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偽りの愛はいらない。天才医師はクズ夫を捨てる

偽りの愛はいらない。天才医師はクズ夫を捨てる

Por:  緋色の追憶Completo
Idioma: Japanese
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木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。 手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。 【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】 真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。 【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】 一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。 彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。

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Capítulo 1

第1話

木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。

手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。

【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】

真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。

【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】

一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。

彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。

翔太がプロポーズしてくれたから、願書提出の前日だったにも関わらず留学は諦めた。

海外の有名な病院からの誘いだって、翔太に「近くにいてほしい」と言われたから断った。

リスクが高いと知りつつ妊娠したのも、翔太が子供を欲しがっていたから。それが二人の愛の証だと思っていたのに……

結局、真奈美がこれまで翔太のためにしてきた人生の選択は、すべて長谷川泉(はせがわ いずみ)という女のためにすぎなかったのだ。

翔太は特殊部隊の指揮官で、冷静かつ勇敢だと、部下からの信頼も厚かった。なのに、そんな翔太が自分の妻の人生を犠牲にしてまでも、別の女を幸せにする計画を立てていたなんて。

激しい吐き気と共に、下腹部に引き裂かれるような激痛が走った。

生暖かい液体が、足の付け根を伝って流れる。

意識が遠のく中、散らばった遺書の最後の一行が目に飛び込んできた。【泉。俺の一番の後悔は、お前を妻にできなかったこと……】

真奈美が次に目を覚ますと、そこは病院だった。

もう何度も嗅いでいた消毒液の匂い。そして、腹部の鈍い痛みが、もうそこには何もないことを真奈美に告げていた。

すると、泣いている泉と翔太が話している声が聞こえてきた。

「私のせいだ。昨日の演習の時……あなたが私のミスをかばって怪我なんかしなければ、もっと早く帰って真奈美の異変に気づけたはずなのに……」

真奈美は目を閉じた。胃がひっくり返るような不快感がする。

自分が子供を失ったまさにその時、翔太は別の女を守って怪我をし、その女も医師という立場で堂々と彼のそばにいたというのだ。

「そんなこと言うなよ。泉」

翔太の声はかすれ、ひどく疲れているようだった。

「俺は指揮官なんだ。部下を守るなんて、当たり前のことだろ?それに、俺は困っている奴を見たら、ほっとけない性分なんだよ。真奈美には、辛い思いをさせてしまったけどな……」

真奈美がやっとの思いで横を向くと、翔太が泉の背中を落ち着かせるように優しく摩っているのが見えた。なんだか、彼らの方が本当の夫婦であるかのようだった。

下唇を強く噛んだ真奈美の口の中に、鉄さびのような血の味が広がる。

泉を落ち着かせた翔太が、ベッドの方へ振り向いた。

真奈美はとっさに目を閉じ、息を殺した。

翔太がベッドの脇に座り、真奈美の冷たい手を握る。銃を握ってできたタコのある硬い手で。

かつては安心させてくれたその感触が、今はただただ冷く感じるだけだった。

「真奈美」翔太は真奈美の手の甲に自分の額を押しつけ、声を詰まらせた。「すまない、お前たちを守ってやれなかった……」

翔太から溢れた熱い雫が、真奈美の肌を焼く。

この男は、誰のために涙を流しているのだろう?この世に生まれてこれなかった子供?それとも泣いている泉?それとも、自分で仕組んだこの嘘が、収集つかなくなったから?

翔太と泉が手続きのため看護師に呼ばれ病室からいなくなると、真奈美はゆっくりと目を開けた。力のない瞳で、ぼんやりと天井を見つめる。

真奈美自身も医者だからこそ、痛いほど分かっていた。今回子供が流れてしまった自分は、もう二度と母親になれないかもしれない、と言うことを。

そしてこの悲劇のすべては、自分の夫が自分ではない他の女に向ける歪んだ「愛」が原因なのだ。

真奈美はベッドサイドのスマホを手に取った。画面の明かりが、血の気のない彼女の顔を青白く照らす。

ロックを解除してメールボックスのゴミ箱を遡った。探すのは、国境なき医師団からのメール。愛美は彼らから、これまで三度にわたり、紛争地域での救援プロジェクトへの参加を打診されていた。

