Tous les chapitres de : Chapitre 161 - Chapitre 170

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第161話

瀬奈は口を開けたまま固まった。湊斗はそんな彼女を不思議そうに眺めていた。何をそんなに驚いているんだ、とでも言いたげな顔だ。(いやいや、むしろアンタはどうしてそんな平然ととんでもないことを言うわけ!?)その発言の真偽は定かではないが、瀬奈が首を突っ込むようなことではないということだけはたしかだ。実子の里亜に対しても似たようなことを言っていたのだから、ただ単に子供として認めてないって可能性もあるわけだし。「冗談もいい加減にしなさいよ、いくら何でも笑えないわよ」「冗談のつもりはなかったんだが……」瀬奈は何か言いたげな湊斗の言葉を遮った。「とにかく、百合子ちゃんが今日家に来たの。ただお茶して話しただけで危害は加えてないわ。たまたま家の前を歩いていたから招待したのよ。それだけ」「そうか」百合子が家に入った理由を知ると、湊斗はそれ以上は何も聞かなくなった。「……咎めないの?」「咎めるも何も、お前はこの家の女主人だろう?雇われてるわけでもないんだから、どのような行動を取ったところで俺が何か言う権利なんてないだろ」それが意味するのは、ここにいる間は瀬奈の意思を尊重するということだった。(湊斗にしては珍しくまともなこと言うのね……以前とは大違い……)賭けをしてからというもの、彼は瀬奈の行動をあまり制限しなくなった。「それにしても百合子ちゃん、とっても良い子だったわ。湊斗もそう思うでしょう?」「……?あぁ、そうだな……」瀬奈がそれとなく娘に関する話を振ってみるが、湊斗は特別興味を示さなかった。(相変わらず冷たいわね)自分と血の繋がった娘だというのに、どんな話をしたのかとか気にもならないのか。元より子供があまり好きではない人だったけど。二人でリビングへ向かっている途中、湊斗が瀬奈に話しかけた。「お前、里亜に手作りの飯を作ってるんだって?」「当たり前でしょう、母親なんだから」私は沙織たちみたいにシッターなんて頼らないの。もちろん、それを平然と黙認するあなたもどうかと思うけれど。瀬奈は心の中で付け加えた。そんな彼女を横目でじっと見つめていた湊斗は、おもむろに口を開いた。「俺にも作ってくれよ」「……何ですって?」瀬奈は驚いて彼を見た。ふざけているのかと思ったが、彼の目は真剣そのものだった。瀬奈は結婚生活の間、ご飯を作って湊斗の帰りを待ってい
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第162話

湊斗は瀬奈の細い手首をガッチリと掴んで離そうともしなかった。瀬奈を見下ろしている彼はあの日、外でたまたま会ったときと同じような目をしていた。「……同じ部屋にいるだけで満足するのね?」「ああ、それ以上は何もしない」「……わかったから、さっさと手を離しなさい」瀬奈が頷くと、湊斗はそっと彼女から手を離した。彼に触れられたことなんてほとんどなかったせいか、未だに彼と肌が触れ合うことに抵抗があった。前を歩く湊斗の広い背中を、瀬奈はじっと見つめた。(私ったら、何をしているのかしら……早く一年を無事に耐え抜いて稲田町に帰らないと)彼に心を揺さぶられるたびに、瀬奈は里亜のことを思い浮かべた。娘の幸せを願うなら、湊斗とは一緒にならない方がいい。湊斗と共にキッチンまで行くと、二人はテーブルを挟んで座った。(お腹が空いてるって言ってたけど、何も食べないのかしら……)湊斗は足を組んで座ったまま瀬奈の顔をじっと見つめていた。お互いに一言も発さず、室内には重い沈黙が流れた。その気まずさに、彼女は耐えられなかった。どうして私がここまで気を使わないといけないのよ。瀬奈は心の中でそう思いながらも、彼に話しかけた。「湊斗、最近女の子と遊んでないの?」「急に何を言い出すんだ?」正面に座った湊斗が顔をしかめた。瀬奈はそんな彼の様子など気にも留めずに話を続けた。「ただ気になっただけ……あなたが女遊びを全くしていないなんて信じられないから」「……」湊斗は黙り込んだ。たしかに、今までの彼の行動や評判を考えてみれば瀬奈がそう思うのも無理はない。全て自分のせいなのだと、彼は嫌でも思い知らされた。「遊んでる時間なんてあると思うか?最近はほとんど毎日お前の家へ帰っているだろう?」「……そうかしら?こっそり女と外で会うことくらいできそうだけど」「……お前は」そこまで俺を信用していないのかと湊斗は言いそうになったが、慌てて口を噤んだ。自分が瀬奈の立場なら、たしかに彼を信用することなんてできないだろう。「そこまで信じられないなら一馬に聞けばいい。アイツなら俺の行動を全て把握しているだろうから」「……じゃあ、本当だっていうの?」湊斗は黙ったまま瀬奈を見つめた。彼を長く見てきているからこそ瀬奈にはわかった。今の湊斗は嘘をついていない。(本当に女の子と遊んでないんだ……)その真
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第163話

