、ついでに送ってもらうこと、気にしないでね。私、車に酔いやすくて……助手席しか座れないの」彩葉は微笑みを向けた。碧斗は眉をひそめ、何か言い訳をしようとしたが
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第6話

そんな折、宴の主催者からある余興が提案された。恋人同士がステージでピアノを合奏し、最も優れた演奏を披露した者に、景品として稀少なジュエリーが贈られるという。「あのジュエリー、本当に素敵……」彩葉の瞳が輝き、碧斗の袖を引いて甘えるようにねだった。「ねえ碧斗、もうすぐ私の誕生日でしょう?お祝いに、あなたと花音さんで、私のためにあのジュエリーを勝ち取ってくれないかしら?」周囲の令嬢たちが、追い打ちをかけるように笑い声を上げた。「彩葉、それは無茶よ。外国語さえ覚束ない彼女に、上流階級の嗜みであるピアノなんて弾けるはずがないもの」「いっそのこと、彩葉と碧斗さんで演奏なさったらどうかしら?」ある人がこう提案した。彩葉は困ったように碧斗の顔を覗き込んだ。「……碧斗、いいかしら?」碧斗は淡々と頷いた。「いいだろう」「それじゃあ、碧斗を少しの間だけお借りするわね」彩葉は勝ち誇ったように花音を一瞥すると、碧斗と共にステージへと上がった。旋律が流れ出した瞬間、会場は静寂に包まれた。彩葉の指先が鍵盤の上を軽やかに跳ね、碧斗がそれに完璧な呼吸で合わせていく。その姿は、誰もが認めざるを得ないほど完璧な似合いの二人だった。会場が感嘆に包まれる中、独りステージの下に取り残された花音は、彩葉の友人たちに幾重にも取り囲まれていた。「見た?花音さん。あれが本当のパートナーというものよ。外国語も満足に話せず、ピアノの旋律一つ奏でられないような育ちの悪い小娘が、高橋家の御曹司に相応しいとでも思っているの?少しでも弁えがあるなら、さっさと自分から消えなさいな。以前は西側のスラムのような掃き溜めに住んでいたんだってね。あんな場所に人が住めるなんて驚きだわ。道理で、いくら着飾っても貧乏臭さが消えないわけね。貧乏女が玉の輿にでも乗って、人生一発逆転でも狙ってるつもり?惨めなだけだから、これ以上恥をさらすのはやめなさいよ」卑俗な嘲笑が、逃げ場のない矢となって花音の耳を貫く。花音は裾を握りしめ、その場を離れようと背を向けた。だがその瞬間、誰かがわざと出した足に引っかかり、彼女は無様に床へと倒れ込んだ。鈍い衝撃と共に、鋭い激痛が体中を駆け巡る。痛みに呻き、息を整える暇もなかった。鮮やかな真紅のヒールが花音の手首を、無慈悲に踏み抜いた。「あら、ごめ
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第7話

花音は唇を強く噛みしめた。これほどまでの苦しみを、ただ彩葉のメンツを守るためだけに、黙って飲み込めというのか。「……私は、絶対に警察を呼ぶわ」碧斗は沈黙し、不意に小切手を取り出した。「どうしても責任を追及したいというのなら、俺が彼らの代わりに賠償する」静まり返った病室に、小切手を走るペン先のさらさらという乾いた音だけが響く。その一払いごとに、花音の心は鋭利な刃で薄く削り取られていくような、耐えがたい苦痛に苛まれていた。最初の数字が書き込まれたとき、彼女は唇を千切れるほど噛みしめた。じわりと鉄のような血の味が口の中に広がっていく。彼女が受け取ろうとしないのを見て、金額が足りないと思ったのか、彼はその紙を破り捨て、再び新しい数字を書き込んだ。一度、二度、三度……小切手の金額は跳ね上がっていく。「二十億円」と書かれた小切手が目の前に差し出されたとき、花音の脳裏には三年前の雨の夜が蘇っていた。十平米にも満たない安アパートで、深夜三時まで残業を終え、帰宅した碧斗は、ずぶ濡れの体のまま、愛おしげに花音を抱き寄せた。「なあ花音。俺、絶対に二十億円稼いでみせるよ。そうしたら、お前には二度と苦労なんてさせないから」誓いは果たされた。……けれど、こんな最悪な形で。彼は今、ためらいもなく二十億円を差し出している。自分をハイヒールで踏みにじった連中を、見逃してやるための代償として。「二十億円だ。これでいいだろう?」再び差し出された小切手を、花音は震える手で受け取った。そして、突然笑いが込み上げた。笑いながら、涙がこぼれ落ちる。涙は小切手の上で、書き立ての墨を無残に滲ませていく。「……ええ、十分だわ」かすれた声は、自分の声ではないように響いた。「碧斗。……あなたのあの時の約束、ようやく果たされたわね」碧斗はわずかに眉をひそめ、彼女が何を言っているのか理解できないという顔をした。分かるはずもない。あの狭苦しいアパートで彼女を慈しむように抱きしめ、「二十億円稼いで幸せにする」と誓ったあの頃の碧斗は、とっくの昔に死に絶えていた。跡形もなく、微かな面影すら残さずに。あの日以来、碧斗が病院に顔を出すことはなかった。だが、毎日午前十時になると、彼の秘書が決まって病室のドアを叩いた。その手には、いつも洗練された包装紙に
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第8話

