All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 211 - Chapter 220

232 Chapters

第212話

叶翔が電話に出ると、心春は世間話を挟むこともなく、いきなり本題を切り出した。「今夜、櫻羅ちゃんを借りてもいい?」そのあまりにも単刀直入な言い方に、電話の向こうで叶翔は一瞬だけ黙る。だが、その沈黙もほんの数秒だった。心春から突然電話がかかってくるときは、大抵ろくでもないことか、楽しいことのどちらかである。そして今回は、どこか弾んだ声色だった。叶翔は苦笑しながら、心の中で「またパーティーか何かかな」と考えた。心春は社交的で顔も広い。思い立ったらすぐに誰かを誘って出掛ける性格でもある。きっと今夜も櫻羅を華やかな集まりへ連れて行くつもりなのだろう。そう思った叶翔は、深く考えることなく答えた。「いいよ」実際、その方が叶翔にとっても安心だった。父・玲司から与えられた課題が山積みになっており、ここ数日は会社に残る時間が長くなることが分かっている。場合によっては瑛士と徹夜で資料をまとめ、そのまま会社へ泊まり込む可能性すらあった。そんな状況で櫻羅を屋敷に一人残しておくよりも、心春と一緒に過ごしてくれた方がよほど安心できる。心春なら櫻羅を退屈させることもないだろう。そう考えた叶翔は、何気ない調子で尋ねた。「どこかに行くのか?」その質問に、心春は待っていましたと言わんばかりに明るい声で答えた。「うん。泊りで温泉!!」「……え?」思わず叶翔は声を漏らした。まさか温泉旅行とは予想もしていなかった。一瞬驚いたものの、すぐに心春らしい発想だと思い直す。傷心中の心春のことだ。美味しいものを食べて、温泉に浸かって、気分転換でもしたいのだろう。叶翔は穏やかに笑った。「分かった。櫻羅を頼む」「任せて」短いやり取りを終えると、電話は切れた。その直後だった。テーブルの上に置かれていた櫻羅のスマホが、小さな着信音を鳴らした。「あれ?」櫻羅が画面を見る。そこには見慣れた名前が表示されていた。心春も画面を覗き込み、苦笑する。「叶翔じゃない?」櫻羅は微笑みながらスマホの表示画面を心春へ見せると、そのまま通話ボタンを押した。「もしもし」電話の向こうから、優しい声が聞こえる。「櫻羅か? 心春と一緒に温泉に行くって聞いたけど……」確認するような口調だった。櫻羅は自然と微笑みながら答える。「温泉って行ったことなかったから……ダメ?」
last updateLast Updated : 2026-06-28
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第213話

電話を切ったあと、叶翔はスマートフォンを机の上へ静かに置いた。そのまま椅子にもたれかかり、小さく息をつく。仕事は山積みだ。父・玲司から与えられた課題もまだ終わっていない。本来なら今は目の前の資料だけに集中しなければならないはずだった。それでも、先ほどの電話のやり取りが頭から離れなかった。「温泉……か」自然とそんな言葉が漏れる。どこか感慨深い気持ちだった。櫻羅の両親は日本人。そのため櫻羅は日本語を何不自由なく話し、日本の文化や礼儀作法もある程度は身につけている。だから叶翔も、いつの間にか忘れていた。櫻羅は生まれも育ちも海外であり、日本へ来たのは今回が初めてだったということを。だから、日本人なら子どもの頃から何度も経験しているようなことでも、櫻羅にとっては初めての体験ばかりなのだ。初詣も。夏祭りも。花火大会も。そして――温泉も。先ほど電話で「温泉って行ったことなかったから……ダメ?」と遠慮がちに尋ねてきた櫻羅の声が、叶翔の耳に蘇る。その一言だけで、櫻羅がどれほど新しい世界を楽しみにしているのかが伝わってきた。「温泉か……」もう一度、小さくつぶやく。この件がすべて片付いたら。父から与えられた課題も終え、心春の問題も解決して、一息つける日が来たら。そのときは、自分も櫻羅を連れて温泉旅行へ行こう。今度は夫婦二人で。露天風呂を眺め、美味しい料理を食べ、ゆっくりとした時間を過ごしたい。そんな穏やかな未来を思い描いていた。その独り言を耳にした瑛士が、書類から顔を上げる。「温泉、いいな」その声で叶翔も我に返った。顔を上げると、向かいの席に座る瑛士と目が合う。二人とも連日の調査で疲れが溜まっている。だからこそ、「温泉」という言葉に反応してしまったのだろう。叶翔は少し笑って言った。「早くこの件を片付けて、みんなを誘って温泉でも行こうか」その言葉に瑛士も笑みを浮かべ、大きく頷いた。「賛成」束の間だけ重苦しい空気が和らぐ。だが、すぐに瑛士は仕事モードへ切り替わった。机の上に置かれていた分厚い資料を手に取ると、そのまま叶翔へ差し出す。「和真さんは若いころは相当遊び人だったみたいだな。関係を持った女だけでも相当数居る。だが、ここ十何年かは落ち着いていたようなんだが……そろそろその心春のところに来た女に会ってみない
last updateLast Updated : 2026-06-29
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第214話