最初の二回は、翔太が「そばにいてほしい」「そんなところに行くのは心配だ」と言うので、断った。

三度目は、妊娠がわかった日だった。だから、幸せな未来を思い描きながら、そのメールを削除したのだ。

しかし今、真奈美は迷いのない指つきで画面をタップし、返信を打ち始める。

【ご担当者様。お世話になっております。木村真奈美です。以前いただいた派遣依頼の件ですが、まだ枠がございましたら、ぜひ参加したいと考えております】
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第1話
木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。翔太がプロポーズしてくれたから、願書提出の前日だったにも関わらず留学は諦めた。海外の有名な病院からの誘いだって、翔太に「近くにいてほしい」と言われたから断った。リスクが高いと知りつつ妊娠したのも、翔太が子供を欲しがっていたから。それが二人の愛の証だと思っていたのに……結局、真奈美がこれまで翔太のためにしてきた人生の選択は、すべて長谷川泉(はせがわ いずみ)という女のためにすぎなかったのだ。翔太は特殊部隊の指揮官で、冷静かつ勇敢だと、部下からの信頼も厚かった。なのに、そんな翔太が自分の妻の人生を犠牲にしてまでも、別の女を幸せにする計画を立てていたなんて。激しい吐き気と共に、下腹部に引き裂かれるような激痛が走った。生暖かい液体が、足の付け根を伝って流れる。意識が遠のく中、散らばった遺書の最後の一行が目に飛び込んできた。【泉。俺の一番の後悔は、お前を妻にできなかったこと……】真奈美が次に目を覚ますと、そこは病院だった。もう何度も嗅いでいた消毒液の匂い。そして、腹部の鈍い痛みが、もうそこには何もないことを真奈美に告げていた。すると、泣いている泉と翔太が話している声が聞こえてきた。「私のせいだ。昨日の演習の時……あなたが私のミスをかばって怪我なんかしなければ、もっと早く帰って真奈美の異変に気づけたはずなのに……」真奈美は目を閉じた。胃がひっくり返るような不快感がする。自分が子供を失ったまさにその時、翔太は別の女を守って怪我をし、その女も医師
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第2話
病室のドアが、再び開いた。入ってきた翔太が保温ジャーをそっとサイドテーブルに置く。真奈美が目を覚ましたことに気づいた翔太は、嬉しそうな表情を浮かべ、優しく真奈美に話しかけた。「真奈美、気分はどう?どこか痛むところはあるか?消化にいいものをって思ってスープを作ってみたんだが、どうかな?」そう言いながら翔太は真奈美の額にそっと手を伸ばした。しかし、真奈美はさっと顔を背けてそれを避ける。翔太の手が宙で止まった。数秒の沈黙の後、ゆっくりと腕を下ろした。「先生が安静にしているようにって言ってた。あんまりストレスを溜め込むなよ」その口調は優しかったが、どこか緊張のようなものを感じる。「子供は……また作ればいいからさ」真奈美は身動きひとつせず、ただ虚ろな目で天井を見つめていた。また作ればいい?まるで任務みたいな言い方をする。翔太の「計画」のために、また道具となる子を産めってことなのだろうか?彼女は自嘲気味に口の端を吊り上げた。カサカサに乾いた唇が、ピリッと痛む。「あなたの遺書」真奈美の声はひどく掠れていた。「ずいぶん、細かく書いたんだね」翔太が息をのむ。彼の瞳に一瞬、動揺が走ったが、それはすぐに秘密を知られたことへの怒りへと変わった。「勝手に見たのか?俺のものなのに?」その時、また病室のドアが開いた。百合の花束を抱えた泉が、心配そうな顔をして入ってくる。「真奈美、少しは良くなった?」しかし、部屋の重い空気を察したのか、泉が目を赤くした。「全部私のせいだよね……」そんな泉を庇うように翔太は立ち上がると、早口で言った。「泉、ちょっと外に出ててくれるか?」