All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 送ってやるよ

 花束を抱えたまま一条と並んで街を歩いていると、まるで自分たちが恋人同士であるかのような光景に思えてしまう。 おそらく一条の外見があまりにも目を引くせいだろう。彼と一緒に歩いていると、通りすがりの人たちがふとこちらを振り返る視線を、陽菜は何度も感じた。普段目立つことのない生活に慣れている彼女には、それが少し落ち着かない。 一方の一条は、そんな周囲の視線などまるで気にしていない様子だった。歩く足取りは終始ゆったりとしていて、急ぐ気配もない。まるでどこかへ向かう途中というより、この時間そのものを味わうために歩いているかのようだった。 肩の力も抜けていて、時おり思い出したように鼻歌を口ずさむ。気分が乗ったときだけ、ふっと短く旋律がこぼれるような、そんな自然な鼻歌だった。 そのうちの一つは、陽菜にも聞き覚えがあった。最近ネットでよく流れている人気の曲だ。 二度目に口ずさんだ旋律は、陽菜には聞き覚えのない曲だった。けれど、一条の低く落ち着いた声で紡がれると、それだけで不思議と耳に残る。 ただの鼻歌のはずなのに、音程はきれいに整っていて、どこか柔らかく響く。 きっと、きちんと歌えばかなり上手いのだろうと、陽菜はなんとなく思った。 陽菜もつられて歩く速度を少し落とした。 一条が鼻歌を口にするのはほんの短い間だけで、どうやら特別に歌っているわけではなく、ただ気分が緩んでいるときに無意識で出てしまうものらしい。 だから陽菜が声をかけたとき、一条は一瞬きょとんとした顔をした。自分が鼻歌を歌っていたことを思い出すのに、少し時間がかかったようだった。「さっきの歌、何の曲ですか?」「さっきの? ああ、外国の曲。留学してた頃によく聴いてたから、なんとなく覚えてるんだろうな」 一条は曲名を口にした。外国語のタイトルだったが、陽菜は忘れないよう頭の中でそっと繰り返した。「とてもいい曲ですね。私は初めて聴きましたけど……」「藤野は普段、どんな音楽聴いてるんだ?」 一条の問いは、ごく自然な流れで投げかけられたものだった。 陽菜も特に深く考えることなく、ただの何気ない会話として受け取った。「学生の頃は、流行りの曲をよく聴いてました。ネットで流れてきて気に入った曲をしばらく繰り返して聴く感じで……特別に追いかけている歌手とかはあまりいなくて。だから大人になってからは、
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第32話 白椿

 一条は陽菜をマンションの下まで送ると、そのまま帰っていった。上まで上がることはなかった。 去り際も相変わらず笑みを浮かべたままで、助手席に座った一条はわざわざ窓を下ろし、陽菜のほうを見て「じゃあ、また」と声をかけた。 陽菜は花束を抱えたまま、その車が通りの先で見えなくなるまで見送っていた。完全に姿が消えてからも、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとマンションの中へ入っていった。 この花束をそのまま鷹宮に渡すのは、どうしても気が引けた。 あまりにも意図的すぎる気がして、陽菜にはそんなことはできそうにない。 花を贈るという行為は、どうしても少し特別な意味を帯びてしまう。 一条は人をからかうのが好きだから、気軽に陽菜へ花を渡したのだろうが、陽菜には同じことを平然とする勇気はなかった。  幸い、部屋の中を探しているうちに、使われていない花瓶を見つけた。 淡い紫色の瓶身はすりガラスのようなやわらかな質感で、光を受けるとほのかに霞んだ輝きを帯びる。下の部分は丸みを帯びてふっくらと膨らみ、上に向かうにつれてすっと細くすぼまる、しずくのような可愛らしいシルエットだった。 