ログイン暁家の令嬢・暁瀬奈(あかつきせな)と神宮司家の御曹司・神宮司湊斗(じんぐうじみなと)は政略結婚だった。 瀬奈は湊斗に熱烈な想いを寄せていたが、彼は結婚後も彼女を顧みることはなく、七人の愛人との間に五人の子供をもうける。 彼との結婚から二十年経ち、三十八歳になった瀬奈は結婚初日に湊斗から渡されていた離婚届にサインし、家を出て行った。 彼女は実は五年前に生まれた湊斗との子供を隠していた。 「これは一体どういうことだ……?」 帰宅した湊斗は机の上に置かれた離婚届を見て、顔を真っ赤にした。 「どんな手を使ってでも瀬奈を捜し出せ!」
もっと見る「彼と結婚してからもう二十年が経つのね……」
暁(あかつき)家の令嬢であり、今は神宮司夫人である瀬奈(せな)は広い部屋でポツリと呟いた。
彼女は今日もある人物を待ち続けている。来るはずがないとわかっていながらも、瀬奈は二十年間ずっと彼の来訪を心待ちにしているのだ。
「一体どこから私は間違えてしまったのかしら……」
ベッドサイドに腰かけた瀬奈は、彼と初めて出会ったときのことを思い浮かべた。
「初めまして、神宮司湊斗です」
「……」
神宮司湊斗(じんぐうじみなと)と名乗った彼に、強く心惹かれたのを瀬奈は今でも覚えている。一目惚れだったのかもしれない。
サラサラの黒い髪、高い鼻梁、切れ長の美しい瞳、幼いながらに整った顔立ち。瀬奈は一瞬にして彼に心を奪われてしまった。
暁グループの令嬢だった瀬奈と、神宮司財閥の御曹司だった湊斗。
二人は許嫁だった。そのことを父親から聞かされたとき、瀬奈はとても喜んだ。彼女にとって初恋の相手であり、愛する湊斗と結婚できるのだと。
しかし、彼のほうはそうではなかった。
湊斗は瀬奈との婚約中、多くの女性と浮名を流した。学校の同級生、年上の社会人、父親が経営する会社の社員にまで。彼は相手の身分関係なく手を出した。
瀬奈は自分には指一本触れないにもかかわらず、他の女性と関係を持ち続ける湊斗に不満がないわけではなかった。しかし、彼に嫌われるのを恐れていた瀬奈は何も言うことができなかった。
「結婚前に遊びたいだけだろう。神宮司家の正妻になれるのだから、それくらいは目を瞑りなさい」
父親は湊斗が遊んでいることを知っていたが、瀬奈に我慢しろと言った。
両親からも味方してもらえなかった瀬奈は、必死で自分に言い聞かせた。
彼女たちはただの遊びであり、自分は神宮家の夫人となる女だ。だから結婚すればきっと自分だけを見てくれる、とそう信じていた。
しかし、現実は残酷だった。
湊斗は結婚してもなお、瀬奈の元には訪れることなく、愛人の元で夜を過ごした。そのことを責めた瀬奈に、彼は言い放った。
「お前を愛することはできない、これからは俺の行動に口を出さないでくれ」
彼の目は初めて出会った頃とは別人のように冷たかった。
それから湊斗は瀬奈に指一本触れることなく、多くの愛人を囲い、彼女たちとの間に五人もの子供をもうけた。そのうちの誰かに会社を継がせるつもりのようだ。
「奥様ったら、今日も一人ぼっちでいるわ」
瀬奈は湊斗の帰ってこない邸宅に一人取り残された。彼は今日もきっと愛人たちの住む家へ帰っているのだろう。
しかし、湊斗を愛している彼女は毎日のように彼を待ち続けた。自分の元へ来るわけがないとわかっていながらも。
そんなことを続けているうちに、二十年という歳月が経過していた。瀬奈と湊斗はお互いに三十八歳となった。
彼女は既に子を望めるような年齢ではなくなり、湊斗のほうも新しく愛人となった若く美しい女に夢中になっていると聞いている。
瀬奈の中で、何かが音を立てて崩れ落ちて行くようだった。
二十年という年月はあまりにも長すぎた。彼女の心は既に限界を迎えていた。
翌朝、心配そうに彼女に声をかけたのは湊斗の秘書だった。
「奥様……」
普段別邸で暮らしている湊斗の私物を取りに来る彼は、たびたび瀬奈とも顔を合わせていた。神宮司家で彼女を気にかけてくれていた数少ない人だ。
「今日も湊斗は愛人のところにいるんでしょう?」
「そ、それは……」
彼の秘書・中田一馬(なかたかずま)が言いづらそうに視線を逸らした。
知ったところで今さら驚きもしない。湊斗が瀬奈の元を訪れることなど、この二十年間数えるほどしかなかったのだから。
それでも彼女は彼のことを信じて待っていたが。
「いいのよ、わかっているから」
「……」
彼はうつむいた。瀬奈が辛い思いをしていることを知っておきながら、何もしてあげられないことに罪の意識を抱いていた。
しかし、今日の瀬奈の表情はいつもと違うと、彼は思った。これまでは湊斗に対する希望を見せていたにもかかわらず、今はどこか諦念に似たものを彼は感じた。
「中田さん、私最後に行きたい場所があるの。よかったら付き添ってくれない?」
