جميع فصول : الفصل -الفصل 270

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第261話

咲夜は雅紀の部屋を訪れたが、そこに彼の姿はなく、清掃スタッフが部屋を片づけているだけだった。スタッフは笑顔で説明する。「お母さんがお父さんをお庭にお連れになって、日向ぼっこをされています。お庭に行かれれば、お会いになれますよ」「ありがとうございます」咲夜も微笑んで応じた。雅紀は普段から庭で日向ぼっこをするのが好きだ。咲夜はそのまま庭に向かった。角を曲がったところで、危うく誰かとぶつかりそうになる。慌てて足を止めた。「すみま――」そこまで言いかけて、相手の顔を見た瞬間、言葉を失った。千尋だった。今日の彼はいつもの雰囲気とは違い、ずいぶん若々しい格好をしている。ダメージジーンズにスニーカー、フード付きのパーカーという、まさに大学生らしい装いだ。首には白いオーバーイヤー型のヘッドホンが掛けられている。彼は顔を上げると咲夜と目を合わせ、人懐っこく笑った。「花江さん、奇遇ですね」「そうね」咲夜は軽くうなずいた。まさか療養所で彼と会うとは思ってもいなかった。千尋は自分から口を開く。「母がこの療養所に入っているので、お見舞いに来たんです」その言葉を聞いた咲夜は、ただうなずくだけだった。何を言えばいいのか分からない。すると、千尋が続けて尋ねる。「花江さんは、どうしてこちらへ?」「父がお世話になってるの」隠すようなことでもないと思い、そのまま答えた。千尋は小さく笑う。「それは本当に偶然ですね。それじゃ、僕はこれで。お邪魔でしょうから」「ええ」咲夜は療養所で千尋と会ったこと自体には、特に何も思わなかった。ただ、彼の母親も同じ施設に入っているとは少し意外だった。庭に出ると、遠くに母の真奈美が雅紀にスープを飲ませている姿が見えた。真奈美は珍しく穏やかな笑みを浮かべ、家のリフォームが進んでいることを楽しそうに話している。そのとき、千雪からメッセージが届いた。【花江さん、お金の準備できました】咲夜はすぐに洸に口座番号を尋ね、そのまま千雪に転送した。それを済ませると、両親のもとに歩いていく。雅紀は咲夜の姿を見つけると、手を振った。「咲夜」「お父さん、お見舞いに来たよ」咲夜は父の隣に腰を下ろし、母の手からスープの器を受け取る。「お母さん、ここは私がやるね」「お願い」真奈美は器を渡
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第262話

「杏奈(あんな)さん、お薬の処方が変わったんですか?」咲夜は看護師に尋ねた。小松杏奈(こまつ あんな)は、雅紀が療養所に入所した当初から担当になっている看護師で、これまでずっと彼の身の回りの世話をしてきた。咲夜より一回り年上ということもあり、普段から親しみを込めて「杏奈さん」と呼んでいる。杏奈は笑顔で答えた。「ええ、そうなんです。お父さん、最近はリハビリ治療を進めていますでしょう?それで福島先生がお薬を変更されたんですよ」そして穏やかな表情のまま雅紀に向き直る。「花江さん、お薬はちゃんと飲んでくださいね。それでは私は失礼します。ご家族とのお時間を邪魔しちゃ悪いですから」真奈美が雅紀に薬を飲ませようとした、そのときだった。「待って」咲夜がそれを制した。薬を自分の手に取り、雅紀に言う。「お父さん、今日はこの薬は飲まなくていいから。お水だけ飲んで。杏奈さんに聞かれたら、『もう飲みました』って答えてね」「咲夜、この薬に何か問題があるの?」真奈美は咲夜の言葉を聞くなり、不安そうに問いかけた。咲夜は安心させるように微笑む。「まだ分からない。ただ、少し引っかかることがあるの。処方が変わったなら、昨日お父さんの様子を電話で教えてくれたときに、福島先生が私に何も言わなかったのは不自然だから」どう考えてもおかしい。これまでもリハビリの経過に合わせて処方が変更されたことは何度かあった。そのたびに福島先生は必ず咲夜に連絡し、薬の名前まで送ってくれていた。なのに、今回だけ何の説明もない。そんなはずはない。そう思いながら、咲夜は雅紀の前にしゃがみ込んだ。「お父さん、この薬、飲み始めてどれくらい?」雅紀は少し考えたあと、指を三本立てて見せた。まだ話すことには苦労しており、あまり話そうとしなかった。簡単なやり取りなら、手振りだけで済ませることがほとんどだった。咲夜は静かに言う。「じゃあ、もう飲まなくていいよ」雅紀は素直にうなずいた。真奈美は心配そうに咲夜を見つめる。「やっぱり、お父さんを家に連れて帰ったほうがいいんじゃない?」普段ならまだしも、咲夜のこれほど真剣な表情を見るのは久しぶりだった。不安のあまり、真奈美の目には涙がにじみ始めていた。その様子を見た咲夜は、優しく声をかける。「大丈夫。今から福島先
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第263話

