All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(おぎの ちあき)に電話をかけた。初めて区役所で待ちぼうけを食らった時、千暁からプロポーズされたことを、彼女は覚えている。その時は断った。二度目も同じだった。そして今朝、千暁からまたプロポーズのメッセージが届いていた。今回は、咲夜はそれに応じることにした。つい先ほど、彼女はインスタグラムの投稿を目にしていた。晴南の「忘れられない女」、白羽洸(しらはね ほのか)のものだ。写真の中では、晴南が椅子に腰掛け、リンゴの皮を剥いている。その画像には、こう添えられていた。【私が必要な時は、彼はいつもそばにいてくれる。これがいわゆる「特別扱い」。彼がくれる自信の源】咲夜は自嘲気味に口角を上げ、迷わず「いいね」を押し、コメントを残した。【お似合いね。末永くお幸せに!】不思議と、心は穏やかだった。以前の彼女なら、すぐにスクリーンショットを撮って晴南を問い詰め、激しい口論になっていただろう。そして最後は、晴南がドアを叩きつけて出ていく――それがいつもの結末だった。けれど今、咲夜には怒る気力さえ湧かなかった。森崎晴南という男は、もう、いらない。電話の向こうから聞こえてきた声が、咲夜の思考を引き戻した。「……出張中だ。一週間後に戻る。その時もまだ気が変わっていなければ、九時に区役所の前で待っている」千暁の言葉が耳に残り、咲夜はようやく理解した。なぜ、過去二回も区役所の前で待ち構えてプロポーズしてきた男が、今日はメッセージ一通だけだったのかを。一週間、か。千暁の真意が分からないわけではない。彼は、咲夜が晴南との関係を整理
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第2話

「晴南さん、一人だと……少し怖いの」背後から、震える洸の声が追いかけてきた。晴南はすぐさま手を伸ばし、洸の手をしっかりと握り締めると、宥めるように優しく声をかけた。「どうした?慣れない環境で落ち着かないのか?」洸はただ、消え入りそうな様子で小さく頷いた。その痛々しい姿に、晴南の胸は締め付けられた。「俺がそばにいる。何も怖いことはないよ」「……ごめんなさい。私、あなたと咲夜さんの邪魔をしてしまったかしら」洸の視線が咲夜へと向けられる。それはまるで、今この瞬間に初めて彼女の存在を認識したかのような、白々しいまでの素振りだった。洸は緊張に声を震わせながら言葉を継いだ。「分かっているの、咲夜さんが本当は私を歓迎していないことくらい。晴南さん、全部私が悪いの。私のせいで咲夜さんと喧嘩なんてしないで……やっぱり私、帰るわ」晴南は無意識に咲夜の方を振り返った。「そんなことはない。咲夜はそれほど心の狭い女では……」晴南が言い終わるより早く、咲夜は勢いよく立ち上がると、口元に冷ややかな嘲笑を浮かべた。「お出口はあちらよ。見送りなんて必要ないわよね」自分は一言も発していないというのに、洸はしつこいほどに話題をこちらへと振ってくる。仏の顔も三度までと言うが、そもそも咲夜はそれほど辛抱強い性格ではない。洸は一瞬、呆然と立ち尽くした。いつもなら耐え忍んでいるはずの咲夜が、これほどストレートに拒絶し、追い出すような真似をすることなど予想だにしていなかったのだろう。洸は赤く腫れた瞼をしばたたかせると、潤んだ瞳で隣の晴南を見つめた。咲夜に「いじめられ」て泣き出した洸の姿を見て、晴南は即座に表情を曇らせた。「咲夜、いい加減にしろ。洸をここに連れてきたのは俺だ。お前に彼女を追い出す権利などない。洸は今、うつ病の症状に苦しんでいるんだぞ。それなのに、そこまで高圧的に彼女を追い詰める必要があるのか?……お前はいつから、そんな冷酷な女になってしまったんだ」吐き捨てるようにそう言い放つと、咲夜の返事も待たずに、晴南は洸の頬を伝う涙を指先で拭った。「洸、大丈夫だ。俺がいる限り、咲夜に意地悪なんてさせないから」洸はそっと晴南の胸に飛び込んだ。「私を心配してくれているのは分かっているわ、晴南さん。でも、咲夜さんはあなたの婚約者な
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第3話

