جميع فصول : الفصل -الفصل 280

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第271話

そう言うと、千暁は咲夜に薬の記録をスクリーンショットで自分に送ってくれるよう頼んだ。それを聞くと、咲夜は直接見せた方が早いと思い、そのままスマホを良太に手渡した。良太は画面を一つひとつ丁寧に確認し、終始唇を引き結んだまま、一言も発しなかった。すべての服薬記録に目を通し終えると、彼は咲夜に向かって言った。「記録を見る限りじゃ問題はなさそう。ただ、本当に記録どおりの薬を飲んでたかまでは分からない。だからこそ、できるだけ早くお父さんを病院に連れて行って検査を受けてもらいたいんだ」「分かった。明日の朝、父を連れて検査に行く。その時は、また力を貸してね」咲夜は素直に良太の提案を受け入れた。夏樹を疑っているわけではない。だが、ここまで状況がそろってしまえば、慎重にならざるを得なかった。良太は微笑みながら答えた。「力になれるなら喜んで協力するよ。奥さんもあんまり心配しすぎないで。案外、そこまで悪い話じゃないかもしれないし。すべては検査結果が出てからだから」今、一番重要なのは検査だった。その温かな励ましを聞き、咲夜の目には安堵の色が浮かぶ。話を終えると、良太は立ち上がり、別れを告げた。さすがに、二人の間で邪魔者になるつもりはない。こんな時こそ、千暁の出番だ。咲夜との距離を縮める絶好の機会なのだから。そのくらいの空気は、良太もちゃんと読めていた。良太が帰ったあとも、咲夜の表情は晴れなかった。心の中では、すでに答えは出ている。こんなことをするのは、森崎家しか考えられない。雅紀が回復しないこと、あるいは二度目の脳卒中を起こすことこそ、森崎家にとって最も都合がいいのだ。目的のためなら手段を選ばず、こんな卑劣で人目を避けるようなやり方に頼る森崎家を思うだけで、咲夜は吐き気を覚えた。そんな彼女の怒りを察した千暁は、そっと歩み寄り、冷え切った小さな手を優しく包み込む。「安心しろ。森崎家の思いどおりにはさせない」彼もまた、咲夜と同じ結論にたどり着いていた。真っ先に頭に浮かんだのは森崎家だった。雅紀に何か起きることを誰より望んでいるのは、森崎家以外にあり得ない。咲夜は顔を上げ、千暁の涼やかな瞳を見つめた。「あなたも、森崎家だと思うの?」まさか彼まで、自分とまったく同じ考えに至っているとは思わなかった。
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第272話

翌日、咲夜は雅紀に全身検査を受けてほしいと切り出した。雅紀は、娘が自分の体を心から心配していることをすぐに察する。これ以上咲夜に心配をかけたくなかった彼は、最終的に頷き、全身検査を受けることに同意した。咲夜は良太と連絡を取り、雅紀を連れて病院に向かい、一通りの検査を受けさせた。検査の間、良太はずっと咲夜のそばについていた。本来なら千暁も同行する予定だったが、朝早くに祖父の啓介から呼び戻され、実家に帰らなければならなくなってしまったのだ。そのため千暁は、良太に最後まで付き添うよう念入りに頼んでいた。咲夜は隣でまだ眠そうに目をこすっている良太を見て、小声で言った。「よかったら、先に帰って休んでもいいよ?」今にも目を閉じてしまいそうなくらい眠そうだったからだ。良太は髪をかき上げながら笑う。「大丈夫。生活リズムが完全に固まっちゃってるだけなんだ。こんな朝早く起きるのに慣れてなくて」普段の彼は夜更かしが当たり前で、朝の四時や五時にならないと眠れない。そして午後三時や四時まで寝ていることも珍しくなかった。そんな生活を何年も続けてきたせいで、すっかりそのリズムが体に染みついていた。その話を聞き、咲夜は少し驚いたように言う。「それでも気をつけたほうがいいよ。夜更かしは体によくないから」「分かってるよ、奥さん」良太は冗談っぽく笑いながら答えた。彼に「奥さん」と呼ばれるたびに、咲夜はどう返せばいいのか分からなくなってしまう。良太が事前に手配していたおかげで、雅紀の検査は驚くほどスムーズに進んだ。検査を終えると、咲夜は真奈美に雅紀を先に家まで送ってもらい、自分だけ病院に残って検査結果を待つことにした。すべての検査報告書は、十五分後には良太の手元に届いた。彼は一枚一枚の検査結果に目を通し、すべて確認し終えると咲夜に向き直った。「血液からは、確かにあの二種類の薬の成分が検出された。ただ、残留量はごくわずかなんだ。考えられるのは、ここ数日で投与が始まったか……あるいは、お前に気づかれるのを警戒して、一定の間隔で少量ずつ飲ませてた可能性がある。そうやって断続的に薬を投与して、お父さんの回復を妨げていたんだ。でも、今のところ大きな問題はないよ。早めに気づけたのが幸いだった」もし長期間にわたって継続的に服用させら
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第273話