雅紀が入所している療養所は、華和総合病院と併設されている。夏樹は普段は華和総合病院で診療を行っており、毎週水曜日と金曜日だけ療養所に来て診察を担当していた。咲夜の話を聞くと、夏樹はすぐに二枚の書類を印刷した。「ご家族がそばにいてあげられるのが一番です。お父さんがご自宅に戻る決心をされたのなら、本当に良かったですね」一枚は退所手続き用の書類、もう一枚は雅紀が服用する薬の処方一覧だった。夏樹は真剣な表情で言葉を続ける。「ご家族の皆さんには、どうかお父さんにこれまで以上に根気よく接してあげてください。焦らせず、できるだけ一緒に過ごしてあげることが大切です。何かありましたら、いつでも私にご連絡ください」咲夜は注意事項を一つひとつ丁寧に聞き取り、それから書類を持って退所手続きに向かった。ちょうどそのとき、千暁から電話がかかってきた。電話越しに周囲の騒がしい音が聞こえたのか、千暁が尋ねる。「外にいるのか?」「うん。今、療養所。父を家に連れて帰る手続きをしてるところ」そう答えながら、咲夜は書類を窓口に差し出した。千暁は少し声を潜める。「お父さん、もう退所できるんだね。俺に何か手伝えることはある?」その言葉に、咲夜は思わず目を見開いた。まさか千暁のほうから手伝いを申し出てくれるとは思っていなかった。その瞬間、晴南のことが頭をよぎる。以前、雅紀の見舞いに一緒に来てほしいと頼んでも、晴南はいつも、「忙しいんだ。それに行ったところで役に立たないだろ」の一言で話を終わらせてしまっていた。そう思うと、二人の違いはあまりにも大きかった。咲夜は「大丈夫、自分で何とかできる」と言おうとした。だが、その前に受話器の向こうから椅子を引く音が聞こえた。続いて、千暁が言う。「今から療養所に行く。そこで待っていて」返事をする暇もなく、通話は切れてしまった。咲夜はスマートフォンを見つめたまま、しばらく呆然とした。千暁が来る?でも、どうして療養所の場所が――そこまで考えて、咲夜はすぐにその疑問を打ち消した。千暁は何年もの間、ずっと自分を気にかけてきた。父がどこの療養所に入っているかを知っていても、不思議ではない。ただ、千暁が来れば、両親に必ず顔を合わせることになる。二人の関係を、両親にどう説明すればいいのだろ
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第264話