見た目は陶土で作られた器のようにも思えるが、手に取ってみると意外なほど軽い。ひんやりとした感触が指先に伝わり、その繊細な作りがかえって丁寧に扱いたくなるような、そんな雰囲気をまとっていた。 花瓶はとてもきれいに保管されていた。表面には傷ひとつない。 棚の奥のほうに置かれていたもので、以前掃除をしたときにちらりと見かけたことはあったが、そのときは花がなかったので、特に気に留めていなかった。 改めて取り出して眺めてみると、瓶の底に小さな英語の筆記体のサインが刻まれているのに気づく。 花瓶も、そのサインもとてもきれいで、陽菜はしばらく手に持ったまま、あちこちから眺めていた。 そしてようやく、花を生けることを思い出す。 白椿をそっと花瓶に挿すと、淡い紫色の瓶との対比がいっそう際立った。 陽菜はしばらくそのまま眺めていたが、ふと思い立って写真を撮る。 もともと写真を撮るのはあまり得意ではないが、今回はなぜかうまく撮れた。 柔らかな室内灯の下で、花瓶と白椿はさらにやさしい表情を帯びて見えた。 淡い光が花びらの縁を静かに照らし、白の清らかさと紫のやわらかな色合いが溶け合う
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第33話 花瓶

 陽菜もその反応には気づいていた。だが、声をかけようとするより先に、鷹宮は一瞬止まっていた動きを取り戻した。 花束へ向けていた視線もふっとやわらぎ、まるで壊れやすい何かを見つめるような、どこか愛おしげな眼差しになる。そうして彼は食卓へ歩み寄ったが、その足取りはどこか慎重で、自然といつもより丁寧なものになっていた。 陽菜はてっきり、白椿を見てそうなったのだと思った。 だからそのことを説明しようと後ろからついていき、口を開こうとしたのだが、鷹宮が問いかけたのは、まったく別のことだった。「この花瓶……どこで見つけたの?」 彼が見ていたのは、花束ではなく、花瓶そのものだった。 その声は、もしかすると鷹宮自身さえ気づいていないほど、ひどくやわらかかった。 まるで何か大切なものにそっと触れるときのような、壊れ物を扱うかのような慎重な響きだった。 それでいて、その奥には押し殺された感情がわずかに滲んでいる。 懐かしさなのか、戸惑いなのか、それとも言葉にできない別の想いなのか――はっきりとは分からない。ただ確かに、長い時間胸の奥にしまわれていた何かが、ほんの一瞬だけ声に触れて表に現れたような、そんな響きだった。 陽菜はその声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れるのを感じた。鷹宮のこんな声は、今まで一度も聞いたことがなかったからだ。 思わず彼の顔を見上げる。 けれど鷹宮の視線は前を向いたままで、目の前の景色を見ているようでいて、どこかもっと遠い場所を見ているようにも思えた。 まるで、過去のどこかに置き去りにしてきた記憶を、静かにたどっているかのように。 すべてはほんの一瞬の出来事だった。 けれど、その一瞬だけ現れた鷹宮の動揺は、完全には隠しきれていなかった。 普段はどんなときも感情を整えている彼が、ほんのわずかに見せた隙。 その隙間からこぼれた感情が、この花瓶がただの置き物ではないことを物語っていた。 陽菜は途端に慌ててしまう。「ご、ごめんなさい、鷹宮さん……。物置の棚の中にあったので使わせてもらいました。もしかして、とても大事なものだったでしょうか? ただの使われていない花瓶だと思ってしまって……何もお聞きせずに使ってしまって、本当に申し訳ありません……!」 陽菜の言葉を聞いて、鷹宮はふっと我に返ったようだった。 どこか遠くに漂っていた意識
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第34話 話でもしない?

