月は沈み、夜明けを抱く のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

26 チャプター

第11話

佑紀子は執事が持ってきたランチボックスを開け、特製のサンドイッチを慎一に差し出した。「少しでもいいから食べて。体を壊してしまったら、元も子もないわ」慎一は頷き、佑紀子に付き添われながら少しだけ食事を取った。佑紀子は何か考え込むように伏し目がちになり、尋ねた。「純佳さん、本当に子供を堕ろしてしまったの?」慎一はサンドイッチを置き、沈痛な面持ちで静かに頷いた。佑紀子の瞳の奥には、一瞬だけ忌々しい後悔の色がよぎった。純佳が妊娠していると知っていれば、階段から突き落とされたように装う狂言など、わざわざ演じなかったのに。いくら段数が少なく、うまく受け身をとったとはいえ、一歩間違えれば命に関わる危険な賭けだったのだから。むしろ、彼女が子供を産むのを待ち、それを引き取って悠々と育てた方がよほど手っ取り早かった。一時の痛快さで終わらせるよりも、真綿で首を絞めるようにじわじわと苦しめ続けるほうが、よほど佑紀子の性に合っていた。純佳専用に誂えられた早川家の掟のごとく、影のようにまとわりつき、生きた心地を奪い去ってやる。慎一の憔悴しきった顔を見つめ、まだ入院中の桃香のことを思い出し、咄嗟に悪知恵を働かせた。ひどく不安そうな顔を作り、言葉を濁しながらすがるように言う。「慎一……純佳さんが離婚裁判を起こすなら、桃香は奪われてしまうんじゃないかしら。そしたら私、一生桃香のお母さんにはなれないのね」そう言いながら、佑紀子は目尻から一粒の涙をこぼした。赤く潤んだその可憐で弱々しい姿は、慎一の深い瞳に真っ直ぐに映り込んだ。手を伸ばして佑紀子の手を固く握りしめ、優しく慰めた。「心配しなくていい。たとえ純佳が離婚訴訟を起こそうとも、この東都市で早川家を敵に回してまで、あいつの代理人を引き受ける命知らずな弁護士など存在しない。桃香は、お前への二十七歳の誕生日プレゼントだ。これは誰にも変えられない事実だ」たとえ桃香の実の母親であろうと、慎一の決定を覆すことなどできはしない。元々、この時期を見計らって純佳に離婚を切り出すつもりだったが、まさか先を越され、しかも裁判所にまで持ち込まれるとは。あの気弱な純佳が、ここまで決断力のある行動に出るとは思ってもみなかった。慎一はそう思いながら、普段の気弱で自分の言いなりになっていた純佳の姿
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第12話

慎一は眉をひそめた。桃香の転院手続きなど、誰にも命じていない。「誰が手続きに来たんだ!」医師は怯えきっており、誤魔化す余裕などなかった。「慎一様の秘書だと名乗る人物が参りました。念のため、奥様にもお電話で確認を取り、同意を得た上で転院手続きを進めさせていただき……」幸いオフィスには防犯カメラが設置されており、医師は冷や汗を拭いながら慌ててその映像を呼び出した。慎一はそれを見るや否や医師を押しのけ、画面を食い入るように見つめた。だが、そこに映っていたのは彼の秘書などではなく、全く見知らぬ男だった。「あいつら、桃香をどこの病院へ移した」慎一が冷たい声で尋ねた。「お、奥様はプライベートクリニックだとおっしゃっていました。私もそれ以上深くは追及せず……」医師は消え入るような声で答えた。慎一は苛立ちに両手をきつく握りしめ、すぐに秘書に連絡して純佳の行方を大至急探らせた。傍らで佑紀子が、服の裾を密かにきつく握りしめていたことなど、今の彼には気づく余裕もなかった。しばらくして、秘書から折り返しの電話がかかってきた。「社長、本宅で奥様を迎えに来た黒のカイエンですが、所有者は『三上』という人物のようです。風津市から来たということ以外、今のところ有益な情報は掴めておりません」「三上」という名前を聞いて、慎一の脳裏に、以前誰かから聞いたことがあるような感覚がよぎった。だが、その記憶の糸口を掴もうとしても、霧がかかったように何も思い出せない。頭の中は真っ白なままだった。「調査を続けろ。桃香を連れ去った連中はこの男と確実に関係がある。必ずこの男をあぶり出せ」慎一は有無を言わさぬ口調で断言し、通話を切った。胸に押し寄せる正体不明の焦燥感が、彼を呑み込もうとするかのように、前回よりも激しい勢いで波打った。その時、佑紀子が不意に口を挟んだ。「東都市から出発する飛行機の便を調べたらどうかしら……」慎一が怪訝な顔を向けると、彼女は慌てて取り繕うように付け加えた。「純佳さんが手配したのなら、もう東都市には留まらないはずよ。一番早い手段でここから離れるに決まってるわ……ただの私の推測だけど」そう言う彼女の瞳は無垢な色を浮かべており、先ほどの冷酷な響きは一瞬の気のせいだったかのように思えた。「……佑紀子の言う
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第13話