再び、九条コーポレーション最上階――会長室。高層階の大きな窓からは、夕暮れへと変わり始めた街並みが一望できた。オレンジ色に染まり始めたビル群を見下ろしながらも、その部屋にいる二人の視線は景色へ向けられることはない。重厚な革張りのソファを挟み、玲司と和真が静かに向かい合って座っていた。室内には空調の微かな音だけが響き、沈黙が重苦しく流れている。ほどなくして秘書が静かに入室し、銀のトレーに載せたコーヒーをテーブルへ置いた。「失礼いたします」短く一礼すると、秘書は音も立てず部屋を出ていく。湯気の立つコーヒーカップが二人の前に置かれていたが、どちらも手を伸ばそうとはしなかった。香ばしい香りだけが静かな部屋に漂う。しかし、その香りを楽しむ余裕など、今の二人にはなかった。しばらく沈黙が続いたあと、やがて和真が諦めたように息をつき、重い口を開いた。「こんなことになって申し訳なかった。だが、俺には全く心当たりがないんだ」その声には、疲労と戸惑い、そして心春を傷つけてしまったことへの自責の念が滲んでいた。玲司はその言葉を聞いても表情一つ変えない。腕を組んだまま、和真を真っ直ぐ見つめて静かに問い返した。「ではなぜ、その女がお前やお義父さんが出かけた隙に心春に会いに来たと考える? その女の意図は何だと思うんだ?」責める口調ではない。あくまでも事実を整理するための質問だった。和真は視線を落とし、しばらく考え込む。頭の中でここ数か月の出来事を順番に思い返していた。やがて何かを思い出したように顔を上げると、観念したような表情で話し始めた。「少し前に神崎の家へ呼び出されたんだ。父に『いつ鷹宮の当主になるんだ?』と。俺にはそんな気はないと答えたんだが……」その言葉を聞いた瞬間、玲司は迷いなく言葉を返した。「お前が鷹宮の当主になって、神崎家へ便宜を図れと言われたのか?」そのあまりにも的確な推測に、和真は目を見開いた。思わず玲司の顔を凝視する。「……どうして分かった?」玲司は小さく苦笑した。「神崎の考えることなど、だいたい予想がつく。心春がお前と結婚すると言った時から、その懸念はあったんだ」その落ち着いた口調に、和真も苦笑を浮かべるしかなかった。「そうか……そうだろうな。昔のこともあるし、心春との結婚を、玲司が了承したことの方が不思議だっ
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第215話

