Alle Kapitel von 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Kapitel 51 – Kapitel 60

89 Kapitel

第51話 劇

 土曜日の夜。 鷹宮はクライアントとの会食を早めに切り上げ、ゴルフ場からそのまま劇場へと向かった。到着した時には、陽菜はすでに一階ロビーで待っていた。「ごめん、陽菜さん。待たせたかな」「いえ、鷹宮さん。ちょうど今、入場が始まったところです」 陽菜は今日、肩元にリボンのあしらわれたニットに、小花柄のロングスカートを合わせ、その上からキャメル色のコートを羽織っていた。柔らかな色合いが彼女によく似合い、いつも以上に目を引く装いだった。 鷹宮も思わず視線を留め、素直に口にする。「その格好、すごく似合ってるね」「あ、ありがとうございます……」 褒められた瞬間、陽菜は思わずコートの袖をきゅっと掴み、うつむきがちに礼を言った。 その頬は、ほんのりと色づいている。 鷹宮にミュージカルへ誘われてから、まだ一週間ほどしか経っていない。 それでも陽菜にとっては、毎日が夢のようで、胸が浮き立つばかりだった。この日が来るのを待ちきれず、それでいてどこか現実味がないほどに。 やがて開演が近づき、ロビーには入場待ちの列ができ始める。 鷹宮は陽菜を伴って最後尾に並び、スマートフォンを取り出して、一条から送られてきたチケットの認証コードを表示させた。 このミュージカルは、鷹宮が最も好きだと言っていた作品だ。 二十年前からロングランを続け、映画やドラマといった派生作品も数多く生まれている。ミュージカルに詳しくない陽菜ですら、その名を耳にしたことがあるほど有名だった。 そして実際、鷹宮がこの作品を特別に思っていることは明らかだった。普段は感情の起伏をあまり見せない彼だが、今はどこか浮き立つような気配がある。 劇場は広く、入場を待つ列は幾重にも連なり、ロビーには人々のざわめきが絶えず満ちていた。 陽菜は静かに彼の隣に並び、ときおりそっと横顔を盗み見る。柔らかく微笑むその表情を見ているだけで、時間があっという間に過ぎていくようだった。 上演が始まると、陽菜は一瞬たりとも見逃すまいと、息を詰めるようにして舞台を見つめた。鷹宮が好きだと言っていた作品だからこそ、余計に真剣になってしまう。 やがて幕間。「ごめん、少し席を外してもいいかな。電話とメールを確認してくる」 鷹宮は申し訳なさそうにそう言って席を立った。 陽菜はひとり席に残り、入場時にもらったパンフレットをめ
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第52話 娘を紹介

 鷹宮が戻ってきたのは、後半が始まる直前、まさにぎりぎりのタイミングだった。 すでに場内は暗く落ちており、彼は足早に席へと戻る。 そのまま腰を下ろすと、鷹宮はふと暗がりの中で陽菜のほうへ視線を向けた。まるで、自分が戻ってきたことを知らせ、安心させるかのように。 照明は弱く、輪郭さえ曖昧になるほどの暗さだった。それでも陽菜には、はっきりと分かってしまう。 彼の双眸と視線が重なったその瞬間、ふっと浮かべられたやわらかな微笑み。 ただそれだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。心臓はまるで制御を失ったかのように、激しく打ち始めた。 慌てて顔を逸らし、陽菜は視線を舞台へ戻した。 けれど、先ほどの視線の交差が胸に残って離れず、前半のように集中することは、しばらくできなかった。 それでも、舞台はすぐに彼女を引き込んでいく。 この作品は、ミュージカルに詳しくない陽菜でさえ自然と物語に没入できるほど魅力的だった。 今回のキャストは海外から巡回公演で来日した劇団で、出演者はどれも名の通った実力派ばかり。公演発表の時点で大きな話題を呼び、チケットの倍率も非常に高かったという。 クライマックスでは、陽菜の目にも思わず涙が滲んだ。 終演後も余韻はなかなか消えず、胸の奥に温かいものが残り続けている。 その高ぶる想いを、誰かに伝えたくて、陽菜は思わず鷹宮のほうへと視線を向けた。 だが、目に映ったのは、片手でこめかみを押さえ、もう一方の手にスマートフォンを握る彼の姿だった。 その画面には、またしても母親からの着信が表示されていた。「鷹宮さん……」「ごめん、陽菜さん。少し電話に出てくる。すぐ戻るから、外で待っていてもらえるかな」 仕事に加え、最近は両親からの圧力も重なっている。陽菜にはその大変さを完全に理解することはできないが、それでも彼を案じずにはいられなかった。「はい、鷹宮さん」 頷くと、鷹宮はふと何かを思い出したように言う。「……陽菜さん、コート、持っててもらっていい?」 それは、すぐに戻るという意思表示なのか、それとも別の意図があったのか。鷹宮は自分のコートを、そっと陽菜に差し出した。 一瞬戸惑い、陽菜はわずかに遅れてそれを受け取る。「コートまで預けちゃってるからね。そんなに待たせないよ」 少し困ったような陽菜の表情に気づいたのか、鷹宮は
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第53話 釣り合わない

