偽りの愛はいらない。天才医師はクズ夫を捨てる のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

21 チャプター

第11話

泉の顔が一瞬にして青ざめる。「翔太。まずは話を聞いて」泉は一歩前に出て、翔太の手を取ろうとした。しかし、翔太はさっと身をかわして、その手を避けた。泉の手は行き場をなくして宙をさまよった。泉の目にはみるみるうちに涙が溜まり、震えた声で翔太に訴える。「私も考えての決断なの。この子は産めない。だって、考えてみて?私たちが今どんな状況か。真奈美が出て行ったばかりで、離婚だってまだなのに。その上、もし私たちに子供がいるなんて知られたら、周りになんて言われるか……とにかく、どう転ぼうとも私たちの将来は台無しなの!あなたのこれまでの努力も、私がもうすぐ手にできるはずだった主任のポストも、全部無くなってしまう」泉は言葉を紡げば紡ぐほど感情的になっていった。その目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。まるで、二人の未来のために痛みに耐え犠牲になる、悲劇のヒロインだった。「あなたが辛いのだって分かってるけど、私も辛いんだよ?だってこの子は、私たちの子だから……でもね、翔太。現実はそう甘くないの。望まれていない子供のために、自分たちのすべてを壊すなんて、私にはそんなことできない。いつか、ちゃんとした夫婦になれたら、子供はその時作ればいいんだから。何人だっていい。でも、この子は……私たちとは縁がなかった。そう思うしかないのよ……」「もういい!」翔太は低く唸り、涙ながらの泉の言い訳を遮った。泉を見つめる翔太の瞳には失望が宿っている。「泉。お前がそんなことを言うなんて、思ってもみなかったよ。望まれていない子?すべてを壊す?お前にとって、俺たちの子供はただの間違いで、邪魔なだけだったのか?」「そういう意味じゃない!」泉は焦って言った。「私は二人のために言ってるの!翔太、少しは冷静になって!」「だから、お前は子供を殺すことを勝手に決めたのか?」抑えきれない怒りで、翔太の声は急に大きくなった。「俺に一言の相談もなく?泉、この子は俺の子でもあったんだぞ!たった一人でこの子の生死を決める権利がお前にはあるのか?俺を愛してる、待ってるって、いつも言ってたのに?これがお前の言う愛情?自分の将来のために、俺たちの子供を犠牲にすることが?」「私の将来?」泉も苛立ちを露わにする。装っていた弱々しさは消え去り、代わりに悔しさと怒りを全面に出した。
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第12話

二人の口論する声がかなり大きかったため、廊下を歩いていた何人かは、ドアの前で足を止めていた。その時、ドアの外からかすかな物音がした。口論していた二人は同時に凍りつく。今のやりとりを、誰かに聞かれてしまったかもしれない。翔太の心は、底なし沼に沈んでいくようだった。このタイミングで、泉との後ろめたい関係が噂にでもなれば、致命傷になりかねない。泉の顔からもサッと血の気が引いた。さっきまでの剣幕はどこへやら、今はただ底知れない恐怖に支配されている。「終わった……」彼女はそうつぶやくと、膝から崩れ落ちた。内部告発は、彼らが考えていたよりもずっと早く、そして直接的だった。明確な証拠さえ必要とされず、単に二人がオフィスで、不倫、妊娠、中絶、妻を陥れる計画といった内容を激しく言い争ったという事実だけで、大ごとになった。すぐに調査委員会が立ち上げられ、翔太と泉はそれぞれ別々に聴取を受けた。はじめは言い逃れようとした二人だったが、調査委員会は彼らが想像もしなかった証拠をいくつも握っていた。何より決定的だったのは、調査の過程で、翔太の私物として提出を求められたあの忌まわしい「遺書」の原本だった。そこには、泉への今後の手筈と「保障」、そして真奈美に対する「責任」についてが、はっきりと書かれていた。これが、翔太の動機が不純であり、素行や倫理観に重大な問題があることを示す、揺るぎない証拠となった。翔太はあくまで、「任務のための事前計画書です」と主張したが、泉の妊娠時期や二人の口論の内容と照らし合わせると、その言い訳はあまりにも苦しかった。調査結果はすぐに出た。指揮官であるにもかかわらず、職権の私的な乱用。また、配偶者への不貞行為によって職場にも深刻な悪影響を与えたとして、解雇処分が下された。もう役職につくことは絶望的で、地方の物流倉庫への左遷も決まっていた。医療従事者である泉は、他人の家庭を壊し、妊娠の事実を隠蔽しようとしたことが、職業倫理の欠如と判断され、懲戒処分となり、今後の昇進や表彰の機会はすべて剥奪。地方の診療所へ異動させられることになった。「輝かしい未来」あと一歩で手に入るはずだったその未来は、たった数日で水の泡と消えたのだった。処分が言い渡された時、翔太は異動命令の辞令を、無表情で見つめていた。こうなることは覚
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第13話