(ったく、どうして私が湊斗のためにご飯を作らないといけないのよ……)瀬奈は反感を抱きながらも、キッチンに立った。ちょうど近くにあったエプロンを体に巻き付けた彼女は、あることに気付いた。(あら?このエプロン……)それは瀬奈が家から出て行く前に愛用していたものだった。独特な柄だし、染み付いて落ちなかった調味料のシミまで残っているから間違いない。私の物なんてとっくに処分したと思っていたのに、まだあったのか。むしろ捨てておいてくれていたほうがよかった。そうすれば変な感情を抱いて気まずくなることもないのだから。エプロンを身に着けた瀬奈は、冷蔵庫の中を確認した。その間も、湊斗の刺すような視線が彼女に張り付いた。(適当なものにしよう、食べるのは湊斗だけだし)瀬奈は冷蔵庫から卵とウィンナーを取り出した。彼のために割く時間は最低限だ。いちいち数時間かけて面倒なものを作ってなどいられない。彼女はフライパンを火にかけて二つの食材をササッと焼くと、レンジで温めたご飯の上に豪快に乗せた。「完成!」上からケチャップをかけ、湊斗の前に出した。「どう?美味しそうでしょう?」「……何とも大胆な飯だな」予想外の物が出てきたのか、彼は無表情で瀬奈の手料理を眺めていた。生まれたときからお坊ちゃんである湊斗は、当然このような料理を食べたことなんてないだろう。(まぁ、私は好きだけどね。でもあなたの口には合わないでしょう?)いわゆる男飯というやつだ。彼はきっともっとバランスの良い、手の込んだ料理を想像していたはずだ。(幻滅したかしら?でもこれが私の本当の姿よ。私って実は結構雑でズボラなの)里亜のためならともかく、湊斗のために手の込んだものを作るほど彼女は優しくない。湊斗は箸を手に持ち、瀬奈の手料理を口に運んだ。もぐもぐと口を動かし、飲み込んで一言。「……美味いな」「そうよね。やっぱり神宮司家の御曹司として生まれた湊斗社長の口には合わないわよね……って、ええ!?」瀬奈は思わず声を上げた。「い、今美味しいって言ったの……?」「……?何をそんなに驚いているんだ?こんなもの、マズくなる要素がないだろう」しまった、と彼女が思ったときには既に遅かった。彼を幻滅させるつもりが、普通に美味しいものを作ってしまった。(わ、私ったら……これじゃ普通の奥さんじゃない……!)よほ
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第164話