咲夜も、良太の言葉に込められた意味くらいは分かっていた。だからこそ、どう返事をすればいいのか分からず、その場は曖昧に笑うことしかできなかった。病院を出たあと、咲夜は一人で車を走らせ、そのまま療養所に向かった。向かう途中、千雪から電話が入る。昨日、薬に異変があると分かった直後、咲夜は千雪に、夏樹と杏奈を重点的に調べるよう指示していた。あわせて、普段から雅紀と接触する機会のある療養所のスタッフについても、一人ずつ身元を洗わせていた。調査の結果、夏樹に問題は見つからなかった。新しい処方に切り替えるたび、初日は必ず本人が立ち会って確認していたからだ。とはいえ、仕事の都合上、毎回その場にいられるわけではない。その隙を、誰かが利用したのだろう。さらに調べると、雅紀が服用していた薬には、療養所で調剤されたものではない薬が混入していた可能性が高かった。そして千雪は、もう一つ気になる事実を突き止めていた。杏奈は毎年、年末になると特別賞与を受け取っていたのだ。その賞与は、療養所とある基金が共同で支給しているものだった。そして、その基金は偶然にも英樹と関係があった。森崎家の分家が設立した「高齢者福祉基金」だ。その基金は毎年、慈善活動として寄付金を募り、その資金を景浦市でも最大規模の老人ホームや療養所に投資していた。咲夜が今日療養所に来た目的は、杏奈と直接話をすることだった。少しでも口を滑らせてくれれば、何か手がかりを得られるかもしれない。ところが療養所の職員から返ってきたのは、予想外の返事だった。杏奈は今日から有給休暇を取っているという。実家に墓参りに帰るため、今年分の十日間の休暇をまとめて使い切り、すでに療養所にはいないらしい。その話を聞いた瞬間、咲夜は千雪に杏奈の実家を至急調べるよう指示した。杏奈が本当に墓参りに行ったとは、とても思えなかった。父を自宅に連れ帰ったことで、何かを察知したのだろう。だとすれば、逃げた可能性が高い。咲夜は思わず唇を噛む。自分の警戒が甘かった。昨日戻った時点で、療養所を見張らせておくべきだったのだ。もう杏奈が療養所にいない以上、ここに留まる理由もない。咲夜は地下駐車場に向かい、車に乗ろうとした。そのときだった。突然、真正面から誰かが
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第274話