「は、はい!奥様!」
”最後”という言葉に疑問を感じながらも、中田は彼女について行った。
その後、瀬奈は愛斗を玄関で見送った。ちょうど外が暗くなり始めていた頃だった。瀬奈は送っていこうかと言ったが、愛斗はそれほど遠くはないからと断った。黒川区は都会であるため、夜に出歩いたところで別に危なくはない。最近は夜遊びをしているヤンチャな学生たちをよく見かける。それに加え、ちょうど雨が上がっていた。今の状況であれば、徒歩で家に帰ることができるだろう。「瀬奈さん……今日はご迷惑をおかけしてすみません」「いえいえ、気にしないで。あなたをここへ連れてきたのは私なんだから」湊斗の服を着ている愛斗の姿は、正直かなり違和感がある。しかし、それ以外に着るものがないため仕方が無い。「では……失礼します。今日はありがとうございました。明日にでも服を返しに来ます」「あら、別にもらっていってもいいのよ?湊斗は服が一着無くなったことくらい気付かないだろうし」「い、いえそういうわけには……!」ハイブランド好きな湊斗は、かなりの量の服やアクセサリーを所有している。年を取ってからは購入品も少なくなったが、若い頃に買った服が未だに大量に残っている。そのため、仮に愛斗が借りパクしたところで彼はおそらく気付きもしないだろう。「と、とにかく……服はきちんとお返しします」「そう、待っているわ」待っている――というその言葉に、愛斗の顔が少しだけ赤くなった。そういえば、さっき彼と抱き合ってたんだっけ。二十近く年が離れているせいか、瀬奈はあまり気にしなかった。きっと愛斗もさほど気に留めてはいないだろうと、瀬奈は勝手に思い込んだ。しかし、実際愛斗は瀬奈と抱き合ったことがいつまでも頭から離れなかった。「じゃあね、愛斗君」「はい」瀬奈は愛斗を見送り、家に戻った。湊斗が帰ってくる前に終わらせることができてよかったと、瀬奈は安堵の息を吐いた。そんな彼女の元に、里亜がやってきた。里亜は瀬奈が湊斗を受け入れたあの日から、正式に湊斗の子――神宮司家の令嬢となった。とにかく里亜を甘やかそうとする湊斗に対し、瀬奈はお灸をすえることも多い。「ママ、お腹空いた」「そうね、今日もパパ遅くなるみたいだし……先に食べちゃいましょう」瀬奈はキッチンに行くと、エプロンを身体に巻き付け、夕食の支度を始めた。よほどお腹が空いていたのか、里亜もキッチンまでついて来て支度を手伝った。「あら、ありがと
全てを話し終えた愛斗は、切なそうな表情で俯いた。気のせいか、その瞳には涙が滲んでいるようにも見える。そんな彼の辛そうな様子を見ていると、瀬奈は胸が締め付けられた。どうしてこんなにも心優しい少年が、辛い目に遭わないといけないのだろうか。血の繋がった我が子に平然とそのような言葉を吐くことのできる沙織の異常さを改めて知った。「さっき言いましたよね。昔からずっと疑問に思っていたと。幼い頃は、なぜ両親が自分を愛していないのかを不思議に思っていました。だけど、姉さんも似たような状況だったせいかあまり深く考えることはありませんでした」「愛斗君、それは……」瀬奈は愛斗の愛されていないという考えを否定しようとしたが、言葉がどうしても出てこなかった。沙織が百合子と愛斗を愛しているのかと言われれば、答えは否だった。そんなことないよなんて、家庭の事情をよく知りもしない赤の他人に言われたところで何の慰めにもならない。それに、愛斗は慰めの言葉なんて望んではいないだろう。「子を愛していない母親なんていないと言いますが……本当にそうでしょうか?」愛斗の言っていることはごもっともだった。我が子を愛する母親が大半を占める中でも、当然例外は存在する。沙織だけではなく、瀬奈の母親も似たようなものだった。今は亡き母は、泰西にのみ愛を注ぎ、瀬奈と静香には関心を向けなかった。当時の母親の置かれた状況を思えば、彼女だけを責めるのも間違いかもしれない。わかってはいるものの、幼少期の瀬奈は寂しさを感じずにはいられなかった。――母親という存在は、それほどまでに子供にとっては大きなものなのである。おそらく愛斗も、心のどこかで沙織のことを信じていたのではないだろうか。「なら、俺は母さんの子供ではありませんね。この間もハッキリ言われたし――好きでもない遊び相手の男との子供なんて気持ち悪くてたまらないって」「そんな……沙織が……?」沙織の言動に、瀬奈は絶句した。なぜ、そこまでの暴言を吐けるのだろうか。知らない男の子供だから可愛くないと言うが、そんな人間は仮に愛する男性との間に生まれた子だったとしても、可愛がれないだろう。「さっき、元気だったかって聞きましたよね。正直に言うと、元気ではありませんでした。近頃はとくに、何も手につかなくなってしまって」「愛斗君」彼が何かを思い悩んでいることは、
