All Chapters of 闇堕ちしたエリート医師は一途に禁断の果実を希う: Chapter 41 - Chapter 50

56 Chapters

chapter,2 + 25 +

 くすくす笑う加藤木を不気味そうに見つめながら、陸奥は呟く。   「……守秘義務」 「露見なきゃいいのです」 「いやダメだろそれ」 「えー。だけど陸奥先生こそ気にならないんですか? 亜桜家の裏稼業」 「早咲が言ってたな……雪之丞の娘は“担保”だっていうあれか?」 「ひどいですねぇ、担保だなんて。だけど桜庭家が彼女を見捨てる決断をしたというなら、彼女の身柄も当然亜桜家のものになりますからねぇ。雪之丞は彼女を生かして利用したかったみたいだけど……」 生かして、という言葉の重さに陸奥は言葉を詰まらせる。  亜桜小手毬の両親に何度も懇願された「お金ならいくらでも出す」の滑稽さ。  彼女はなぜそこまでして生かされたのか? そして記憶を取り戻した彼女が「死にたがり」だという意味は?  苦悩する陸奥を面白そうに見上げて加藤木はさらりと告げる。「雪之丞が先に死んじゃったから、計画は頓挫。桜庭蘭子は賢いわ~。得体のしれない隠し子を見捨てることで亜桜家の裏稼業からもすっぱり足を洗ったんですもの」 「だからその裏稼業って」 「しー。下手すると殺されますよぉ。リハビリ室の扉、開いたままになってるんだから」 「……殺されるとは尋常じゃないな」 「何を今更。早咲先生はそれが怖くて脱落したようなもんですよ。あとをキミに押し付けて、ね」 「は?」 俺は何も聞かされてないぞ? と首を傾げれば、加藤木は素直にそうでしょうねと微笑む。  早咲が亜桜小手毬の主治医から退いたのは、加害者の女性と恋仲になったから。  けれどその裏側には、陸奥にも言えないほんとうの理由が隠されていた? 怪訝そうな表情の陸奥を見て、加藤木は言葉を続ける。どこか面白がっているようにも見えて癪に障る。   「早咲先生のことだから、陸奥先生なら大丈夫だろう、って思ったんでしょうね。見事に策に嵌ってますし。見ていて飽きないわ本当に」 「だから何だよそれ」 「あら珍しい。陸奥先生のお怒りの表情、なかなかカッコいいじゃない」 「話、を、そらすな!」 顔を真っ赤にして怒鳴りつければ、ごめんごめんと真顔に戻り、加藤木は声を落とす。   「患者として彼女を救うことは簡単だけど、それは真の意味での救いにはならない、ってこと」 「……救い?」 「そ。諸見里くんはどんな道を選ぶかねぇ~」
Read more

chapter,2 + 26 +

「あら、赤根センセ。珍しいですね~、こんなところまで」  けれど加藤木は気づいていた。  そしてあえて楢篠天のことを赤根、と口にする。   「――どこまで知っている?」 凛とした佇まいの美人医師は単刀直入に問いかける。  加藤木はへらへらした笑みを浮かべながら、媚びるように言葉を紡ぐ。   「えぇ~。貴女に告げたところでメリットがないですよぉ」 「何を望んでる」 「話が早くて助かるわぁ」 ばさりと言い捨てる天に、加藤木がにやりと笑う。     「諸見里自由の母親について。かつて家庭教師をされていた赤根センセならご存じですよね?」 「それを知ってどうする?」 「そうですねぇ、貴女の復讐を手助けしてあげてもいいですよ?」  復讐、と口にする加藤木を見て、天はきゃははとふだんとは似ても似つかない甲高い声をあげる。  その場違いな声を耳底に落としながら、加藤木は告げる。     「……赤根家と訣別したのは事実みたいですねぇ」 「そんなのとっくよ。こそこそ何を嗅ぎまわっているのかと思えば、今更コデマリの身辺調査?」 「みたいなものですね。蘭子が眉唾物よと口にしてましたよ。あんなのが“:諸神(もろがみ)”の“女神”が産み落とした“器”だなんて、って」「――ときどき貴女の情報収集能力が恐ろしくなるわ」「それは光栄です」 「ほめてないぞ」 「前世は:密偵(スパイ)でもしてたんじゃないかと自分でも思うのです。医師探偵加藤木羚子ってかっこよくないですかぁ?」 「……前言撤回。陸奥先生と同期の人間ってどいつもこいつも癖がありすぎ」 「光栄です」 「だからほめてないって」  呆れる天を前に加藤木はにこにこしている。  彼女がどういう立場の人間か理解できない天は、怪訝そうに彼女を見据える。  視線を交錯させながら、加藤木は天の前で表情を改める。  「……それじゃあ、楢篠先生は、誰の味方なんですか」 「誰の味方でもないわ」  もう赤根の家とも断絶したし、桜庭財閥や亜桜家のごたごたにつきあう筋合いもない。  けれど赤根天という人間だった頃、彼女は過ちを犯している。自由と小手毬の仲に亀裂を入れるという過ちを。  だからいまは、贖罪の意味も込めて、見守る立場を貫こうとしているのだ。  加藤木からすればそれ自体が復讐なの
Read more

