櫻羅が一階の大広間の前を通ると、障子越しに漏れる賑やかな声が耳に届いた。中では遅めの夕食を楽しんでいるたくさんの宿泊客の姿が見える。浴衣姿の家族連れや夫婦、友人同士らしい若者たちが笑い合いながら食事をしており、料理の湯気と笑い声が広い会場を包み込んでいた。美味しそうな料理の香りまで廊下へ流れてきて、櫻羅は思わず足を止める。しかし、その光景を見ても、自分が中へ入ろうという気持ちにはなれなかった。「まだ部屋には戻れないかな……」そうつぶやき、何となく、自分はこのまま帰ってしまおうかと考えていた。心春のお供で遊びには来たが、和真が現れたことで、自分の役目は終わったような気がしていた。きっと今頃、和真は心春のそばにいる。二人だけで話したいこともあるだろう。自分が部屋へ戻れば、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、自然と一人の顔が浮かんできた。「叶翔、ちゃんとごはん食べたかな……」そんなことをつぶやいていると、櫻羅も途端に寂しくなってしまった。朝からずっと心春と一緒だった。温泉街を歩き、お土産を買い、初めての温泉に入り、日本料理を食べた。どれも楽しく、思い出に残る一日だった。それでも、心のどこかではずっと叶翔のことを考えていた。今頃何をしているだろう。仕事は終わったのだろうか。ちゃんと食事はしたのだろうか。そんな些細なことまで気になってしまう。大広間を過ぎた辺りの廊下の端に、小休止できるように木製のベンチが置いてあった。赤い布が掛けてあり、前にテレビで見た時代劇のドラマに出てきた、お茶屋さんの景色に似ていた。櫻羅はそこへ腰を下ろした。木の温もりがどこか心を落ち着かせてくれる。しばらく静かに庭を眺めていたが、結局我慢できず、浴衣の袖からスマホを取り出した。画面には叶翔の連絡先が表示される。自分が電話をしたら心配するだろうか?でも、叶翔がちゃんとご飯を食べたか確認するためとか言えば、叶翔はきっと笑ってくれるだろう。そう考えると、無性に叶翔の声を聞きたくなった櫻羅は、叶翔の番号をタップした。呼び出し音が静かな廊下へ小さく響く。一回。二回。三回――。しばらく呼び出していたが、やがて叶翔が電話に出る。叶翔の周りは少し騒がしかったが、やがて静かになった。どこか人が沢山いるとこ
Last Updated : 2026-07-19 Read more