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月は沈み、夜明けを抱く

月は沈み、夜明けを抱く

By:  ちびネジCompleted
Language: Japanese
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早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。 入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。 桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。 そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。 そこで初めて思い知らされた。 これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。 「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」 「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」 曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて! 胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。 愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。 ただ、慎一は完全に忘れているようだった。 結婚する前の純佳が、風津市の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。

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Chapter 1

第1話

早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。

入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。

桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。

そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。

そこで初めて思い知らされた。

これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。

「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」

「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」

曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて!

胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。

愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。

ただ、慎一は完全に忘れているようだった。

結婚する前の純佳が、風津市(かわづし)の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。

「あの女を海外へ送る時、あなたは何と約束したの!純佳と結婚して、この早川家に跡取りを残す。そう言ったからこそ、私も目を瞑ったのよ!それなのに、条件すら果たさずに今すぐ離婚だなんて……絶対に許さないわ!」

千春の怒りに満ちた声が再び響く。

慎一はその言葉に忌々しげに眉をひそめていた。最初からあんな条件を飲まなければ。そのせいで佑紀子が事故で死にかけ、一生子供が産めない体になってしまった。

この一年余り、佑紀子が夜に声を殺して泣いている姿を思い出すたび、慎一の心は身を切られるような罪悪感に苛まれていた。

彼女が誰よりも子供好きだったことを、彼は痛いほど知っている。

「俺だって後悔してるんだよ!最初からあんな条件、飲むべきじゃなかった!今そのせいで、佑紀子は板挟みになって苦しんでるんだ!

だから俺は罪滅ぼしがしたい。桃香を佑紀子に育てさせて、二十七歳の誕生日プレゼントにするんだよ!」

これ以上、慎一は一秒たりとも待つつもりはない。

「ふざけたことを!絶対に認めないわよ。どうしても純佳と離婚して、あの卑しい女と再婚するというなら……今すぐ親子の縁を切るわ!」

千春はギリッと奥歯を噛み締め、慎一をきつく睨みつけた。

しかし、彼の一歩も譲らない狂気じみた決意は、母親である千春の心を容赦なく刺し貫いた。

「母さん!もう二度と同じ過ちは繰り返さない。今回ばかりは早川家から追い出されようが、息子と認められなかろうが、俺は佑紀子と結婚する!

一度失いかけたんだ。二度も失うわけにはいかない!」

慎一の心に抑え込まれていた感情が爆発し、怒号が広いリビングに響き渡る。

彼は言葉を切り、吐き捨てるように言った。

「それに……純佳のことなんて、最初から愛してなんかいない。あんな女といると息が詰まるんだ。あのおどおどした、自分じゃ何もできない無様な姿には、もう心底ウンザリしてるんだよ!」