食べ終わった湊斗の空いた食器を片付けようと、瀬奈は手を伸ばした。しかし、それを彼自身が阻んだ。「湊斗……?」彼は皿と箸をシンクまで持って行くと、そのまま自分で皿を洗い始めた。「ちょ、ちょっと何してるのよ!」「何って……皿洗いをしてるだけだ」湊斗はさも当然というようにそう口にした。彼の口からそのような言葉が出ることすら、瀬奈にとっては衝撃だった。(あ、あの神宮司湊斗が皿洗いをしてる……)瀬奈の記憶では、湊斗は茶を淹れることですら自分でやらない男だった。身の回りのことは何でもメイドや秘書にやらせ、まるで王様のようだった。いや、神宮司湊斗なら王ですら跪かせるかもしれない。「湊斗……私がやるから早く寝なさい」「作ってもらったんだから、後片付けくらいするのは当然だろう?」「……」湊斗はそう言いながら、瀬奈の使ったフライパンまで洗い始めた。瀬奈は困惑した顔で彼の一連の行動を眺めていた。「あなたって皿洗いなんてできたのね」「……俺を何だと思っている?」彼は全ての食器を綺麗に洗い終えると、濡れた手をタオルで拭いた。湊斗が全てを終えた頃には、時刻は既に夜の十一時を回っていた。「お前は飯は食ったのか?」「ええ、里亜と二人でね」「里亜と二人で……?」羨ましいのか、湊斗は拗ねたように口を尖らせた。何故俺を呼んでくれなかったのか、とでも言いたげな表情だ。(仕方ないでしょ、アンタ家にいなかったんだから)いたところで呼ぶことはないだろうけど。「もう寝ましょう。明日も早いんでしょう?夜更かしするわけにはいかないわ」「……そうだな」瀬奈の提案に、湊斗は軽く頷いた。彼女が部屋へ戻ろうと歩き出したそのとき、急に足元がふらついた。「ッ……」「瀬奈!」倒れそうになった彼女の体を、湊斗が慌てて支えた。瀬奈は湊斗の胸に抱かれるように彼にもたれかかっていた。彼は焦ったような顔で瀬奈に尋ねた。「どうしたんだ、急に」「……いえ、何でもないわ」瀬奈は額を手で押さえながら彼から離れた。(何だかめまいが……)瀬奈は元々体があまり強いほうではなかった。季節の変わり目で体調を崩すこともよくあった。「部屋へ戻るわ。最近色んなことがあって疲れが溜まっているようね」「心配だ、送っていこう」瀬奈は断ろうとしたが、湊斗は送ると言って聞かなかった。「本当に大丈夫なのに
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第165話

瀬奈が高熱を出したことにより、屋敷にいるメイドたちは慌てふためいた。もし彼女に何かあれば自分たちはきっとただでは済まない。「もし奥様が死んだら私たちの命は無いと思いなさい!」「は、はい!」彼女たちは自らの命をかけて瀬奈の看病をし続けた。そして、瀬奈が熱を出したことを聞いていても経ってもいられなかった人物はもう一人いた。「――しゃ、社長……?」「……瀬奈は、大丈夫なのか?」仕事中だった湊斗が、突然邸に帰ってきたのだ。瀬奈の部屋の扉を勢いよく開けた湊斗は、肩で息をしながらベッドに横たわる彼女を見つめていた。ベッドに広がっている、彼女の柔らかい黒髪にそっと手を触れた。いつもなら触らないでと彼の手を振り払っているところだが、今は何の反応も無い。彼は部屋にいたメイドたちに鋭い目を向けた。「……何故このような事態になったんだ」責めるような眼差しに、メイドたちはビクッと体を震わせた。視線だけでも動けなくなりそうだった。その中で、ベテランのメイドは怖気づきながらも答えた。「原因はわかりかねます。奥様は元々お身体が強い方ではありませんから……」「……俺が最近無理をさせすぎていたせいか?」湊斗は瀬奈の額に優しく手を触れた。いつもよりもずっと熱かった。彼は瀬奈のことが心配でたまらなかった。メイドたちは早く湊斗が部屋から出て行ってくれることを心の中で切実に願っていた。この顔と地位が良いだけの男はいたところで看病の邪魔になるし、気使うし。しかし、そんな彼女たちの願いとは裏腹に、湊斗は一向に瀬奈の傍を離れようとはしなかった。それどころか、ベッドサイドに椅子を持ってきて座り込んだ。彼の行動の意図が分からず、一人のメイドがおそるおそる尋ねた。「しゃ、社長……あの……お仕事は……」「瀬奈の体調が戻るまでここにいる」そんな、嘘でしょ?メイドたちは心の中で悲鳴を上げずにはいられなかった。そんな彼女たちの心情など、湊斗は気にも留めなかった。今の彼は瀬奈のことで頭がいっぱいだったから。仕事に戻ったところで、手に付かないだろう。いや、その気持ちはわからなくもないが、こっちの気持ちも考えてほしいものだ。あなたがいると気が散って仕事にならないんだけど。そんなメイドたちの願いはとうとう湊斗には届かなかった。***数時間後。「中田さんからも何か言ってくださいよ!あの人
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第166話