 陽菜は思わず足を止めた。ちょうどその瞬間、鷹宮の視線もこちらへ向けられる。 ほんの数秒、彼の目が陽菜の上に留まる。 だがすぐに、どこか申し訳なさを滲ませるように視線を外し、再び目の前で熱心に娘のことを語り続ける男へと向き直った。 その一連の仕草を目にした瞬間、胸の奥に、冷たいものがすっと差し込まれる。 まるで、ついさっきまで確かにそこにあった温もりを、誰かにそっと奪い取られてしまったかのような、空虚で頼りない感覚だった。 男は明らかに、鷹宮と自分の娘を引き合わせようとしている。その隣に立つ少女もまた、それを拒んでいる様子はなかった。 これ以上、聞いていられない。 鷹宮が何を答えるのかを知るのが怖くて、陽菜は彼が口を開く前に、慌てて背を向けた。 そのまま、退場する人の流れに紛れるようにして、一階ロビーへと足を向ける。 先ほどの少女は、一目で分かるほどの“そういう存在”だった。 愛され、恵まれ、何不自由なく育てられてきた、そんな空気を纏った令嬢。 それに比べて、自分は帰る家もなく、誇れる仕事もない。今ここにいられるのだって、鷹宮の好意にすがっているだけで――。 胸の奥に、じわりと沈むような感情が広がる。 階下へ降りる途中、すれ違う人々は皆、それぞれに似合う相手と並んで歩いていた。 その光景を目にするほどに、陽菜は思わず腕に力を込め、抱えていた鷹宮のコートを強く抱きしめる。 自分はどうしてこんなにも勘違いしてしまったのだろう。 鷹宮の優しさに触れるうちに、いつの間にか、あり得ない幻想を抱いてしまっていた。 けれど現実は、たった一つの光景だけで、あっさりと突きつけられる。 自分と鷹宮が、どれほど釣り合わない存在であるかということを。* ロビーの人波は次第にまばらになっていく。 陽菜はそのまま外へ出て、劇場の階段に立ち止まり、ぼんやりと通りの景色を眺めていた。 土曜の夜。 笑い声と話し声が入り混じり、行き交う人々の足取りもどこか軽やかだ。ネオンの灯りが絶え間なく瞬き、街は華やかな光に包まれている。 どれくらいそうしていたのか分からない。やがて背後から、少し息を切らした声が届いた。「ごめん、陽菜さん。待たせたね」「……あっ、いえ、大丈夫です。私は全然……鷹宮さんはお仕事のほうが大事ですから」 振り返ると、鷹宮は駆けてきた
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第54話 見抜く一条