chapter,2 + 27 +

   * * *    「医療チームの外部派遣?」 「茜里第二病院に当院の麻酔科医陸奥、整形外科医加藤木のふたりを派遣する」 それは上からの突然の辞令だった。  理事長室に呼び出された陸奥と加藤木は互いに顔を見合わせ、どういうことだと首を傾げる。  地域医療センターの理事長、白井はふたりの反応を気にすることなく話をつづける。   「入院中の亜桜小手毬の治療についてだが、精神科領域の専門家が少ない当院では限界がある」 「……転院、ですか」 ダークオークの書棚に囲まれた理事長室で、机の向かいで悠々と座る白髪の老人を前に陸奥は渋々口を開く。  小手毬の病態変化とともに転院の可能性については考えていた。けれど、陸奥は彼女をほかの医師に任せる未来が想像できないまま、今日まで来てしまった。  白井は陸奥の無表情を一瞥し、そうだ、と応える。   「先方も快く患者を受け入れてくれるという。ただ、当院から彼女の治療に関わっている医師を派遣するよう要請が来た」 「それで、わたしと陸奥先生なのですね」 ふむふむ、と興味深そうに頷く加藤木を訝しげに見つめる陸奥。  面白いことになりましたねぇ、と好奇心旺盛な双眸が陸奥を射る。  それでも陸奥の表情は変わらない。   「亜桜氏からの了承も得ている。君たちふたりの当院での業務だが、しばらくは茜里の医師が引き継ぐ形になる。陸奥には引き続き亜桜小手毬の専属主治医としてペインクリニックを中心とした治療に専念してもらう」 「では、わたしは? リハビリテーションだけなら茜里にもスタッフがいらっしゃると思うのですが」 「こう言ってはなんだが陸奥の監視役だ。万が一のことがないよう患者と親しい女医も一名欲しいと言われてね……君たちは同期だし、うまくやっていくだろうと判断したわけだ」 「そうですかー」 加藤木は納得のいかない表情を浮かべているが、それは陸奥とて同じである。 ――万が一のこと、って何だ? 万が一って? 俺が患者に手を出すとでも? 病院側からすれば、早咲が担当患者の加害者と恋仲になって妊娠を機に結婚した件について釘を刺しているだけなのだろうが、不本意ながら既に小手毬にキスしてしまった手前、反論もできないまま陸奥は心のなかでもじもじと葛藤してしまう。  そんな陸奥の様子に気づかぬまま、
Read more