九条コーポレーション最上階、会長室。重苦しい空気は依然として部屋を支配していた。窓の外では夕暮れがさらに深まり、高層ビルの窓には次々と灯りがともり始めている。だが、その美しい景色を眺める余裕は、玲司にも和真にもなかった。二人の前には冷めきったコーヒーが置かれたままになっている。先ほどまで話し合っていた内容を頭の中で整理した玲司は、静かに口を開いた。「その女と子供を呼び出せ。もう一度DNA鑑定をやり直させる」その一言には迷いがなかった。憶測や感情で判断するのではなく、科学的な事実で真実を明らかにする。それが玲司のやり方だった。和真もその考えには異論はない。静かに頷く。「ああ、連絡してみる」そう言うと、スーツの内ポケットへ手を入れ、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。それは昨夜、綾乃から渡されたものだった。心春のもとへ現れた女性が残していった連絡先。何度も開いたため少し折り目がついている。和真は紙に書かれた電話番号を見つめ、一度だけ深呼吸をした。この一本の電話で、状況が大きく動くかもしれない。スマートフォンを取り出し、番号を一つひとつ慎重に入力していく。入力ミスがないことを確認すると、そのまま発信ボタンを押した。静かな部屋に呼び出し音が響く。一回。二回。三回。その音を聞きながら、和真は無意識にスマートフォンを握る手へ力を込めていた。やがて通話がつながる。「はい」電話の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。和真は姿勢を正し、表情を引き締める。「神崎和真だ。あなたのことは妻から聞いた。一度会って話したいのだが、その、ボクの子供だと主張する、その子と一緒に来てくれないか?」できるだけ感情を交えず、冷静に言葉を選びながら話す。その途中で和真は玲司へ視線を向けた。どこを指定するべきか確認するためだった。玲司は小さく頷き、会長室全体を見渡すように視線を巡らせる。そして短く言った。「ここでいい」その一言を受け、和真は電話口へ続ける。「九条コーポレーションの最上階、九条会長の部屋へ来てくれ」その言葉が伝わった瞬間、電話の向こうは静まり返った。数秒間、返事がない。和真は相手が驚いていることを察した。当然だろう。突然、九条コーポレーション会長室へ呼び出されるなど、普通なら緊張しないはずがな
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第216話

電話を切ったあと、神代雪乃はしばらくそのまま立ち尽くしていた。手に握ったスマートフォンが、まだ通話の余韻を残して震えているように感じる。次の瞬間、全身から力が抜けた。その場に立っていられなくなり、ゆっくりと床へ崩れるように座り込んでしまう。冷たい床の感触が、逆に現実感を強く押し付けてくる。「……どうしよう」小さく漏れた声は、誰にも届かない。そのとき、廊下の奥から小さな足音が駆け寄ってきた。母親の異変に気付いた息子の康太だった。「お母さん、大丈夫?」心配そうな顔でしゃがみ込み、雪乃の顔を覗き込む。その無垢な瞳を見た瞬間、雪乃は無理に笑みを作った。そして康太の体を強く抱きしめる。まるで何かから守るように、必要以上に強く。「大丈夫よ。康太、このあと知らないオジサンたちに会いに行くけど、絶対にお父さんのことは喋っちゃダメよ。喋ったら大変なことになるからね」その言葉には、母親としての優しさと同時に、切羽詰まった緊張が混ざっていた。康太は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに小さく頷く。「うん」その返事を確認すると、雪乃はようやく腕の力を少し緩めた。そして優しく康太の背中を押す。「康太は一回お部屋に行って、準備しててね」康太は素直に頷くと、軽い足取りで部屋へ向かっていった。その背中が見えなくなるのを確認したあと、雪乃はリビングへ戻る。そしてそのまま、ソファに力なく倒れ込むように座った。深く息を吐く。心臓の鼓動だけがやけに大きく響いている。手はまだ小さく震えていた。数秒の沈黙のあと、意を決したようにスマートフォンを手に取る。連絡先の一覧をスクロールし、目的の名前を探し当てる。指先が一瞬止まる。しかし、もう後戻りはできなかった。雪乃は電話を掛けた。数回の呼び出し音のあと、相手が出る。「玲子さん、神崎和真に呼び出されました。このあと、会ってきます」声は震えていないように聞こえたが、実際には全身が緊張で固まっていた。電話の向こうで、玲子と呼ばれた女は落ち着いた声で頷くように言った。「わかったわ。あなたは計画通り、和真の子供だと言い張ってね。あんな遊び人なら一回寝ただけの女のことなんて覚えていないから。しかもDNA鑑定の結果もあるのよ。絶対ばれないわ。この計画がうまくいったら、あなたは鷹宮財閥の御曹司の母になるのよ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第217話