オリエンティア連邦のとある紛争地域にある、国境なき医師団の臨時医療拠点にて、血と土埃で汚れた白衣を身にまとった真奈美は、たった今、6時間にも及ぶ重傷患者の手術を終えたところだった。長時間にわたる神経を使う細かな作業で指先はかすかに震え、額には玉の汗がにじんでいる。しかし、その瞳は鋭く、集中力を失ってはいなかった。マスクを外すと、テントの外にある比較的静かな隅へ移動した。残り少ないペットボトルの水を、ゆっくりと喉に流し込む。ここに来て、もう3ヶ月以上が過ぎていた。凄惨な怪我や劣悪な環境に初めは戸惑い、衝撃を受けた。しかし今では、冷静に、時には何も感じなくなるほどの強さを身につけ、別人へと生まれ変わっていた。体は疲れているのに、心は不思議と充実感で満たされている。命を一つ救うたび、誰かの苦しみを和らげるたびに、医師としての自分の価値がどんどん大きくなっていくのを感じていたのだ。ここでは面倒な人間関係も、うわべだけの付き合いもない。ただ医療技術に集中し、死神と戦うだけ。ひどく疲れた深夜や、手術の合間のわずかな静寂の中で、時々、故郷での出来事が不意に頭をよぎることがあった。翔太、泉、生まれてこれなかった子供、ウェディングフォト、置き去りにされたあの瞬間……今でも胸には微かな痛みが走る。だがそれ以上に、まるで別世界の出来事だったかのような虚しさと、どこかもうどうでも良くなったような気持ちがこみ上げてくるのだった。あんな男とのあんな愛情のために、たくさんのものを諦め、長い間苦しんできた。今思えば、なんて無駄で、馬鹿げていたのだろう。ここの通信環境は不安定だったが、この日は医療拠点の衛星電話がようやく安定したらしく、外の世界の情報がいくつか受信できるようになった。雑務を担当する同僚が、新聞の要約を各テントに配って回っていた。外の世界の様子を知ることは、退屈で危険な毎日の中でのささやかな気晴らしだった。真奈美も自分の分を受け取り、国際ニュースや地域情勢にざっと目を通していると、ふとある小さな記事に目が留まった。見出しは、【特殊部隊指揮官、服務規律違反に対し厳正な処分が下される】というもの。本文は短く、名前も非公開。しかし、【某指揮官の私生活上の問題で倫理違反】【他者への利益供与に職権濫用】【某病院の医療従事者、不倫によって
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第14話

