All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

咲夜は思わず言葉を失った。――そんなことを言われても、どう返せばいいのだろう。もっとも、千暁も咲夜の返事を期待していたわけではなかったらしい。そのまま彼女を連れて、千尋のもとに向かった。その頃、千尋は部屋で経典を書き写していた。一方の良太はというと、傍らの椅子にもたれかかり、スマホゲームに夢中になっている。時折ボイスチャットで味方に容赦なく暴言を吐いていた。従兄のマシンガンのような悪態を聞き続けていた千尋は、とうとう顔を上げた。「兄さん、お願いだから勘弁してよ。黙るか、外で遊んでくれない?うるさくて全然集中できないんだけど」良太が意地でもここに居座ろうとしなければ、とっくに追い出しているところだった。良太は「分かった分かった」と口元に指を当てる仕草を見せ、悪態を吐きたい衝動をどうにか抑えながら、ようやく一戦を終えた。苛立たしげにスマホを脇に放り出し、天井を見上げたあと、部屋を見回す。千尋の部屋は黒澤家の豪邸と比べれば質素だったが、寺の中では十分に恵まれた環境だった。壁には数点の書画が飾られている。ふと良太は首をかしげた。「あれ?いつの間に絵なんか増えたんだ?前に来たときは書が二幅あるだけだった気がするけど」ようやく違和感の正体に気づいたらしい。千尋は筆を止めることなく答えた。「うん。暇なときに何枚か描いただけ」その言葉に、良太は勢いよく椅子から身を起こした。「えっ、千尋、お前絵なんか描けるのか!?」驚いた様子で千尋を見つめる。そんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。千尋はちらりと良太を見た。「僕が絵を描けると、そんなにおかしい?」なぜそこまで驚くのか理解できない。良太は頭をかきながら苦笑する。「いや、おかしくはないけどさ。お前が言わなきゃ知らなかったって話」すると千尋は即座に言い返した。「だって兄さん、聞かなかったじゃないか。まさか自分から追いかけ回して、『兄さん見て見て、僕絵が描けるんだ。しかも結構上手いんだよ』なんて言うわけないだろ」その頃には、良太はすでに立ち上がり、掛けられていた絵の前に歩み寄っていた。一幅は風景画、もう一幅は美人画だった。絵の知識などまるでない良太ですら、思わず感嘆の声を漏らしたくなるほど見事な出来栄えだった。千尋にこれほどの画才があると
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第252話

良太が何か言い返そうとしたその時、千暁と咲夜が部屋に入ってきた。良太は仕方なく手を引っ込めた。そして千暁を見て尋ねた。「なあ、千暁ちゃん。いつ下山するんだ?」山の上での生活は、良太にとって退屈でしかない。毎回長くは滞在できず、いつも千暁を巻き込んで早めに下山しようと騒ぎ立てる。その一方で千尋は違った。彼は山に来るたびに一、二日滞在してから帰る。もっとも、良太はいつも千尋を誘うこともなく、自分だけ先に帰っていた。千暁は慣れた様子で答える。「用事が片付いたら下山する」あまりにも素っ気ない返答に、良太は文句を言う気も失せて口を閉ざした。千尋は筆を置き、二人に軽く会釈をする。それから再び目の前の書写に意識を戻した。千暁はわざとらしく咳払いを一つすると、良太に話を振る。「そういえば、この前聞いていたウサギのマスコットだけどな。灰原が扱っている工場を見つけたらしい。下山したら買いに行こう」それを聞いた途端、良太の目が輝いた。「マジか!?どこだ?灰原のやつ、本当に優秀だな。さすがお前の右腕だ」千暁は淡々と答えた。「蒼峰町北二丁目八番地。『ユートピアリンク』っていう工場だ」住所も工場名も、やけに具体的だ。そう言いながら、千暁はさりげなく千尋の様子を窺っていた。だが、千尋は眉一つ動かさない。気にも留めていないかのように筆を走らせ続けている。その様子に、千暁はわずかに眉をひそめた。