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26.熱情の第一音、名前のない告白

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-03-17 15:15:36

律の指先が、白と黒の境界に触れた瞬間、梅田の雑踏が一度だけ息を止めたように見えた。

実際には、誰かの笑い声も、遠いアナウンスも、通り過ぎる靴音も消えていない。それでも、史人の耳の中でだけ、音の層が入れ替わる。上に乗っていた日常のノイズが薄くなり、代わりに、鍵盤に触れる皮膚の擦れる気配が濃くなる。黒い艶の向こうに、律の背中が真っ直ぐに立っている。背中の細さは弱さではない。細いまま折れないための硬さだと、直感が告げる。

律は一度、深く吸ったように見えた。見えただけかもしれない。さっきまで浅かった呼吸が、その一瞬だけ底へ落ちた気がする。落ちた呼吸のあとで、律の手が鍵盤へ落ちる。

最初の一音は、刃だった。

音は鋭く、乾いているのに、どこか湿っていた。湿りは、梅田の夜風の湿気ではない。吐き出せなかったものの湿りだ。弾き始めの一音が、空気に穴を開け、その穴から別の世界が流れ込んでくる。人だかりのざわめきが遠のく。スマホの光だけが、星みたいに点々と残る。

史人は、その一音で分かってしまった。

ベートーヴェン。熱

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    祖父母の家の台所は、火の気があるだけで空気が柔らかくなる。古い換気扇が低く唸り、まな板に包丁が当たる乾いた音が、一定のリズムで続いていた。祖母が味噌を溶くと、湯気が立ち上り、出汁の匂いが天井の方へゆっくり逃げていく。窓の外には住宅街の午後があるはずなのに、律の意識は湯気の輪の内側から出られなかった。玄関を入った瞬間、身体が勝手に弛むのが分かった。肩の力が抜ける。指先の冷えが少しだけ引く。祖母がすぐに言った。「おかえり」律は靴を揃えながら、笑って返した。「ただいま」史人の部屋を出た朝の白い刃は、ここにはない。畳の匂いと、台所の油の残り香と、石鹸のような清潔な匂いが混ざって、生活の温度になっている。温度があるだけで、肺の奥に空気が届く気がした。息を止める癖が、ここでは少しだけ緩む。祖父は居間で新聞を読んでいた。背中が大きい。背中が大きいのに、家の中ではその大きさを誇示しない。黙っているだけで、支えになる背中だ。律はその背中に目をやってから、視線を逸らした。見ていると、甘えたくなる。甘えたくなるのが怖い。祖母が味噌汁を椀に注ぎながら言った。「昼、ちゃんと食べてへんやろ」律は曖昧に笑った。「まあ」祖母は笑い返さない。叱りつけるのでもない。ただ、律の顔を見て、眉を少しだけ寄せた。無理に明るくもしない、その正直さが、律の胸の奥を静かに刺した。律は台所の椅子に座った。椅子の硬さが、身体を現実に繋ぎ止める。湯気の匂いが鼻に入る。味噌の甘さが喉の奥に触れるだけで、涙が出そうになる。涙を出す理由が分からないまま、律は息を吐いた。その時だった。居間の方で電話が鳴った。固定電話の、昔ながらの音だ。スマホの震えとは違う。高くも低くもない、単調で逃げ道のない音。律の背筋がぴんと伸びた。伸びた瞬間、喉が少しだけ固くなる。肩に力が入る。呼吸が浅くなる。その浅さを自覚すると、余計に息が吸えなくなる。祖父は新聞を畳み、受話器を取った。声は普段通りの低さだった。だが、言葉が一音目から短い。「もしもし」祖父の声が低い