環境が違えば、時間の流れ方も全く違うものになる。翔太にとって、時間は錆びついた鈍いナイフのようだった。ゆっくりと、でも確実に、彼の鋭さを削り、心に空いた穴と後悔を深くしていく。処分が下された後、翔太は真奈美に連絡を取ろうとした。彼女が気にもしないだろうことは分かっていたが、処分の内容を伝え、今更だとは思いながらも、一言「ごめん」と謝りたかったのだ。しかし、手紙の返事が返ってくることはなく、ましてや電話ですら繋がることはなかった。国境なき医師団の活動は機密性が高く、翔太は完全に真奈美がどこにいるか分からなくなってしまった。地域の診療所で雑務に追われる泉にとっても、同僚たちの奇異の目や噂話に耐える日々は、とても辛いものだった。泉は悔しかった。翔太を恨み、内部告発した人間を恨み、そして何より、遠い空の下で、まるで他人事のように過ごしているであろう真奈美を恨んでいた。以前の騒動や、激しい感情の浮き沈みのせいで、お腹の子の状態もずっと不安定だった。子供を諦めることも考えたが、わずかに芽生えた母性からか、あるいは最後の切り札を失いたくないという思いからか、泉は産むことにしたのだ。しかし、お腹が大きくなるにつれて、体の負担も、精神的なストレスも日増しに重くなっていく。翔太が倉庫の簡素な寮で、古いテレビでニュースを見ていたとき、ある国際ニュースが彼の目を引いた。国境なき医師団が、とある紛争地域に仮設病院を設置し、民間人の負傷者を数多く救ったという内容だった。映像には、忙しなく立ち働く女性の後ろ姿が映っていた。マスクと帽子で顔はよく見えない。だが、その真剣な眼差し、見慣れた背格好……真奈美だ!テレビに映ったのは一瞬だったが、翔太は確信した。心臓が鷲掴みにされたように締め付けられる。ニュースが終わって画面が切り替わるまで、彼はスクリーンを食い入るように見つめ続けた。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、翔太は椅子に崩れ落ちた。真奈美は、本当にあそこにいたのだ。あれほど危険な場所で、あんなにすごい仕事をしている。画面の中の真奈美から疲労は感じたが、その瞳は輝いていた。それは翔太が今まで一度も見たことのない、彼女自身の確固たるまばゆい光だった。それに比べて、今の自分は?今にも崩れそうなの倉庫の番をしながら、
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第15話

とっさに手を伸ばした翔太だったが、一歩遅かった。ドン、と鈍い音が響く。泉が床に激しく倒れ込み、ベッドフレームに腰と腹を強打していた。激痛が泉を襲う。泉は苦しげなうめき声をあげ、顔からは血の気がなくなっていた。そして彼女の下半身からは、鮮血が流れ出しているのだった。翔太は呆然と立ち尽くした。みるみる広がっていく鮮血を見ていると、キーンと耳鳴りがし、頭が真っ白になった。「赤ちゃん……私の赤ちゃん……」泉は腹部を押さえ、苦しそうに体を丸めているし、出血もどんどんひどくなっていく。はっと我に返った翔太は慌てて外に飛び出し、助けを呼ぶとともに救急車を要請した。しかし、倉庫は人里離れた場所にあったため、救急車はなかなか来なかった。待っている間にも、泉の呼吸はどんどん弱々しくなっていき、床の血だまりも、怖くなるほど広がっていった。翔太は泉のそばにしゃがみ込むと、無駄とは分かりながも出血箇所を手で押さえた。手にべったりと付く生暖かい血の感触が、彼の不安をより一層かき立てる。苦痛にゆがむ泉の顔と、目に焼き付くような真っ赤な鮮血を見ながら、翔太は悟った。今まさに、ひとつの命が消えようとしているのだと。この悲劇は、二人の歪んだ関係と、互いへの憎しみ、そして感情的な言い争いが招いたものだった。ようやく救急車が到着し、泉は担架で運ばれ、近くの病院へと緊急搬送された。共に救急車に乗り込んだ全身血まみれの翔太の顔色も、泉と同じくらい真っ青だった。緊急手術の結果、泉は一命をとりとめたが、妊娠5ヶ月になろうとしていたお腹の子は、助からなかった。結局、大ごとになってしまった。翔太にはまたもや処分が下された。しかし、倉庫で処分通知を受け取った彼の顔には何の表情もなかった。こうなることを分かっていたのか、それとも感情が麻痺してしまったのか……翔太は黙って数少ない私物をまとめると、その場所を去った。短い間だったが、まるでこの場所に全ての生気を吸い取られてしまったかのようだった。泉は診療所の寮で解雇通知を受け取った。彼女は騒ぎもせず、涙も見せなかった。しばらく呆然と座り込んでいたが、すっと立ち上がると静かに荷物をまとめ始めた。泉の荷物は翔太よりも少なく、荷造りはすぐに終わった。寮を出るとき、かつての同僚たちが様々な視線を向けてきた
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第16話