chapter,2 + 28 +

   * * *       「誰の差し金だと思いますかぁ?」 理事長室を辞した直後、加藤木が小声で陸奥に問えば、陸奥はつまらなそうに応える。「知るか」 「茜里総合病院って医療法人:廻庭(かいば)会のグループ傘下ですよねぇ。桜庭財閥から借金して病院建てて大儲けした」 「……また桜庭財閥か」 「いえ。財閥は既に病院事業から手を引いていますよ。ただ、彼女の身柄をそちらに移したい何者かが接触を図ったのでしょう。白井理事長も亜桜小手毬が自傷行為をしたのを知って、転院の件を打診したみたいですから」 「ならばなぜ俺と加藤木が派遣される?」 「彼女の精神状態を悪化させないためでしょうねぇ。茜里第二って、第一の外科内科病院と違って精神科一色の特殊病院ですから。いきなり見ず知らずの場所に放り込まれた彼女を驚かせないためにも陸奥先生とわたしが必要だと先方が要請したのでしょう……たぶん」 「ふん」 加藤木の話に耳を傾けつつ、陸奥は小手毬の病室へ歩みを進めていく。「あと――敵は諸見里自由と亜桜小手毬を引き離したいんだと思いますよぉ」 「は?」 自由と小手毬を引き離す、と口にした加藤木の表情は硬い。  それよりも彼女はいま、さりげなく“敵”と言わなかったか?「加藤木、お前……」 けれども陸奥が声をかけるよりも先に、加藤木は小手毬の部屋の扉を勢いよく開いていた。  病室で待機していた看護師の楢篠がぎょっとした表情で加藤木と陸奥を見つめている。  小手毬はすぅすぅと気持ちよさそうに眠っている。     「加藤木先生? え?」 「楢篠。すまないが車椅子の確認を頼む」 「――はっ!」  何事かと慌てふためく楢篠に命令した陸奥は、病室内の数少ない荷物を集め、眠りつづける小手毬の傍へ置く。  着替えが入った鞄、棚の上に置きっぱなしの文庫本にのど飴、枕元に置かれている優璃が作ってくれたドライフラワーのポプリ……  バタバタ動き回っていたからか、気づけば小手毬がとろんとした瞳を開いて陸奥と加藤木を見上げていた。 「ミチノク? カトーギ? 何してんの?」  夢うつつの表情の小手毬に、加藤木があらお目覚めねとふわふわの髪をそっと撫でる。小手毬もまんざらではない様子で加藤木のポニーテールに手を伸ばし、きゅっと握りしめながら甘く囁く。   「ごめんね
Read more

閑話 Love Anesthesia ~ i f ~ (1)

これは、本編とは異なる世界線で繰りひろげられたかもしれない物語。設定上本編とはリンクしておりませんのでご了承ください(とはいえ一部ネタバレ注意?)。 幼い小手毬視点で物語が進みます。彼女に手を焼くミチノクにご注目ください。   * * * * * 失恋の痛みをなくすお薬をください。  ずっと、ずぅっと暖めていた大切な気持ちを全部、なかったことにできるような。  綺麗過ぎて触ることさえ躊躇われた硝子の造花のように、脆くて結局手を滑らせただけで割れて、砕けて、壊れてしまった恋心を、一瞬で消してしまえるような。  彼方と出逢った事実を記憶の外に追いやって、何事もなかったように今日もいい一日でありますようにと太陽に拝めるように。    * * * 「そんな薬、あるわけないだろ」 あっさり却下された。「……ないの?」 ミチノクなら、絶対持っていると、そう思ったのに。「お前、中学は?」 留年してやりなおしているあたしに意地悪そうに中学、という単語に力をこめるミチノク。あたしは負けるもんかと言い返す。「今日から試験休み」 中間試験が終わって三日間だけお休みになったことを話すと、ミチノクは両肩を竦めて、あたしを睨みつける。「……用がないなら帰れ。こっちは忙しいんだ」 しっしっ、と野良犬を追い払うような手つきであたしを振り払うミチノク。  確かに、この場所にあたしがいるのは場違いだ。もう、今となってはあたしと彼の接点は、ないに等しいのだから。 ペールグリーンの術着を纏った彼は、オフホワイトの壁に掛けられた時計を見て、戻っていく。  邪魔をしてはいけない。ここから先は、関係者以外立ち入り禁止の聖域だから。  背中を向けた彼は、振り返ることもせずに、扉の向こうへ姿を消す。  扉の上のあかいランプが点灯をはじめる。    * * *  ハヤザキは内緒だよって教えてくれた。  失恋の痛みをなくしてくれるお薬があることを。「小手毬には必要ないかもしれないけど」 そう言って、寂しそうに笑ったハヤザキ。  あたしはまだ、失恋という言葉すら、未知のもので、実際に体験したこともなかったから、痛いのはイヤだよと言ったら。「だから痛みをなくすお薬があるんじゃないか」 自信満々に応えたんだ。失恋というのが病気と関係ない現象だなんて
Read more

閑話 Love Anesthesia ~ i f ~ (2)