 そのあと、二人がそれぞれ休む支度をするまでの間、鷹宮は花瓶のことも白椿のことも、もう一度も口にすることはなかった。 今日は帰宅が早かったこともあり、鷹宮はソファに腰を下ろして、届いたばかりの最新の経済雑誌をゆっくり読み終えた。それからようやく、陽菜に見守られながら薬を飲む。「もう休んだほうがいいよ、陽菜さん。おやすみ」「おやすみなさい、鷹宮さん」 そう言葉を交わして陽菜が自分の部屋へ戻ったあとも、リビングの灯りはまだ消えていなかった。 扉越しにそっと覗くと、鷹宮は相変わらずソファに静かに座ったまま、手元の仕事の資料に目を落としている。 部屋の明かりの中で、その横顔だけが静かに浮かび上がっていた。* なぜかその夜は、あまりよく眠れなかった。 夜中にふと夢から目を覚まし、そのまましばらく眠りに戻れなくなる。目を閉じてもう一度眠ろうとしてみても、なぜか意識ばかりが冴えてしまい、どうしても眠気が戻ってこない。 頭の中には、夜に鷹宮が花瓶を見たときの表情が何度も浮かんでいた。 陽菜は仕方なく起き上がり、水を飲もうと台所へ向かうため部屋のドアを開けた。 そのとき、廊下の向こうから聞こえてきた押し殺すような咳の音に、思わず足が止まった。 部屋からリビングまでは少し距離がある。 けれど廊下には特に遮るものもないため、リビングの灯りがまだ点いているのが見えた。 ただ、眠る前とは様子が違っていた。 あのときはリビングの照明がすべて点けられていて、部屋の隅々まで白い光が満ちていたはずなのに、今は違う。 柔らかな黄色の間接灯だけが、静かに灯されている。 壁際のランプがぼんやりと淡い光を落とし、広いリビングの輪郭をかすかに浮かび上がらせていた。 昼間のように明るかった空間は、今ではすっかり落ち着いた色合いに包まれていて、夜の静けさだけが、ゆっくりと部屋の中に満ちているようだった。 陽菜はしばらくその場で立ち尽くした。 それから迷うように、ゆっくりとリビングへ近づいていく。 咳は断続的に続いていた。 一度おさまったかと思えば、またすぐに喉の奥から押し出されるように響く。完全に止まる気配はなく、静かな夜の中でその音だけがかすかに繰り返されていた。 鷹宮の体調はまだ回復しているとは言えない状態なのだろう。 過労と発熱で倒れたのは、つい一日前の
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第35話 忘れられない人

 陽菜はもともと、鷹宮の頼みを断れるような性格ではない。 まして彼のほうから何かを提案してくること自体が珍しい。そう言われてしまえば、断る理由などあるはずもなく、陽菜は素直にうなずいた。 鷹宮は普段、むしろ人に頼み事をするのをためらうような人だ。 まるで自分が相手に迷惑をかけてしまうのではないかと、いつも気にしているようなところがある。 本来なら彼は上司であり、立場もずっと上の人間なのに、少しも威圧感がなく、偉ぶることもない。 けれど、そんなふうに穏やかで遠慮深いからこそ、陽菜にはかえって二人の距離が遠く感じられてしまう。 まるで簡単には手を伸ばせない、どこか遠い場所にいる人のように思えてしまうのだ。 二人はソファに腰を下ろした。 ただ、風邪をうつしてしまうのを気にしているのか、鷹宮はわざと二人分ほどの距離を空けて座る。 話すときも体はあまり陽菜のほうへ向けず、先ほどまで落地窓の外に広がる夜景へ向けていた視線も、すぐに目の前のガラスのローテーブルへと戻っていった。 その上に置かれている花瓶と、白椿へと。 そのとき、陽菜はすぐそばで、ごく小さく、ほとんど聞き逃してしまいそうなほどの笑い声を聞いた。「白椿……この花瓶によく合っているね。とてもきれいだ」「はい。色がとても合っていますから」「出来上がったときね、想像していたよりずっときれいで。だから逆に、どんな花を挿せばいいのか分からなくなってしまったんだ。なんだかもったいなくて……結局、そのまま使わずにしまい込んだままだった」 どこか惜しむような声だった。それを聞いて、陽菜は少し目を丸くする。「この花瓶……鷹宮さんが作ったんですか?」「……」 鷹宮は一瞬だけ言葉に詰まった。それから、どこか困ったように、少しだけぎこちなく笑う。「……いや、完全に僕一人で作ったわけじゃないんだ。もう一人と一緒に作ったものなんだ」 その「もう一人」が誰なのか、陽菜にはなんとなく想像がついてしまった。 まだ鷹宮の会社でインターンをしていた頃のことだ。 あの頃、会社は破産寸前から立て直されてまだ数年しか経っておらず、規模も今ほど大きくはなかった。 鷹宮のオフィスは、陽菜が所属していた部署のすぐ隣にあった。 ドアは全面ガラス張りだったため、中で仕事をしている彼の姿は、席に座っていても自然と目に入って
