FAZER LOGIN木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。 手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。 【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】 真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。 【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】 一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。 彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。
Ver mais地球の裏側、戦火と貧困が渦巻くアフロテラ共同体。そこの国境近くには、恒久的な難民キャンプがあった。ここの環境は、真奈美が国境なき医師団に加わった当初にいた臨時医療拠点より少しはましで、医療施設や宿舎はレンガ造りの比較的しっかりした建物だった。もちろん質素なつくりではあったが、頻繁に移動する必要はもうなかった。真奈美はここで2年ほど活動を続ける中で、その優れた医療技術と冷静な判断力、そして抜群の適応能力を発揮していた。さらに現地の言葉も熱心に勉強したので、今ではこの医療施設の中心的な医師の一人となっていた。同僚たちからは尊敬され、難民たちからも深く信頼されている。過酷な医療活動と厳しい環境は、真奈美の顔に歳月の跡を刻んでいた。目じりには細いしわが寄り、肌は長年の日差しで健康的な小麦色になっている。しかし、彼女の眼差しはますます澄み渡り、強い意志を宿していた。その全身からも、落ち着きと包容力、そして力強さに満ちたオーラが放たれていた。紛争地帯に孤児はつきものだ。ある日の巡回診療で、真奈美は交戦のすえに荒れ果てた村の廃墟を訪れた。そこで彼女は、崩れた壁の下でうずくまり、高熱を出して息も絶え絶えになっている小さな女の子を見つけた。年は3、4歳くらいだろうか。骨と皮ばかりに痩せこけていて、その大きな瞳には恐怖と失望しか映っていなかった。真奈美は彼女を抱きかかえて医療施設に連れ帰り、懸命に治療した。女の子の命は助かったが、よほど怖い目にあったのだろう。長い間一言も口をきかず、まるでこの救いだけは逃してはならないと、真奈美の服のすそをただ固く握りしめているだけだった。それは母性本能だったのかもしれないし、あるいは、この少女のなかに生命のたくましさと儚さの両方を見たからかもしれない。理由はなんであれ、真奈美のなかに、この少女を養子に迎えたいという気持ちが芽生えた。手続きはとても複雑だったが、所属する団体や他の国際人道支援機関の助けを借り、半年以上の時間をかけてようやくすべての法的な書類を整えることができた。真奈美は、その少女を「アリア」と名付け、彼女の母親となったのだ。アリアは次第に心の傷から立ち直り、活発さを取り戻していった。カールした髪と、まるでぶどうのように大きな瞳。そして笑うと、頬に浅いえくぼが二つできた。アリアは真奈
泉はスマホを床に叩きつけた。画面が粉々になる。それから翔太の顔を指さし、ありったけの汚い言葉で、彼と真奈美、そして二人の胸糞悪い過去を罵った。翔太の中でずっと溜まっていた怒りも、ついに爆発した。終わりない罵りと泉の狂気に、彼はもううんざりだったのだ。翔太は勢いよく立ち上がると、泉の腕を掴み、目を真っ赤にして怒鳴りつけた。「黙れ!いい加減にしろ!今の自分がどんな姿か見てみろ!普通じゃない。全ては、お前のせいだ。お前が最初から俺を自分のものにしようとしなければ、こんなことにはならなかったし、俺が真奈美を失うこともなかった。お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!」「私が、あなたの人生をめちゃくちゃにしたって?」泉は狂ったようにもがき、甲高い声で泣きながら翔太を罵った。「めちゃくちゃにしたのはあなたでしょ!私の人生を台無しにしたのはあなたなんだから!あなたなんか大っ嫌い!」二人は揉み合いになった。それは恋人同士のじゃれあいではないく、本気で憎しみをぶつけ合う、殴り合いの喧嘩だった。テーブルはひっくり返り、グラスは割れ、部屋の中はめちゃくちゃになった。もみ合いになる中、泉の手が何かに触れた。それは、以前果物を剥いたあと、何気なくソファの隙間に置いていたフルーツナイフだった。翔太に強く突き飛ばされ、よろめきながら後ずさりした時、彼女はナイフを握った手を無茶苦茶に振り回した。翔太は泉がナイフなんかを持っているとは思わず、押さえつけようと前に出た。そしてもみくちゃになる中、ブスッ、と何かが肉を貫く鈍い感触がした。一瞬にして、時間が止まったかのようだった。翔太は動きを止め、ゆっくりと自分の腹部に目を落とす。泉も呆然としていた。しかし、ナイフの柄を握る手だけは激しく震えていた。フルーツナイフが根元まで深くまで、翔太の左脇腹に突き刺さっていたのだ。どっと溢れ出た血が、彼の服と泉の手をみるみる内に赤く染めていく。泉はぱっと手を放し、恐怖で目を見開いた。彼女が見つめる先で、翔太がゆっくりと倒れ、その下には鮮やかな血だまりが広がっていった。泉は悲鳴を上げ、頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。体は小刻みに震え、焦点の合わない目で、何かつぶやいている。「私じゃない……私じゃない……赤ちゃん……血……血だらけ……」物