目の前の女性は、自分の名前も、家族の名前も覚えていなかった。何も思い出せない。かろうじて、自分がこの療養所で暮らしているらしいということだけを、ぼんやりと覚えているだけだった。咲夜は周囲を見回し、少し考えた末、ひとまず彼女を療養所に連れて戻ることにした。このまま一人で地下駐車場に残して立ち去れば、何が起きてもおかしくない。「一緒に戻りましょう」咲夜は優しく声をかける。女性は彼女を見つめた。「おうちに帰るの?」咲夜は微笑んで頷く。「ええ、おうちに帰ろう」その言葉を聞いた女性は、目を細めて嬉しそうに笑った。「おうち、おうち」咲夜はその手を取り、エレベーターに向かって歩き出す。ところが、女性は突然足を止めた。「あっちはおうちじゃない」そう言って、地下駐車場の出口を指差す。「あっちがおうち」そう言い張り、その場から動こうとしなかった。女性は咲夜の手を振り払う。「うそつき!あなた、うそつき!」あまりにも真剣な様子に、咲夜は苦笑するしかない。自分が嘘つきではないと、どう説明すればいいのか分からなかった。その女性はどうしても咲夜について行こうとはしなかった。「うそつき」と繰り返しながら、出口に向かって歩き始める。「ちょっと待って!」咲夜は慌てて後を追い、その女性を止めようとした。だが女性は振り返ることもなく、咲夜の呼びかけなど耳に入っていない。咲夜は仕方なく、その後ろをついて行く。幸いにも、ほどなくして療養所の職員たちが駆けつけてきた。職員が女性を連れ戻そうとすると、彼女は咲夜の後ろに隠れ、どうしても一緒に帰ろうとしない。咲夜は小さな声で優しく話しかけた。「さっき、赤ちゃんを探しているって言ってたでしょう?一緒にこの人たちについて行けば、赤ちゃんに会えるよ。いい?」女性は先ほどから何度も「赤ちゃんを探す」と口にしていた。だから咲夜は、それを利用して安心させるしかなかった。女性はその言葉には納得したものの、それでも咲夜の手を離そうとはせず、一緒に赤ちゃんを探してほしいとせがむ。咲夜はその手をしっかり握り返し、職員にそっと目配せした。二人で協力しながら女性を部屋まで連れて行く。部屋に入ると、女性は辺りを見回しながら、「赤ちゃん……赤ちゃん……」と何度も呼び続けた。す
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第275話

療養所側の管理に不備があり、危うく入所者を見失うところだったのは事実だった。職員たちはしばらく施設内を捜し回ったものの見つからず、最終的に千尋に連絡を入れていたのだ。千尋も咲夜の姿に気づく。母親が行方不明にならずに済んだのは、咲夜がずっと付き添っていてくれたおかげだと聞くと、彼は軽く頭を下げた。「花江さん、ありがとうございました」咲夜は穏やかに微笑む。「気にしないで。きっと誰でも同じことをしたと思うから」千尋は彼女を見つめて言った。「今日は、お父さんのお見舞いですか?」昨日、そう話していたことを覚えていたのだ。咲夜も昨日彼と会ったことを思い出し、正直に答える。「父はもう家に連れて帰ったよ。今日は別の用事があって来たんだ」「そうだったんですね」そう返事をすると、千尋は窓辺に座る女性に視線を向けた。「母も、いつになったら家に帰れるんでしょうね……」低く落ち着いた声には、かすかな寂しさが滲んでいた。咲夜は黒澤家の事情を詳しく知っているわけではない。知っているのは、千尋が良太の従弟だということくらいだ。昨日偶然出会い、今日また思いがけず彼の母親と出会わなければ、黒澤家と関わる機会などほとんどなかっただろう。千尋は少し気まずそうに咲夜を見た。「すみません。母はアルツハイマー病で、多くのことを忘れてしまいました。父は仕事であちこち飛び回っていますし、僕も学校があります。だから、ここにお願いするしかなかったんです」その話を聞き、咲夜は胸が締めつけられる思いがした。黒澤家ほどの家柄でありながら、一人の家族すらそばで看病できないのだろうか。きっと、表には出せない事情があるのだろう。そう思いはしたものの、咲夜は何も口にはしなかった。彼女もまた、千尋の視線を追って黒澤裕美(くろざわ ひろみ)を見つめる。そして静かに口を開いた。「さっきからずっと『赤ちゃんを家に連れて帰る』って言ってた。いろんなことを忘れてしまっても、心の奥ではずっと千尋くんのことを覚えてるんだと思うわ」咲夜の推測が正しければ、裕美が口にしていた「赤ちゃん」とは、おそらく千尋のことだ。千尋はポケットに両手を入れたまま、小さく笑った。「子どもを愛さない母親なんて、いませんからね。それは母親としての本能なんでしょう」そう言ったあと、その
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第276話