慎一はハッと我に返った。事が起きてからというもの、純佳の行方を探らせることにばかり気を取られ、彼女本人に電話をかけることすら完全に忘れていた。慌てて連絡先を開き、純佳の番号を探し出した。普段、彼から純佳に電話をかけることはほとんどなく、必要なやり取りはすべて家の中だけで済んでいた。通話履歴をかなり下までスクロールして、ようやく純佳の番号を見つけた。最後に通話した日付は、一ヶ月も前のことだった。番号の横に表示されたその日付を見つめるうち、慎一は眉をひそめた。何か重要なことを忘れているような、不快な感覚がつきまとった。躊躇う間もなく、指先が番号をタップして発信する。しかし三秒も経たないうちに、相手の電源が入っていないことを告げる、無機質なアナウンスが返ってきた。慎一は忌々しげに眉を深くひそめ、通話を切った。その様子を見ていた佑紀子は、重苦しい空気を和ませようと口を開いた。「おば様、ご心配なさらないで。慎一がすでに手配しておりますから、必ず桃香を取り戻してくれますわ」慎一は頷き、佑紀子を庇うように少し前へ出て、千春の探るような冷たい視線を遮った。「母さん、佑紀子の言う通りだ」千春は顔を背けて深くため息をつき、複雑な視線を息子に向けながら尋ねた。「もし、この離婚裁判に負けたら、どうするつもりなの?」慎一は力強く断言した。「俺は負けない」傍らにいた佑紀子が彼の背中から顔を覗かせ、保証するように千春へと言葉を添えた。「慎一がすでに手を回しておりますから。この東都市で、純佳さんの代理人を引き受ける命知らずな弁護士など一人もおりませんわ。この裁判は、間違いなく私たちの勝ちです」千春は答えなかった。必ず勝つと信じて疑わない、その傲慢な慎一の表情は、かつての彼の父親、早川賢造(はやかわ けんぞう)と瓜二つだった。その瞬間、千春は胸の奥が冷たく粟立つのを感じた。「……なら、いいわ」彼女は静かにそうこぼした。慎一と佑紀子を病室から追い払うと、千春は執事やボディガードたちも下がらせた。一人になったことを確認してからスマートフォンを取り出し、純佳が早川家に嫁ぐ前に使っていた古い番号へと発信した。呼び出し音がしばらく鳴った後、電話の向こうから、ひどく静かで落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
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第14話