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   30.着信名は「父」

    朝の光は、いつもなら部屋を薄く漂うだけで終わる。史人の一Kの窓から差し込む白は、カーテンの繊維を透かし、壁の汚れをぼんやり浮かび上がらせる程度のものだ。律にとっては、昨日の梅田の白に比べれば優しいはずだった。けれど今朝の白は、優しいふりをして、刃の薄さで喉を撫でてくる。律は目を開けた瞬間に、それが分かった。空気が軽い。軽いのに、胸の奥に重いものが沈んでいる。重いものは音だった。昨夜の鍵盤の打撃、息を詰めて放った自分の熱、拍手の熱のなかで固まった史人の眼差し。全部がまだ、皮膚の内側に貼り付いている。隣では史人がまだ眠っていた。寝返りを打つ気配もなく、落ちた体温のまま、深く沈んでいる。律はその横顔を、見ないようにした。見たら、何かを言ってしまう気がした。言えば終わる。言えば始まる。どちらも今の自分には危険で、危険だと分かっているのに、口が勝手に動きそうになるのが怖かった。律は静かに上体を起こし、枕元のスマホを手に取った。いつもの癖だ。時間を確認して、勝手に頭の中で予定を整える。整えないと呼吸が乱れる。予定は自分の中にしかないのに、脳はそれに縋る。画面が点いた。通知の数字より先に、着信履歴が見えた。父。その一文字が、眼球に刺さった瞬間、喉がきゅっと縮んだ。息が止まる。止まると気づく前に止まっている。胸の奥が急に狭くなる。肺が小さくなる。指先が冷える。冷えが掌の中心から爪へ走り、スマホを握る力が抜けた。律は反射で画面を暗くした。暗くしたのに、一文字は残る。目の裏に焼き付いたまま消えない。喉の奥が乾く。唾が飲み込めない。飲み込もうとすると、喉が詰まって、心臓が一段跳ねた。跳ねた拍が、昨日弾いた第三楽章のテンポを呼び戻す。呼び戻された瞬間、耳の奥が遠くなる。外の音が薄くなる代わりに、自分の血の音だけが大きくなる。律は息を吸おうとした。吸えない。浅い吸気が途中で折れる。折れたまま、肩だけが上がる。呼吸が足りないと、視界の端が微かに白く滲む。白い滲みは梅田の白と重なり、重なるほど喉が固くなる。違う。これは梅田じゃない。ここは史人の部屋だ。狭い。壁が近い。生活の匂いがする。昨夜飲んだ水のペ

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    朝の光は、梅田の白よりも柔らかいはずだった。史人の部屋のカーテンの隙間から差し込む淡い色は、いつもなら眼球の奥に刺さらない。刺さらないはずの光が、今朝は刺さった。眠りが浅かったせいだ。隣で眠っていた律の呼吸が深くなるたび、史人の胸の奥に残った音が揺れたせいだ。揺れた音は、目覚めた瞬間にも消えない。史人はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。蛇口をひねる。水の音が流れる。その水音が、昨夜の鍵盤の打撃と重なる。重なった瞬間、史人の指先が小さく震えた。歯ブラシを握り直す。白い泡が口の中で広がる。泡は冷たい。冷たいのに、胸の奥は熱い。熱が引かない。鏡に映る自分の顔は、いつもの二十七歳より少しだけ若く見えた。若く見えるのは、健康になったからではない。昨夜の音に、内側を掴まれたせいで、表情が追いついていないだけだ。目の下の影は消えていない。唇も荒れている。肌も疲れている。疲れているのに、眼だけが妙に冴えている。冴えている眼は、仕事に向く冴え方ではない。鏡の中で、自分が何かを待っているように見えて、史人は気持ち悪くなった。待つ。という行為が、史人の生活から消えて久しい。待つのは、バグ修正の完了通知か、顧客の返答か、障害の再発か、オンコールの着信だけだった。人を待つ余裕も、何かを楽しみに待つ余裕もない。ないはずだった。けれど今朝、史人の胸の奥は、音の続きを待っている。待っていることを認めた瞬間、喉の奥が詰まった。吐き気ではない。言葉の詰まりだ。言葉にしたら終わるものがある。言葉にしたら始まるものがある。どちらも怖い。怖いから、史人は泡を吐き出し、水で口をすすいだ。冷たい水で誤魔化すのが癖になっている。部屋に戻ると、律はもう起きていた。ベッドに座り、髪を指で整えながら、スマホをいじっている。宵だまりで見せる軽口の膜を、朝の光の中で薄く張っているように見えた。張っているのに、目の奥の熱はまだ残っている。残っている熱が、史人の胸の穴と繋がってしまう。史人はその繋がりを断ちたくて、声を出した。「コーヒーいる」律は顔を上げた。笑う。「いる」一語。短い。短い言葉が、昨夜よりも怖い。