千春は息を呑んだ。

まさか息子の心の中で佑紀子がこれほどまでに大きな存在となり、母親との縁を切ってでも妻に迎えようとしているとは思いもよらなかった。

深呼吸をし、込み上げてくる悲痛な思いを押し殺して、千春はいたたまれなさそうに口を開く。

「本当に純佳と離婚して、あの女と再婚するつもりなの?この私を母親と認めなくなってでも?」

慎一は力強く頷いた。佑紀子のことを思い浮かべたのか、冷ややかな顔にふっと柔らかな笑みがこぼれる。

「ああ、佑紀子と結婚する。あいつは桃香をとても可愛がっているし、桃香の母親になりたいと願っているんだ。その願いを無下にはできない!」

佑紀子が桃香を見る時の、あの嬉しそうな笑顔に嘘はない。

もうこれ以上、取り返しのつかない馬鹿な真似はできない。

千春は、息子の瞳の奥に蠢く計算高い光を見て、複雑な表情を浮かべた。

「慎一、純佳を妻に迎えたのはあなた自身の意思でしょう。そんな仕打ちはあまりに不公平だわ。それに、もし彼女が離婚に同意しなかったらどうするつもり?」

千春は思わず少しの同情を抱いたが、その言葉は慎一に鼻で笑って遮られた。

眉間には、ありありと純佳への嫌悪感が滲んでいる。

「あいつに惨めな思いはさせないさ。離婚した後は、残りの人生を一生遊んで暮らせるだけの慰謝料をくれてやる。

だいたい、昔の念書を盾にして乗り込んできて、大勢の前で結婚を迫ったのも、結局は金目当てだろう。あんな権力にすがりつくような女、世間にはいくらでもいる。

あのいつもメソメソして、自分じゃ何もできない性格だ。同意しようがしまいが大した影響はない。離婚を成立させる手段なんていくらでもある」

言葉の端々には、隠しきれない軽蔑が混じっていた。

寒の戻りの冷たい風が、開け放たれたバルコニーのドアから吹き込んでくる。底冷えする鋭い氷の刃となって、慎一の冷酷な言葉とともに、壁の陰で息を潜める純佳の心臓を深く突き刺した。

一瞬にして、身の毛のよだつような寒気が骨の髄まで突き抜け、全身から痛いほどの冷たさが滲み出る。

純佳が一生を託し、大切に育んでいきたいと願っていた結婚生活は、今この瞬間、慎一によって無残にも打ち砕かれた。彼を慕っていた心もまた、千々に引き裂かれ、見る影もなく壊れてしまった。

全身から力が抜け、冷たい壁に背中を預ける。

息苦しさが胸に広がり、慎一の嘲笑が何度も何度も脳内を駆け巡り、彼女の神経を容赦なく刺激した。

肺が引き裂かれるような痛みを覚え、純佳はたまらず深く息を吸い込んだ。

あの時、念書を手にして早川家を訪れた際、純佳は言葉巧みに嘲笑され、結婚に飢えていると罵られた。

だが慎一は知らなかった。

この結婚が、純佳にとって決して望んだものではなかったということを。

父はかつて身を挺して早川家の先代の命を救ったことがあった。その大恩の証として先代が残したのが、あの「念書」だった。

その父が臨終の際、一人残される純佳の将来を案じ、「この恩を盾にしてでも早川家の庇護下に入れ」と結婚を強要した。

そうでなければ死んでも死にきれないと。

だからこそ、彼女は大勢の前で結婚を迫る真似までした。桃香を産んだことすら、ただ父の最期の願いを果たすためでしかなかった。

しかし今となっては、すべてが偽りだった。心を入れ替えてくれたのも嘘、早川家が庇護してくれたのも嘘。それどころか、生まれたばかりの桃香でさえ、彼の計画の一部に過ぎなかったなんて……

純佳の胸に突き刺さった刃が、今この瞬間も無残に掻き回され、麻痺するほど痛む心はすでにズタズタに砕け散っていた。

慎一は純佳のことなど少しも愛していなかった。

彼がしてきたこれまでの行いはすべて、早川家に寄生するように育ったあの佑紀子のため!

彼と幼馴染のあの佑紀子のためだったのだ!

純佳にはまったく理解できなかった。

自分がいったいどんな過ちを犯したというのか。なぜここまで大掛かりな罠にハメられなければならなかったのか!?

慎一の憎悪に満ちた声が響くまで、彼女はその残酷な理由を知る由もなかった。

「子供のことがなければ、純佳なんかに優しくしてやる義理がどこにある!