風津市。桃香を寝かしつけた直後、傍らのスマートフォンに一通のメッセージが届いた。【弁護士なら手配しておいたわ。いずれ向こうから連絡が行くはずよ】純佳はそれを見なかったことにして、即座にメッセージを削除した。あれは慎一の母親だ。純佳は、あの女にそんな純粋な親切心があるとは到底信じられなかった。早川家で受けてきた苦痛が千春から直接与えられたものではないにせよ、彼女も共犯者であり、決して純佳と同じ側に立つ人間ではない。すべてを失った純佳には、そんなものに賭ける余裕など微塵もなかった。一階へ降りると、雅紀がリビングで資料を整理していた。テーブルの上に広げられているのは、慎一の不倫を証明する証拠の数々だ。雅紀はこの案件の実情に基づき、一審の判決が純佳に傾くよう、すでに複数のシナリオを練り上げていた。「雅紀さん、ありがとう」純佳は心から感謝の言葉を口にした。もし彼が間一髪のところで現れなければ、純佳は東都市から逃れる前に慎一の部下たちに連れ戻されていたかもしれない。それに、これほど早く裁判の期日が決まったのも、すべて彼の尽力のおかげだ。雅紀は少し黙り込み、テーブルの資料を整理する手を止めずに言った。「少し会わない間に、ずいぶんと水臭くなったね」彼の表情に寂しそうな色が浮かんだのを見て、純佳は慌てて付け加える。「本当に感謝しているのよ。遠慮なんかじゃないわ」兄弟子である雅紀は、世間の目には無口で冷徹な成功者として映っている。その端正な顔立ちから、業界では俗世間に染まらない「孤高の存在」などと持て囃されていた。だが、気心の知れた身内の前では、すぐに泣き言を言う「泣き虫」なのだ。純佳の言葉の歯切れが悪くなるのを見て、雅紀の澄んだ瞳にはみるみるうちに涙が浮かんできた。「私が悪かったわ。もう二度とあんなこと言わないから」純佳が慌てて制止すると、次の瞬間、雅紀の瞳に浮かんでいた涙は跡形もなく消え去った。長年を経て、彼の「泣き落とし」の技術は完全に自由自在の域に達していた。純佳は呆気に取られ、ぽかんとしてしまった。「泣きの演技にまた磨きがかかったわね。本当に恐れ入るわ」思わず拍手して見せた。「当然さ。俺のこの特技、芸能界に入っても大御所レベルだからね」雅紀は少しも悪びれることなく、
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第15話

開廷の二時間前、純佳は一足先に裁判所に到着した。控室で準備をしていると、折悪く佑紀子がドアを押し開けて入ってきた。純佳の後ろに誰もいないことを確かめ、ドアの外をちらりと見てから、あからさまな冷笑を浮かべた。「純佳さん、まさかたった一人で法廷に立つおつもり?弁護士も立てられないなんて。早川家を出てから、雇うお金すら底をついたのかしら?」早川家を出た直後、純佳が以前使っていた家族カードはすべて慎一によって止められ、一銭も使えなくなっていた。だが幸いなことに、彼女には万が一に備える危機管理の意識があり、ずっと前に自分名義の資金をすべて安全な口座へ移し替えていたのだ。佑紀子の勝ち誇った顔を見つめ、純佳は静かに服の裾を整えながら平然と答える。「私が弁護士を雇えないなんて、誰が言ったの?ただ、あなたが私の弁護士にお目にかかる身分じゃないだけよ」佑紀子は体を揺らして甲高い声で笑い出した。「雇えないなら素直にそう認めればいいのに。私の前でつまらない見栄を張っても無駄よ。昨日今日の付き合いじゃないんだから」彼女はさも愉快そうに目を細める。「慎一はすでに手を回しているわ。この東都で、あなたの弁護を引き受ける命知らずなんて一人もいないのよ。今更強がって誰に見せるつもり?」その得意げな顔には、開廷後に純佳が敗北する惨めな姿を期待する、どす黒い歓喜が張り付いていた。純佳がいかに思い通りにならないかを確認することが、彼女にとって無上の喜びなのだ。似たような境遇の女は、自分と同じように泥水をすすればいい。そう本気で思っている。「私が東都の弁護士を雇ったなんて、一言でも言ったかしら?」純佳は冷ややかな声で挑発するように言い返した。もちろん、慎一のやり口は知っている。絶大な権力で人を抑えつけるのは彼の常套手段だ。だが今回ばかりは、その手は空振りに終わるはずだ。佑紀子は吹き出した。「東都の弁護士じゃないなら、まさか風津の弁護士だとでも言うの?いっそのこと、あの『不敗の三上』を雇ったって言えばいいじゃない!あなたのその身分で、一体どんな弁護士が雇えるっていうのよ。笑わせないで。ここは演劇コンクールじゃないのよ、誰もあなたにトロフィーなんてくれないわ。後で原告席にポツンと一人で座っていることにならないといいわね。そ
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第16話