――違うのか?咲夜もまた、表情には出さないまま千尋を観察していた。千暁は会話の流れを利用して、二つの情報を意図的に口にしている。ウサギのマスコット。そして「ユートピアリンク」という工場名と所在地。もし千尋が「千野千鶴」本人なら、何かしら反応があってもおかしくない。ほんの僅かな動揺でも構わない。しかし、千尋は驚くほど落ち着いていた。まるで千暁の話など耳に入っていないかのように、黙々と文字を書き続けている。咲夜はしばらく見守った後、静かに視線を外した。ふと壁に飾られた書画が目に入り、その前に歩み寄る。一幅一幅丁寧に眺め始めた。反応を示さなかった千尋とは対照的に、良太の方がすっかり乗り気になっていた。「じゃあ下山したら行ってみようぜ。おく……咲夜が気に入ったなら、何個でも買えばいい。代金は
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第253話

千暁は千尋に視線を向けた。「千尋、お前はどうだ?その人のこと、聞いたことあるか?」今度は真正面から問いを投げかける。そのまま千尋の反応を見逃すまいと見つめた。千尋は慌てることなく、一文字を書き終えてから静かに筆を硯の上に置いた。そして何事もない表情のまま立ち上がり、軽く肩や首をほぐす。「千暁さんもご存じだと思いますが、僕は普段あまりネットを見ないんです。そういう話題にもあまり興味がありませんし、そのIDも聞いたことがありません。もし千暁さんや花江さんがお探しでしたら、学校に戻ったらネットに詳しい友達に頼んでみます。みんな情報収集が得意なので、すぐに見つかるかもしれません」千尋はごく自然に提案した。彼にもネットに詳しい知人がいた。千暁が必要とするなら、力を貸すつもりだった。だが、その態度に不自然なところは何一つない。千暁も咲夜も、それをはっきり感じ取っていた。普通なら、自分の正体を隠している本人がIDを名指しされたら、多少なりとも反応が出るものだ。一瞬の動揺や戸惑い。あるいは無意識の緊張。しかし千尋には、そのどれも見当たらない。慌てるどころか、終始落ち着き払っていた。本当に知らない人物の話を聞いているようにしか見えない。その様子を見ているうちに、咲夜の胸にも迷いが生まれ始めていた。――やっぱり、自分の勘違いだったのだろうか。根拠らしい根拠もなく、ただ感覚だけで疑っていたのだから。千暁は歩み寄り、千尋の肩を軽く叩く。「千尋、咲夜とLINEを交換しておけ。何か進展があったら、直接知らせてやってくれ」そして今度は咲夜に視線を向ける。「咲夜、千尋のLINEを追加しておくか?」あくまで確認するような口調だった。しかし咲夜は、その意図をすぐに理解した。先ほど見たLINEのアイコンは千尋のものではなかった。それでも、念のため繋がっておいて損はない。咲夜は素直にスマホを取り出した。「いいの?」すると千尋は小さく笑った。「花江さん、千暁さんが気にしてないなら、僕に断る理由なんてありませんよ。ただ……」そう言いかけたところで、なぜか言葉を濁す。少し考え込んだ後、どこか言いづらそうに口を開いた。「実は以前、スマホを落として壊してしまったんです。まだ買い替えていなくて。今はレン
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第254話

山を下りた後、咲夜のもとに洸から電話がかかってきた。電話の向こうで洸は、どうしても一度会って話がしたいと言う。二人は翌日の午前中、とあるカフェで会う約束をした。咲夜が店に着いた時には、洸はすでに待っていた。足にはまだギプスが巻かれており、車椅子に座っている。咲夜の姿を見つけると、洸はかすかに笑った。「来ないかと思ったわ」「ごめん。少し渋滞に巻き込まれてしまって」咲夜は正直に答えた。洸はそれ以上何も言わず、ただ微笑む。目の前の女性は相変わらずやつれていた。かつてあれほど激しく対立した相手と、こうして穏やかに向かい合って話す日が来るとは、咲夜自身も思っていなかった。