しかし泉が部屋を出ることはなく、むしろ涙を浮かべながら、一歩前に進み出てきた。「真奈美、ごめん……翔太はただ、私のことを心配してくれただけで……それに、あの時は緊急事態だったから、彼も深くは考えていなかったと思う。だから、彼を責めないであげて。責めるなら私を……」真奈美は泉を冷静に見つめながら、静かな声で言った。「長谷川先生。ここにあなたの三文芝居を見る人はいないよ」泉は泣き声を詰まらせると、気まずそうに翔太へ視線を向けた。「真奈美!」翔太が怒鳴る。「なんてことを言うんだ!泉は、お前のことを心配してくれてるんだぞ?それに、流産は事故だった。少しは冷
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第3話
「俺は職場に行ってくるから、お前は休んでろ。夜には戻るよ」この重苦しい空気に耐えられなかったのか、翔太は荷物を置くと、それだけを言い残して足早に立ち去っていった。ドアは特に強く閉められたわけではなかったが、その音はしんと静まり返った部屋に、まるで雷が落ちたかのように響いた。真奈美は足が痺れるほどの長い間、玄関に立ち尽くしていた。寝室には行かなかった。そこには、二人で過ごした思い出が多すぎたから。真奈美はゆっくりと書斎に向かう。そこは翔太が家で仕事をする時に使う場所で、彼女が立ち入ることはほとんどなかった。書斎の作りはシンプルで、本棚とデスク、椅子があるだけ。デスクの上にもパソコンが一台だけで、他には何もなかった。本棚は、ほとんどが勲章や表彰状で埋め尽くされている。ぼんやりと視線を動かしていると、本棚の一番下の目立たない隅に、紺色の箱が置いてあるのが目に入った。箱の縁は少し擦り切れていて、かなり年季が入っているようだった。何かに引き寄せられるように、真奈美はその箱へ向かって歩いていくと、しゃがみ込んで箱を手にとってみた。箱にはなんのラベルも無く、うっすらと埃を被っている。真奈美は蓋を開けた。中に入っていたのは重要な書類などではなかった。初期訓練の頃のバッジが数個、壊れた古い万年筆が一本、端が丸まった理論ノート……物はそこまで多くなく、無造作に放り込まれている。時の流れを感じさせる品々を指でなぞると、心が冷たく麻痺していくのを感じた。これらはすべて翔太の過去。自分とは関係のない過去のもの。すると突然、指先に硬くて滑らかな角が触れた。ノートと箱の側面の隙間に何か挟まっている。真奈美はそれをそっと引き出した。一枚の写真だ。しかも、ウェディングフォトだった。パリッとした黒のタキシードを着こなし、微笑んでいるのは紛れもなく翔太だった。珍しく優しい目つきまでしている。今よりも少し若く、顔立ちにもまだどこかあどけなさが残っていた。そして彼の隣で、花のような笑顔を浮かべながら純白なウェディングドレスに身を包み、寄り添っている女性は泉だった。真奈美の呼吸がぴたりと止まる。全身の血が瞬時に凍りついたかと思うと、一気に逆流し、耳の奥でゴウゴウと鳴り響いた。彼女は床にうずくまった。写真の角を握
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第4話
ウェディングフォトが真奈美に与えた衝撃は、かなりのものだった。まるで心に「代替品」と焼き印を押されたような痛みが走り、今まで見過ごしてきたたくさんの些細なことが、一気に繋がっていく。真奈美は、自分の結婚式のことを思い出した。「派手にしたくない」という翔太の考えと同じく、真奈美もそこまで盛大にしなくてもいいと思っていたので、本当に親しい職場の仲間と、ごく一部の親戚だけ呼んだこじんまりとしたものだった。結婚式の前の晩、翔太は「緊急の任務が入った」と言い、朝まで帰ってこなかった。真奈美は一人、新居でウェディングドレスを眺め翔太の帰りを待っていた。少し寂しかったが、それ以上に、彼の仕事を支える者としての覚悟を決めたのだった。結婚式当日、翔太は時間通りに現れた。タキシード姿はいつも通りかっこよかったが、その表情には拭いきれない疲れと……どこか憂いを帯びた影が差していた。