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第36話 僕がいない方が、もっと輝ける人

 陽菜はすぐには言葉を返すことができなかった。 視線を落とすと、自分の両手が無意識のうちにぎゅっと握りしめられているのが見える。それは明らかに、緊張しているときの仕草だった。 胸の奥では心臓が激しく打っている。 今にも溢れ出しそうな感情が体の中を流れながら、必死に押しとどめられていた。胸の奥に広がるその酸いような苦しさが、陽菜の鼻の奥をつんとさせる。 ――泣き出してしまいそうだ。 そんな衝動が込み上げてくる。 けれど、それでも必死に堪えなければならない。何事もないような顔をして、平然としているふりをしなければ。 しばらく沈黙が続いたあと、陽菜は思わず口を開いた。 こんなことを聞いて、鷹宮に失礼だと思われないだろうか。あまりに踏み込みすぎていると感じられないだろうか。 そんな不安を胸に抱きながら、それでも聞かずにはいられなかった。「鷹宮さん……いまも彼女のことが好きなんですか?」「……」 それはきっと簡単に答えられる問いではなかったのだろう。鷹宮はすぐには答えなかった。 一瞬、その表情に迷いのようなものが浮かぶ。 けれど視線は、相変わらず花瓶に落とされたままだった。 他人から見れば、ただの綺麗な置き物に過ぎない。だが鷹宮の目には、そこにたくさんの思い出が詰まっているのだろう。 その視線には、どこか重たいものが宿っているように見えた。 陽菜は二人がいつ別れたのか知らない。婚約まで決まっていた相手なのだから、もし別れることになったのだとすれば、きっと二人の間には、とても大きな出来事があったのだろう。 鷹宮の反応を見ればわかる。もし意図的に演技をしているのでなければ、人の体は嘘をつけない。 彼はまだ、元恋人に強く惹かれている。 それは、陽菜にもはっきりと伝わるほどだった。 ただ、陽菜の問いに対して、鷹宮は「愛している」とも「愛していない」ともはっきり言わなかった。 代わりに、どこか苦い笑みを浮かべる。その声には、どうしようもない無力さが滲んでいた。 彼は決して彼女を貶めるようなことも言わない。 少なくとも、二人が別れた理由が不愉快なものだったわけではないように見える。「……彼女は、僕にとって、出会えただけでも奇跡のような存在なんだ」 陽菜は鷹宮のことを何年も好きでいた。けれどそれは、いつも遠くからこっそり見つめているだけ
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第37話 好きな人はいるの?

 鷹宮の言葉は少し抽象的で、陽菜にはうまく理解できなかった。 けれど鷹宮も、それ以上は踏み込んで語るつもりはないようだった。あまり詳しいことは話したくないのかもしれない。 だからだろうか、今度は逆に、鷹宮のほうから陽菜に問いかけてきた。「陽菜さんは? 好きな人はいるの?」 突然そう聞かれて、陽菜は小さく驚いた。 まるで、自分の隠していた秘密を見透かされたみたいで、ひどく慌ててしまう。 胸の奥で心臓がどくどくと速く打ち、耳のあたりまでじんわりと熱くなっていく気がした。 しばらくして、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻す。 それでも、すぐには言葉が出てこない。 陽菜が答えずにいるのを見て、鷹宮は申し訳なさそうに口を開いた。「ごめん……今の質問、もしかして失礼だったかな」「いえっ……! います……!」 陽菜は慌てて声を上げた。「私も、鷹宮さんと同じで……忘れられない人がいるんです」 鷹宮に余計な誤解をさせないように、陽菜はすぐに口を開いた。彼が言いかけていた言葉を、途中で遮るような形になってしまう。 鷹宮は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。 