咲夜が千暁を連れて病室に戻ると、雅紀と真奈美はそろって目を丸くした。退所の手続きに行っただけのはずが、まさか男性を連れて戻ってくるとは思ってもいなかったのだ。しかも、その相手は千暁だとは。真奈美は咲夜と千暁を何度も見比べる。どうして、この二人がこんなにも親しげなのだろう。一方で、雅紀は真奈美ほど取り乱さなかった。「雅紀さん、真奈美さん」千暁は自ら歩み寄り、二人に丁寧に頭を下げた。物腰は終始穏やかで礼儀正しく、世間で噂されるような冷たいイメージは微塵もない。以前に何度か顔を合わせたことがなければ、雅紀も世間の評判はまったくの作り話ではないかと思ったほどだった。雅紀は目を細め、目の前の青年を静かに見つめる。その眼差しには探るような色が宿っていた。咲夜と千暁の間に、何か大きな変化があった。それだけははっきりと分かる。だが、千暁がいるこの場で咲夜を問いただすつもりはなかった。真奈美はようやく我に返り、ぎこちなく笑みを浮かべる。「い、いらっしゃい」雅紀も軽くうなずき、それだけで挨拶に代えた。千暁は二人に向き直り、穏やかに説明する。「咲夜と少しお話しする用事がありまして、お邪魔しました。事前のご連絡もなく突然伺ってしまい、申し訳ありません。どうかご容赦ください」招かれざる訪問になってしまったことを、素直に詫びる。その誠実な態度に、真奈美はかえって戸惑ってしまった。外では「氷のように冷たい男」とまで言われている千暁が、目の前では終始柔らかな表情を浮かべている。本当に、同一人物なのか……?思わずそんな疑問が頭をよぎるほどだった。雅紀は相変わらず黙ったままだった。真奈美は笑みを浮かべる。「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、わざわざ来ていただいてありがとう」そう言ってから咲夜に視線を向けた。「荷物はもうまとめてあるわ。着替えや洗面用品は家にもあるし、こっちの物は処分してもらうことにしたの。人だけ帰れば大丈夫よ」部屋の片づけはほとんど終わっていた。咲夜も、それで十分だと思った。とはいえ、最低限の荷物だけでも、小さなキャリーケース一つ分ほどになった。すると千暁が自然に手を伸ばした。「真奈美さん、俺が持ちます」真奈美が「そんな、気にしないで」と断ろうとしたが、その前に咲夜が口
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第265話

両親を月見台に連れて帰ると決めたとき、咲夜はあらかじめ詩乃に事情を伝えておいた。詩乃のほうは、家具がすべてそろうまであと二日ほどかかる予定だった。礼儀として、一言伝えておくべきだと思ったのだ。また、詩乃がしばらく自宅に滞在していることも、雅紀と真奈美にはきちんと説明していた。二人とも特に異論はなかった。家に着き、咲夜が車を停めると、後ろを走っていた千暁も続けて車を停めた。千暁は再び雅紀の前にしゃがみ込む。「咲夜、先にドアを開けてくれる?俺が雅紀さんを背負って中へ運ぶよ。トランクの荷物も、あとで俺が取りに行く」咲夜が何か言おうと口を開いたときには、千暁はすでに雅紀を背負って立ち上がっていた。その姿を見て、咲夜は先に玄関に向かうしかなかった。千暁は雅紀をリビングまで運ぶと、そっとソファに座らせる。さらにクッションを手に取り、腰の後ろに丁寧に当てた。その様子を、部屋に入ってきた咲夜と真奈美は目にする。気づけば千暁は二人の横を通り過ぎ、再び外に出て行っていた。しばらくして戻ってくると、片手にはキャリーケース、もう片方の手には折り畳んだ車椅子を持っている。荷物を運び終えると、咲夜に視線を向けた。「ほかに俺ができることはある?」咲夜は感謝を込めて微笑む。「もう大丈夫。本当に今日はありがとう」しかし千暁は気にした様子もなく言った。「じゃあ俺はいったん帰るよ。灰原に食材を届けさせるから、夕飯は俺が作りに来る」咲夜は両親の部屋を整えたり、何かと忙しくなるだろう。買い物をして夕食まで作る時間はないはずだ――そう考えていた。咲夜は断ろうとした。デリバリーを頼めば済む、と言うつもりだった。だが、その前に千暁は彼女の考えを見抜いたように笑う。「どうせ俺も一人分だけ作るのは面倒だし、デリバリーばかりじゃ体にも良くない。この話はこれで決まりだ」そう言い残すと、真奈美と雅紀にも丁寧に挨拶をして家をあとにした。千暁が出て行くと、真奈美はそっと咲夜の袖を引く。「咲夜……あなたと千暁さん、その……」言葉を濁したものの、聞きたいことは明らかだった。二人は付き合っているのではないか。そうでなければ、あそこまで気を配ってくれるだろうか。しかも夕飯まで作りに来るという。家に出入りするほど親しい
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第266話