同じ頃、別の場所では。舞台上では音楽と演技が完璧な調和を見せていたが、碧斗の心には、得体の知れない不安がつきまとっていた。理由のない動揺が碧斗の心をかき乱す。何かが自分の支配から永遠に離れていくような、嫌な予感が拭えなかった。一本のミュージカルが終わるまで、彼は完全に上の空だった。どんな内容だったかさえ記憶にない。脳裏では、早く帰れと急かす声が鳴り響いていた。碧斗は終演と同時に、無意識に席を立った。その唐突な動きに、隣にいた彩葉は呆然とした。そのまま出口へ向かう彼の背中を、彩葉も慌てて追いかける。「碧斗、ねえ碧斗!どうしたの。これが気に入らなかったかしら?」背後から届く彼女の声に、碧斗は足を止め、一度だけ振り返った。だが、結局は首を振るに留めた。「いや。急に用件を思い出しただけだ。車を手配させるから、君はそれで帰ってくれ」それだけ言い残すと、碧斗は彩葉の呼びかけを無視して、迷うことなくその場を去った。彩葉は、何が彼の不興を買ったのか分からず、不満げに唇を尖らせた。だが、先ほどの彼の言葉を思い出し、さほど気にする様子もなく鼻を鳴らす。仮に彼が本気で腹を立てていたとしても、それがどうしたというのだろう。政略結婚の話はとうに固まっており、家同士の強固な提携がある以上、今さら予定が狂うような不測の事態など起こり得ないのだ。碧斗自身、自分がどうしてしまったのか分からなかった。邸宅の前に辿り着き、門前に立ち尽くしたその時でさえ、自分の行動に意識が追いつかず、ただ呆然とするばかりだった。玄関の扉を押し開け、中に入ると無意識にあの名を呼ぶ。「花音」しかし、どれほど待っても返事はない。碧斗はそこで、花音が自分の呼びかけに答えなくなってから、すでに随分と時間が経っていることを思い出した。それは、いつからだったか。あの日、彩葉との密会を写した写真を見つけ、涙ながらに説明を求めた花音を、自分が煩わしそうに突き放した時からだ。自分は写真をゴミ箱へ放り込み、無関心を装ってそう言った。「ビジネスの話だと言っただろう。根も葉もない噂を、いつまで蒸し返すつもりだ?」碧斗はその時の花音の反応を思い出せない。ただ覚えているのは、あの日を境に彼女が目に見えて口数を減らし、まるで心の鍵を閉ざしてしまったかのように、自分から遠ざかって
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第9話