 時間はまだ早く、駅へ向かう途中、陽菜は通りにできている長い列に気づき、思わず足を止めてしばらく眺めてしまった。 どうやら映画のプロモーションイベントらしい。 列の先には、色とりどりの花で飾られた円形の小さなブースが設けられ、周囲にはイルミネーションの灯りがきらめいている。ひと目で写真映えすると分かる華やかさで、並んでいる人の多くがカップルなのも頷けた。 内容を把握し、陽菜は再び歩き出そうとするが、不意に背後から思いがけない声に呼び止められた。「――藤野? こんなとこで何してんだ」 振り返ると、そこにいたのは予想外の人物だった。「一条くん……!?」 今日はどういうわけか、外に出れば知り合いにばかり出くわす、不思議な一日だった。 そして一条の隣に立っていた立花もまた、驚きを隠せない様子で目を見開いていた。「修司、お前……藤野と知り合いなのか?」「翔人もか?」 三人はほぼ同時に驚きの声を上げ、そのまま言葉を失った。 互いに顔を見合わせるものの、驚きの余韻に縛られるように、誰ひとりとしてすぐには口を開けない。どこから話し出せばいいのか分からず、ぎこちない視線だけが行き交う。 しばらくその場には言葉にならないままの気配だけが残り、奇妙な沈黙が静かに降りてきた。* 落ち着いた雰囲気のバーには、やわらかなピアノの旋律が静かに流れていた。陽菜は二人に連れられて奥の席に腰を下ろし、甘めのカクテルを一杯注文する。「まさか修司と藤野が高校の同級生だったとはな……。劇場で藤野に会った時は本当に驚いたよ。あのチケットも、修司が譲ったものだったのか?」 立花の問いに、一条は軽く眉を上げる。「俺はただ、チケットを凌に渡しただけだ」「なるほど……ああ、そうだ。鷹宮って、あのアークレイヴの――今日見た時、どこかで見たことあると思ったんだ」 立花は人そのものよりも、その背後にある企業の名で思い出したらしい。「凌は忙しいからな。本当はもっと早く、お前らを引き合わせるつもりだったんだが」「俺も今日、藤野にお前を紹介しようと思ってたところだったんだ」「俺と藤野? それなら翔人より、俺のほうが付き合い長いだろ」 一条と立花のやり取りは、鷹宮といる時よりもずっと軽妙だった。 立花は一条の冗談をすべて受け止め、時にはさらに返して笑いを大きくする。そんな相性の
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第55話 彼なりの優しさ

 一条は普段、どこか飄々としていて、何事にも執着しないような顔をしている。だがその実、誰よりも鋭く人の機微を見抜く男だった。 まるで心の奥に曇りのない鏡を持っているかのように、ほんのわずかな揺らぎさえも、決して見逃さない。 陽菜はびくりと肩を揺らし、思わずグラスを握る手がかすかに震えた。 その反応だけで十分だった。一条はそれ以上問い詰める必要もなく、彼女が厄介な問題を抱えていることを確信する。 そして、数日前に鷹宮から聞いた話が、すぐに頭の中で繋がった。「だから凌の家に住んでるのか? ……あいつ、お前の事情知らないだろ」 弁護士である立花に頼らざるを得ないほどの問題であるなら、本来ならば鷹宮の持つ人脈や影響力をもってすれば、別の形で手を打つこともできたはずだ。 彼の立場と繋がりを考えれば、そうした問題に対処する術はいくらでもある。普通なら、わざわざ外部の弁護士に頼る前に、彼の力で解決の糸口を見出せていたはずだった。 それでも彼が知らないということは――一つは陽菜が話していないから。もう一つは、鷹宮が踏み込まないからだ。 鷹宮は距離感を何より大切にする人間だ。 親しくなればなるほど、その境界を崩そうとはしない。相手に負担をかけることを、誰よりも恐れている。 一条が知る限り、あれほど“人に迷惑をかけること”を避けようとする人間はいなかった。「一条くん……」 もっとも、一条も無理に聞き出そうとしているわけではない。 ただ、立花が戻ってくるまでのわずかな時間だけ、一条は冗談めいた空気をすべて引き払ったまま、真剣な眼差しで陽菜を見つめ、静かに問いかけた。「言う気があるかどうかだけ聞きたい。……話してくれれば、力になれるかもしれない」 陽菜は下唇をそっと噛む。一瞬だけ、胸の奥にこみ上げた。 誰かに頼りたいという衝動。 あの出来事のあと、初めてだった。 自分の異変に気づき、何も言わずに手を差し伸べようとしてくれる人がいたのは。 胸の奥が、ほんの一瞬だけほどける。それでも陽菜はやはり、ゆっくりと首を横に振った。「ごめんなさい、一条くん……まだ、話す準備ができていなくて」「……そっか」 一条はそれ以上追及しなかった。 少しだけ声を落として言う。「でも藤野。誰かに頼ろうと思ったら、その時は真っ先に俺を呼べ」 その言葉は軽くもなく、押
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第56話 一条の記憶①