「おそらく、お母さんが一番お気に入りなのは――ベッドに寝かせてある、その子でしょう」咲夜は、布団をかけられたぬいぐるみを指差した。千尋は目を見開く。「……どうして、それが分かったんですか?」咲夜は意味ありげに彼を見つめた。「その質問には答えるよ。でも、その前に一つだけ、私の質問にも答えてくれない?」その言葉に、千尋の表情がわずかに揺れた。だが彼は何も言わず、ただ咲夜を見つめ返すだけだった。その反応を見て、咲夜は自分の推測がほぼ間違っていなかったと確信する。彼女は淡く微笑み、ゆっくりと口を開いた。「私が知りたいのは――千尋くんが『千野千鶴』なのかどうか、それだけよ」ようやく思い出したのだ。さっきから、裕美のベッドに置かれているぬいぐるみに、どこか見覚えがある気がしていた。あれは「千野千鶴」のアシスタントがSNSに投稿していた、あのシュールなウサギのマスコットとそっくりだった。顔は布団で隠れていたものの、その瞬間、咲夜の脳裏に鮮明によみがえった。千尋は表情を変えないまま、咲夜の視線を受け止める。「花江さん、何をおっしゃっているのか分かりません」そう言うと、彼は無邪気な笑みを浮かべた。「この前、明覚寺でも千暁さんがそれとなく探りを入れてきましたけど、今日は花江さんまでそんなことを言うんですね。僕は本当に、『千野千鶴』なんて人は知りません」穏やかな口調でそう言い切る。その表情は真剣そのもので、とても嘘をついているようには見えなかった。ここまできっぱり否定されてしまえば、咲夜もそれ以上は何も言えない。もし彼が認めてくれたなら、協力をお願いすることもできただろう。けれど、彼は明らかに認めるつもりがない。これ以上追及したところで、意味はない。そう思うと、咲夜は胸の内で小さくため息をついた。何を言えばいいのか、自分でも分からなくなってしまう。少し考えた末、彼女はそれ以上問い詰めるのをやめることにした。千尋の表情は終始落ち着いていて、正体を見破られた動揺など微塵も感じさせない。むしろ驚いたような反応があまりにも自然で、咲夜は自分の推測が間違っていたのではないかとさえ思えてきた。所詮、ウサギのぬいぐるみ一つで断定できる話ではないのだから。千尋はゆっくりと視線を外し、咲夜に向かって
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第277話

夏樹のほうにはもう問題がないと分かっていたものの、咲夜はやはり無意識のうちに、自分がより信頼できる相手を選んでしまう。良太は千暁の親友だ。だからこそ、良太のほうが安心して任せられると思えた。雅紀はスマートフォンを取り出し、画面に文字を打ち込むと、それを咲夜の前に差し出した。【福島先生のほうで何か問題でもあったのか?】長年第一線を退いていたとはいえ、それくらいの事情は察しがつく。咲夜は少し考えた末、こんな嫌な話で両親の気分を害したくないと思った。表情を変えず、穏やかな口調で答える。「お父さん、黒澤家はもともと医療業界では有名でしょう?黒澤さんのほうから声をかけてくれたし、黒澤グループのリハビリセンターも評判がいいの。だから、黒澤グループの病院でリハビリを受けるのはいい選択だと思うの」そう言って、黒澤グループを選ぶ利点を一つひとつ挙げていく。もちろん、この決断にはあの薬の件も関係している。だが、それ以上に大きかったのは、黒澤グループなら安心して任せられるという点だった。咲夜の話を聞き終えると、雅紀はしばらく考え込んだ。やがて再びスマートフォンを操作し、画面を見せる。【お前に任せる。お前が決めてくれればそれでいい】本当は父を説得するのにもう少し時間がかかると思っていた咲夜は、その言葉に胸をなで下ろした。一方の真奈美は、二人の会話には加わらず、楽しそうに花を生けている。花瓶いっぱいに活けられた花を満足そうに眺めながら、弾んだ声で言った。「ほら、咲夜。あなた写真を撮るのが上手なんだから、何枚か撮って送って。このお花、本当にきれいだもの。SNSに載せたいわ」咲夜はすぐにスマートフォンを取り出し、何枚か写真を撮ると真奈美に送信した。メッセージを送り終え、スマホをしまおうとしたそのとき、不意にチャット画面に視線が止まる。そこには、千暁の名前が表示されていた。少し迷ったあと、咲夜は撮った写真の中から一枚を選び、彼にも送る。【お花、とてもきれい。ありがとう!】送信したあとも、すぐには画面を閉じなかった。静かに返信を待った。いつもなら、千暁はメッセージを見るとほとんどすぐ返事をくれる。だが今日は、いくら待っても返信は来なかった。少し気にはなったものの、仕事で忙しいのだろうと思い、咲夜はスマートフォ
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第278話