神代雪乃と康太は、手をつないだまま九条コーポレーション本社ビルの前に立っていた。見上げるほど高い超高層ビル。青空を映すガラス張りの外壁は太陽の光を反射し、まるで空へ向かって伸びているようにも見える。正面玄関には高級車が次々と横付けされ、スーツ姿の社員たちが忙しそうに出入りしている。誰もが足早に歩き、立ち止まる者はいない。その光景に、康太は思わず目を丸くした。「お母さん、すごいビルだね」その言葉に、雪乃もゆっくりと頷いた。「そうね……」自分も初めて見る九条コーポレーション本社だった。財閥の本社とは聞いていたが、想像以上の規模に圧倒される。これほど巨大な企業の会長室へ、自分たち親子が呼ばれている。その事実を思い出しただけで胸が締めつけられた。雪乃は深呼吸を一つすると、隣に立つ康太へ視線を向ける。「康太、行くよ」「うん」康太は元気よく返事をすると、母の手を握り直した。二人は自動ドアをくぐり、ビルの中へ足を踏み入れる。中はさらに別世界だった。吹き抜けになった広いエントランス。磨き上げられた大理石の床。静かに流れる落ち着いた音楽。受付には数人の社員が並び、訪問客も絶えない。それでも騒がしさはなく、全てが整然としていた。雪乃は少し緊張しながら受付へ歩み寄る。「会長室へ来いと言われてきたんですが…」受付嬢は営業用の笑顔を浮かべながら応対していたが、その視線は自然と雪乃の隣にいる康太へ向けられた。小学生くらいの子どもを連れた来訪者は珍しい。受付嬢は少しだけ首を傾げながら尋ねる。「会長に御用ですか?」雪乃は小さく頷いた。「会長室へ来いと言われたので、そうだと思います」言いながらも、どこか自信がなかった。「そうだと思います」という曖昧な返事しかできない自分に、内心で苦笑する。そして雪乃は隣の康太を見下ろした。「おとなしくしててね」康太も空気を感じ取ったのか、いつもの元気な様子はなく、少し緊張した面持ちで頷く。「うん」受付嬢は内線電話を取り、会長室へ確認を始めた。その間、康太は静かに周囲を見回していた。エントランスを行き交う人たちは、皆きちんとしたスーツ姿。男性も女性も忙しそうに歩きながら資料を確認し、電話で話し、足早にエレベーターへ向かっていく。誰も遊んでいる人はいない。誰も大きな声を出していない。
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第218話

九条コーポレーション最上階――。静かに上昇を続けていたエレベーターが、やがて目的の階へ到着した。「チン」控えめな電子音とともに扉が左右へ開く。雪乃は一度だけ深呼吸をしてから、康太と手をつないだまま外へ出た。すると、エレベーターホールには一人の女性が待っていた。紺色のスーツをきちんと着こなし、姿勢よく立っている。いかにも秘書らしい落ち着いた雰囲気を漂わせていた。女性は二人を見ると、丁寧に一礼する。「神山雪乃様ですか?」突然名前を呼ばれた雪乃は少し緊張した表情のまま、小さく頷いた。「はい」女性はその返事を確認すると、一瞬だけ雪乃の隣にいる康太へ視線を向ける。十歳ほどの少年。その姿を確認すると、再び雪乃へ向き直った。「会長がお待ちです」そう告げると、女性は先に立って歩き始めた。雪乃と康太も慌ててその後をついていく。広い廊下には厚手の絨毯が敷かれ、足音すらほとんど響かない。壁には高価そうな絵画が飾られ、窓からは都心の街並みが一望できる。どこを見ても、自分たちが普段いる世界とは違う。雪乃は緊張で喉が渇くのを感じながら歩き続けた。やがて女性は、廊下の一番奥にあるひときわ大きな扉の前で立ち止まる。重厚感のある木製の扉。ここが会長室なのだろう。女性は静かにノックをした。「失礼いたします」返事を確認すると扉を開ける。「会長、神山雪乃様がいらっしゃいました」その言葉とともに、女性は雪乃と康太へ軽く手を向ける。「どうぞ」促されるまま二人が部屋へ入ると、女性は丁寧に一礼し、そのまま静かに扉を閉めた。部屋の中は想像以上に広かった。大きな窓。重厚な家具。高級感のある調度品。応接スペースだけでも普通の家のリビングほどの広さがある。康太は思わず目を丸くした。「……」声こそ出さなかったが、きょろきょろと部屋中を見回している。あまりにも大きな部屋に驚きを隠せない。一方の雪乃は、そんな余裕はなかった。部屋へ入った瞬間から、ソファに座る一人の男へ視線が釘付けになっていた。落ち着いた威厳を漂わせる男。その姿を見ただけで、この人物が九条会長なのだと直感する。張り詰めた空気が部屋全体を支配していた。その時だった。部屋の脇から若い男性が歩み寄ってくる。穏やかな笑みを浮かべながら二人へ声を掛けた。「どうぞ」応接用の
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第219話