   * * *  ふわふわのくせっ毛を、綿菓子みたいだねと、ハヤザキが言ってくれてから、あたしは自分の髪を、好きになれた気がする。  触れたらとけちゃいそうだ。  そう言って、枕もとで右往左往する指を、あたしは見守っていたっけ。  真っ白なリネンのシーツの上で暇そうに寝そべっていたあたしの前に現れたハヤザキは、あたしから退屈という言葉を払拭してくれた。 それは、二年間という入院生活のフィナーレを送るには最高の演出だったと思う。  留年決定のあたしに、ハヤザキは勉強を教えてくれた。  歩くことを忘れていたあたしの、足になってくれた。夕方のリハビリには必ず顔を出してくれた。  ハヤザキが忙しくてあたしに会えないときは、オソザキが話し相手になってくれた。オソザキはあたしよりも十くらい年上の、人生経験豊富なお姉さん。 そういえば彼女は今、何をしているんだろう……ハヤザキに対抗するように遅咲きの花と自ら名乗った彼女は。  わだかまりを残したまま、あたしは退院してしまった。そして、知らなかったから今まで幸せでいられたということを、知った。 それでも。毎日愉しかったのは事実。  退院なんかしたくないって駄々をこねて、ミチノクに怒られたっけ。彼だけはあのときから全然変わらない。意地悪で皮肉屋でいつも不機嫌そうで。  病院を飛び出して、あたしはハンカチで溢れでた涙を拭いながら、空を見上げる。それでも涙は止まらない。ずっと我慢していた分が全部、流れていく。 ハヤザキがあたしと同じ気持ちじゃなかっただけで、どうしてこんなにも苦しいんだろう。 この痛みを誰か、早くとって。 涙で目の前が見えなくて、駐車場でしゃがみ込んでいたら、白衣を着た人が驚いてこっちに駆け込んできた。 「おーい」  女の人の間延びした声が耳元に届く。あたしに向けて声をかけたのだろう、ほっそりしたシルエットが近づいてくる。  涙目で視界がぼやけているあたしは、それが誰だかわからない。たぶん、知らない人。 「どうしたの? お腹が痛いの?」  喉が枯れ果てそうな嗚咽ばかり漏らすあたしは、そうじゃないと首を横に振ることしかできない。    * * *  ――自分がとてつもなく場違いなところにいる、そう気づいたのは涙がひいた三分後。「落ち着いた?」 ショートカットの女性が、あ
Read more

閑話 Love Anesthesia ~ i f ~ (3)

   * * * 「物憂げな表情だけは大人みたいだな」 ナラシノは超音波検査があるからと五分くらい前に行ってしまった。あたしはひとりで待合室に居続ける勇気がなかったから、静かに退室して、内科外科病棟に通じる廊下をゆっくり歩いていた。  すれ違い様に、ミチノクと顔を合わせた。彼はおや、とあたしを見て、唇を尖らせる。  さっきあたしが逃げていったことを根に持っているみたいだ。「てっきり帰ったんだと思った」 つまらなそうなミチノクを見ていると、どうしてあたしは彼に命を救われたんだろうと憤りを覚えることがある。担当医でもないのにしょっちゅうあたしのことを診ていた彼は、あたしのことを単なるモルモットとでも思っているのだろうか。「帰ってませんよ?」  ムキになって言い返す。  ミチノクはあたしの横で立ち止まり、左腕を掴まえる。「な……何するんですかっ」 「事情聴取」  そのままずるずる引っ張られる。「……あの、医療機関には守秘義務って奴が」 「俺にはない。それに俺の方がお前より偉い」 「ミチノクそれ無茶苦茶!」 それに痛い。左腕はまだ事故の後遺症があるのにそんな風にぞんざいに扱うなんて……本当に彼は患者のために働く医者なんだろうかと思わず不安になってしまう。  彼はそんなあたしを見向きもしないで、産婦人科病棟の脇道を進んでいく。こぢんまりとしたコンテナガーデンが並ぶ中庭だ。  春の陽射しは西に傾き、柔らかな橙が空色を静かに埋め尽くしてゆく。「無茶苦茶なのはお前だろ。いい加減悟れ」 弓状に湾曲した枝に群がる白い小花が房のように集う、あたしと同じ名前を持つ低木の隣にあるベンチまで歩いて、どかっと腰掛けるミチノクの横に、あたしも座る。座った途端、ずきんと左腕に痺れが走る。「痛いッ」 だらんと垂れ下がる左腕。だけど痛覚だけは健在。抗議の声をあげて、恨むようにミチノクを見る。 彼は仕方ないなと一瞥してから、さっきみたいに強引にではなく、大切な宝物を扱うように優しく、あたしの左腕を両手で包み込んだ。「……悪かった。血流が乱れたな」 不貞腐れた表情で、あたしの左腕を抱え込むミチノク。彼のおおきな掌に触れられて、少しばかしむず痒い。  コデマリの小花が濃緑の枝葉から顔を出している。まるであたしとミチノクのやりとりをこっそり盗み聞きしようと
Read more