長く、そしてかなり過酷な道のりだった。翔太は、このとき身をもって知った。平和な国から、戦争が続く地へ行くことが、どれほど難しくて危険なことなのかを。直行便はないから、何度も乗り換えが必要だった。避難してきた人たちや物資でいっぱいの古いトラックに乗って、検問所を通り抜け、ときおり流れ弾が飛んでくる荒野を横切る。曖昧な情報を頼りに、国境なき医師団が支援する難民キャンプの医療拠点にようやくたどり着いたとき、翔太はもう疲れ果てていた。髭は伸び放題で、服はしわくちゃでほこりまみれ。周りの避難民と見分けがつかないほどだったが、窪んだ彼の瞳だけは、ひたむきな光を宿していた。医療拠点は、翔太の想像以上に簡素で、慌ただしかった。低いテントが連なり、空気は消毒液や血、ほこりなどが混ざった臭いで充満していた。様々なスタッフが忙しそうに歩き回り、担架が行き交う。子供の泣き声や負傷者のうめき声、医療スタッフの短い指示が混じり合っていた。翔太は少し離れた場所に立ち、忙しそうに動くあるひとりの姿を目で必死に追っていた。そしてついに、手術室として使われている大きめのテントの外で、彼はそれが真奈美だと確信した。真奈美は手術を終えたばかりのようで、血のついた手袋を外しながら、隣にいる現地のアシスタントに何か指示を出している。彼女はずいぶん痩せたようだった。もともと白かった肌は、この土地の日差しと砂ぼこりで少し荒れていたが、却って健康的な小麦色になっていた。簡単な手術着の上に、汚れた白衣を羽織っているだけだったが、髪をすっきりと後ろでまとめた姿は、真奈美の整った顔立ちをより際立たせた。太陽の光が真奈美の顔を照らし、こめかみの汗が光る。その眼差しは真剣だが、とても落ち着いていて、周りの混乱や苦しみが彼女の心の平静を乱すことはないように見えた。その横顔を見ただけで、翔太の心臓はハンマーで殴られたように強く痛んだ。言葉にできない切なさと、自分が惨めになる感覚が込み上げてくる。真奈美は……眩しすぎて、まるで別人みたいだ。以前、ニュースで一瞬見かけた時と変わらず、真奈美は彼女自身の戦う場所と価値を見つけ、そこで輝いている。それにひきかえ、自分はまるでドブネズミみたいに、泥だらけの過去と希望のない未来の中でもがいている。こんな汚れた身でここに来て、慰め
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第17話

心の中で何度も繰り返したその言葉は、いざ口に出してみると、あまりにも軽く、滑稽なほどに空っぽに響いた。真奈美は黙って翔太をじっと見ていた。次の言葉を待っているようでもあり、彼が何を言おうと全く気にしていないようでもあった。その沈黙が翔太をさらに追い詰め、ずっと溜め込んでいた言葉が溢れ出した。「真奈美、ごめん。本当にごめん。俺が間違っていた。謝ったって取り返せないほど、俺が間違っていた。あんなことすべきじゃなかった。お前を陥れたうえに、お前を見捨てるなんて……ニュースでお前がここにいると知って、どうしても直接謝りたかったんだ。許してもらおうなんて思ってない。そんな資格、俺にはないって分かってる……」言葉は思うように出てこなかった。目頭が熱くなり、視界が滲む。かつて銃弾の雨の中でも顔色一つ変えなかった男が、今は過ちを犯した子供のように、おどおどしながら僅かな許しを求めていた。全てを聞き終えても、真奈美の表情は変わらなかった。彼女はただ小さくため息を漏らした。かすかな疲労と突き放すような冷たさが滲んでいる。「翔太」真奈美は口を開いた。その声は、事実を淡々と告げるように、とても落ち着いていた。「話は終わり?」翔太は呆然とし、ただ彼女を見つめることしかできなかった。「その話をするためだけに来たのなら、私は確かに聞いたよ」その穏やかな視線は翔太の顔に向けられているようでもあり、まるで彼を通り抜け、もっと遠くを見つめているかのようでもあった。真奈美が続ける。「許すとか許さないとか、もう意味がないの」「違うんだ、真奈美、俺は……」翔太は必死に何かを言おうとした。しかし、真奈美はそれを手で制した。彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ哀れむような光が宿ったように見えたが、それもすぐに消え去った。「以前は夫婦だった情けで、ひとつ言っておいてあげる。翔太、過去は過去だし、あなたの人生は、あなた自身が選んだもの。どんな結果だろうと、自分で引き受けるべきだと思うよ。だから、もう会いには来ないで。過去に縛られて生きるのはやめな。それが、あなたのためにも、私のためにもなるから」そう言うと、真奈美は翔太に目もくれず、テントへ戻ろうと踵を返した。「真奈美!」翔太は諦めきれずに呼び止める。その声は絶望に震えていた。「そんなに……俺を憎んでいる
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第18話