裕子の声が絶え間なく響くが、碧斗は何も聞こえていないかのように、完全に自分の世界に閉じこもっていた。「碧斗、聞いているの?私と話しなさい」碧斗の様子がおかしいことに気づいた裕子は、その目の前で手を振った。だが碧斗は依然として何の反応も見せず、ただ一つの名前をうわ言のように繰り返している。「花音、花音……」花音という名が耳に入ると、裕子は不快そうに眉をひそめ、その瞳に侮蔑の色を浮かべた。家柄も何もない貧しい娘が、碧斗の記憶喪失に乗じて高橋家という「巨大な寄る辺」を掴み、分不相応な上流階級に潜り込んだに過ぎない。だが、その身に染み付いた卑しさは、高級なブランド物を纏ったところで隠しきれるものではなかった。彼女と碧斗では住む世界が違う。幸い、彼女には多少の自覚があったようで、碧斗に執着し続けることはなかった。そこまで考えが至ると、裕子は荒れ果てたリビングを見渡し、それからタイミングを計算した。何かに気づいたように眉を上げると、碧斗を見るその目には、どこか満足げな色が浮かんだ。「彼女、出て行ったのね?案外物分かりがいいじゃない。消えてくれて正解だわ。家に戻ったら早速、白鳥家と婚期の相談をしましょう」だが、その言葉が碧斗の神経を逆撫でした。碧斗の顔色は一変する。「……いや、あり得ない。彼女が俺を捨てるはずがない。あんなに……」あんなに、俺を愛していたのに……碧斗が頑なに否定するのを見て、裕子は鼻で笑った。「何があり得ないものか。彼女、渡した10億円を迷うことなく受け取って出て行ったわよ」10億円。碧斗はその数字に過敏に反応し、弾かれたように顔を上げて裕子を凝視した。その声には信じられないという色が混じっている。「何を……言っているんだ。何が10億円だ!」裕子は一瞬言葉を詰まらせ、その目に後悔の色がよぎったが、すぐに冷静さを取り戻した。以前は碧斗に隠していたが、それは彼が花音と別れるのを嫌がることを懸念したからだ。しかし、花音がすでに去った今、真実を知ったところで何も変わりはしない。むしろ、彼女の正体を知ることで碧斗も目を覚ますだろう。結局、金に目がない女だったのだ。花音が金のために残っていたと知れば、碧斗も未練を断ち切るに違いない。そう考えた裕子は、一週間前に起きたことを包み隠さず打ち明けた。「一週間
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第10話

閉め切られた門扉や窓が全ての光を遮断し、目の前は一寸先も見えないほど真っ暗だった。枕元に放り出されたスマホの着信音が、鋭く静寂を切り裂く。碧斗は電話に出る気力さえ湧かず、画面に一瞥をくれることすらなかった。しかし、相手も引く気はないようだった。出ないなら出るまでと言わんばかりに、執拗に着信音が鳴り続ける。長い膠着状態の末、最後に折れたのは碧斗だった。眉をひそめてスマホを手に取る。画面に表示された「彩葉」という名を見た瞬間、心の中にどす黒い苛立ちが込み上げた。彼は一切の躊躇なく拒絶ボタンを押し、そのまま着信拒否リストにその番号を放り込んだ。ようやく部屋に静寂が戻り、碧斗は小さく息を吐いた。だが、それも束の間、今度は知らない番号から着信が入った。碧斗は推測するまでもなく、それが彩葉であることを確信した。迷うことなく着信を拒否し、ブロックする。一連の動作は淀みなく、冷淡だった。彼は吸い込まれるような柔らかいベッドに横たわり、天井をぼんやりと見つめた。花音の笑顔が、何度も、何度も脳裏をよぎる。これまで気づきもしなかった。彼女という存在が、自分の心の中でこれほどまでに大きな場所を占めていたなんて。しかし、その感傷に浸る時間は長くは続かなかった。彩葉が邸宅に乗り込んできたからだ。「碧斗、どういうつもりなの?」彩葉は遠慮なくドアを押し開け、怒りと悲しみの混じった瞳で彼を射抜いた。彼女は自ら望んで高橋家との縁談を受けた。白鳥家と高橋家の結びつきは、彩葉にとって多大な利益をもたらすものだったからだ。碧斗は容姿端麗で、家柄も釣り合う。最初に出会った時の彼は、紳士的で礼儀正しかった。不満があるとすれば、彼が記憶を失っていた時期に作っていた恋人を、そのまま傍に置き続けていたことくらいだ。だが、裕子がいずれあの女を追い出すと言っていたし、彼自身も自分を優先しているように見えたため、彩葉はさほど気に留めていなかった。それが昨日、彼が帰宅した途端に連絡が途絶えた。メッセージも無視、電話にも出ない。あちこち探りを入れてようやく、花音が独りで黙って去ったことを知った。彩葉は、彼がそんなことを気にするはずがないと思っていた。これまでの彼の振る舞いを見ていても、花音を大切に思っているようには到底見えなかったからだ。それな
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