咲夜は父の表情が曇ったことに気づき、とりなそうと口を開きかけた。だが、それより先に千暁が再び口を開く。「雅紀さん、真奈美さん。今日のことは、俺が軽率でした。本当なら、こんなに早く自分の気持ちをお話しするべきではなかったと思っています。ただ俺は、堂々と咲夜の隣に立って、彼女を支えたかっただけなんです。お二人は、この世界で彼女にとって何より大切な存在です。俺の気持ちは恥ずかしくて隠すべきものではありませんし、お二人にだけは正直にお伝えしたいと思いました」そう言うと、千暁は咲夜をまっすぐ見つめて続けた。「それと、咲夜はまだ俺と付き合うことを承諾していません。俺の一方的な片思いにすぎないんです。責めるなら俺を責めてください。咲夜を叱らないであげてください」千暁は、自分が帰ったあとで雅紀や真奈美が咲夜を責めるのではないかと案じ、すべての責任を自分一人で背負おうとしていた。それは、咲夜を守るためだった。その様子を見た真奈美は、ただ驚くばかりだった。雅紀はなおも不機嫌そうな顔をしていたが、長い沈黙の末、ようやく口を開く。「……帰ってくれ」今は、どうしても千暁と向き合う気になれなかった。「では、また後ほど伺います」そう言い残すと、千暁は車のキーを手に屋敷をあとにした。彼が出ていくや否や、真奈美はすぐに咲夜に尋ねる。「千暁さんがあなたを好きだって、知っていたの?」ここまで来れば、もう隠す必要もない。咲夜は素直にうなずいた。「数日前に告白されたの。でも、そのときは断ったわ」それを聞き、真奈美はようやく少し安心したように息をつく。「じゃあ、どうして千暁さんと関わるようになったの?前にあなたをかばってくれたのも、あなたのことが好きだったから?」雅紀は真奈美を見た。「……かばった?」その一言で、真奈美ははっとした。雅紀は療養所で静養しているため、心配をかけないよう、最近外で起きた出来事は何も伝えていなかったのだ。とくに、以前の森崎家がしでかした数々の騒動は、雅紀を再び刺激することを恐れて伏せていた。咲夜は雅紀の前まで歩み寄ると、その場にしゃがみ込み、父を見上げた。「お父さん。会社を引き継いでから、お父さんがどれだけ大変な思いをしてきたのか、ようやく分かったの。それに、私と千暁は噂みたいに犬猿の仲なんかじゃないわ。
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第267話

千暁が先ほど目の前で口にした言葉も、その態度も、とても芝居には見えなかった。雅紀は、自分の娘が誰より劣るとは思っていない。――あの青年には見る目がある。そう思うと、認めたくない気持ちは残っていても、雅紀は少しずつ自分自身を納得させていった。父の表情が和らいだのを見て、咲夜も胸の内でそっと安堵の息をつく。立ち上がると、微笑んで言った。「ゲストルームを少し整えてくるね」そう言って、一階のゲストルームに向かった。……千暁は帰宅すると、すぐに咲夜にメッセージを送った。【俺が帰ったあと、ご両親に怒られたりしなかった?】画面に表示された短い文章からも、彼の緊張が伝わってくる。咲夜は思わず笑みを浮かべ、簡潔に返信した。【大丈夫。父は昔から私に甘いから、怒ったりしないわ。心配しなくていいから】返信を送り終えたところで、真奈美が部屋に入ってきた。咲夜は母に声をかける。「ハウスクリーニングの業者さんに連絡しておいたの。あとで余分な家具を運び出してもらえば、お父さんも出入りしやすくなると思って。ほかに必要なものはある?」部屋の片づけはほとんど終わっていた。真奈美は室内をぐるりと見回し、穏やかに答える。「十分よ。そんなに手間をかけなくてもいいわ」「全然手間じゃないわ」そう言ってから、咲夜はどこか言いにくそうな母の表情を見つめた。「お母さん、何か話したいことがあるの?」――きっと、千暁のことだ。そう思った。咲夜が切り出したことで、真奈美も覚悟を決めたように口を開く。「あなたと千暁さん、本当に彼が一方的にあなたを想っているだけなの?あなたは、彼のことをどう思っているの?」咲夜は正直に答えた。「今は仕事上のパートナーよ。私たちは、まだただの友達」それを聞いた真奈美は、小さくうなずく。「それならいいの。ああいう名家は、私たちが釣り合う相手じゃないわ。できることなら、千暁さんとはあまり深く関わらないほうがいい。事情を知っている私たちならともかく、周りの人はそうは見てくれないもの。お母さんは、あなたたちのことに口を出したいわけじゃないの。いろいろ経験してきた今のあなたなら、自分でちゃんと判断できるって信じてる。でも、荻野家は……」そこまで言って、真奈美は少しためらう。「天志さんも絢子(あやこ)さんも、そう簡単に
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第268話