洸は、咲夜が手にしていたコーヒーを奪い取ると、そのまま自分の顔へとぶちまけた。続けざまに、自らの頬を思いきりひっぱたく。華奢な身体は、計算し尽くされた絶妙なタイミングで床へと倒れ込んだ。額がテーブルの角にぶつかり、生温かい液体が視界を滲ませる。「ごめんなさい……私が悪かったわ。晴南さんに付きまとったりして、本当にごめんなさい。私を打って気が済むのなら、いくらでも打って。抵抗なんてしないから」床に座り込んだ洸は、首を振りながら、しゃくり上げるような声で泣き叫んだ。晴南は、かなり離れた場所にいながらも、ダイニングルームの騒ぎを聞きつけていた。慌てて階段を駆け下りた彼の目に飛び込んできたのは、無惨な姿の洸だった。耳に届くのは、嗚咽混じりに許しを請う声。その瞬間、彼の頭に血が上る。「洸!」晴南は彼女のもとへ駆け寄った。洸の顔にはコーヒーの染みと血が混じり合い、さらには鮮明な指の跡まで残っている。それを目にした瞬間、晴南の怒りは頂点へと達した。晴南は咲夜を怒鳴りつけた。「咲夜、何の真似だ!今すぐ洸に謝れ」咲夜は目の前の男を真っ直ぐ見据え、一語一語を噛みしめるように口にした。「やってないと言ったら、信じてくれる?」咲夜は待っていた。晴南が、自分にどんな裁きを下すのかを。「洸が自分でコーヒーをかぶって、自分を殴って、勝手に転んだとでも言いたいのか?」晴南は奥歯を噛み締め、冷笑を浮かべる。「咲夜、俺はこの目で見たんだ。俺が節穴だとでも思っているのか!?」その短い言葉だけで、晴南が咲夜をまったく信じていないことは明白だった。予想していたはずなのに、いざ本人の口から突きつけられると、咲夜の胸は耐えがたい痛みに軋んだ。なぜだろう。咲夜の瞳を一瞬よぎった悲痛な色に気づき、晴南は無意識のうちにわずかな動揺を覚えた。「晴南さん、痛い……私、顔を火傷しちゃったかな」洸はふらつきながら立ち上がり、おぼつかない足取りで晴南の胸へ倒れ込む。淹れたてだったコーヒーは熱く、彼女の頬にはすでに小さな水ぶくれが浮かび始めていた。洸はすぐさま必死に晴南へ縋りつき、彼の意識を引き戻す。晴南は一瞬の迷いを振り払い、咲夜を絞め殺さんばかりの視線で睨みつけた。「咲夜、謝れ」「晴南さん、もういいの。咲夜さん
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第4話

実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は、ためらいなく晴南の番号を着信拒否へと放り込んだ。耳元にようやく静寂が戻り、彼女は深く息を吐く。実家である花江家へ到着すると、待ち構えていたのは、不機嫌さを隠そうともしない母・花江真奈美(はなえ まなみ)だった。咲夜が声をかける間もなく、真奈美は詰め寄り、顔色を変えて問い詰めてくる。「また晴南さんを怒らせたの?咲夜、あれほど言ったでしょう。わがままは言わずに、彼を立てて機嫌を取りなさいって。どうしてそんなに聞き分けがないの?さっき晴南さんから私に電話があったのよ。あなたに着信拒否されたって。今すぐ彼に電話して謝りなさい、早く!」まくし立てながら、真奈美は咲夜のバッグへ手を伸ばし、スマートフォンを奪い取ろうとする。かつての彼女なら、娘にここまで卑屈な態度を強いることなどなかったはずだった。花江家が没落する以前、森崎家とも対等に渡り合える地位にあったのだから。だが三年前、父・花江雅紀(はなえ まさき)の致命的な経営判断ミスにより、花江家は倒産寸前にまで追い込まれた。その後どうにか持ち直し、倒産こそ免れたものの、グループはいまなお崩壊の瀬戸際に立たされ続けている。現在、咲夜が晴南と交際し、森崎家という後ろ盾を得ていることで、花江グループはかろうじて首の皮一枚で希望を繋いでいる状態だった。そうした事情の中で、二人の関係はいつしか歪み、不平等なものへと変質していった。晴南がわずかでも不機嫌になれば、真奈美は決まって咲夜に頭を下げさせ、彼をなだめるよう命じる。森崎家が資金援助を引き揚げれば、花江家は今度こそ終わる――その恐怖に支配されてい
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第5話

晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を開こうとはしなかった。咲夜が自ら謝り出すのを待っているのだ。これまで何度も衝突を繰り返してきたが、そのたびに身を低くし、折れるように歩み寄ってきたのは、いつも咲夜の方だった。今回も例外ではない――そう信じて疑っていない。そう考えるうちに、苛立ちに満ちていた晴南の気分も、わずかに和らいでいった。咲夜が黙り込んだままでいるのを見て、真奈美は焦ったように彼女の腕を小突く。「咲夜、早く謝りなさい!」必死に目配せを送る真奈美をよそに、咲夜はわずかに口角を引き上げた。「……何について謝れっていうの?晴南、何度も約束を破ったのはあなたであって、私じゃないでしょう。そんなに白羽さんのことを放っておけないなら、いっそ二人を応援してあげるわ」不快げに顔を歪める晴南を真正面から見据えたまま、咲夜は言葉を続けた。「二股なんてして、疲れないの?見ているこっちは、もう心底うんざりしてるの。もういいじゃない。白羽さんを忘れられないなら、正直にそう言えばいい。私はしつこい女じゃないわ。間違ったことをしていない以上、謝るつもりもない。別れるというのは、私が考え抜いた末に出した答えよ」晴南の怒りが徐々に沸点へ達していくのが分かった。それでも咲夜は、もう気に留めようとしなかった。「あなたたちがどれだけドロドロした悲恋ごっこを続けようと勝手だけど、私はもう御免よ。二人の茶番に付き合わされるなんて、まっぴらだわ。ただ不愉快なの。吐き気がするほどにね」咲夜が容赦なく二人の本心を突きつけた瞬間、晴南はついに激昂した。「咲夜!俺と洸は清廉な関係だ。お前が考え
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第6話

咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。その言葉を聞きながら、咲夜はスマートフォンを握る手に静かに力を込める。理性を失った母親から浴びせられる罵詈雑言など、咲夜にとってはもはや日常の一部に過ぎない。しばらく黙って聞き続けたのち、彼女はようやく口を開いた。「……引き揚げるなら、そうさせればいいわ。会社のことは、自分でなんとかするから」「簡単に言ってくれるわね!咲夜、森崎家が本当に手を引いたら、花江グループの数万人の社員がどうなると思っているの?彼らの生活なんてどうでもいいっていうの?」真奈美の怒鳴り声が、咲夜の言葉を容赦なく遮る。その言葉に、咲夜は沈黙した。反論することもなく、ただ静かに母の非難を受け流す。ここで真奈美に感情を吐き出させておかなければ、今後数日は平穏が訪れないことを、咲夜はよく理解していた。だからこそ、気が済むまで発散させるに任せたのだ。やがて真奈美は罵倒する気力も尽きたのか、電話越しに悲しげな啜り泣きを漏らし始めた。咲夜は小さく溜息をつく。「お金のことは私がなんとかするから。お母さん、とりあえず切るわね」通話を終えると、咲夜はすぐにグループの現状確認に取りかかった。森崎家が実際に資金を引き揚げ、提携プロジェクトの清算手続きに入っていることを知った瞬間、彼女は悟る。晴南は、こうして自分を追い詰め、屈服させようとしているのだ。かつて心から愛した男が、ついに自分へ刃を向けてきた。咲夜の胸は、生きたまま抉られるような痛みに襲われた。やがてその刺すような痛みがわずかに引くと、彼女は不動産会社へ電話をかけ、マンションの売却状況を確認した。
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第7話

寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願いだからお母さんの言うことを聞いて。今もお父さんは病院にいるのよ。もしグループが本当に倒産したら、お父さんにも一族にも合わせる顔がないわ】画面を埋め尽くすメッセージの列を、咲夜は無表情のまま見つめていた。母の言葉の端々に滲む無力感や、縋るような祈りの気配は理解できる。だが、その悲痛な懇願の一つひとつが、鋭利な刃となって咲夜の胸を深く抉った。しばらく感情を押し殺したまま画面を見つめていた咲夜は、やがて静かにスマートフォンをロックする。今は真奈美とこの話題を論じ合う気分には、到底なれなかった。実際、花江家の事業は数多くの分野で森崎家と深く結びついており、一朝一夕で切り離せるような単純な問題ではない。今の彼女にできるのは、両社の業務提携を一刻も早く正確に切り分け、整理することだけだった。そう考え、助手へ電話をかけようとしたその時、スマートフォンが震えた。表示されたのは見覚えのある番号。荻野千暁からの着信だった。番号を登録していたわけではない。それでも、これまで数度連絡を受けるうちに、咲夜は自然と彼の番号を覚えてしまっていた。通話に出ると、受話口の向こうから低く落ち着いた声が響く。「咲夜」なぜか彼に名前を呼ばれるたび、甘く囁かれているような錯覚に陥る。咲夜はすぐに意識を引き戻し、静かに応じた。「はい」このタイミングで千暁が電話をかけてきた理由に心当たりはなかった。だが、用もなく連絡してくるような男ではない。咲夜は黙って、彼が本題を切り出すのを待った。期待を裏切ることなく、千暁は言った。「助けが必要なら、俺を頼
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第8話

グループの件とは別に、咲夜と晴南は共同で所有するゲームスタジオも抱えていた。現時点では、まだそのスタジオにまで直接的な影響は及んでいない。助手からの報告を受けながら、咲夜は深く思索に沈んだ。事態がここまで悪化した以上、スタジオの解体ももはや時間の問題だろう。その前に、打てる手はすべて講じておかなければならない。このまま事業を継続するのか、それとも手放すべきか――咲夜は重大な決断を迫られていた。だが、彼女の胸の内では、すでに一つの答えが静かに定まっていた。咲夜は気持ちを切り替えると車を走らせ、療養所へと向かった。父・雅紀は脳卒中によって半身不随となって以来、この療養所で静養を続けている。到着したとき、雅紀は介護士に車椅子を押され、外気浴に出ているところだった。咲夜はそのまま部屋で静かに待つことにした。十数分後、介護士に付き添われて雅紀が戻ってきた。咲夜の姿に気づいた介護士は、親しげな笑みを浮かべて声をかける。「咲夜さん、いらっしゃい。ちょうどお庭で日光浴をしてきたところなんですよ。雅紀さんも今日はご機嫌がよさそうです」雅紀は当時、激しい怒りと衝撃が重なった末に脳卒中で倒れた。不全麻痺にとどまったのは不幸中の幸いだった。当初は寝たきりで、言葉も判別しづらい状態だった。しかし、雅紀自身が懸命にリハビリへ取り組み続けた結果、今では杖を使えばわずかながら歩行が可能となり、発語もゆっくりではあるものの、以前よりははっきりと聞き取れるまでに回復していた。咲夜は介護士を手伝い、雅紀がベッドに横になるのを支えた。「皆さんに果物を買ってきました。よろしければ、皆さんで召し上がってください」微笑みながらそう告げると、介護士は恐縮した様子で頭を下げた。「咲夜さん、いつもお気遣いいただいてありがとうございます。それでは、私はこれで失礼しますね。何かありましたらナースコールでお呼びください」咲夜が訪れるたびに差し入れを持参するため、介護士も今では遠慮なく受け取るようになっていた。介護士は静かにドアを閉め、部屋を後にした。咲夜はベッドサイドに腰を下ろすと、血行を促すため、雅紀の両足を丁寧にマッサージし始めた。沈黙のなか、咲夜の思考は巡っていた。晴南との決別を、どう父へ切り出すべきか。これほど大
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第9話