……人の苦しみをよそに、時間はただ過ぎていく。実家に戻った翔太は、見る影もなくやつれていた。彼の姿に、両親は心配と失望の入り混じった、深いため息をつくことしかできなかった。翔太の心の傷は、癒えることなどなかった。月日の流れで、分厚いかさぶたができたように見えたが、その下ではまだ傷が膿んでいて、じくじくと痛んでいる。一方、泉はさらに悲惨な日々を送っていた。職を失い、経歴に傷がついた上に、子供を失ったことで心身ともに打ちのめされていた。仕事を探してもことごとく断られ、貯金もすぐに底をついた。両親からの仕送りはわずかしかなく、しかも会うたびに愚痴や小言を言われ、彼女のいらだちと憂鬱は募るばかり。その結果、泉は神経質で怒りっぽくなり、自分の不幸はすべて、翔太と真奈美のせいだと、頑なに思い込むようになった。何があったのか、泉が翔太の実家を突き止め、突然押しかけてきた。泉の突然の訪問は、翔太と彼の両親にとって、まさに災難の始まりだった。翔太はもう二度と泉の顔など見たくなかった。泉の顔を見るたび、自分の犯したどうしようもなく愚かで、惨めで、苦しい過去を突きつけられるのだ。一方、最後の藁にもすがる思いだった泉は、自分の悲惨な身の上を泣きながら訴えたり、翔太の裏切りをなじったりした。しまいには、せめて経済的にだけでも「責任」を取ってほしいと要求するように……二人が顔を合わせれば、口論で唾を飛ばす日々。過去への恨み、現在の困窮、未来への絶望。ありとあらゆる負の感情をぶつけ合う。二人はお互いの過去をほじくり返し、相手が一番傷つく言葉を選んでは投げつけた。そのやり取りのあまりの酷さに、そばで聞いている翔太の両親は眉を顰めたが、二人を止めることはできなかった。近所の好奇の視線と、毎日続く騒音。両親はすっかり追い詰められ、ついに翔太にこう切り出した。「いっそのこと……籍を入れたらどうだ?そうすれば彼女も少しは落ち着くかもしれない。毎日これじゃあ、こっちの身が持たないんだよ……」翔太は最初、猛反対した。しかし、心労ですっかり老け込んだ両親の顔と、毎日続く泉の泣き声に、心も体も疲れ果ててしまっていた。結局、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちが彼を支配し始める。これも、自分の運命なのかもしれない。自分と泉はまるで二人で
翔太は、どうやってあの医療拠点から離れたのか、自分でも分からなかった。真奈美の「もうどうでもいい」という言葉。そして、彼女の静かで、どこか冷めたような眼差しが、何度も頭の中で繰り返されるたびに、翔太のズタズタになった心は、鈍い刃物でえぐられるように痛んだ。魂が抜けた抜け殻のように、彼は呆然としたまま帰りのトラックに乗り込んだ。揺れとほこりの中で、ただ体を揺らす。ここへ来るときの執着と、ほんのわずかな希望の光。それらは、厳しい現実によって無残にも消し去られてしまい、今では冷たい灰だけしか残っていなかった。国内の安アパートに戻ると、翔太は部屋に引きこもった。食べもせず、飲みもせず、ただ目を開けたまま、シミのある天井をぼんやりと見つめるだけ。再びアルコールに頼り現実から逃げようとした。しかし、今回はアルコールの力も効果はなく、苦しみと幻覚が深まるだけだった。翔太は、真奈美との過去を何度も何度も思い出していた。自分が見過ごしていた優しさ、当たり前だと思っていた真奈美の献身、そして泉のために、真奈美に強いてきた我慢。その一つ一つが、今になって恐ろしいほど鮮明によみがえる。血がにじむような皮肉をともなって……子供が流れてしまった時の真奈美の青白い顔。遺書を見つけたときの彼女の震える手。一人で病院のベッドにいたときの寂しさが滲んだあの表情。そして、自分が真奈美ではなく泉を庇った時の、あの虚ろな目……だが、結局最後に思い出すのは、彼女が去るときに残したメモと、医療拠点での静かで無関心な表情だった。【素敵なウェディングフォトだね。末永くお幸せに】「あなたを憎んでなんかないよ。だって、誰かを憎むのって、すごく疲れるから。あなたのことなんて、もうどうでもいいの」この二つの言葉は、まるで呪いのように、昼も夜も翔太を苦しめた。翔太は後悔していた。自分はなぜあんなに自信過剰だったのか?すべてを自分の思い通りにできると信じて、二人の女性の運命を勝手に決めてしまった。なぜもっと早く自分の気持ちに気づかなかったのか?いや、間違いに気づいたときに、なぜすぐに関係を修復しようとしなかった?なぜあの事故で、とっさに泉を庇ってしまったのだろう?真奈美だって、同じように危険が迫っていたというのに。なぜ真奈美を失うまで、気づかなかったんだ?自分