入ってきたのは雅紀だった。その傍らには慎一の弁護士の姿もあった。「早川社長、最後に笑うのが誰になるかはまだ分かりませんよ。開廷前に私の依頼人を恫喝するなど、外に漏れれば早川社長の評判に関わるのではないですか」雅紀は漆黒のスーツを完璧に着こなし、ネクタイの結び目すら一糸乱れぬ隙のなさだった。全身から滲み出る圧倒的な威圧感と、氷のように冷徹な無表情は、その場にいる全員を黙らせるほどの存在感を放っていた。佑紀子は雅紀の姿を見た瞬間、呆然と言葉を失った。あの風津の「不敗の三上」が、本当に純佳の代理人として現れたからだ。ネットで彼の経歴を見たことがなければ、おそらく目の前の男が誰か気づきもしなかっただろう。もし本当に彼が純佳の代理人だとしたら、こちらの勝率は半分にまで落ち込んでしまう!引きつった顔で探りを入れるように言った。「三上弁護士、お部屋をお間違えではありませんか?」相手が純佳の代理人ではないことを、密かに祈っていた。雅紀がこれまで手がけてきた裁判の武勇伝は耳にしている。その手口は冷酷かつ容赦なく、常に相手の急所を的確に突いてくる。しかし、雅紀の冷ややかな返答は、彼女の抱いた期待を容赦なく打ち砕いた。「改めて自己紹介しましょう。私は早川純佳氏の代理人を務める三上です。本離婚訴訟は私が全面的に担当します」雅紀は紳士的な態度で宣言した。佑紀子は無意識に慎一の腕をきつく掴んだ。慎一も一瞬呆気にとられていたが、何よりも打ちのめしたのは雅紀の登場ではなく、直後に秘書から送られてきたメッセージだった。【あの黒のカイエンの所有者は三上雅紀です。奥様はこの間、ずっと彼と行動を共にしていたようです。お嬢様の情報は厳重に隠蔽されており、現在も有力な手がかりは掴めておりません】そんな馬鹿な。純佳はただの孤児だ。父親が死んでからというもの、ずっと早川家の鳥籠の中にいたのだ。そんな彼女の身分で、雅紀のような男とどうして接点を持てるというのか。二人が驚愕と焦燥に顔を歪めるのを見ても、純佳は少しも驚かなかった。すべては彼らの思い上がりが招いた自業自得だ。時間を確認し、資料を持って立ち上がろうとした時、ちょうど開廷前の和解協議を促しに来た書記官と出くわした。「和解は辞退します。このまま開廷してください」
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第17話

雅紀の冷徹な法廷陳述と、その横で一切怯むことなく座る純佳の姿を見て、慎一は驚愕に目を剥いた。その陰鬱な顔には、「これが本当に自分の知っているあの気弱な純佳なのか」という戸惑いがはっきりと浮かんでいた。慎一を真っ直ぐに見据える純佳の瞳に、かつての怯えた色など微塵もない。原告席で堂々と構え、時折雅紀と的確な視線を交わすその姿は、決して無知な主婦などではなく、まるで熟練した法曹関係者そのものだった。その瞬間、慎一の脳裏に埃を被っていた記憶が爆発するように蘇る。純佳は早川家に嫁ぐ前、たしか法科大学院をトップの成績で修了した、優秀な法学修士だったではないか!早川家で見せていたあの従順で無能な姿は、すべて家庭の和を保つための仮面であり、目の前にいる彼女こそが本来の姿なのだ。驚愕から冷めやらぬまま、慎一はスマートフォンに絶え間なく届く振動を反射的に切った。雅紀の完璧な立証により、裁判所は慎一の婚姻中の不貞行為を事実と認めた。しかし、「慰謝料的財産分与」として慎一の持ち分をすべて放棄させるという原告側の要求は退けられた。理由は明確だ。国の法原則において、いかに被告に有責事由があろうと、相手の持ち分まで完全にゼロにすることは「過大な請求」として認められにくいからだ。だが、これも純佳たちの想定内だった。雅紀はすかさず次善の策に切り替え、共有財産の最大限の分割と、高額な慰謝料を要求した。慎一が定めたあの分厚い掟が、法的な証拠能力を持たなかったのが悔やまれる。そうでなければ、ここまで譲歩することはなかった。慎一は我に返り、冷ややかに拒絶の姿勢を見せた。沈黙を保っていた彼の代理人弁護士がようやく動き出し、早川家の資産状況と慎一の個人的な財産目録を速やかに提示し始める。「これらはすべて早川家から代々受け継いだ『特有財産』であり、婚姻中の『共有財産』には該当しません。したがって、原告が望むほどの財産分与は不可能です」だが、相手側がその目録を提示した瞬間、純佳と雅紀は顔を見合わせて密かに微笑んだ。雅紀は間髪入れず、慎一が婚姻中の共有財産を佑紀子へ無断で不正送金していた決定的な証拠を裁判官に突きつけた。二人が詳細な口座の取引明細を提示したのを見て、慎一は忌々しげに眉をひそめた。極秘裏に進めていたはずの資金移動を、なぜ純佳が把握し
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第18話