司会者に挨拶の言葉を促された翔太は、マイクを受け取り、数秒黙ったあと口を開いた。「真奈美の、俺の仕事への理解と協力に感謝しています。これからは……夫としての責任を果たしていくつもりです」その言葉はとても堅く、まるで業務報告のようだった。しかし参列者は皆「翔太さんは真面目すぎる」なんて言って、会場からは温かい笑い声と拍手が起こった。真奈美もつられて笑った。心によぎった小さな違和感は、新婚の恥ずかしさと周りの賑やかさにかき消されたのだった。今思えば、あの疲れと憂いは、前の晩、別の女のために「出動」していたからだったのではないだろうか?あの「責任を果たす」という言葉は、初めからこの結婚の本質を物語っていたのかもしれない。それに、自分たちの結婚式に泉は参列していなかった。泉は大事な出張があって間に合わないのだと、翔太が言っていた。だから真奈美はわざわざ泉に電話までして、「仕事は大事だから、気にしないで」とフォローをいれたぐらいだった。電話の向こうの泉の声は少しかすれていて、「真奈美、本当にごめん。一生に一度の結婚式なのに……絶対に幸せになってね。翔太は……あなたのことすごく大事に思ってるから」と言った。あの時は、親友からの祝福と謝罪の言葉だとしか思わなかった。しかし今、改めて思い返すと、一言一句が偽りと残酷さに満ちている。あのかすれた声は、泣いた後だっ
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第5話
真奈美が退職届を提出してから3日後、職場の上司は真奈美の夫である翔太を呼び出したらしい。青ざめた顔の翔太が、慌てて家に帰ってきた。リビングのソファに無表情で座る真奈美を見るなり、その目には驚きと怒り、さらには暗い感情など複雑な色を浮かべる。「真奈美、一体どういうつもりだ?」翔太はなんとか怒りを抑え、できるだけ冷静に尋ねた。「仕事辞めるのか?子供が死んだからか?でも、あれは事故だっただろ?お前が辛いのは分かる。でも、また……」「子供のせいじゃないよ」真奈美は翔太の言葉を遮る。その声は波一つない湖面のように静かだった。彼女はまっすぐに翔太を見つめていたが、その視線は彼を通り抜け、まるで何もない空間を見ているようだった。「翔太、理由は分かっているでしょ?退職届に書いた理由だって、言葉通りの意味。もう芝居はやめて。疲れたの」翔太は言葉を詰まらせた。目の前の女は長年連れ添った妻のはずなのに、まるで知らない人ように思えるのだ。真奈美の瞳に宿る、氷のような静けさと揺るぎない決意は、翔太が用意していた言葉をすべて喉の奥に押しとどめた。彼は気づいた。もはや「責任」や「償い」「お前のためだ」といった言葉では真奈美を言いくるめられないことを。それどころか、彼女の本当の感情にさえ触れることができなくなった。自分と真奈美との間には、分厚い氷の壁がそびえ立っていた。「もしかして……泉から何か聞いたのか?」最後の望みを託して、翔太は苦しげに尋ねた。しかし、真奈美はその言葉を嘲笑うかのように、ほんの少しだけ口の端を上げた。「彼女が何か私に言わなければならないことでもあるの?あなたたちは、すべて抜かりなく準備したんでしょ?」翔太の顔からさっと血の気が引き、その屈強な体が微かに揺れた。リビングが息が詰まるような沈黙に包まれる。それからの数日間、翔太は真奈美となんとか話をしようとしたが、彼女は一切応じずに、必要最低限の用事以外はゲストルームに篭り、出てくることはなかった。この家は、彼女の滑稽だった過去数年間の人生を葬る墓場のように、静まり返っていた。こんな状況でも、サプリメントや果物を手に、いかにも心配していますよといった表情の泉が、二度ほど家を訪れた。「真奈美。身体は大事なんだから、いつまでも意地張ってないでさ……翔太との間に何か
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第6話