夕暮れが近づき始めた温泉街は、多くの観光客でにぎわっていた。石畳の道の両側には土産物店や甘味処が軒を連ね、あちらこちらから湯気が立ち上る。浴衣姿で歩く観光客の姿も多く、下駄の音が心地よく響いていた。「わぁ……」櫻羅は目を輝かせながら辺りを見回す。初めて見る日本の温泉街。旅館だけでも十分感動していたのに、その周囲までこんなに賑やかだとは思ってもいなかった。温泉街を歩くと、いろんな露店の店が出ていた。温泉街にゆかりのお土産から、この地とは全く関係のない雑貨まで、まるで祭りの屋台のように所狭しと並んでいる。温泉まんじゅう。木工細工。風鈴。手ぬぐい。駄菓子。玩具。アクセサリー。見ているだけでも飽きないほど種類が豊富だった。一方の心春は、こうした温泉街には何度も来たことがある。「あ、このお店まだあるんだ」と思う程度で、露店を横目に見ながら通り過ぎようとする。だが、櫻羅はまったく違っていた。「あっ!」「これ何?」「かわいい!」どの店の前でも必ず立ち止まり、目をキラキラと輝かせながら商品を眺めている。まるで子どもがおもちゃ売り場へ来たような反応だった。店主たちもそんな櫻羅を見て自然と笑顔になる。「見ていくだけでもいいよ」そう声を掛けられるたびに、櫻羅は嬉しそうに頷いていた。心春は苦笑しながらその後を追う。「今日は宿までたどり着けるかな……」そんな冗談を心の中でつぶやくほどだった。やがて二人は、小さなアクセサリー店の前までやって来た。木製の棚にはネックレスやブレスレット、指輪やキーホルダーなどが並べられている。天然石風のものやガラス細工もあり、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。櫻羅は吸い寄せられるように店へ近づく。「きれい……」そうつぶやきながら、ネックレスを一つ手に取る。次はブレスレット。また別のネックレス。一つひとつ手に取り、真剣な表情で眺めていた。その様子を見た心春が近づいてくる。「どうしたの?」そう優しく尋ねると、櫻羅は振り返って笑顔を見せた。「叶翔に似合うかなぁ」その言葉を聞いた心春は思わず笑ってしまう。「こんなイミテーションじゃなくても……でも、買って帰ったら喜ぶんじゃない?」心春にそう言われた瞬間、櫻羅の表情がぱっと明るくなる。「ほんと?」嬉しそうに再び商品へ向き直
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第220話