翔太は、どうやってあの医療拠点から離れたのか、自分でも分からなかった。真奈美の「もうどうでもいい」という言葉。そして、彼女の静かで、どこか冷めたような眼差しが、何度も頭の中で繰り返されるたびに、翔太のズタズタになった心は、鈍い刃物でえぐられるように痛んだ。魂が抜けた抜け殻のように、彼は呆然としたまま帰りのトラックに乗り込んだ。揺れとほこりの中で、ただ体を揺らす。ここへ来るときの執着と、ほんのわずかな希望の光。それらは、厳しい現実によって無残にも消し去られてしまい、今では冷たい灰だけしか残っていなかった。国内の安アパートに戻ると、翔太は部屋に引きこもった。食べもせず、飲みもせず、ただ目を開けたまま、シミのある天井をぼんやりと見つめるだけ。再びアルコールに頼り現実から逃げようとした。しかし、今回はアルコールの力も効果はなく、苦しみと幻覚が深まるだけだった。翔太は、真奈美との過去を何度も何度も思い出していた。自分が見過ごしていた優しさ、当たり前だと思っていた真奈美の献身、そして泉のために、真奈美に強いてきた我慢。その一つ一つが、今になって恐ろしいほど鮮明によみがえる。血がにじむような皮肉をともなって……子供が流れてしまった時の真奈美の青白い顔。遺書を見つけたときの彼女の震える手。一人で病院のベッドにいたときの寂しさが滲んだあの表情。そして、自分が真奈美ではなく泉を庇った時の、あの虚ろな目……だが、結局最後に思い出すのは、彼女が去るときに残したメモと、医療拠点での静かで無関心な表情だった。【素敵なウェディングフォトだね。末永くお幸せに】「あなたを憎んでなんかないよ。だって、誰かを憎むのって、すごく疲れるから。あなたのことなんて、もうどうでもいいの」この二つの言葉は、まるで呪いのように、昼も夜も翔太を苦しめた。翔太は後悔していた。自分はなぜあんなに自信過剰だったのか?すべてを自分の思い通りにできると信じて、二人の女性の運命を勝手に決めてしまった。なぜもっと早く自分の気持ちに気づかなかったのか?いや、間違いに気づいたときに、なぜすぐに関係を修復しようとしなかった?なぜあの事故で、とっさに泉を庇ってしまったのだろう?真奈美だって、同じように危険が迫っていたというのに。なぜ真奈美を失うまで、気づかなかったんだ?自分
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第19話