「それで、私に何の用?」咲夜は単刀直入に切り出した。すると洸は真っ直ぐ彼女を見返した。「頼みたいことがあるの」咲夜はゆったりとした口調で返した。「私があなたを助けると思っているの?」以前の二人の関係を思えば、そう考える理由が分からない。まして、今さら洸を簡単に信用できるはずもなかった。洸は唇を強く結んだ。しばらく沈黙した後、ようやく口を開く。「森崎静香が保釈されたの」その声には隠しきれない憎しみが滲んでいた。「証拠は十分提出した。でも森崎家が彼女を本気で守ろうとすれば、保釈なんて簡単なのよ」実際、静香を告発した時点で、洸はこうなる可能性を予想していた。保釈中の静香は表立って洸に手を出せない。しかし森崎家はずっと洸との接触を試みていた。目的は示談。金で片をつけるつもりなのだ。だが洸は面会を拒み続けていた。森崎家の人間に見つかることすら恐れ、身を潜めて暮らしている。そんな現状を聞いても、咲夜は黙ったままだった。彼女も、洸一人の力で静香を完全に追い込めるとは思っていなかった。ただ、この切り札を上手く利用するよう助言しただけだ。だからこそ今、洸が何を望んでいるのか分からない。咲夜は洸をもっと計算高い人間だと思っていた。今回の機会を利用して、自分に有利な立場を築くはずだと。洸は咲夜を見据えた。「森崎青音の会社が潰された件、あなたが関わってるんでしょう?あなたはとっくに森崎家と決別するつもりだった。だから私があなたにあんなことをしても、ずっと見逃してたのよね」以前の洸なら気づかなかっただろう。
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第255話

洸は若い頃から用心深かった。会員制クラブで働いていた当時も、こっそり動画を撮ったり、スマホの録音機能を起動したりしていた。考えは単純だった。もし何か問題に巻き込まれても、自分の身を守れるように。あるいは、それらの証拠を利用して多少なりとも見返りを得られるかもしれない。そんな打算もあった。当時の洸には、その程度の警戒心があったのだ。だが晴南に甘やかされて判断力が鈍ったのか、それとも咲夜のことを恋愛しか頭にない女だと見下していたのか。これまで咲夜とのやり取りを録音したり、動画を撮ったりしようと思ったことは一度もなかった。そもそも、自分に不利になる証拠をわざわざ残すつもりもなかったが。洸はバッグを開け、中身をすべてテーブルの上に出した。「安心して。今日は録音も録画もしてないわ」身につけているのはシンプルなワンピースだけ。アクセサリーも一切つけていない。それは、自分に敵意がないことを咲夜に示すためだった。しばらく洸を見つめていた咲夜は、ようやく口を開く。「何が欲しい?」洸の紅い唇がゆっくりと動いた。「二千万円。二千万円が欲しいの」「そのお金で何をするつもり?」咲夜の警戒心が一気に強まる。洸は迷いなく答えた。「森崎家に嫁ぐの。でも今の私は無一文なの。森崎晴南に今まで使った金を全部取り返されてしまった。住む場所にだって困ってる」咲夜は洸を見つめた。「森崎家に嫁ぐ?」――やはり、洸は自分の期待を裏切らない。咲夜は心の中でそう思った。「今の森崎家は、あなたを疫病神みたいに避けているのに、どうやって嫁ぐつもりなの?」興味深そうに問いかける。洸の考えを実現するのは、どう考えても至難の業だった。そもそも、森崎家が承諾するはずもない。「どんな手を使うかは私の問題よ。私は、そのための足がかりになる資金が欲しいの。そして、そのお金を用意できるのはあなただけ」洸は自信満々に言った。「だって、これこそが、あの日あなたが病院に私を訪ねてきた目的だったんでしょう?」洸は馬鹿ではない。ここ数日じっくり考えた結果、あの日、病院で咲夜が自分に語った言葉の真意を理解していた。咲夜はUSBメモリを手に取った。「お金は私のアシスタントから渡させるわ。今日中はさすがに難しいけれど……明日でもいい?」これほ