あいつを縛るための『妻としての行動規範』をさらに細かく書き直しておいた。これなら今後、母さんが俺の代わりに躾けやすくなるだろう」

慎一の冷え切った声とともに、日常の立ち振る舞いまで事細かに記された分厚いファイルの束が、千春に手渡される気配がした。

「純佳は早川家に入ってからずっと、あなたが作った息が詰まるような掟に縛られてきたのよ。今はまだ子供を産んだばかりだというのに、いくらなんでもこんな仕打ちは……」

千春が躊躇うと、慎一の冷ややかな鼻息が聞こえた。

「あの時、純佳が大勢の前で結婚を迫ったりしなければ、佑紀子が海外へ行くと言い出すこともなかったし、突然の事故で命を落としかけることもなかった。

これはすべて、純佳が佑紀子に対して犯した罪だ!俺はただ掟を叩き込んで、外で早川家の恥を晒さないようにしてやっているだけだ。

もし本気で復讐する気なら、あいつが今も早川家で無事でいられるとでも思っているのか!」

その言葉を聞いた瞬間、純佳は怒りと憎しみで壁を支える手にぐっと力を込めた。皮が剥けた指先が壁を引っ掻き、深さの違う傷跡を残すのも構わなかった。

早川家に嫁いでからの毎日は、千春のそばで掟を叩き込まれる日々だった。

紙に書き連ねられた理不尽な決まりごとの数々に縛られ、深い苦痛を味わってきた。てっきり早川家の古臭い家風なのだと思い込んでいたが、まさか慎一……夫自身が自分を苦しめるために定めた掟だったとは。

あまりにも馬鹿げている!

だが、慎一は忘れているようだ。

純佳がこれまで自分を殺し、ただ黙って従ってきたのは、すべて彼が自ら定めた掟のせいだったということを。

彼が気に入らないと一言言えば、純佳はようやく手にした風津市のトップクラスの法律事務所からの内定すらあっさりと蹴った。

そして家庭内に波風を立てないため、自分の意見を押し殺し、家庭に入って夫に尽くし、子育てに専念する道を選んだ。彼が理想とする、掟を重んじる従順な「早川の妻」になるために。

その結果がこれだ。純佳は完膚なきまでに打ちのめされ、ただの笑い者に成り下がってしまった。

あろうことか、十月十日お腹を痛めて産んだ我が子までも、初恋の女へのプレゼントに差し出そうと企んでいるなんて。

本当に滑稽でたまらない!

もう、早川の妻など真っ平ご免だ。

純佳は決意した。

かつての自分に戻るのだと。誰にも縛られない、完全な本来の自分を取り戻すのだと。

胸の奥から激しく噴き出す怒りは、もはや抑えきれなかった。今すぐ慎一と話をつけてやる。離婚は構わない、だが桃香だけは絶対に引き取る!