 三人の間には、それぞれが知らなかった時間がある。 過去の話題になると自然と会話は弾み、軽口を叩き合ううちに、時間はあっという間に過ぎていった。 やがて立花のスマートフォンが鳴り、彼は名残惜しそうに話を切り上げる。未練を残したまま、一条と陽菜に別れを告げた。 鷹宮と同じく、彼もまた多忙な身だ。 盛り上がっている最中でも、仕事に呼ばれて席を立つことは珍しくない。陽菜も一条も、それをよく理解していた。 だがコートを羽織る合間、立花は一条に気づかれないよう、そっと陽菜に耳打ちする。「藤野、君の件だけど……少し進展があった。来週、電話するよ」「はい、先輩」 店内はいつの間にか席が埋まり、先ほどよりも騒がしさを増していた。立花は自分たちの会話が周囲に紛れていると思っていたのだろう。 対面に座る一条も、特に何も言わなかった。 ただ、立花が言葉を交わし終えた直後、ほんの一瞬だけ視線を上げ、彼をちらりと見やると、何事もなかったかのようにすぐに目を逸らした。 そのささやかな変化に、立花も陽菜も気づくことはなかった。  立花が去り、席には一条と陽菜の二人だけが残る。 一条は相変わらず気だるく寛いだ様子で、すぐに帰る気配はない。 一方の陽菜は、どこか落ち着かないまま、小さくグラスを傾けていた。会話が途切れ、このまま何も話さないのかと思った、その時だった。「凌、今日はお前を送って帰ると思ってたんだけどな」 不意に、一条の声が落ちる。「……あいつ、本当に鈍すぎるだろ」 土曜の夜だ。 あの鷹宮でさえ、女性をミュージカルに誘った以上、もう少し“それらしい振る舞い”をするべきではないかと、それが一条の率直な感想だった。 実際、劇場で陽菜が一人きりでいるのを目にした瞬間、彼の胸の奥には、言葉にならない小さな苛立ちが芽生えていた。 自分でも気づかぬほど微かなものだったが、それでも確かに、そこにあった。 だが当の陽菜は、鷹宮を庇うように言う。「違うんです。鷹宮さん、すごくお忙しくて……私に待たせないようにって、先に帰るように言ってくださったんです」「……ずいぶん理解があるんだな」 一条の声色はどこか曖昧で、からかっているわけでも、嘲っているわけでもない。 その微妙な響きに、陽菜はどう返せばいいのか分からず、言葉に詰まった。 そんな彼女の様子を見て
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第57話 羨ましいと思った

 一条は高校時代、「性格は最悪だが、顔だけはやたらと整っている」という評判がつきまとっていた。 いつ誰が言い出したのかは定かではない。 ただ、彼を「性格が悪い」と言い張る者も、彼が人前で感情を爆発させて怒鳴った場面を見たことはなく、同級生をいじめた証拠を示せるわけでもなかった。にもかかわらず、ある時期その噂はひどく広まり、一条のいないところでは、クラスの中でたびたび話題に上ることもあった。当の一条本人はといえば、自分の評判などほとんど気にしていなかった。それどころか、無駄に話しかけてくる人間が減ったことを、むしろ都合よく感じていたくらいである。 ただ、陽菜はその噂をすっかり信じてしまっていたらしい。 何度か一条がわざと鷹宮を連れて彼女に声をかけに行ったことがあったが、そのたびに陽菜は驚いた小動物のように身を強ばらせ、決まりきった一言を早口で返すと、すぐに用事を思い出したふりをして逃げてしまうのだった。 その臆病で怯えた様子が、長いあいだ一条の興味を引き続けていた。 だが、高校二年で鷹宮とクラスが別れてからは、彼も次第にその興味を抑えるようになっていく。 もっとも、一条が陽菜に話しかけたこと自体は決して少なくはなかったが、その内容はすべて挨拶程度に留まり、二人がそれ以上の会話を交わしたことは一度もなかった。 不思議なことに、高校三年間を通して、一条と陽菜はいつも同じクラスに所属していた。 けれど、当番表や座席表が重なることは一度としてなく、まるで決して交わることのない二本の平行線のように、互いの存在を視界に収めながらも、関係が生まれることはなかった。 とはいえ、当初は「陽菜のように目立たない人間でも鷹宮を好きになるのか」という好奇心から彼女に関心を抱いていた一条も、時間が経つにつれてその興味は薄れていき、やがてはもっと刺激的なものへと目を向けるようになる。 そうして二学期を穏やかに過ごしたある日、再びあの視線を感じたとき、一条はようやく思い出したように、鷹宮を盗み見る陽菜の存在に意識を向けた。 一条はこれまで、いわゆる「片想い」をしている人間の表情を数多く見てきた。 どれほど平静を装っていても、好きな相手の前では、どこかしらに本音が滲み出るものだ。 人を好きになる気持ちは、そう簡単に隠しきれるものではない。 陽菜も例外ではなかった。昼
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第58話 少しは思い出してくれた?