閑話 Love Anesthesia ~ i f ~ (4)

 忘れよう忘れようとするほど、忘れられなくなる矛盾。  ハヤザキには心に決めた女性がいて、彼女はあたしなんかじゃ敵うことがなくて、ふたりは結ばれてめでたしめでたしで……  ハヤザキにとってみたら、あたしは娘みたいな存在、だったんだろう。あたしが慕う仕草すら、そう捉えていたのだから。「恋することに恋、しているだけじゃないか?」 十七歳という身体に十五年分の人生。  交通事故で半植物人間状態だったあたしを生死の淵から救い上げた麻酔科の青年医師は、意地悪だった。相反するように、リハビリテーション科であたしを担当してくれた医師は、優しくて、常に見守っていてくれた。「なんでよりによって、早咲なんだよ」  今にも泣きそうなあたしに、ミチノクは容赦なく追い詰めていく。「あんな中年オヤジがお前の初恋だなんて間違ってる」 「ハヤザキのこと悪く言わないで!」 疑心暗鬼に陥っていた自分に問いかけてきたミチノクに、あたしは癇癪を起こすことしかできない。「恋に恋する状態って」  見ていられないよとあたしを嘲る。 「まるで酔いの醒めない親父みたいに見えるから滑稽だよな」  それは違うと咄嗟に言い返そうとしたのに、あたしは違うことを口にしていた。「ミチノクは、真剣に、恋、したことないからそんなこと言うんだ」 「知った風な口、きくな」 そう言って、三十二歳のミチノクは、こどもみたいに両頬を膨らませる。「……知らないもん」 「知らなくて、いいさ」 寂しそうな声が、染み渡る。彼の声を合図にするように、あたしはそっと、肩に頭を乗せる。失恋から立ち直れないあたしに、薬を渡すことも励ますことも慰めることもしないミチノク。少しくらい優しくしてくれてもいいじゃないか、そんな自分勝手な期待を押し付けて。  瞳からひとすじ、流れた水滴が、彼の白衣を濡らす。「産婦人科」 「え?」 突然言われた言葉に、あたしは身体を起こす。「近寄らない方がいい」  ミチノクは、そう言ってベンチから立ち上がる。救急車のサイレンだ。同時に、彼のポケットに入っていたPHSが震える。援助要請だ。「何それ」 「いいな」 何も説明せずに、ミチノクは救急外来棟へ走っていく。残されたあたしは、彼の背中を目線で追うことしかできない。  翻る白衣の裾が、コデマリの花弁のように見えたのはきっと、
Read more

閑話 Love Anesthesia ~ i f ~ (5)