それから、ふっと柔らかく笑う。 鷹宮が笑うとき、陽菜はいつもつい見つめてしまう。「じゃあ、僕たち同じだね、陽菜さん」 二人はソファに座ったまま、気づけば三十分ほど話していた。 陽菜としては、まだこの時間が続けばいいとどこかで思っていた。 けれど鷹宮は、これ以上陽菜を夜更かしさせたくないらしかった。しかも自分の話のせいで遅くなってしまったのだから――そう思っているのだろう。 だから陽菜に早く休むよう促すとき、その声にはどこか申し訳なさが滲んでいた。「今日は……少し取り乱してしまったね。ごめん、陽菜さん。たぶん、病み上がりだから気持ちが弱くなっていたのかもしれない。もうこんなふうにはならないと思っていたんだけど」「そんなことないです……」 陽菜は小さく首を振った。「私は、むしろ嬉しかったです。鷹宮さんが、私に愚痴をこぼしてくれて」 鷹宮の表情は変わらず、やわらかな笑みを浮かべたままだった。 陽菜の言葉の奥にある意味を、特に深く考える様子はない。ただ、社交辞令のようなものだと思っているのだろう。「そう言ってくれてありがとう。陽菜さんは本当に優しい人だね」 そう言って、少し困ったよう
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第38話 お前が好きな香り

 朝、どうして鷹宮があんな質問をしたのだろうと、陽菜はずっと考えていた。 その理由は夜になって、鷹宮が花束を抱えて帰ってきたとき、ようやくわかった。 とても綺麗なスズランの花束だった。 白く小さな花がいくつも連なり、まるで小さな鈴のように可憐に揺れている。 清楚でやさしい香りまで漂ってくるようで、ひと目見た瞬間、思わず息を呑んでしまうほどだった。  一条から花束をもらったときとは、まったく違う気持ちになる。 特別な意味があるわけではないのかもしれない。 それでも、鷹宮の手からその花束を受け取った瞬間、陽菜の心臓は、今にも胸から飛び出してしまいそうなくらい激しく跳ねた。「あ、鷹宮さん……あの、これ……あっ、違う、先に――おかえりなさい、ですよね」 自分でも何を言っているのかわからないほど慌ててしまう。言葉がうまくまとまらず、視線まで落ち着かない。 そんな陽菜の様子を見て、鷹宮は少し驚いたように目を瞬かせた。 それから、ふっと優しく笑う。「ただいま」 そう言ってから、少し申し訳なさそうに続けた。「ごめんね。こんなに驚かせるつもりはなかったんだ。帰り道で花屋を見かけて……昨日、花を持ってきてくれたお礼をしたくて」 鷹宮が口にしたのは、「お礼」という言葉だった。 陽菜もわかっている。 鷹宮に、ほかの意味があるわけではないことくらい。 それでも、胸の奥をかすめるように、ほんの少しだけ寂しさがよぎった。 けれど次の瞬間には、それ以上に大きな喜びが、陽菜の心を満たしていく。「あっ、そういえば、花瓶がっ……!」 陽菜は慌てて声を上げる。 家に余っている花瓶があっただろうか――。 そう思っていたところで、鷹宮はもう一つ手にしていた袋を軽く持ち上げた。 どうやら彼もそのことを考えていたらしい。 花束と一緒に、花瓶も買ってきてくれていたのだ。 取り出されたのは、透明なガラスの花瓶だった。特別変わった形ではなく、街の店でもよく見かける、ごく一般的な形のものだ。「僕が挿そうか」 鷹宮がそう言う。 陽菜は嬉しそうにそれを受け取った。 花束と花瓶を両手に抱え、鷹宮が靴を脱ぐのを待ってから、一緒に部屋の中へ入る。 包装をほどき、鈴蘭の花束をそっと花瓶に挿す。 白い小さな花がガラス越しに揺れて、部屋の空気まで少し明るくなった気がした。
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第39話 恋愛する気はない