 言葉を口にした瞬間、一条はすぐに後悔した。 まるで陽菜の前で、自分の劣った部分をさらけ出してしまったような気がしたのだ。 これまで彼は、どんな女性の前でも、このように弱みを見せたことは一度もなかった。 だからこそ、ひどく落ち着かず、同時に、陽菜に余計なことを勘ぐられてしまうのではないかという不安も胸に芽生えていた。 だが、ある意味で、陽菜は鷹宮とよく似ていた。 驚くほど鈍く、そして……とてもまっすぐだった。 もしかすると、その鈍さは、どちらも人に対する誠実さゆえなのかもしれない。勝手に相手を悪く決めつけたりしない、そんな不器用な優しさの表れ。「一条くんみたいに優秀な人が、誰かを羨ましがる必要なんてないと思います。きっと、一条くんにも、ちゃんと“その人”が現れますよ」「……そう思うか?」 一条が問い返すと、陽菜はすぐにこくりと頷いた。「はい。私は、一条くんはすごく素敵な人だと思います」「じゃあ、凌を諦めて、俺を選ぶってのはどうだ?」 本当は、どこか沈んだ様子を見せた一条を慰めようとしただけだった。 けれど一条は、まるで何事もなかったかのように、すぐにいつもの調子へと戻ってしまう。 人をからかうとき特有の、どこか余裕めいた笑みを浮かべて。 陽菜は一瞬、思考が追いつかずに目を瞬かせた。 さっきまでの空気が嘘のように消えてしまったことに、少しだけ戸惑いながら、やがてその変化を受け入れるように、小さく息をつく。 そして、困ったように眉を下げ、柔らかく笑って、ゆっくりと首を横に振った。「一条くん、またそうやってからかうんですね」 一条の瞳は、どこか翳りを帯びながらも、かすかな光を宿していた。 本音を問うために、無意識のうちに冗談めかした仮面を被る。そんな曖昧な試し方だったが、陽菜の反応もまた、予想通りだった。 それ以上この話題を続けることはしなかった。一条はテーブルの上のレシートを手に取り、陽菜が気づくより先に立ち上がる。「もう遅いしな。俺が払ってくる」「えっ、一条くん、私も――」「藤野。こういう場面くらい、男に格好つけさせてくれよ?」 ひらりとレシートを振りながら、わざとらしく言う。 財布を取り出そうとしていた陽菜の手が止まり、数秒後、少し照れたように「ありがとうございます」と口にした。 うつむいた彼女は気づかなかった
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第59話 ホテル