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第256話

洸から咲夜に渡されたUSBメモリを、咲夜は帰宅するとすぐパソコンで確認した。動画は短く、映っているのは静香がその女性に一枚のキャッシュカードを手渡す場面だけだった。撮影場所が少し離れていたため、静香が何を話していたのかまでは聞き取れない。だが、当時の洸も近づく勇気がなかったのだろうと感じられた。おそらく洸は、咲夜のもとを訪ねると決めた時点で、事前に咲夜のことを調べていたのだろう。洸の誠意のおかげで、咲夜は確かに有力な手がかりを得ることができた。咲夜は千雪に連絡し、約束した金を用意し、翌日洸に渡すよう手配した。洸が森崎家に嫁げば、あの家は間違いなく大騒ぎになるはずだ。再生が終わった動画の画面を見つめながら、咲夜はふと考えた。――森崎家が花江グループを破綻に追い込んだ件を、風一は知っていたのだろうか。彼は昔から自分によくしてくれた。時には申し訳なくなるほどに。もし、すべてを知ったうえであれほど優しくしていたのだとしたら――そこまで考えたところで、咲夜は無理やり思考を断ち切った。背筋を冷たいものが走る。結局、彼女は一度実家に戻り、真奈美に話を聞くことにした。少なくとも当時の事情や、その「親友」と呼ばれていた女性の名前くらいは確認しておきたかった。咲夜が花江家に戻ると、真奈美はちょうど出かける支度をしているところだった。「帰ってくるなら一言くらい連絡してくれればよかったのに」真奈美はバッグと保冷バッグを置きながら言う。「今からお父さんのところに行こうと思ってたのよ」帰宅した咲夜は、家の様子が大きく変わっていることに気づいた。リビングは以前よりずっと広く感じられる。一階のゲストルームでは、まだ改装工事が続いていた。咲夜は不思議そうに母を見る。「お母さん、もしかして泥棒でも入った?」几帳面な真奈美が、たった数日で家をこんな雑然とした状態にしているなど考えにくい。「あら、そういえば言ってなかったわね。今、家をリフォームしてるの。二階の主寝室を一階に移そうと思ってね。ゲストルームは少し狭いでしょう?だから隣のゲストルームとつなげて、一つの部屋にしたのよ」真奈美はそう言って咲夜の手を引き、ゲストルームに案内する。中はすっかり様変わりしており、確かに以前よりかなり広くなっていた。だが
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第257話

真奈美は咲夜の手を引いてダイニングに向かい、スープを一杯よそってあげた。それから真奈美は二階に上がっていく。しばらくして部屋から戻ってくると、一枚のキャッシュカードを咲夜に差し出した。「これ、持っておきなさい。前に持っていた宝飾品や不動産を売ったの。そのお金だから、使ってちょうだい」真奈美は、咲夜に会社を切り盛りするだけの資金が足りないのではないかと心配し、このところずっと買い手を探していた。不動産も何件か売却し、雅紀から贈られた高価な宝石類もすべて手放している。本当は明日か明後日にでも、この金を届けるつもりだった。ちょうど今日、咲夜が帰ってきたのだ。咲夜はカードを母に返した。「こういうことをするなら、どうして先に相談してくれなかったの?私は大丈夫よ。お金ならあるし、会社のことも心配しなくていいから」咲夜はその金を受け取るつもりはなかった。だが真奈美も引き下がらない。母娘はしばらく押し問答を続けた末、結局、真奈美が折れることになった。真奈美はカードをしまいながら言った。「とにかく、このお金をあなたのために取っておくから。何か必要になったら、絶対に遠慮しないで言うのよ」真奈美自身が使うつもりはない。将来咲夜が結婚するとき、この金を嫁入り支度として持たせるつもりだった。真奈美の中ではすでにそう決めていた。咲夜は少し考えてから尋ねる。「そういえば、私が紹介したカウンセラーには行った?」「行ったわ、行ったわよ」真奈美はすぐに答えた。