千暁が買い物袋を提げてやって来たとき、真奈美と雅紀は部屋で休んでいた。そのため、夕食の支度をするのは咲夜と千暁の二人だけだった。咲夜が雅紀を診てもらうために医師を探したいと話すと、千暁が軽く咳払いをして口を開く。「一人、紹介できる先生がいる。祖父の古くからの友人で、東洋医学に詳しい先生なんだ。祖父も祖母も、長年その先生に体の調子を診てもらってる」千暁の祖父・荻野啓介(おぎの けいすけ)と祖母の荻野秀子(おぎの ひでこ)は、すでに八十歳を超えている。それでも二人は驚くほど元気で、屋敷の隣にある広い畑を何十反も買い取り、時には自ら鍬を担いで畑を耕し、野菜を育てていた。さらに小さな牧場まで作り、鶏やアヒル、ガチョウ、牛や羊を飼い、大きな養魚池まで備えている。悠々自適という言葉がぴったりの暮らしぶりだった。咲夜も荻野家の老夫婦のことは知っている。千暁を見つめ、少し遠慮がちに尋ねた。「ご迷惑じゃない?」あの二人と親しく付き合える人物なら、相当な立場の人に違いない。千暁は笑ってうなずいた。「全然。今夜帰ったら祖父に話してみる。祖父から先生にお願いしてもらうよ」この件は自分に任せてくれればいい。そういう自信が、その口調にはあった。咲夜は少し考えてから言う。「それなら、父のここ数年分のカルテと検査結果を渡してもいい?」「その方がいいね」千暁はうなずいた。「祖父から先生に、お父さんのカルテを診てもらえるようお願いするよ。ただ、時間ができたら、やっぱり一度お父さん本人を連れて診察を受けて」資料だけじゃ分からないこともあるし、実際に診てもらうのが一番だから。「うん」咲夜は静かにうなずいた。二階に上がると、雅紀のカルテや検査結果を整理してコピーを取り、一冊のファイルにまとめて千暁に渡した。千暁はファイルを受け取る。続いて咲夜は、小さな密封袋を取り出して彼に差し出した。中には、今日療養所で雅紀に飲ませなかった薬が入っていた。千暁は首をかしげる。咲夜は真剣な表情で口を開いた。「良太さんと親しいでしょう?この薬を検査してもらえるよう、お願いできる?」その一言で、千暁はすぐに察した。「……お父さんの薬に、誰かが細工をしたと疑っているのか?」咲夜は静かにうなずく。「療養所の看護師さんは、福島先生が処方を変
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第269話