しかしその時、折悪く慎一のスマートフォンに着信音が鳴り響いた。

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第1話
早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。そこで初めて思い知らされた。これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて!胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。ただ、慎一は完全に忘れているようだった。結婚する前の純佳が、風津市(かわづし)の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。「あの女を海外へ送る時、あなたは何と約束したの!純佳と結婚して、この早川家に跡取りを残す。そう言ったからこそ、私も目を瞑ったのよ!それなのに、条件すら果たさずに今すぐ離婚だなんて……絶対に許さないわ!」千春の怒りに満ちた声が再び響く。慎一はその言葉に忌々しげに眉をひそめていた。最初からあんな条件を飲まなければ。そのせいで佑紀子が事故で死にかけ、一生子供が産めない体になってしまった。この一年余り、佑紀子
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第2話
純佳が階段を降りて慎一の背後に立ったちょうどその時、通話が繋がった。彼のスマートフォンから、甘ったるい女の声が漏れ聞こえてくる。「慎一、もう三分も遅刻してるわよ。ねえ、今日のレース、どうするの?もう走らない気?」電話の向こうの女が言い終わるか終わらないかのうちに、慎一はすでに足を踏み出し、外へ向かって歩き始めていた。純佳に口を挟む隙など微塵も与えず、すぐ後ろの壁際にいる彼女の存在にすらまったく気づいていない。やがて、彼の口から甘く優しい声が響いた。「すぐ着くよ。母さんと少し話をしていて遅れたんだ。怒らないでくれ、夜にはちゃんとたっぷりと埋め合わせをするから。な?」それを聞いて、純佳は思わず体を強張らせた。あのような愛情深く、相手の機嫌を取るような低姿勢は、自分に向けられたことなど一度もない。彼が純佳に与えるのは冷酷な態度か、それを上回る徹底した無視だけだった。以前見せてくれた優しさを思い返しても、その大半は桃香がその場にいる時だけのものだった。佑紀子が受けている愛情に比べれば、純佳への扱いは誰の目にも留まらないゴミクズも同然だ。それなのに、彼の気まぐれな施しを宝物のように大切に抱きしめていた自分が、本当に滑稽でならなかった。慎一の後ろ姿が完全に視界から消えて、純佳はようやく我に返った。千春が振り返り、純佳を見た瞬間にハッと驚きの色を浮かべたが、すぐにいつもの傲慢な顔を取り繕った。「純佳。あの子の泣き声が耳に入らなくて?母親の務め一つまともに果たせないなんて、本当に育ちの悪さは隠しきれないわね」千春は氷のように冷たい声で、いつものように純佳の些細なミスを針小棒大に責め立てる。これまでの徹底的に無価値だと貶められてきた日々の中で、こうした理不尽な非難は数え切れないほど受けてきた。純佳はもうすっかり麻痺していた。我に返った純佳は、思わず目頭を熱くし、千春の罵倒を無視して震える声で事実を問い質した。「お義母様、内山さんは……戻ってきたのですか?」先ほどの慎一たちの会話が本当に事実なのか、純佳は確かめずにはいられなかった。千春の視線がかすかに泳ぐ。その僅かな動揺を純佳がしっかりと捉えた瞬間、彼女の心の底に僅かに残っていた期待は完全に打ち砕かれた。一年近く胸の内に押し殺してきた理不尽な思いが
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第3話
再び目を覚ました時、純佳はすでに早川家が経営する私立病院の特別病室に横たわっていた。静まり返った病室には、ツンとする消毒液の匂いが漂っている。重い瞼どうにか開けると、傍らで看護師が自分の腕に何か処置をしているのが見えた。彼女は手元の作業に集中しており、純佳が意識を取り戻したことにはまったく気づいていない。少し隙間の開いたドア越しに、慎一の冷ややかな声が飛び込んできた。「必要なだけ血を抜け。絶対に佑紀子の命を救うんだ!」医師が焦った声で返す。「しかし、慎一様。内山様は交通事故による大量出血で、通常の献血量よりはるかに多くの血を必要としています。これ以上奥様の血を抜き続ければ、奥様ご自身の命にも危険が及びます……」その言葉に、慎一の顔に一瞬ためらいが走った。