「ちゃんと治療にも協力してるし、元気になってお父さんのお世話もしなきゃいけないもの」その言葉を聞いて、咲夜はようやく胸をなで下ろした。しばらく黙り込んだあと、咲夜は慎重に切り出す。「お母さん……あの親友の人のこと、少し聞かせてくれない?」途端に真奈美の表情が曇った。その人物のことは、できれば思い出したくもないのだろう。咲夜はその様子を見て、刺激してしまったかもしれないと焦る。説明しようかと迷ったその時――真奈美はすぐに感情を押し殺した。医師から言われた言葉を思い出したのか、何度か深呼吸を繰り返してから口を開く。「……何が知りたいの?」咲夜は尋ねた。「その人は誰なの?お母さんとの間に何か確執があったの?」「ちょっと待ってて」そう言い残し、真奈美は
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第258話

咲夜は話を聞きながら、ふと気になって尋ねた。「お母さん。その水野澄江って、結婚したあと、いつ頃また景浦市に戻ってきたの?」真奈美の話によれば、澄江が結婚してからは、二人は主にメッセージアプリで連絡を取り合っていたという。澄江の結婚生活は決して恵まれたものではなかった。結婚後は専業主婦となり、真奈美と交わしていた「年に一度は会おう」という約束も果たせなくなっていた。その代わり、真奈美のほうが何度か彼女を訪ねている。だがその後、咲夜が生まれたことで状況は変わった。育児に追われるようになり、真奈美も長い間、澄江に会いに行けなくなっていた。そんなある日突然、澄江が景浦市にやって来た。全身に痛々しい傷を負った姿で。そして真奈美に、自分が離婚したことを告げたのだ。真奈美はそのとき初めて、澄江の結婚生活の実態を知った。元夫は酒癖が悪く、酔うたびに暴力を振るった。澄江は何度も妊娠したが、そのたびに暴力によって流産させられていた。彼女は何度も離婚を望んだ。しかし元夫は最初こそ泣きながら土下座し、「必ず改心する」と懇願したものの、数か月も経たないうちに再び暴力を繰り返した。やがて、「離婚するならお前の家族を皆殺しにしてやる」と脅迫するようになった。それでも水野家の人々は、ひたすら耐えるよう彼女を説得し続けた。そして最後の悲劇が起きる。妊娠七か月だった澄江は激しい暴力を受けて流産した。さらに子宮が感染を起こし、摘出手術を受けることになった。二度と子どもを産めない体になったのだ。そのとき初めて、澄江は錯乱したように反撃した。元夫と取っ組み合いになり、包丁を首元に突きつけて離婚協議書に署名させたのだ。離婚後、体調を回復させた澄江は景浦市に移り住み、真奈美を頼った。真奈美は澄江の境遇を哀れみ、自分名義の3LDKのマンションを無償で貸した。さらに雅紀にも頼み込み、澄江にきちんとした仕事を紹介してもらった。真奈美はできる限りの支援を続けてきた。それなのに、まさか澄江が恩を仇で返す人間だったとは、夢にも思わなかった。真奈美は後になって知ることになった。かつて澄江の元夫が景浦市まで押しかけ、真奈美を殺そうとした事件。あれも実は、澄江自身が元夫に「私を離婚させたのは真奈美だ」と吹き込ん
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第259話

英樹はそのまま中に入ろうとしたが、咲夜が前に立って行く手を遮った。「英樹さん、ここまでにしてください」咲夜は淡々と言う。「父は倒れてからというもの、親しくない人に会うのを嫌がるんです。どうか無理に会おうとはなさらないでください」その言葉に、英樹は咲夜を見た。「咲夜、それはおかしいんじゃないか?俺はお父さんとは長年の付き合いだ。それがどうして他人扱いになるんだ?」その「長年の付き合い」という言葉に、咲夜は薄く笑った。だが、その笑みは目まで届いていない。「冗談がお上手ですね。長年の付き合いがありながら、ここまで花江家を陥れた方との縁なんて、私たちには荷が重すぎます」ここまで来てなお体裁を繕おうとする英樹に、咲夜も遠慮する気はなかった。