真奈美はそっと夫の様子をうかがった。雅紀が特に不機嫌そうな様子を見せていないことを確認し、ようやく胸をなで下ろす。料理が出来上がると、咲夜が皿を食卓に運んだ。一通り支度を終えたところで、千暁は口を開く。「少し用事がありますので、これで失礼します」咲夜には、その理由が分かっていた。雅紀の気分をこれ以上悪くさせたくなかったのだ。でも料理だけ作らせて、そのまま帰ってもらうなんて、そんな失礼な話があるだろうか。雅紀は千暁を見て、短く言った。「……一緒に、食べよう」自ら食事に誘ったのだ。雅紀も理不尽な人間ではない。千暁の気持ちにはまだ半信半疑だったとしても、せっかく手間をかけて料理を作ってくれた相手を、そのまま帰らせるわけにはいかなかった。そんなことをすれば、世間から花江家がどう見られるか分からない。雅紀の言葉を受け、千暁も自然な流れで席に着き、一緒に夕食を囲むことになった。食事が始まると、千暁は自ら話題を振り、場の空気を和ませていく。咲夜も気まずくならないよう、彼が話しかけるたびに自然と会話を返した。そんな二人のやり取りは、真奈美と雅紀の目にはとても穏やかで自然なものに映る。まるで以前から、ずっとこうして過ごしてきた二人のようだった。さらに食事中の千暁は、終始さりげなく咲夜を気遣っていた。その細やかな気配りに、真奈美でさえ思わず感心してしまう。母親である自分ですら、ここまで細かく娘の世話を焼いたことはなかった。そう思うと、少しだけ気恥ずかしい気持ちにさえなった。一方の雅紀も、食事の間ずっと千暁の一挙手一投足を静かに観察していた。認めざるを得ない。千暁の思いやりと細やかな気配りには、確かに心を動かされるものがあった。荻野家という肩書きを抜きにして考えれば、彼の振る舞いは十分すぎるほど好感が持てる。もちろん、それだけで全てを認めるつもりはなかったが。やがて雅紀の視線は咲夜に向く。千暁がどれほど気を配っていても、咲夜は終始、一定の距離感を保っていた。よく見れば、本当に友人として接しているようにしか見えない。そして千暁の態度も、先ほど口にした「自分が一方的に咲夜を想っている」という言葉と矛盾していなかった。雅紀は静かに視線を落とし、黙々と箸を進める。娘の恋愛に
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第270話

夜九時を回った頃、咲夜のスマートフォンが鳴った。千暁からだった。どこか重苦しい声で言う。「検査結果が出た。良太もこっちにいる。来られる?」本当なら、自分が報告書を咲夜の家まで届けることもできた。だが今は雅紀と真奈美も一緒に住んでいる。この結果を二人に知られたいのかどうか、それは咲夜自身が決めるべきことだと思った。その沈んだ口調を聞いた瞬間、咲夜も事態の深刻さを察する。「今すぐ行くわ」胸の奥に、不安が広がっていく。今日気づけたのは、まだよかった。でも、それ以前に飲んでいた薬は……?咲夜は室内履きのまま急いで家を出て、隣の千暁の家に向かった。リビングに入ると、良太が咲夜の姿を見つけるなり、反射的に叫んだ。「奥さん!」そう呼んだ瞬間、自分でも「あっ」と気づく。言い直そうにも、もう遅かった。突然そんな呼び方をされ、咲夜は思わず足をもつれさせる。危うく転びそうになったところを、隣にいた千暁が素早く支えた。千暁は冷たい視線を良太に向ける。「勝手にそう呼ぶな」そんな呼び方をして、咲夜に距離を置かれでもしたらどうするつもりだ。良太は気まずそうに頭をかいた。「まあまあ、そのうち本当にそうなるんだから、今のうちから慣れておこうってことで。ね、奥さん?」咲夜は引きつった笑みを浮かべる。否定したいのに、どう返せばいいのか分からなかった。千暁は良太の後頭部を軽くはたく。「ふざけるのはそこまでだ。本題に入れ」その一言で良太も真顔に戻り、検査報告書を咲夜に差し出した。「預かった薬は全部調べた。大半は問題なかったけど……二種類の薬が混入していた。一つは長期間服用すると神経を麻痺させるもの。もう一つは血液を粘稠化させ、血栓をできやすくする薬だ。長く飲み続ければ、脳梗塞を再発する危険性がある」その結果を見た瞬間、良太は思わず悪態をつきそうになった。――こんなことをするなんて、人間のやることじゃない。これで雅紀が何年も立ち上がれなかった原因も、この二種類の薬にあるのではないかと疑われた。咲夜の顔から血の気が引いた。薬がおかしいとは疑っていた。だが、本当に問題が見つかるなんて。しかも、もう手遅れなのではないか。そう尋ねようとした矢先、良太が続ける。「ただ、おそらく服用期間はま
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