「小手毬ちゃん?」  ナラシノではない女性の声が、あたしを呼ぶ。ナラシノが知り合い? とあたしに目配せをする。あたしは何も言わずに彼女を凝視する。  鈴の音のような、澄んだ女性の声。「無事に退院したって早咲あのひとが言ってたからどうしているのかなって思ったけど……元気そうで、よかった」 元気? 何を言っているのこの人は。あたしから元気を奪ったのは、あなたでしょ? 懐かしいと思うと同時に、隠していた憎しみが顔をのぞかせる。  二年前の交通事故で、あたしをはねた加害者。そのことに関しては充分な損害賠償を払ってくれたからもういいと親は言っていたし、あたしも彼女に誠意を持って償われたことは理解している。 けれど、ひとつだけ、裏切られたと、感じてしまったことがあって。 あのときは、見ないでいたから、耐えられた。知らなかったから、三人で笑えた。  小さな舞台から退場して、世界を俯瞰したら、あたしがいた場所は、花に覆われてしまっていた。 三人でいた場所は、二人の愛を育む空間へ。  あたしは発芽した二人の関係を、祝福せざるおえない立場にいた。気持ちを、伝えることすらできずに、手放さなくては、いけなくて。  途方に暮れたあたしは、その恋をなかったことにしたくて、失った痛みをなかったことにしたくて、薬を求めていたのに。 彼女は、心底幸せそうに笑う。ハヤザキのこどもを身篭った、オソザキは。 見つめ合うあたしとオソザキを見て、ナラシノがぽんと両手を叩く。「早咲先生の……そっか、コデマリってここの入院患者だったのか! じゃあ、早咲先生がこの春若い奥さんもらったことも知ってて当然だよね」 場違いな明るい声が、あたしを現実に却るよう促している。だけど。  あたしは、認めたくなくて。  コデマリの咲き乱れる庭園から、逃げ出す。    * * *  ミチノクはあたしがこれ以上傷つかないように、近づくなって言っていたんだ。  痛みがぶり返す。涙、零れる。 幸せそうなオソザキ。ハヤザキと結ばれたオソザキ。ハヤザキのこどもを胎内に宿したオソザキ。  気持ちを伝えることもできずに、指を咥えて二人の未来を羨むことしかできないあたし。痛い。胸が、痛いよ。 ひりひり腫れ上がった心が軋んで悲鳴をあげる。絶叫しそう。オソザキに対して、悔しいとか憎
Read more

chapter,3 + 1 +

 病院は自分の庭だった。  天の実家は県内北部に位置する茜里総合病院。通称「蜻蛉(とんぼ)病院」。  上空から見下ろすと病院の建物の形が蜻蛉が羽を拡げているように見えるからだと言われているが、「赤根家」の「秋」の人間が創設したからアキアカネが転じて蜻蛉になったという説もある。 赤根家といえばこの町では五本の指に入る大地主の一族で、先祖が「春夏秋冬」の分家を作り、それぞれの分野へ勢力を拡げていた。「春」は農畜産業、「夏」は重工業にテクノロジー、「秋」は医療福祉、「冬」は政治経済などなど……昨今では分家ごとの特徴も薄れ、それぞれが起業したり伝承を継いだりと時代に併せて生き残っているものの、なぜかいまも「春」と「秋」の人間だけはウマが合わず、ことあるごとに火花を散らしている。たしか「春」の技術があるから「秋」は生き残れるのだとか、「秋」がいないと「春」など使えないだとか、基本的にしょうもない言い争いだ。それを哀れんだ当主が「春」の息子と「秋」の娘を結婚させようと目論んで、お膳立てまでしたほど。  とはいえ前時代的な確執が残っているのが嫌で、「秋」の家に生まれた天は「春」に嫁がされるのなどゴメンだととっとと逃げ出してきたクチだ。  けれど――……「おや珍しい。里帰りなんかしないと言ってませんでしたっけ」 「……雨龍(うりゅう)」 薄暗い病院の廊下をひとり歩いていたところ、前から歩いてきた白衣の青年に声をかけられ天は足を止める。  目の前にいたのは「春」の従弟だった。天の存在を確認するべくつまらなそうに一瞥し、毒を吐く。「この病院を継ぐのが嫌で逃げ出した貴女がいまになって戻ってくるとは思いませんでしたよ」 「安心しろ。戻ってきたわけではないさ」 今日はたまたま休暇が取れたんだ、と息をついて、ふたつ年下の雨龍を見やる。  赤根雨龍、天の代わりにこの病院の将来を任されてしまった青年は三十歳になったばかり。結婚したとの噂も耳にしないから、未だに独身なのだろう。銀縁の眼鏡としわひとつない白衣を着ていると、年齢よりも老けているように見える。長身の天と並ぶと、彼の方が数センチ高い。  かつての婚約者でもあった従弟は、天が逃げ出したことを糾弾することもせず、淡々と病院業務に勤しんでいた。無表情な仮面を被って人間観察ばかりしている彼にとって、天みたいな人間は恋
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status