両家の関係は、とっくに修復不可能なほど悪化している。それなのに、よくも父の見舞いに来られたものだ。その厚顔無恥さに、むしろ笑いたくなる。英樹の顔色がみるみる悪くなるのも構わず、咲夜はさらに言葉を重ねた。「今になっても花江グループへの妨害をやめていませんよね。まさか誰にも気づかれていないとでも思っていたんですか?」咲夜が花江グループを引き継ぐことを決めた頃には、すでに花江グループの脱税疑惑について税務当局に匿名の通報が入っていた。だが彼女は以前から警戒していた。密かに税務関係を徹底的に洗い直し、不備があればすべて是正していたのだ。もし備えていなければ、今頃問題になっていたのは間違いなく花江グループだった。英樹は咲夜の言葉を聞き、すべてを悟った。――この娘は最初から知っていたのか。だからこそ咲夜は、裏で密かに自らの勢力を再編し、人材を育成してきたのだ。すべては、自分に対抗する日に備えるためだった。英樹の顔が青黒く変わる。もはや取り繕う気もない。「最初から気づいていたというわけか。ずっと実力を隠して機会を待っていたんだな。大したものだ」周囲からは恋愛脳だの何だのと散々言われながらも、咲夜は表情一つ変えずに立ち回ってきた。本当に大きなことを成し遂げる人間の胆力だった。――惜しいな。男だったら、もっと大物になれたのにな。咲夜はその言葉に何も返さなかった。自分では特別なことをしたとは思っていない。英樹は目を細める。「白羽洸に静香を訴えさせたのも、君の差し
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第260話

英樹が怒りで顔を歪めていく様子を見て、咲夜は愉快そうだった。彼女の顔にはあからさまな嘲笑が浮かんでいる。「そういえば、青音さん。最近いろいろありすぎて精神的にかなり不安定になっているそうですね?精神的な病気を甘く見ないほうがいいですよ。病気ならきちんと治療しないと。周りの人まで巻き込まれたら大変ですから」その言葉には明確な含みがあった。青音を巡る騒動は、もはや景浦市中の噂になっている。最近の彼女はマンションに引きこもり、人前に出ることすらできなくなっていた。しかもここ数日、朝になるとマンションのエントランス前で眠っているところを住民に発見されている。青音は自ら階下に降りたことを最後まで認めようとせず、「何者かが部屋に忍び込み、私を階下に放り投げた」と言い張っていた。そのたびに警察に通報したが、捜査の結果は毎回同じだった。防犯カメラには不審者の姿など一切映っていない。外部から侵入した形跡もなかった。そのせいで周囲からは完全に奇異の目で見られている。昼夜を問わず悲鳴を上げたり騒ぎ立てたりするため、近隣住民の不満も限界に達していた。ついには住民たちが連名で管理会社に抗議し、「森崎青音を退去させろ」と要求するまでになっている。結局、青音はマンションに住めなくなり、森崎家の本家に戻った。しかし結果は変わらなかった。朝になると前庭に倒れていたり、屋敷の正門前で目を覚ましたりする。青音の精神状態は崩壊寸前だった。風一もついに業を煮やし、「精神科で検査を受けさせる」と宣言している。こうした話は、もはや咲夜がわざわざ調べるまでもなかった。景浦市では知らない人がいないほどの噂になっていた。良い話は広まらないが、悪い話は一瞬で広がる。青音は別の意味で有名人になってしまっていた。英樹は顔を真っ青にしながら吐き捨てる。「森崎家のことに、君が口を出す筋合いはない」小娘にここまで言われるなど、彼にとっては屈辱以外の何物でもなかった。もし風一が裏で動いていなければ、今日わざわざ療養所まで足を運ぶこともなかっただろう。本来の目的は雅紀に会うことだった。英樹は雅紀に聞きたかっただけだ。咲夜が花江グループを引き継いでから、森崎家と真っ向から対立している。父親として、雅紀はこのまま娘を好き放題さ
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