……人の苦しみをよそに、時間はただ過ぎていく。実家に戻った翔太は、見る影もなくやつれていた。彼の姿に、両親は心配と失望の入り混じった、深いため息をつくことしかできなかった。翔太の心の傷は、癒えることなどなかった。月日の流れで、分厚いかさぶたができたように見えたが、その下ではまだ傷が膿んでいて、じくじくと痛んでいる。一方、泉はさらに悲惨な日々を送っていた。職を失い、経歴に傷がついた上に、子供を失ったことで心身ともに打ちのめされていた。仕事を探してもことごとく断られ、貯金もすぐに底をついた。両親からの仕送りはわずかしかなく、しかも会うたびに愚痴や小言を言われ、彼女のいらだちと憂鬱は募るばかり。その結果、泉は神経質で怒りっぽくなり、自分の不幸はすべて、翔太と真奈美のせいだと、頑なに思い込むようになった。何があったのか、泉が翔太の実家を突き止め、突然押しかけてきた。泉の突然の訪問は、翔太と彼の両親にとって、まさに災難の始まりだった。翔太はもう二度と泉の顔など見たくなかった。泉の顔を見るたび、自分の犯したどうしようもなく愚かで、惨めで、苦しい過去を突きつけられるのだ。一方、最後の藁にもすがる思いだった泉は、自分の悲惨な身の上を泣きながら訴えたり、翔太の裏切りをなじったりした。しまいには、せめて経済的にだけでも「責任」を取ってほしいと要求するように……二人が顔を合わせれば、口論で唾を飛ばす日々。過去への恨み、現在の困窮、未来への絶望。ありとあらゆる負の感情をぶつけ合う。二人はお互いの過去をほじくり返し、相手が一番傷つく言葉を選んでは投げつけた。そのやり取りのあまりの酷さに、そばで聞いている翔太の両親は眉を顰めたが、二人を止めることはできなかった。近所の好奇の視線と、毎日続く騒音。両親はすっかり追い詰められ、ついに翔太にこう切り出した。「いっそのこと……籍を入れたらどうだ?そうすれば彼女も少しは落ち着くかもしれない。毎日これじゃあ、こっちの身が持たないんだよ……」翔太は最初、猛反対した。しかし、心労ですっかり老け込んだ両親の顔と、毎日続く泉の泣き声に、心も体も疲れ果ててしまっていた。結局、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちが彼を支配し始める。これも、自分の運命なのかもしれない。自分と泉はまるで二人で
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第20話

泉はスマホを床に叩きつけた。画面が粉々になる。それから翔太の顔を指さし、ありったけの汚い言葉で、彼と真奈美、そして二人の胸糞悪い過去を罵った。翔太の中でずっと溜まっていた怒りも、ついに爆発した。終わりない罵りと泉の狂気に、彼はもううんざりだったのだ。翔太は勢いよく立ち上がると、泉の腕を掴み、目を真っ赤にして怒鳴りつけた。「黙れ!いい加減にしろ!今の自分がどんな姿か見てみろ!普通じゃない。全ては、お前のせいだ。お前が最初から俺を自分のものにしようとしなければ、こんなことにはならなかったし、俺が真奈美を失うこともなかった。お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!」「私が、あなたの人生をめちゃくちゃにしたって?」泉は狂ったようにもがき、甲高い声で泣きながら翔太を罵った。「めちゃくちゃにしたのはあなたでしょ!私の人生を台無しにしたのはあなたなんだから!あなたなんか大っ嫌い!」二人は揉み合いになった。それは恋人同士のじゃれあいではないく、本気で憎しみをぶつけ合う、殴り合いの喧嘩だった。テーブルはひっくり返り、グラスは割れ、部屋の中はめちゃくちゃになった。もみ合いになる中、泉の手が何かに触れた。それは、以前果物を剥いたあと、何気なくソファの隙間に置いていたフルーツナイフだった。翔太に強く突き飛ばされ、よろめきながら後ずさりした時、彼女はナイフを握った手を無茶苦茶に振り回した。翔太は泉がナイフなんかを持っているとは思わず、押さえつけようと前に出た。そしてもみくちゃになる中、ブスッ、と何かが肉を貫く鈍い感触がした。一瞬にして、時間が止まったかのようだった。翔太は動きを止め、ゆっくりと自分の腹部に目を落とす。泉も呆然としていた。しかし、ナイフの柄を握る手だけは激しく震えていた。フルーツナイフが根元まで深くまで、翔太の左脇腹に突き刺さっていたのだ。どっと溢れ出た血が、彼の服と泉の手をみるみる内に赤く染めていく。泉はぱっと手を放し、恐怖で目を見開いた。彼女が見つめる先で、翔太がゆっくりと倒れ、その下には鮮やかな血だまりが広がっていった。泉は悲鳴を上げ、頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。体は小刻みに震え、焦点の合わない目で、何かつぶやいている。「私じゃない……私じゃない……赤ちゃん……血……血だらけ……」物
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