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    梅田の白い光から離れるほど、音の残像だけが濃くなる気がした。律の横を歩きながら、史人はさっきまで耳の奥を占拠していた旋律が、街の雑踏に溶けていくのを感じていた。溶けていくのに、消えない。消えないのは、音そのものではなく、音が開けた穴だった。胸の奥に穴が開いて、そこから冷たい風が出入りしている。冷たい風が痛いのに、息がしやすい。痛みと回復が同居するのが、気持ち悪いほど心地いい。二人はいつもみたいに並んで歩いている。肩が触れそうな距離も、歩幅を合わせる癖も、何も変わっていないはずだった。けれど、会話だけがない。宵だまりから史人の部屋へ向かう夜も、こんなふうに無口になることはあった。疲れた日、言葉が余っていない日、笑いで膜を作る余裕もない日。そういう無口なら、慣れている。今夜の無口は違った。言葉が余っていないのではなく、言葉が多すぎて出せない。出した瞬間、形が決まるのが怖い。形が決まれば、責任が生まれる。責任が生まれれば、戻れなくなる。戻れなくなったのは、もう分かっているのに。律は前を見て歩いていた。横顔は平気な顔の形をしている。宵だまりで見せる軽口の膜を、薄く戻そうとしている。その膜が今夜はうまく張れない。張れないまま、目の奥だけがまだ熱い。熱い目の奥を見ると、史人は胸が締め付けられた。史人は一度、喉の奥で曲名を唱えた。唱えるだけなら誰も傷つかない。熱情。第三楽章。唱えた瞬間、律の指先が鍵盤を叩く残像が目の裏に現れる。残像が現れると、史人の腹の底が熱くなる。熱は欲望の熱に似ている。似ているのに、向きが違う。向きが違う熱に、自分の身体が追いついていない。信号の前で立ち止まる。赤い光。車の音。人の話し声。全部が現実のはずなのに、どこか薄い。薄さの中で、律が小さく息を吐いた。吐いた息は白くならない。ならないのに、史人はその息が白く見えた気がした。白い息は寒さの証拠だ。寒さは怖さの証拠だ。怖さは、まだ律の中にいる。史人は言葉を探した。大丈夫か、と言えば簡単だった。簡単な言葉ほど、今夜は怖い。大丈夫かと問うた瞬間、律は大丈夫のふりをしなければならなくなる。ふりをさせたくない。ふりをさせない方法が分からない。史人は結局、別の言葉に逃げ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   27.曲名を言えない喉、答えを待つ目