神山雪乃と康太が九条コーポレーションへ来る前――。九条コーポレーション最上階の会長室で、玲司から静かに告げられた一言が、和真の胸に重く残っていた。「まだお前が会う段階ではない」その言葉に反論することはできなかった。玲司には玲司なりの考えがある。今、自分が感情のままに雪乃やその子どもと会えば、冷静な判断ができなくなる可能性もある。それは和真自身も理解していた。だからこそ、和真は何も言わず九条コーポレーションをあとにし、そのまま鷹宮ホールディングスへと向かった。社用車の窓から流れていく街並みを眺めながらも、頭の中はずっと同じことばかり考えていた。――本当に、自分の子どもなのか。――いや、そんなはずはない。何度考えても答えは変わらない。それでもDNA鑑定という結果だけが、その確信を揺さぶってくる。会社へ到着すると、社員たちはいつも通り頭を下げた。「おはようございます、社長」和真も軽く頷き返し、そのまま社長室へ向かう。いつもなら秘書から今日の予定を聞き、すぐ仕事へ取り掛かる。だが今日は違った。デスクに腰を下ろしても、仕事を始める気になれない。大きな窓の向こうには都会の景色が広がっている。高層ビルが立ち並び、その間を車が絶え間なく走っている。いつも見慣れた景色なのに、今日はどこか遠く感じられた。和真は椅子の背にもたれ、眼前に広がる景色をぼんやりと見つめる。今頃、自分の子どもだという男の子を連れて、「神山雪乃」という、全く記憶にない女性が九条コーポレーションを訪れていると思うと、和真は少し落ち着かない気分だった。玲司が直接話を聞いているはずだ。叶翔や瑛士も呼ばれているかもしれない。今頃、どんな話が交わされているのだろう。本当なら自分もそこに居るべきなのではないか。そんな思いが何度も胸をよぎる。しかし玲司は「まだ会う段階ではない」と言った。その言葉を信じるしかない。和真はゆっくりと息を吐いた。そしてふと、心春の顔が思い浮かんだ。無邪気に笑う顔。何でも楽しそうに話す明るい笑顔。少し気に入らないことがあると、ぷいっと横を向いて拗ねる顔。怒って頬を膨らませ、自分の胸をポカポカと小さな手で叩いてくる心春。その一つひとつが自然と頭の中へ浮かんでくる。そして……泣いた顔。和真は心春が泣いた顔が一番苦手だった。あ
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第221話

正隆の問いに、和真は自然と背筋を伸ばした。先ほどまで心春のことばかり考えていた頭が、一瞬で切り替わる。目の前にいるのは、鷹宮財閥を長年率いてきた男――鷹宮正隆。曖昧な言葉やごまかしが通用する相手ではない。和真は静かに息を整え、口を開いた。「お義父さん……」心春の夫なのだから、正確には「お祖父さん」と呼ぶのが正しい。しかし、正隆の娘である綾乃と和真は同い年だった。以前、「お祖父さんなんて呼ばれると年寄り扱いされているみたいで気分が悪い」と正隆本人が冗談交じりに言ったことがある。それ以来、和真は一貫して「お義父さん」と呼んでいた。正隆も、その呼び方を何も言わず受け入れている。和真は一瞬だけ言葉を選んだ。今回の件をどう説明するべきか。言い訳を並べるべきではない。取り繕ったところで、正隆には見抜かれる。そう考えた和真は、率直に起きたことを、報告するように伝えることにした。「ボクが昔から女にだらしなかったせいで、心春を傷つけました。申し訳ありません」そう言うと、最近起こった出来事を順を追って説明し始めた。神山雪乃という女性が突然現れたこと。十歳になる男の子を連れていたこと。その子が自分の子どもだと主張していること。そして、一度行われたDNA鑑定では親子関係を示す結果が出てしまったこと。和真は包み隠さず話した。もちろん、自分にはまったく身に覚えがないことも。玲司や叶翔たちが再鑑定を進めていることも。最後まで話し終えると、和真は深々と頭を下げた。「申し訳ありません」静かな部屋に、その声だけが響いた。正隆はしばらく何も言わず、和真を見つめていた。怒るでもない。責めるでもない。やがて、口の端をわずかに曲げて笑った。「それで? お前には身に覚えがないと?」その問いに、和真は迷わず顔を上げる。正隆の目を真正面から見据え、はっきりと答えた。「はい」その返事には一切の迷いがなかった。正隆は静かに立ち上がる。コーヒーカップをテーブルへ置き、ゆっくりと窓際まで歩いて行った。眼下には鷹宮グループのビル群が広がっている。しばらく外を眺めていた正隆は、背中を向けたまま口を開いた。「そんなことを仕掛けられるのはなぜだ? なにか原因があるのではないのか?」和真も立ち上がり、正隆の横まで歩いて行く。二人並んで窓の外を見つ
last updateLast Updated : 2026-07-08
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