湊斗は瀬奈の部屋にこもり、その寝顔をじっと眺めていた。外でメイドたちが騒いでいるが、そんなもの気にもならない。「瀬奈……」湊斗はできるだけ余計な音を立てないように、微動だにせず瀬奈の傍を守っていた。透き通るような白い肌が火照っている。息遣いの荒い彼女を見るたびに、彼の胸はギュッと締め付けられた。変だな、何故このような気持ちになるのだろうか。呼びかけた彼の声に反応するかのように、瀬奈の唇が動いた。「美琴……」何だ、美琴の夢を見ているのか。あんな女のことなどさっさと忘れてしまえばいいものを。彼は苦痛に顔を歪ませた。あの一件は自分にも問題があったからだ。「湊斗……」今度は俺の夢を見ているのか?俺と美琴が出てくるだなんて一体どんな夢なんだ。彼女が回復し、目を覚ましたら聞いてみよう。「車の中で何て破廉恥なことを……」「……」いや、やっぱり夢の内容を聞くのはやめておこう。知らない方がよさそうだ。嫌な予感がした彼は自分の胸の内にのみ留めておこうと心に決めた。苦しそうな彼女の顔を見ると、湊斗はこれまでの自分の行いを酷く後悔した。あまりにも犯した罪が大きく、どう償えばいいのかすら彼にはわからなかった。散々傷付けてきた女を振り向かせるにはどうすればいい?だなんてみっともなくて、誰にも聞けなかった。「瀬奈……」「――いない方が役に立つんじゃないのか?」突然背後から聞こえた声に振り向くと、一馬が立っていた。「……お前」いつの間に入って来たのか。瀬奈に夢中だった湊斗はまるで気が付かなかった。一馬は険しい顔で湊斗を見下ろした。「湊斗、いい加減にしろよ。お前が勝手な行動を取るせいでメイドたちが困っているぞ」「……瀬奈がこんな状況なのに落ち着いて仕事なんてしていられるとでも?」湊斗も譲らなかった。二人の間でバチバチと火花が散った。「俺は瀬奈が回復するまでここから一歩も出ないぞ」「おいおい、風呂にすら入らない気か?瀬奈ちゃんが目覚めたら絶句するぞ」湊斗の瀬奈に対する執着は異常だった。一馬は長い間湊斗を見てきているが、彼が一人の女性をここまで気にかけるのは初めてだった。「とっとと出て行け。今はお前の小言を聞いてられるほど機嫌が良くないんだ」湊斗は瀬奈と二人きりになりたかった。叶うならこのまま彼女を誰も知らない二人だけの世界へ連れて行きたいとさえ思
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第167話

「中田さん!社長は説得できたんですか!」一馬が部屋から出ると、再びメイドたちに囲まれた。縋るような彼女たちの瞳を見ると、彼は罪悪感に苛まれた。「すみません……湊斗は奥様が回復するまでは部屋から出ないようです……」「えぇ~!!!」メイドたちにとって唯一の希望の光だった一馬。そんな彼でもダメだったと知り、彼女たちは大きく落胆した。「あの方、ちょっと傲慢すぎやしませんか?いくら自分の家だからってここまで勝手なことをされると困ります」「ほぼ立てこもり犯みたいなものですよ。奥様のことが心配なのはわかりますが、看病の邪魔になるので今すぐにやめていただきたい。医者でもないのにでしゃばりすぎです」「奥様が愛想尽かすのも納得ですね。さっさと捨てられてしまえばいいのに」「……」部屋の中で瀬奈に夢中になっている湊斗には聞こえていないだろうが、彼女たちはかなり湊斗アンチと化している。その姿は妻である千佳子によく似ていた。湊斗、お前ボロクソ言われてるぞ。もはや女性の敵なのではないかというレベルだ。しかし、今回の一件に関しては完全に湊斗が悪いので、一馬は彼を擁護することはできなかった。だからといって彼女たちに同調することもできなかった一馬は、ただ愛想笑いをし続けた。「みんな、やめなさい。雇い主の悪口を言うものではないわ」「あなたは……」そのとき、奥から出てきたのは年配のメイドだった。六十代くらいの女性で、湊斗がまだ幼い頃から神宮司家にメイドとして仕えていた。たしか、宮島さんって言ったっけな。湊斗からの信頼もかなり厚いと一馬は聞いていた。「だって、社長ったら勝手なんですよ!私たちを追い出すし!」「というか、そこまで奥様を大事に思っているのならどうして不倫なんてしたんですかね?お金持ちの考えることは理解できません」一人のメイドが放った本心に、一馬はギュッと拳を握りしめた。おそらく今ここにいる全員が同じことを思っているだろう。瀬奈との夫婦関係については、一馬はとても湊斗を擁護することはできなかった。彼がどれだけ批判されようとも、全ては自業自得なのだ。「……旦那様は不器用な方なのよ。愛する女性に本当の気持ちを伝えられないの」「だからといって愛する奥様をあそこまで傷付けるなんて……不倫した上に子供まで作るなんてありえないですって」宮島は表情を変えずに黙り込んだ
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第168話