彼はうつむき、自分の服にべっとりと染み付いた血痕に目を落とした。すべて佑紀子の血だ。かつて佑紀子が飛行機事故に遭った時の、あの奈落の底に突き落とされるような恐怖が再び蘇り、彼のわずかに残った理性を呑み込んでいく。慎一はごくりと喉を鳴らし、冷たい声を絞り出した。「構わない。純佳は佑紀子と同じ血液型だ。あいつの方が体力もあるし、これしきの血を抜いたところで何の影響もない……」必死に自らの内に渦巻く恐怖を鎮めようとしているようだった。二度と佑紀子を失うわけにはいかない。「しかし……」医師が言葉を濁すと、慎一は待ちきれないように遮った。「俺は純佳の夫であり、この病院のオーナーだ!あいつの血で佑紀子を救うと、俺が決めたんだ」その直後、遠くから足早に近づく声がした。「医長、血液センターから連絡です!緊急手配した血液パックが、あと一時間で到着します!」「よかった、すぐに担当の者に伝えろ。奥様から予定していた量を抜く必要はない、半分でいいと!」医師が安堵の声を上げる。誰かが病室のドアを開けて入ろうとしたその瞬間、慎一が不意に声を上げ、それを制止した。「いや!予定通りに抜け。佑紀子を少しの危険にすら晒すわけにはいかない。余った分は……予備として置いておけ」外の会話が次第に鮮明に聞こえてきたのと同時に、純佳は不意に腕をアリに噛まれたようなチクッとした痛みを感じた。顔を向けると、点滴のチューブはすでに赤く染まり、真っ赤な血がとめどなく純佳の体か
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第4話
「内山さんって本当に運がいいわね。交通事故で入院したっていうのに、慎一様がつきっきりで看病してるんだから。私が傷口のガーゼを替えに行った時も、二人は手をギュッと握り合って離そうとしなかったのよ。それに比べて奥様は気の毒ね。血を抜かれすぎて何度も処置室に運ばれたのに、慎一様は一度も顔を見せなかったんだから」若い看護師が、羨望と哀れみの入り混じった声で語る。「本当よね。慎一様は、奥様が内山さんに手出ししないようにって、わざわざ私たちに時間通り鎮静剤を打つよう念を押したのよ。内山さんがゆっくり療養できるようにって……」もう一人の看護師が相槌を打つ。彼女は純佳の血を抜いたあの看護師だ。崩れ落ちそうになる体を冷たい壁に預け、あまりにも残酷な現実に、純佳は眩暈を覚えた。意識が戻らなかったこの一週間、すべては慎一が仕組んだことだった。自分が佑紀子に手出しできないよう、ただそれだけのために。本当に滑稽だ。血を抜かれ、傷だらけでボロボロのこの体で、一体彼女に何ができるというのか。「内山の病室はどこ?」噂話をしていた看護師たちの前に歩み寄り、冷たく尋ねた。彼女たちは突然現れた純佳の姿に驚いて跳び上がったが、すぐに震える声で答えた。「お、奥様……内山様はもう転院されました。この病院にはいらっしゃいません」転院?慎一のあの女に対する執着には恐れ入る。二人の邪魔をしないように、転院という手まで思いつくとは。「どこの病院へ転院したの?」「存じ上げません……」看護師は怯えながら首を横に振った。あちこち尋ねて回ったが、慎一が佑紀子をどこへ連れ去ったのか知る者は誰もいなかった。仕方なく、一旦自分の病室へ戻って療養することにした。その間、慎一に何度か電話をかけたが、一度も繋がることはなかった。それどころか、着信拒否にまでされていた。スマートフォンからは無機質な音声ガイダンスが流れるだけだった。純佳は電話を切り、すぐに別の番号へと発信する。「夫である早川慎一と内山佑紀子の不貞行為の証拠を集めてちょうだい。調査費用も特急料金も、いくらでも払うわ。ただし条件がある。一週間以内に、裁判で確実に勝てる証拠を揃えて」「一週間では短すぎます。せめて二週間……二週間頂ければ、必ず決定的な証拠を掴んでみせます」電話の
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第5話