次に気がついた時、真奈美は病院のベッドの上にいた。ツンと鼻をつく消毒液の匂い。見慣れた病室の天井。頭が割れるように痛む。そっと触ると後頭部には、分厚いガーゼが巻かれていた。左腕にはギプスがはめられていて、胸のあたりもズキズキと痛む。軽度の肋骨骨折と脳しんとう、そう医師から説明された。看護師の話では、通りすがりの人が救急車を呼んでくれたらしく、もう一人の倒れていた女性と共に病院へ運ばれたということだった。その女性はショックが大きかったものの、擦り傷だけだったのでもう手当ても済んでたいしたことはないという。「旦那さん、確かその女性に付き添っていましたよ。さっきまで、廊下の外にいたんですけど……どこ行っちゃったんですかね?」看護師は何気ない口調でそう言うと、点滴の速度を調節した。真奈美は、そっと目を閉じた。生きるか死ぬかの瀬戸際で、翔太は一瞬の迷いもなく泉を選んだ。そして自分の命は運命に……いや、死神に委ねた。あの退職届を出しておいて、本当によかった。むしろ、出すのが遅すぎたくらいだ。まさか自分は、こんな男と5年も同じ職場、同じ屋根の下で暮らしていたなんて。おまけに、こんな男の子供を、このお腹に宿していたとは……本当に馬鹿みたいだ。吐き気がするほど、気持ち悪い。真奈美の怪我は、数日間入院して様子を見ることになった。翔太は何度か病室に来たが、いつも黙ってしばらく立っているだけ。真奈美の冷たい横顔を見て、何かを言いたそうにしても、結局は口を開かない。そして最後に、かすれた声で「ゆっくり休め」と言うだけだった。それから、果物か何かお見舞いの品を置いて、部屋を出て行く。翔太も、真奈美にどう接したらいいのか分からなかったのだ。あの時、とっさに泉をかばったことをどう説明すればいいのかなんて、尚更わかるわけが無かった。説明?今さら、何を説明するというのだろう。一瞬の決断。しかし、一瞬の決断にこそ、その人の本心が表れるというものだ。泉も一度だけ見舞いにやって来た。ずっと泣いていたようで、彼女の目は真っ赤に腫れ上がっていた。泉はベッドの横に座って、ギプスをしていない方の真奈美の右手を握る。そして、涙を流して言った。「真奈美、ごめん、本当にごめん……私、あの時パニックになっちゃって……翔太をびっく
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第7話
手に買ってきたばかりの惣菜を提げ、翔太は玄関の前に立っていた。真奈美も家に帰えれば、きっと少しは落ち着くだろうと、翔太は思っていた。少なくとも、体は休められるだろう、と。退職の話は、今回の長期任務から戻ってからゆっくりすればいい。あの遺書がきっかけだったであろうことは、翔太も分かっていたし、事故の時のことで、真奈美をさらに傷つけたのも理解していた。だが、すべてには理由があるから、話せば分かってくれるはずなのだ。いや、翔太は真奈美に話を聞いてほしかった。しかし、そんな翔太を迎えたのは、静まり返った静けさだけだった。がらんとして、まるで誰もいないかのような冷たい空気が漂っている。リビングの様子はいつもと変わらない。でも、何かがおかしい。片付きすぎているのだ。生活感がまったく感じられない。部屋を見渡した翔太の視線は、やがてテーブルの上で止まった。そこには、一目でわかる緑の紙……離婚届が置かれていた。そして離婚届の上には、ノートを破ったらしい一枚のメモが置いてあった。翔太の心臓がどくん、と重く沈んだ。嫌な予感が全身を駆け巡る。彼は持っていた袋を床に置き、テーブルに駆け寄ると、そのメモを手に取った。そこには、真奈美の美しい、それでいて力のこもった筆跡で、一行だけこう書かれていた。【素敵なウェディングフォトだね。末永くお幸せに】「ウェディングフォト」という言葉が、まるで雷のように翔太の頭を撃ち抜く。見たのか?いつの間に?あの箱は……うまく隠していたつもりだった。いや、隠したというほどでもない。ただ書斎の本棚の隅に古いものと一緒に置いたっきり、自分でも忘れていた真奈美は一体いつ知ったんだ?