「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(おぎの ちあき)に電話をかけた。初めて区役所で待ちぼうけを食らった時、千暁からプロポーズされたことを、彼女は覚えている。その時は断った。二度目も同じだった。そして今朝、千暁からまたプロポーズのメッセージが届いていた。今回は、咲夜はそれに応じることにした。つい先ほど、彼女はインスタグラムの投稿を目にしていた。晴南の「忘れられない女」、白羽洸(しらはね ほのか)のものだ。写真の中では、晴南が椅子に腰掛け、リンゴの皮を剥いている。その画像には、こう添えられていた。【私が必要な時は、彼はいつもそばにいてくれる。これがいわゆる「特別扱い」。彼がくれる自信の源】咲夜は自嘲気味に口角を上げ、迷わず「いいね」を押し、コメントを残した。【お似合いね。末永くお幸せに!】不思議と、心は穏やかだった。以前の彼女なら、すぐにスクリーンショットを撮って晴南を問い詰め、激しい口論になっていただろう。そして最後は、晴南がドアを叩きつけて出ていく――それがいつもの結末だった。けれど今、咲夜には怒る気力さえ湧かなかった。森崎晴南という男は、もう、いらない。電話の向こうから聞こえてきた声が、咲夜の思考を引き戻した。「……出張中だ。一週間後に戻る。その時もまだ気が変わっていなければ、九時に区役所の前で待っている」千暁の言葉が耳に残り、咲夜はようやく理解した。なぜ、過去二回も区役所の前で待ち構えてプロポーズしてきた男が、今日はメッセージ一通だけだったのかを。一週間、か。千暁の真意が分からないわけではない。彼は、咲夜が晴南との関係を整理
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