    拍手は熱を持って押し寄せた。さっきまで息を止めていた世界が、一斉に息を吐き出すみたいに、ざわめきが戻る。戻った音は、梅田の夜の雑踏そのものなのに、史人の耳にはまだ遠い。遠いまま、胸の奥だけが痛いほど近い。律の音が、まだそこにいる。律は立ち上がり、軽く頭を下げた。周囲の拍手に混ざって、スマホのシャッター音が細かく鳴る。撮れてしまう。閉じ込められてしまう。史人はそう思ったが、思ったところでどうにもできない。どうにもできないことに慣れすぎている自分が、今夜だけは嫌だった。律が人だかりの中へ戻ってくる。戻ってくる動きは宵だまりで見た軽さに似ているのに、身体の芯が違う。軽いふりをしているだけで、どこかが硬い。硬さは、背中の奥にある。背中の奥がまだ震えているように見えた。史人は一歩近づこうとして、足が止まった。近づいて何を言う。上手かった。すごかった。そんな言葉は薄い。薄い言葉で律の音に触れたら、指先が切れる気がする。切れてしまったら、もう戻らない。戻らないものが増えるのが怖い。怖いのに、近づきたい。律の目がこちらを捉えた。目が合う。合った瞬間、史人の喉が鳴る。唾を飲み込む音が自分の耳にだけ大きい。律は笑おうとした。口角が上がりかけて、途中で止まる。その止まり方が、宵だまりの笑いと違う。宵だまりでは笑いが膜になる。今は膜にならない。膜にならない笑いの前に、裸の律がいる。史人は、その裸に言葉を投げる勇気がない。代わりに、動いた。言葉ではなく、手足で。人だかりの熱の中で、史人は律の横へ回り込み、肩がぶつかりそうな人の流れを腕で遮った。遮ると、知らない誰かの視線が刺さる。刺さってもいい。刺さる視線より、律の呼吸が浅いままなのが怖い。律は少しだけ顔をしかめ、すぐに平気な表情を作った。作った表情が、逆に危うい。平気は仮面だ。仮面の下で、指先が微かに震えているのが見えた。ピアノの鍵盤から離れた指が、行き場をなくしている。さっきまで世界を掴んでいた指が、今は自分の居場所を探している。史人はその指を見て、胸の奥が締め付けられた。締め付けられるのに、口は動かない。こういうとき、職場なら言葉は出る。謝罪の文言、暫定対応の段取り、原因の推測。言葉は手札

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   26.熱情の第一音、名前のない告白

    律の指先が、白と黒の境界に触れた瞬間、梅田の雑踏が一度だけ息を止めたように見えた。実際には、誰かの笑い声も、遠いアナウンスも、通り過ぎる靴音も消えていない。それでも、史人の耳の中でだけ、音の層が入れ替わる。上に乗っていた日常のノイズが薄くなり、代わりに、鍵盤に触れる皮膚の擦れる気配が濃くなる。黒い艶の向こうに、律の背中が真っ直ぐに立っている。背中の細さは弱さではない。細いまま折れないための硬さだと、直感が告げる。律は一度、深く吸ったように見えた。見えただけかもしれない。さっきまで浅かった呼吸が、その一瞬だけ底へ落ちた気がする。落ちた呼吸のあとで、律の手が鍵盤へ落ちる。最初の一音は、刃だった。音は鋭く、乾いているのに、どこか湿っていた。湿りは、梅田の夜風の湿気ではない。吐き出せなかったものの湿りだ。弾き始めの一音が、空気に穴を開け、その穴から別の世界が流れ込んでくる。人だかりのざわめきが遠のく。スマホの光だけが、星みたいに点々と残る。史人は、その一音で分かってしまった。ベートーヴェン。熱情。第三楽章。曲名は頭の中で文字にならず、身体の記憶として立ち上がる。幼い頃、ピアノ教室の硬い椅子に座り、先生が譜面台を叩いてテンポを示したときの緊張。練習の終わりに手の甲が少し熱くなった感覚。発表会の前に、指先が冷えたまま鍵盤に触れた記憶。弾けなくて泣いた夜の湿り。弾けた瞬間だけ、胸の底が軽くなった奇妙な解放。それらが全部、律の一音に引きずり出される。史人は気づいた。自分は、音楽を「聴く趣味」として持っているのではなかった。音楽を、呼吸のために持っていた。職場の白に殴られ、通知音の幻に皮膚を裂かれそうになって、耳の中へ逃げ込むために。息を止める癖を、なんとか戻すために。音楽は薬だと思っていた。整うための。眠るための。けれど今、律の音は整わせない。整うより先に、掴む。律の右手が跳ね、左手が追いかける。音は走る。走るのに乱れない。乱れないのに、落ち着いていない。落ち着いていないのに、制御されている。矛盾したまま、熱だけが増していく。熱は、鍵盤から出ているのではない。律の胸から出ている。

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