傍聴席にいた佑紀子が感情を昂ぶらせ、「絶対に認めない」と法廷の秩序を無視して金切り声を上げた。一瞬にして、法廷中の視線が彼女に集中する。裁判長は即座に退廷を命じ、屈強な警備員たちが泣き喚く佑紀子を両脇から抱え上げ、法廷の外へと引きずり出した。その騒ぎの中で、閉廷が宣言される。純佳と雅紀、そして顔面蒼白の慎一が法廷から廊下へ出ると、そこにはまだ怒り狂っている佑紀子が待ち構えていた。純佳の姿を認めるなり、周囲の制止を振り切って強引に指を突きつける。「慎一の条件はあなたの何万倍もいいはずよ!どうして桃香をあなたなんかに引き渡すの!」嫉妬と怒りに完全に支配された佑紀子は、大勢の耳目があるのも構わず半狂乱で喚き散らした。「あんたなんか、どうして慎一に勝てるのよ!あの子はあんたの子供ですらないのに!あんたはただの道具、私と慎一の子供を産むための機械だったはずじゃない!」純佳は冷ややかに足を止め、哀れむような視線を向けた。「桃香の親権が私に渡るのは、たった今、裁判所が下した確定事項よ。表舞台に出られない『日陰者の愛人』が、一体いつから本妻に口出しできるようになったの?」純佳は、裁判所のエントランスに群がっていた野次馬やゴシップ記者の前で、彼女の泥棒猫としての身分を容赦なく暴き出した。たちまち周囲は騒然となる。エントランスにいた記者や傍聴人たちが一斉にスマートフォンやカメラを向け、佑紀子の取り乱した醜態を録画し始めた。「あれが人の家庭を壊した愛人か」、「図々しいにも程がある」と、あちこちから非難や嘲笑の声が上がる。フラッシュの光とシャッター音にハッと我に返った佑紀子は、自分が大衆の前で致命的な失態を演じたことに気づき、目に涙を浮かべて慌てて慎一の背後に隠れようとした。無実で可憐な被害者を装うために。慎一が佑紀子を庇おうと前に出たが、純佳は彼にその隙を与えなかった。彼が口を開きかけた瞬間、先を越して氷のように冷たい声で宣言する。「内山さん、これで終わりだと思わないことね。婚姻期間中にあなたが慎一から受け取った多額の送金、そして買い与えられた高級ブランドの特注品やジュエリー、それらすべては、私との共有財産を不当に流用したものです。その全額を、不貞慰謝料としてきっちり清算させてもらうわ。覚悟しておきなさい」そ
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第19話