 陽菜はスマートフォンを持つ手を、ふいに止めた。 画面に表示された『お前の好きな香りだろ?』という一条のメッセージを見つめたまま、ほんの短いあいだ、思考が止まったように固まってしまう。 どう返せばいいのか、すぐには思いつかなかった。 陽菜は箱の中からアロマとハンドクリームを取り出す。 パッケージも、箱と同じく白を基調としていて、どこか清潔で上品な印象を与えるものだった。 余計な装飾はなく、やわらかな光を受けて、品のよさを感じさせる。 白茶の香りに合わせているのか、ハンドクリームの表面には、シンプルな線で描かれた白茶の花のイラストが添えられていた。 細く繊細な線で描かれたその花は、控えめなのにどこか目を引き、そっと手に取る人の心を和らげるようなやさしさを帯びている。 蓋を開け、少量を指先に取り、手の甲へと広げる。 すぐに、ふわりとした香りが立ちのぼった。 どこか懐かしいその香りは、昔気に入っていたシャンプーの匂いに少し似ている。 けれど、ほかにもいくつもの香りが重ねられているのだろう、まったく同じではない。 甘さも、やわらかさも、ほんの少しだけ違っていた。 そとても、心地いい香りだった。 まるで一条が言った通り、これは確かに陽菜の好みにぴったり合っているが……どうして一条がそれを知っているのだろう。 そんな疑問を抱きながらも、陽菜は素直にメッセージを返した。『一条くん、この香り、とてもいい匂いです』『だから言っただろ』 一条からの返信は、やはりすぐに届いた。 短い文面のはずなのに、どこか嬉しそうな気配がにじんでいる。『次の製品ももう開発中なんだ。テストできたら、凌に持って行かせるよ』 持ってきてくれるなら、一条自身でもいいはずなのに。 わざわざ鷹宮を通して渡すような言い方。 それはまるで―― 陽菜の指が、スマートフォンの画面の上でわずかに止まる。 表示された「凌」の名前を見つめながら、ぼんやりと考え込んでしまった。 ふと、場違いなほど突飛な考えが頭をよぎる。 ここ最近、一条が自分にしてきたことの数々が、次々と思い出される。 花を贈ったこと。 鷹宮のことを話してくれたこと。 そして、もうすぐ迎える鷹宮の誕生日の話題――。 その意図は、どこかあからさまにも思えるのに、陽菜にはどうしても信じきれなかった。 も
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第40話 「外、見てみろ」

 鷹宮のその言葉を聞いたとき、陽菜の心はほんの一瞬だけ揺らいだ。 けれどすぐに、何事もなかったかのように装って、手にしていた体温計を元の場所へと戻す。 まだ、気を抜いてはいけない。 そう自分に言い聞かせるように、明日の朝もきちんと体温を測らなければ、と陽菜は思う。 先ほど耳にした言葉を、少しでも早く忘れたくて、陽菜はわざと関係のないことを次々と頭の中に浮かべた。 手も止めない。 冷蔵庫から牛乳を取り出し、グラスに注ぐ。簡単な朝食を二人分用意して、少しでも自分を忙しくさせる。 やっていることは、いつもと変わらない朝の支度。 ただ、それを少しだけ丁寧に、少しだけ多くこなしているだけだった。 鷹宮にとっては、それはすでに何度も繰り返されてきた見慣れた朝の光景だった。 陽菜が忙しく動き回る様子も、特別に意識するほどのものではなくなっている。 それに加え、彼自身も電話の応対に気を取られていたため、その動きにわずかに混じった不自然さや、どこか空回りするような忙しなさに、気づく余裕はなかった。「その話は、また今度にしてもいい? ……うん、もしまだ話したいなら、夜に改めて僕から連絡するよ。……まだ朝も早いし、母さんはもう少し寝てて。父さんには、僕から別の機会にちゃんと話すから」 朝早くから母親に結婚の話を持ち出され、それがかれこれ三十分近くも続いていた。 途中で何度も言葉を遮られながら、同じやり取りを繰り返すその会話に、さすがの鷹宮も限界を感じていたのだろう。 それでも口調はあくまで穏やかなまま、相手の気持ちを害さないように配慮しつつ、やんわりと譲歩する形を装って理由をつけ、ようやく電話を切る。 その流れで、ほんのわずかに息を吐いてから、自然な手つきで、陽菜が用意した簡単なサンドイッチを受け取った。 鷹宮はもともと、朝食をとる習慣がなかったが、そのことを陽菜に伝えたことはない。 最初は、陽菜が一生懸命に朝食を用意してくれる姿を見て、無下にするのが気が引けたから。 そして今は、今さら言い出せず、かえって気を遣わせてしまうのではないかと考えているからだった。 だからこそ、「できるだけ簡単なものでいい」とだけ伝えている。 自分の負担にもならず、陽菜にも負担をかけないために。 それでも、陽菜が用意してくれた朝食を受け取るとき、鷹宮の胸には確かな
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