 目の前に広がる光景に、一条は思わず額を押さえたくなるほどの頭痛を覚えた。 月乃がどうやって自分の居場所を突き止めたのか、それだけでも十分に厄介だというのに、今はよりにもよって陽菜がいる。この状況は、さすがに面倒が過ぎる。 一条のわずかな苛立ちと困惑を察したのか、月乃は陽菜の腕にしがみつく力をいっそう強めた。唇の端には、隠そうともしない勝ち誇った笑み。 声だけはいかにもか弱く震えている。「陽菜ちゃん……ちょっと、頭がくらくらして……さっき、無理やりお酒を飲まされて……もう全然、力が入らないの……」「大丈夫? 今、起こすね」 陽菜は本気で心配していた。 表情には迷いも疑いもなく、ただ純粋な気遣いだけが滲んでいる。彼女はしゃがみ込み、月乃の腕を取って立たせようとした。 本来なら、持ち上げられないほど非力ではないはずなのに。 月乃の身体はまるで石のように重く、びくともしない。明らかにわざとだ。それでも陽菜は気づかない。困ったように振り返り、一条へと助けを求める。「一条くん……ごめんなさい、少し手伝ってもらえますか?」 上目遣いで見上げてくる月乃の、すべてを計算し尽くしたような表情に、一条は奥歯を噛みしめたくなるほど苛立ちを覚えた。だが、陽菜に頼まれて無視するわけにもいかない。 一条はまず陽菜の傍へ歩み寄ると、何より先に彼女の腕を取って立たせた。 それからようやく、乱暴に月乃を引き上げる。「きゃっ……!」 わざとらしい悲鳴とともに、月乃はそのまま一条の胸元へ倒れ込んだ。 一条の表情が、さらに険しくなる。  月乃は三歩も歩けば倒れそうになる有様で、そのたびに一条が支えざるを得なかった。 身体は必要以上に密着し、濃すぎる香水の匂いが鼻を刺す。思わず眉をひそめても、振り払うこともできない。「月乃ちゃん、タクシー呼ぶね。ひとりで帰れそう?」「うぅ……気持ち悪い……」「それなら、私も一緒に送るね。月乃ちゃん、住所を教えてもらえる?」 陽菜はすでにタクシーを呼び止めていた。だが月乃は、酔って記憶が曖昧になったかのように、ただ「つらい」と繰り返すばかりで、質問には一切答えない。 それどころか、車に乗ろうともしない。 一条の腕を両手で強く掴み、決して離そうとしない。まるで最初から離れるつもりなどないかのように。 陽菜は小さく息をつき、困
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第60話 ホテル②

 一条にそう言われてしまえば、陽菜にはもう引き留める理由もなかった。「それじゃあ……月乃ちゃん、ゆっくり休んでね」 月乃にそう声をかけ、部屋を出ようとしたそのとき、背後から一条に呼び止められる。「藤野」「はい?」 振り返る陽菜に、一条は短く言った。「気をつけて帰れ」 月乃に手首を掴まれたまま、それでも陽菜と話すときだけは、彼の表情がわずかに和らぎ、かすかな笑みすら浮かぶ。 陽菜もつられるように微笑んだ。「一条くんもね」  ドアが閉まる音がした瞬間、一条は掴まれていた手を思いきり振り払った。「っ……」 そのまま手首を忌々しげに握り、軽く捻る。触れられていた感触がまだ残っている気がして、不快感に顔をしかめた。「いたっ……一条くん、力強すぎるよ……。女の子にも、いつもそんなに乱暴なの?」 月乃はまるで気にもしていない様子で、甘えた声を漏らす。 先ほど、一条が陽菜を先に帰らせたことが、彼女に妙な自信を与えたのかもしれない。 すぐさま再び一条に絡みつこうとする。 しかし一条はそれを無視し、くるりと背を向けると部屋の中を見回した。そして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、キャップを開け、そのまま月乃の頭上から一気にぶちまけた。「――っ!」「金城。頭、冷やしたほうがいいんじゃないか。ずいぶんと、酔いが回ってるみたいだからな」 感情のこもらない、冷たい笑み。「一条くん……」 水に濡れた月乃は、いっそう弱々しく見える。 もともと露出の多い服は肌に張り付き、曲線をあらわに浮かび上がらせていた。 この身体を作るために、彼女はどれだけの努力をしてきたか。 食事制限も、トレーニングも、さらには美容施術までも――。幸い、元から胸は大きく、そこに手を加える必要はなかった。 これまでの経験上、この姿に抗える男はほとんどいなかった。 それなのに。 一条の目にあるのは、ただ露骨な嫌悪だけだった。一切の迷いも、揺らぎもない。 吐き捨てるように、淡々と言い放つ。「確かに、藤野の前じゃ言えないこともあるな。……金城、たとえここで全部脱いだとしても、俺は何も感じない」  陽菜を帰らせたのは、ただそれだけの理由だ。 あの場では、こんな言葉を彼女の前で口にするわけにはいかなかった。 月乃がその言葉の衝撃で動きを止めた隙に、一条はそのまま部
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