あの写真は泉が海外研修に行く前、勢いで撮りに行ったものだった。若気の至りとでもいうのだろうか、とにかく泉と別れる寂しさを埋めるためにしたことだった。撮影してすぐに泉は行ってしまった。翔太は現像された写真を見るのも辛く、ガラクタと一緒に箱に押し込んでから、一度も開けていなかった。まさか、真奈美がそれを見つけてしまうなんて……ましてや、とっくに封印して黒歴史となっていたこの写真が、彼女の心をへし折る最後のとどめになるとは、考えもしなかった。真奈美はあの遺書を見ただけでなく、事故の時とっさに泉を庇った自分も
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第8話
真奈美がいなくなったことは、翔太の生活と心に、いつまでも消えない混乱の波紋を広げた。それはまるで、静かな湖に大きな石が投げ込まれたようだった。表面的には、翔太はこれまで通り冷静で決断力のある特殊部隊の指揮官だった。訓練も任務も、すべて計画通りに進んでいく。しかし、何かが変わってしまったことは、彼自身が一番よく分かっていた。翔太は、ふと意識がどこかへ飛んでしまうことがあった。会議の最中、部下の報告を聞いていると、ふと真奈美の姿が目に浮かぶことがあった。それは、書斎で静かに本を読んでいた彼女の横顔であったり、まつげが落とす小さな影まで、はっきりと。あの頃、翔太はそんな穏やかな毎日が、当たり前に続くと思っていた。今になって思う。あの時、真奈美は一体何の本を読んでいたのだろう?自分のために夢を諦めたことで、一人悲しんでいたりはしなかったのだろうか?しかし、そんなことを尋ねたことなど、一度もなかった。ふと、無意識に隣を見てしまうこともあった。任務前の装備点検するたび、翔太はポケットに手を入れる癖があった。なぜなら、かつてはそこには、真奈美がいつも入れてくれるのど飴と絆創膏があったから。「号令で喉を痛めるから」「訓練は怪我がつきものだから」と言って。だが今のポケットは空っぽだった。深夜に家へ帰っても、もう明かりはついていない。温められた夜食も、自分を待ちくたびれてソファで丸くなっている、あの温かい姿も、もうどこにもなかった。ただ、がらんとした冷たい部屋が広がるだけ。この5年間の結婚生活で見過ごしてきた些細なことを、翔太は頻繁に思い出すようになった。自分の好物を作れるように練習してくれたこと。そのせいで真奈美が手に火傷を作っても、自分は何も言わなかったこと。自分が任務に出る前には、いつも黙って荷造りを手伝ってくれたこと。そして、こっそりとカバンの内ポケットに、手作りのお守りを入れてくれていたこと。自分が何気なく口にした一言を、真奈美はいつも大切にしてくれていた……それに引き換え、自分は真奈美に何をしてやれていただろうか?打算まみれの遺書?泉のために、何度も真奈美に我慢を強いたこと?それとも、生死の判断で、とっさに別の人間を選んだことだろうか?泉は、すぐに翔太の異変に気がついていた。医療班員として、そして翔
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第9話
時が経っても、翔太の心の傷は癒えることなく、真奈美への想いと罪悪感がますます募るばかりだった。ただ天井を見つめて夜を明かすという、眠れない夜が続いた。頭の中では、真奈美との思い出がとめどなく再生される。そして、あの冷たいメモと、「国境なき医師団」という、どこか遠くて危険な響きを持つ言葉を思い出すのだった。泉に対する翔太の態度も少しづつだったが、でも確実に、知らず知らずのうちに変わっていった。以前の翔太にとって泉は、密かに気にかける存在で、守らなければならず、将来のために力になってあげたい女性だった。若い頃の叶わなかった想いと、複雑な責任感が入り混じり、心配や憐れみの情、そして約束を果たせなかったことへの償いの気持ちもあった。しかし今は、泉が気遣いを見せ優しい笑みを浮かべて近づいてきても、何も感じなくなっていた。