一馬が出て行ってからも、湊斗はベッドサイドから一時も離れなかった。足を組んで椅子に座り、眠っている瀬奈を見つめ続けていた。「……こんなにも痩せていたのか」布団から出ていた彼女の細い腕を見た湊斗が、ポツリと呟いた。自分は一体いつから瀬奈のことを見ていなかったのか。二十年間何をしていたのか。瀬奈が去ってからというもの、彼女のことを考えない日は一日たりともなかった。躍起になって彼女を探し続け、ようやく自分の元へ戻ってきたというのに、またどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしてならなかった。――もし、このまま瀬奈がこの世から去ってしまったら。彼はきっと完全に正気を失ってしまうだろう。「瀬奈……俺のことを好きでなくてもいいから……頼むからいつまでも元気な姿で笑っていてくれよ……」彼がそう呟いたそのとき、背後から小さな足音が耳に入った。「誰だ!」突然の侵入者に声を荒らげて振り返ると、ウサギのぬいぐるみを抱えた小さな少女が立っていた。「……お、おじさん」「……里亜?」突如大声を出した湊斗に、里亜は怯えて後ずさりをしながら彼を見た。「あ……すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」湊斗の張り詰めていた表情が一瞬にして柔らかくなった。慌てた彼が里亜にそっと手を伸ばした。(……一馬が入れたのか?)別に誰だってよかった。里亜は瀬奈の血の繋がった娘で、ここへ来るのは当然だ。湊斗は他人を自分の部屋に入れたくなかったが、里亜は特別だ。「母親に会いに来たのか?」「うん、ママのことが心配でじっとしてられなかったから……」「そうか……」里亜はぬいぐるみを抱きしめ、ベッドの傍へ駆け寄った。「ママ……」里亜は悲しそうに瀬奈の眠るベッドのシーツを小さな手で握りしめた。湊斗は元気のない里亜の姿に、胸が痛んだ。彼女を慰めるように、肩にそっと手を置いた。今の自分にはそうすることしかできない。湊斗は仮に瀬奈に何かあったら自分が里亜を引き取ろうとまで思うほど、彼女のことを可愛がっていた。里亜は生気のない母親の顔に、目に涙を溜めて体を震わせた。「ママ……死んじゃうの……?」「――そんなことは絶対にない」湊斗は泣きそうな里亜を強く抱きしめた。自分が血の繋がりのないよその子を相手にこのようなことをするとは、湊斗自身も驚いていた。しかし、体は勝手に動いていた。「心配
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第169話