咲夜は病院に着くと、受付で千暁の名前を告げた。救急外来にいると聞くや否や、そのまま足早にそちらに向かう。救急処置室に入ると、千暁はいつになく痛々しい姿をしていた。白いシャツは埃で汚れ、左腕の袖は切り取られている。むき出しになった腕には、大きく裂けた傷が痛々しく残っていた。ちょうど消毒を終えたところで、医師が縫合のために局所麻酔を打とうとしているところだった。「千暁!」処置室の入口に立った瞬間、咲夜の鼻を濃い血の匂いが突いた。全力で走ってきたせいなのか、それとも血の匂いが強すぎるせいなのか、一瞬吐き気が込み上げる。それでも足早に千暁のもとに駆け寄り、左腕の傷口を目にした途端、顔色がさっと青ざめた。「どうして交通事故なんて……?」千暁は、咲夜がここに来るとは思ってもいなかった。心配そうな彼女の視線を受け、驚いたように尋ねる。「どうしてここに?」「瞳から電話があったの。あなたが事故に遭ったって。何度電話してもつながらないって、泣いていたよ」咲夜はありのままを話しながらも、視線は彼の左腕から離れない。腕にはまだ生々しい血の跡が残っていた。医師が消毒してきれいにしたとはいえ、傷そのものはかなり深い。見ているだけで胸が締めつけられ、思わず眉をひそめた。話を聞いて、千暁はようやく思い出す。事故の際、自分のスマートフォンは車に踏まれて壊れてしまった。真澄の携帯も同じく壊れ、どうやっても電源が入らなかった。だが、瞳はどうやって事故のことを知ったのだろう。そう考えながら、千暁は、あとで真澄が会計を済ませて戻ってきたら、この件はできるだけ外に漏れないよう手配してもらおうと決めた。何より、家族には知られたくなかった。事情を説明すると、咲夜もようやく胸をなで下ろした。彼女はスマートフォンを取り出して瞳に電話をかけ、そのまま千暁に差し出す。「瞳に無事だって伝えてあげて。すごく心配して泣いてたから」千暁がスマートフォンを受け取ると、受話口から瞳の涙混じりの声が聞こえてきた。「咲夜、どう?お兄ちゃんは見つかった?」その今にも泣き崩れそうな声を聞き、千暁は苦笑しながら口を開く。「瞳、俺だ。大丈夫だから」「うわぁぁん!お兄ちゃん、本当に心配したんだから!電話もつながらないし、灰原さんにも連絡できない
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第279話