彼女の瞳に浮かぶ明らかな愛情や、ふと口にするお腹の子どもの話。それらはどんどん重いプレッシャーとなり、いつしか拒絶感に変わっていた。翔太は無意識に泉と真奈美を比べるようになった。真奈美は、自分に何かを求めることはなかった。いつも黙って、自分のことを第一に考えてくれていた。それにひきかえ泉は、二人の「暗黙の了解」や今の「特別な関係」を盾にしているのか、言動の端々に、自分が応えてくれて当然だという期待が滲んでいる。真奈美は辛いことがあっても、いつも黙って一人で受け止め、自分が尋ねた時に、少し話すくらいだった。一方で泉は、いつも自分に慰められ、話を聞いてもらい、時には守ってもらうことを必要としているようなのだ。さらに問題だったのは、泉のまだ膨らんでいないお腹に目をやるたびに、翔太は嫌でも真奈美を思い出してしまうことだった。そして、自分の策略に溢れたあの遺書のせいで、間接的に殺してしまったあの子供のことも。表向きには待ち望んでいた子供。しかし実際は、「真奈美を家庭に縛りつけ、自分が泉と結ばれる」ための道具に過ぎなかった。失われたあの命は、真奈美の心と体に癒えない傷を残した。そして、翔太の良心にも、決して塞がることのない傷を刻みつけたのだ。そして今、泉が自分の子を宿している。その事実は、翔太の心をひどく複雑にさせた。自分の血を分けた子だ。完全に無視することなんてできない。しかしこの子の存在は、彼
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第10話
泉の不安は、日に日に大きくなっていった。自分を避け、何も話さなくなった翔太。それに、自分を通して別の女の影を探すような視線は、泉の心を針のように刺した。何年も待ち焦がれ、やっと手に入ると思った幸せ。それなのに、真奈美がいなくなり、翔太がわけのわからない罪悪感に苛まれているせいで、すべてが水の泡になってしまうのだろうか?いいや、そんなことは絶対に許さない。夜も更け、静まり返った寮のベッドで、一人横になる泉はそっとお腹に手を置いた。ここには、新しい命が宿っているのだ。翔太との間にできた、かけがえのない命が。妊娠に気づいた当初は、天にも昇る気持ちだった。真奈美が死産した悲劇のさなかに神様が与えてくれた贈り物であり、武器だと思ったから。この子のおかげで、翔太の責任感をさらに強く縛ることができ、真奈美を精神的に追い詰め、彼の元から去らせるのを早められた。あの時は、妊娠こそが真奈美を追い払い、翔太をつなぎとめる最高のチャンスだと思っていた。実際、すべてはその通り進んでいるように見えた。かなり悲惨ではあったが、結果真奈美は去り、邪魔者はいなくなった。翔太は落ち込んでいたが、時間とお腹の子がすべてを解決してくれると信じていたのに。しかし今の泉には、もう自信がなかった。翔太の落ち込みようは、ただの罪悪感だけではないような気がするのだ。まるで、心が死んでしまったかのような……まさか自分への気持ちが冷めてしまったのか?それとも、このごたごたした関係に絶望したとか?翔太が自分のお腹を見つめる目は複雑で、父親になる喜びなんて微塵も感じられなかった。そこにあるのは、重圧と苛立ちだけ。この子は二人をつなぐ絆どころか、まるで喉に刺さった棘のように、翔太に耐え難い過去と取り返しのつかない過ちを思い出させ、二人の将来にとって最も危険な存在になってしまった。泉はもともとかなり現実的な女だったため、自分の利益が絡んだ今、彼女の頭の中では様々な計算がされていた。好きという気持ちはもちろん大事だ。だが、将来や仕事、それに社会的な立場も同じくらい大切なのだ。いや、愛よりも守らなければならない。自分は翔太のために青春を捧げ、待ち続けたし、危険な橋だって渡った。だから見返りがほしかった。保証された未来がほしいのだ。すべてを台無しにするかもし
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