スマートフォンを開くと、千春からメッセージが届いていた。【おめでとう。自由の身ね】たったこれだけの、短い言葉だった。一瞬、純佳は千春が何を考えているのか測りかねた。それでも、「ありがとうございます」とだけ返信した。法廷で雅紀が提出したあの決定的な口座の取引明細は、密かに千春が提供してくれたものだからだ。メッセージを送信するとすぐに「既読」はついたが、それ以上の反応はなかった。画面を閉じる。深く考えるのはやめよう。彼女が手を貸してくれたのは、単に純佳の存在が目障りであり、さっさと慎一と佑紀子の障害を取り除いてやりたかっただけなのかもしれない。そうでなければ、古い価値観に染まりきっているあの早川夫人が、これまで見下していた無能な元嫁を助ける理由など、純佳には到底思いつかなかった。何しろ、究極の「息子至上主義」である彼女は、愛息である慎一の望むことなら何でも従うのだから。数日後。風津市の法律事務所で、雅紀が発行されたばかりの弁護士バッジと雇用契約書を持ってきて、純佳の手に渡した。「純佳、おかえり」雅紀は心の底からの、誠実で温かい声で言った。その言葉は、何年も前からずっと口にしたかったものなのだろう。伝える機会がなかったその心残りを、今、ようやく埋め合わせることができた。純佳はそのバッジを両手で大切に受け取る。この小さな輝きをどれほど夢見ていたことか。今日、ついに念願が叶った。「雅紀さん、行きましょう。今日は私のおごりよ」込み上げてくる涙をぐっと堪え、純佳は努めて明るく振る舞った。今日は祝杯をあげるべき最高の日だ。泣いている場合ではない。「ああ、その言葉をずっと待ってたんだよ」雅紀は優しく微笑んだ。予約していた料亭の個室のドアを開けると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。純佳と同じ門下で学んだ、事務所の先輩や同期たちだ。部屋に入った途端、一斉にクラッカーが鳴り響く。「純佳、離婚成立と弁護士復帰、本当におめでとう!」皆が歓声を上げ、恩師である俊明も涙ぐみながら立ち上がった。「純佳、本当によく頑張ったな……おめでとう」先生の言葉に、不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。純佳は俊明が学生時代からずっと見守り、実の娘のように可愛がってきた教え子なのだ。愛弟子が早
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第20話

慎一は純佳との離婚裁判で大敗を喫し、世間の笑いものになった。今は昼夜を問わず、佑紀子に関するネット上の大炎上を鎮火させるため、世論対策に追われている。「社長、内山さんと連絡が取れません。彼女がよく行く場所はすべて当たりましたが、どこにも見当たりません」秘書も巻き込まれて徹夜を強いられている。「探し出せ。見つけたら、すぐに謝罪の声明を発表させろ」慎一は疲労でかすれた声で命じた。言葉を終えると同時に、千春が階段から降りてきた。不満げに口を開く。「あの女が早川家にこれほどの悪影響を及ぼしているというのに、さっさと手を引くどころか、大金を叩いて火消しに奔走するなんて。慎一、あんな女がそれほど大切なの?」慎一の不甲斐ない姿を見て、千春は怒りと苛立ちを募らせた。「あなたは本当に……あの父親とそっくりね!」慎一は珍しく手元の書類から顔を上げ、深い疲労感を漂わせながら弁明した。「母さん、もう少し佑紀子への偏見をなくしてくれないか。純佳がいた頃だって、母さんはあいつに文句ばかり言っていたじゃないか」「純佳があの女なんかと比べ物になるはずないでしょう!純佳は確かに気弱で取り柄がなかったけれど、佑紀子のような腹黒さや計算高さは持っていなかったわ!」千春は間髪入れずに反論する。慎一が苛立って何か言い返そうとした瞬間、法廷で純佳が見せたあの毅然とした姿が脳裏に閃いた。喉元まで出かかっていた佑紀子を擁護する言葉が、瞬時に詰まって出なくなる。続いて、けたたましい電話の着信音が室内に鳴り響いた。電話が繋がるや否や、秘書の焦燥した声が飛び込んできた。「社長、内山さんの足取りを掴みました!しかし、見知らぬ男たちと一緒にいます。大至急こちらへ来てください!」「場所はどこだ」報告を聞き終わるや否や、慎一は傍らのジャケットを慌てて掴み取り、そのまま屋敷の外へ飛び出した。秘書が送ってきた位置情報は、繁華街の裏手にある路地だった。車が現地に到着し、慎一が後部座席から外を見るより早く、肌を大胆に露出した服を着た佑紀子が、複数の見知らぬ男たちに囲まれていちゃついているのが見えた。男に媚びを売るような声さえも、夜の空気を伝って耳に届いてくるかのようだった。次期奥様のそんなふしだらな姿を見たことのない運転手は目を丸くし、
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