湊斗が瀬奈の部屋に立てこもっていた頃、百合子はとある物を持って神宮司邸を訪れていた。「チャイム押しても誰も出てこないなぁ……」学校帰りの百合子は、この間迷惑をかけたお詫びの品を持って再び瀬奈の元へやって来たのだ。彼女の手にはデパートで買った紙袋が握られていた。(大金持ちの奥様の口にはとても合わないかもしれないけど……)百合子が自ら瀬奈のことを考えて選んだものだった。煌びやかなデザインのパッケージが瀬奈の雰囲気とよく似ていると思って買ったのだ。百合子はたった一度瀬奈と話しただけだが、既に彼女のことが好きになっていた。瀬奈からしたら百合子は夫が不倫相手と作った娘。本当は目に入れることすら嫌なはずなのに、彼女は百合子を拒絶するどころかおもてなしまでした。実母から拒絶され続けて生きてきた百合子にとってはとても嬉しいことだったのだ。瀬奈はまるで母親のような温かさを感じさせる女性だった。同じ女として憧れもしたし、今日ここへ来たのも彼女にもう一度会いたいと思ったからだった。「今日は奥様はいらっしゃらないのかなぁ……使用人も誰もいないだなんて……」百合子が諦めて帰ろうとしたそのとき、中からとある人物が姿を現した。その人物は百合子を見るなり驚いたように目を見開いた。「……百合子ちゃん?」「あ、中田さん!」チャイムの音を聞いて外へ出たのは、湊斗の秘書一馬だった。一馬は当然、沙織の娘である百合子のことを知っていた。「よかったです!誰もいないのかと思いました!」「百合子ちゃん、どうして君がここに……」彼は困惑を隠せなかった。百合子は普段沙織と弟と共に別邸で住んでいるはずだ。特別湊斗と仲が良いというわけでもない。それなのに、何故彼女が本邸にいるのか。「中田さん、奥様は中にいらっしゃいますか!」「奥様……?瀬奈ちゃんのことか?」「はい!瀬奈さんに会いたくてここまで来たんです!」百合子が瀬奈と知り合いだと知ると、一馬はさらに動揺した。湊斗や沙織はこのことを知っているのか。いや、瀬奈を敵対視している沙織がこんなこと許可するはずがない。つまり、百合子は母親には何も知らせずここへ来ているということだ。「百合子ちゃん……君は奥様に会うためにここに来たということか?」「はい」「お母さんはそのことを知っているのか?」「いえ、お母さんは何も知りません」やっぱ
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第170話

一馬はしばらくの間、百合子の後ろ姿をじっと見つめていた。彼は沙織には苦手意識を抱いていたが、百合子や愛斗のことまで嫌っていたわけではなかった。二人は何もしていないし、むしろ沙織の犠牲者ともいえるだろう。彼はついさっき見た年若い少女の無垢な笑顔を思い浮かべた。あの笑顔が崩壊する日が近いうちに来てしまうかもしれないと思うと、彼は胸が締め付けられた。彼ら二人には何の罪もない。もし、百合子が両親や自身の秘密を全て知ってしまったら……想像したくもなかった。明るい性格の百合子はそのことを知っても乗り越えてくれると信じてはいるが。「誰に似たんだろうな……」一馬はポツリと呟くと、そのまま邸宅の中へ入って行った。***神宮司邸から帰った百合子は、徒歩で数十分かけて母親のいる家に戻った。「ただいま」いつものように返事は返ってこない。そんな状況にももう慣れた。最近は嬉しいことが続いていたせいか、そんなこと気にもならなかったのだ。(お腹空いたな、簡単なものでも作って食べようかな)そう思いながらキッチンへ向かっていると、百合子はふいに後ろから声をかけられた。「――百合子、どこへ行っていたの?」「……お母さん?」振り返ると、母親の沙織がそこに立っていた。(どうして、お母さんが私に……)母親に話しかけられるのは久しぶりだった。沙織が百合子や愛斗に声をかけるときは大体湊斗がいるときか、彼関連の話をするときだけだったからだ。沙織はいつも通り無表情のまま、百合子にゆっくりと近付いた。「前も長い間家を空けていたわよね。一体どこで道草食ってるわけ?」「ちょ、ちょっと用事があっただけだよ!」本当は瀬奈の元へ行っていたのだが、そのことを沙織に言うわけにはいかなかった。沙織は瀬奈の夫湊斗の不倫相手であり、百合子はどれだけ沙織が彼を愛しているかをよく知っていた。もし湊斗の本妻である瀬奈に会いに行ったことがバレたら、どんな反応をするか。「あ、新しい友達ができてね……その子の家に遊びに行っていたの」「ふぅん、そう」百合子の言葉に、沙織は納得したのか興味がなさそうに彼女の前から去って行った。(あ、危なかった……)沙織が立ち去ったあと、百合子は安堵の息を吐いた。普段自分に関心が無いはずの母親にそのようなことを聞かれるとは、想定外のことだった。(お母さんは何をするか
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