叶翔が電話に出ると、心春は世間話を挟むこともなく、いきなり本題を切り出した。「今夜、櫻羅ちゃんを借りてもいい?」そのあまりにも単刀直入な言い方に、電話の向こうで叶翔は一瞬だけ黙る。だが、その沈黙もほんの数秒だった。心春から突然電話がかかってくるときは、大抵ろくでもないことか、楽しいことのどちらかである。そして今回は、どこか弾んだ声色だった。叶翔は苦笑しながら、心の中で「またパーティーか何かかな」と考えた。心春は社交的で顔も広い。思い立ったらすぐに誰かを誘って出掛ける性格でもある。きっと今夜も櫻羅を華やかな集まりへ連れて行くつもりなのだろう。そう思った叶翔は、深く考えることなく答えた。「いいよ」実際、その方が叶翔にとっても安心だった。父・玲司から与えられた課題が山積みになっており、ここ数日は会社に残る時間が長くなることが分かっている。場合によっては瑛士と徹夜で資料をまとめ、そのまま会社へ泊まり込む可能性すらあった。そんな状況で櫻羅を屋敷に一人残しておくよりも、心春と一緒に過ごしてくれた方がよほど安心できる。心春なら櫻羅を退屈させることもないだろう。そう考えた叶翔は、何気ない調子で尋ねた。「どこかに行くのか?」その質問に、心春は待っていましたと言わんばかりに明るい声で答えた。「うん。泊りで温泉!!」「……え?」思わず叶翔は声を漏らした。まさか温泉旅行とは予想もしていなかった。一瞬驚いたものの、すぐに心春らしい発想だと思い直す。傷心中の心春のことだ。美味しいものを食べて、温泉に浸かって、気分転換でもしたいのだろう。叶翔は穏やかに笑った。「分かった。櫻羅を頼む」「任せて」短いやり取りを終えると、電話は切れた。その直後だった。テーブルの上に置かれていた櫻羅のスマホが、小さな着信音を鳴らした。「あれ?」櫻羅が画面を見る。そこには見慣れた名前が表示されていた。心春も画面を覗き込み、苦笑する。「叶翔じゃない?」櫻羅は微笑みながらスマホの表示画面を心春へ見せると、そのまま通話ボタンを押した。「もしもし」電話の向こうから、優しい声が聞こえる。「櫻羅か? 心春と一緒に温泉に行くって聞いたけど……」確認するような口調だった。櫻羅は自然と微笑みながら答える。「温泉って行ったことなかったから……ダメ?」
Last Updated : 2026-06-28 Read more