真澄は支払いをすべて済ませると、ちょうど二人と鉢合わせになった。咲夜の姿を見て、驚いたように目を見開く。「花江さん」そして隣で点滴を受けながらも、口元の笑みをどうしても隠しきれない上司に視線を移し、真澄は心の中でしみじみと思った。――やっぱり恋の力ってすごいな。咲夜は真澄の服も埃まみれになっていることに気づき、小声で声をかけた。「灰原さんも診てもらったほうがいいんじゃないですか?」見たところ、真澄は千暁ほどひどくはなさそうだったが、決して無傷には見えない。服には大きく血が付着していた。咲夜の視線に気づいた真澄は、自分の服を見下ろして軽く咳払いをする。「私は大丈夫です。ただの擦り傷なので。この血も全部、社長のものです」それは事実だった。あのとき、千暁はとっさに身をかわしたおかげで致命傷は免れたが、それでも腕を鋭利なものに引っかけ、大きく切ってしまった。もっとも、もう一人のほうは、かなり危険な状態だろう。そう思うと、真澄の表情に暗い影が差した。咲夜は点滴を受けながら大人しく座っている千暁を見つめ、何か言いかけては飲み込む。その後、真澄は咲夜が来たことで安心したのか、再び病院内を慌ただしく走り回り始めた。「……一体何があったの?実家に戻ったんじゃなかったの?それなのに交通事故って……」少し迷った末、咲夜はやはり尋ねた。千暁は彼女を見つめ、静かに説明する。「確かに一度は実家に戻った。でもそのあと、真澄から小松杏奈が逃げようとしていると連絡があって、すぐ追いかけたんだ。小松は俺たちを見るなり慌てて逃げ出して、そのまま道路を横切ろうとして車にはねられた。その車はUターンして逃げようとしたんだけど、その途中で俺にも突っ込んできた。避けきれなくて腕を強く打って、その拍子に近くにあった金属にぶつかって切ったんだ」千暁は、ありのままを話した。咲夜は目を大きく見開く。「小松杏奈に会いに行ったの?」実は、咲夜から薬の成分検査を頼まれたあと、千暁はすぐ真澄に命じ、夏樹と杏奈の動きを密かに監視させていた。検査結果が出ると、千暁はまず実家で用事を済ませ、そのあと杏奈に直接事情を聞くつもりだった。ところが、杏奈のほうも何かを察したらしい。咲夜が雅紀を連れて帰宅したあと、杏奈は慌てて休暇を取り、荷物をまと
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第280話

「小松杏奈のほうはまだ救命処置中で、かなり厳しい状況です」真澄は、ちょうど救急処置室の前から戻ってきたところだった。様子を聞いてきたところ、杏奈が搬送された時点で、すでにバイタルサインはかなり弱っていたという。危篤通知もすでに何度か出されており、助かる見込みは極めて低いらしい。その報告を聞き、咲夜は眉をひそめた。千暁は落ち着いた声で指示を出す。「何があっても目を離すな。まだ息がある限り、いつか尻尾を出すはずだ」まだ救命処置の最中だ。今の段階では、何も断言できない。もちろん、杏奈が助かるに越したことはない。だが、このまま命を落としたとしても、それはもうどうしようもないことだった。真澄はここに来る前に、必要な手配はすべて済ませていた。杏奈の家族も、今こちらに向かっている。真澄は救急処置室の方向を一瞥すると、何も言わず視線を戻した。咲夜は、ずっと千暁のそばについていた。千暁が点滴を受けている間に、真澄は一度家に戻り、着替えを持ってきた。点滴が終わると、千暁は血の付いた服を着替え、咲夜に付き添われて帰宅する。咲夜の手には、彼が服用する薬の入った袋が提げられていた。人気のない部屋を見回しながら、咲夜は口を開く。「一人だと料理も大変でしょう?家事代行を頼むとか、それとも――」「知らない人が家に出入りするのは好きじゃないんだ」千暁は小さくそう言った。それが、彼がいつも自炊している理由でもある。彼の住まいに出入りするのは、真澄と瞳くらいのものだ。荻野家の両親でさえ、めったに訪れない。他人が自分の空間に踏み込むことを、千暁は極端に嫌っていた。荻野家の使用人が掃除をしに来ることはあるが、それでも週に一度だけ、しかも必ず千暁が留守の時間を選んで入っていた。咲夜は本当は、家事代行か住み込みの家政婦を頼んで、食事や身の回りの世話をしてもらってはどうかと提案するつもりだった。しかし、千暁の一言を聞いた瞬間、「家政婦」という言葉を飲み込む。彼女は目の前の男性をじっと見つめ、どうすればこの状況を解決できるのか考え込んだ。そんな咲夜に向かって、千暁は穏やかに言う。「昼間は会社にいるし、身の回りのことは灰原が見てくれる。心配はいらないよ」その言葉に、咲夜は思わず目を見開いた。「まだ会社に行くつも
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