愛斗と百合子が湊斗の子ではないこと。瀬奈も既に知っていた事実だったが、当の本人の口から直接聞くことになるとは想像もしていなかった。しかも、その事実を伝えたのが他でもない沙織だなんて。彼が今一体どんな気持ちでいるのか、瀬奈は頭を抱えた。「愛斗君……どうして……」「ずっと疑問に思っていたんです。母は常に何かを隠しているようだったし、父に本妻がいると知ってからは……もしかすると自分は父の子供ではないんじゃないかって少しずつ思うようになりました」愛斗は瀬奈と湊斗と話したあの日、沙織に直接尋ねた。自分は湊斗の子供ではないのかではなく、自分の本当の父親は一体誰か、と。確信があったわけではないが、どうしても真実を知りたくてかまをかけたのだ。沙織はそんな質問をされてもなお、動揺する素振りすら見せなかった。『どうしてそんなことを聞くのかしら?誰かに何か言われたの?』『そういうわけじゃないけど……ただ、そうなんじゃないかって思っただけで』『ふーん、そう』そこで沙織は、愛斗から顔を背けた。馬鹿げたこと言わないでよね、そんなわけないでしょう――なんて言葉を彼は期待していたのかもしれない。しかし、現実はどこまでも残酷で、沙織はどこまでも冷たい人間だった。『父親が誰かって言ったわよね?わからないわ、そんなの気にしたこともない』『…………え?』理解が追い付かない息子に、沙織はもう一度言い放った。『父親はわからない。それが答えよ。これで満足したかしら?』『母さん……』沙織の答えは、彼が望んでいたものとはかけ離れていた。たとえ父親が湊斗ではなかったとしても、他にきちんと存在しているのならまだ耐えられた。しかし、誰かわからないだなんて。彼女の放った一言は、愛斗にとってはもっとも最悪なものだった。『……どうして』『どうしてですって?それに関してはきちんと答えられるわ――適当な男たちと遊んでたら運悪く出来ちゃったのよ』その答えに、愛斗は絶句した。愛し合って生まれた子ではなく、望まれなかった子。父親は彼の存在すら知らず、母親ですら彼の誕生を喜ばなかった。自分は両親にとってその程度の存在だったのか。もちろん愛された実感なんてなかったけれど、生まれたときから疎まれていたのか。『仕方ないでしょう?できちゃったんだから』『もしかして、姉さんも……』沙織はもはや
瀬奈は愛斗を神宮司邸に入れると、すぐに風呂に入らせた。長時間雨に打たれた後だ。風邪を引いてしまっているかもしれない。受験が近いというのに、体調を崩してしまうのは大変だ。瀬奈は愛斗の世話をメイドに任せ、一度部屋へ戻った。「奥様、あの方は一体どちら様ですか?」「愛斗君よ。沙織の息子の」「沙織さんの息子……って、ええ!?」メイドは衝撃を受け、思わず声を上げた。神宮司家にいる人間で、沙織のことを知らない者はいない。瀬奈と沙織の立場を考えれば、驚くのも当然だろう。ここにいるメイドたちが瀬奈を聖母だと敬っている以上、沙織の息子である愛斗に良くない感情を抱く者もいるかもしれない。「お客様だから、あまり無礼な真似はしないようにね」「は、はい……」メイドは驚きながらもコクリと頷いた。それから一時間後、風呂から上がった愛斗が瀬奈の前に姿を現わした。彼は気まずそうに開いた扉の隙間から顔を覗かせた。「あ、あの……」「あら、愛斗君。お風呂から上がったのね」瀬奈は愛斗を怖がらせないように、笑顔で手招きした。遠慮がちに部屋に入ってきた愛斗は、ダボダボのシャツとズボンを着ていた。「……湊斗の服、ちょっと大きかったわね」「しゃ、社長の服だったんですか……」それもよく見たらシャツ一枚で数十万もする超高級ブランド。そのことを知った愛斗の顔が急に青くなった。瀬奈の暮らす神宮司邸には湊斗以外に男がいないため、彼の服以外に愛斗が着れるようなものはなかったのだ。しかし、サイズはどう見ても合わなかった。身長百八十を超える湊斗に対し、まだまだ成長途中の愛斗は百七十センチほど。ズボンの裾が床に付き、シャツは萌え袖状態。何か可愛い。瀬奈はこみ上げてくる笑いを抑えながら、愛斗に声をかけた。「あらあら、そんなに心配しないで。湊斗はそういうの気にしないから」「ほ、本当ですか……?」愛斗を安心させるための嘘、というわけではない。湊斗はシャツ一枚汚したところで別に何とも思わないだろう。彼にとっては大した額ではないうえに、代わりなんていくらでもあるのだから。「さぁ、座ってちょうだい。愛斗君」「は、はい……」瀬奈は愛斗に正面の席を勧め、彼はそっと腰を下ろした。瀬奈が準備した紅茶と、クッキーが机の上に置かれている。「久しぶりね、元気にしてた?」「……」瀬奈のその質問に、愛斗
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