雅紀の胸は、娘への不憫さでいっぱいに満たされていた。咲夜は静かに首を横に振った。「辛くなんてないわ。ただ……もうこれ以上は続けられないだけ。お父さん、晴南は私の運命の人じゃなかったの。勝手に決断してごめんなさい。私のわがままよね」これまで必死に押し殺してきた感情が、父を前にした瞬間、ついに堰を切った。咲夜の瞳は赤く潤み、今にも零れ落ちそうな涙を湛えていたが、それでも父の前で泣き崩れるまいと懸命に耐えていた。その健気な姿が、雅紀の胸をいっそう強く締めつけた。雅紀は震える手を伸ばし、咲夜の目尻に滲んだ涙をそっと拭った。「咲夜は……よく、頑張った。わがままなんかじゃ……ない。もう、いいんだ。無理に続けなくて……いいんだよ」そう言うと、雅紀は咲夜を静かに抱き寄せ、その背を優しくぽんぽんと叩いた。本当に謝らなければならないのは、父親である自分の方だった。自らの不徳がグループをここまでの窮地へ追い込み、何よりも大切に育ててきた娘を、会社のために森崎家の前で卑屈な立場へ立たせてしまったのだから。雅紀は咲夜を不憫でならず、それ以上に、かつての自分の過ちを深く悔いていた。咲夜は父の腕の中で、声を殺しながら静かに涙をこぼした。どんな決断を下そうとも、父だけは無条件で自分の味方でいてくれる。だからこそ彼女は、よほどのことがない限り、雅紀の前で弱さを見せたくはなかった。雅紀は、押し殺された咲夜のすすり泣きを聞きながら、やり場のない思いを胸に抱え、ただ黙って寄り添い続けた。やがて気持ちが落ち着くと、咲夜は父の腕からそっと身を離した。そして雅紀をまっすぐ見つめ、力強く言った。「お父さん、安心して。森崎家の助けがなくても、私は絶対に花江グループを潰させたりしない。持てる力のすべてを尽くして、必ず支えてみせるから」現状がどれほど持ち堪えられるのか、咲夜自身にも確信はなかった。それでも、このまま敗れるつもりなど微塵もなかった。雅紀は咲夜の肩を軽く叩いた。「そんなに……自分を、追い詰めなくて……いいんだ。お父さんは、咲夜を信じているよ」そう言って、穏やかな微笑みを向ける。「お父さんは……味方だ。咲夜は、とても……優秀な子だ。お前なら……きっと、できる」雅紀は心から咲夜を信頼していた。たとえグループを
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第10話

スタジオに足を踏み入れると、咲夜の助手である宝井晶子(たからい あきこ)がすぐさま後ろに付き従った。晶子は不安を隠しきれない表情で、咲夜に問いかける。「咲夜さん、森崎グループが突然資金を引き揚げるって言ってきたんですけど……一体どういうことなんですか?」どうやら影響を受けたのは花江グループだけではなかった。咲夜と晴南が共同で運営しているこのスタジオにまで、その余波が及んでいたのだ。咲夜も、この可能性をまったく想定していなかったわけではない。だが、現実として突きつけられると、やはり胸の奥が鈍く痛んだ。自分がこのスタジオにどれほどの心血を注いできたか、晴南は誰よりも近くで見てきたはずだった。それにもかかわらず、こうもあっさり資金撤退を告げてくる。たとえ自分から手放す覚悟を決めていたとしても、いざ現実となれば心が揺らぐのは避けられない。「森崎グループと締結した当時の契約書を用意して。あとで私から直接、向こうへ交渉に行くわ」咲夜は落ち着いた口調で晶子に指示を出した。契約締結時、ある条項を盛り込んでいたはずだった。スタジオ側の過失ではなく、森崎グループ側の都合によって一方的に撤退する場合、スタジオ側がゲームの全権利を買い戻す権利を有する――という内容だ。つまり森崎側がこのゲームから手を引くのであれば、スタジオは新たな提携先を探し、プロジェクトを存続させることが可能になる。晶子はスタジオ設立当初から、常に咲夜の傍らにいた。咲夜の仕事の進め方を熟知し、その思考速度にも即座に対応できる存在だった。だからこそ資金引き揚げの知らせを受けた直後、晶子はすでに契約書を取り出し、該当条項に正確に付箋を貼った状態で準備を整えていたのである。晶子から手渡された契約書に目を通し、咲夜はわずかに口角を上げた。「行きましょう。森崎グループへ」晶子はすぐに後へ続きながら、困ったように言い添えた。「実は、あちらには真っ先に連絡を入れたんですが……代表の秘書から『社長は不在で、当面の間は予約も受け付けていない』って言われまして」その対応を聞けば、咲夜が晴南に接触してくるのを意図的に避けていることは明白だった。咲夜は足を止め、その可能性に思い至る。スマートフォンを取り出して晴南へ発信したが、呼び出し音は鳴るものの応
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