佑紀子は片手で桃香を抱きかかえ、もう一方の手でグラスの液体を飲ませようとしていた。慎一は酒気を帯びた虚ろな目でその様子を傍観しており、眉間には微かな苛立ちが漂っている。他の同席者たちは気にも留めず、グラスを合わせては酒を呷っていた。純佳がここまで抱えてきた緊張と焦燥は、一瞬にして爆発的な怒りへと変わった。前へ踏み出し、佑紀子の手からグラスを力任せに払いのけると、その勢いのまま思い切り彼女の頬を張り飛ばした。パァンという鋭い音が響く。不意の衝撃に佑紀子はバランスを崩し、ソファへと倒れ込んだ。白い頬にくっきりと真っ赤な手形が浮かび上がり、薄暗い照明の下でひときわ痛々しく際立つ。「あんた狂ってる!赤ちゃんに酒なんて!」純佳は怒鳴りつけ、彼女が呆然としている隙を突いて、桃香を奪い返した。腕に抱き留めた桃香は、熱で顔を真っ赤に火照らせ、その小さな体は恐ろしいほど火のように熱かった。あんなに激しかった泣き声も、今では弱々しくかすれてしまっている。「違うの、喉が渇いているのかと思って、少しお水をあげようとしただけ……」佑紀子は無実を訴えるように弁明し、すがるような目で傍らの慎一を見つめた。「お酒なんか飲ませてないわ。あれはただの炭酸水よ。アルコールなんて入ってない」純佳は彼女を鋭く睨みつけ、すぐに桃香の様子を確認した。泣き声にはもはや張りがなく、呼吸も弱々しい。心臓が口から飛び出しそうだった。桃香の状態が明らかにおかしい。今すぐ病院へ連れて行かなければ。しかし、踵を返そうとした瞬間、慎一が妻の前に立ち塞がった。酔いが少し醒めたのか、純佳の腕をきつく掴んで離そうとしない。純佳は彼を睨みつけ、怒りを露わにした。「離して!桃香を病院へ連れて行くの!状態がおかしいのよ!」だが慎一は意に介さず、冷淡に言い放った。「どうして佑紀子をぶった!子供の世話を焼こうとしてくれただけだ。さっさと謝れ!」彼の眼差しから一切の感情が欠落しているのを目の当たりにし、純佳は凍りつくような声で叫んだ。「この人でなし!桃香がまだ熱を出しているのに無理やり連れ出して、その上あの女がお酒を飲ませようとするのを止めもしないなんて!」万力のように手首を締め上げる男の腕を必死に振り払おうとしたが、力は強まる一方で、ギリギリと骨が軋む
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第6話
純佳が再び目を覚ました時、信じられないことに、ベッドの傍らには慎一の姿があった。「目が覚めたか。気分はどうだ」静かな声が響く。桃香は!あの子はどうなったの!?純佳はそう口に出そうとしたが、喉から空気が漏れるだけで、声が全く出ないことに気がついた。慎一が重々しい口調で説明する。「無理に喋るな。喉の粘膜が腫れて声帯を傷つけている。腫れが引くまで声は出ないそうだ」純佳は慌ててスマートフォンを探し出し、猛スピードで文字を打ち込み、画面を彼に突きつけた。【桃香はどうなったの!】その画面を見て、慎一の無機質な顔にようやく変化が現れた。瞳の奥に一瞬だけ申し訳なさそうな色がよぎり、数秒の沈黙の後、口を開いた。「桃香はまだ集中治療室にいる。医者の話では、今夜が峠だそうだ」言葉を切り、彼はさらに続けた。「今回は俺の不注意だった。桃香の世話をしていたシッターはすでにクビにした。あの子は必ず助かる、安心しろ」取って付けたような後悔の言葉を聞かされ、純佳は桃香が哀れでならなかった。この男は、ただの一度だって桃香を我が子として慈しんだことなどない。今見せている後悔も、所詮は「父親としての体裁」を取り繕うためのポーズでしかないのだ。純佳はいたたまれずにシーツを握りしめ、痛む体を押して桃香の様子を見に行こうとした。折悪く、佑紀子が保温ジャーを手に病室へ入ってきた。純佳が目を覚ましているのを見ると、彼女の顔に一瞬だけ異様な光がよぎったが、すぐにわざとらしい安堵の笑みを浮かべた。「純佳さん、よかった、無事だったのね。もしあなたに何かあったら、私、自分のこと責め続けちゃうところだったわ……これ、私がじっくり時間をかけて煮込んだ特製の薬膳スープよ。体力回復にすごくいいから、飲んで早く元気になってね」そう言いながら、蓋を開けて差し出してくる。瞬く間に、病室にいかにも栄養のありそうな香りが立ち込めた。純佳は氷のように冷たい視線を向け、顔を背けてその好意を突き返した。そしてドアを指差し、出ていくように促す。佑紀子はたちまち被害者ぶった顔を作り、目に涙を浮かべて慎一を見つめた。「慎一、純佳さんにお酒を飲ませたのは私のせいだわ。反省してる。でも、このスープ、いろんな素材を半日以上つきっきりで煮込んで、一生懸命作ったのに……」
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第7話
慎一が廊下で電話を切った直後だった。頭上から落下してきた佑紀子が、目の前の車のフロントガラスに激突した。血まみれのボロ布のようになった彼女の顔を確認し、慎一は驚愕に見開いた目を疑った。「佑紀子、どうしたんだ!」慎一の半狂乱の叫び声が響く。騒ぎを聞きつけた医療スタッフたちが慌てて救助に駆けつける中、佑紀子は青ざめた顔で虚ろに呟いた。「慎一……純佳さんが……私が邪魔だから、死ねって……」言い終わるや否や、力なく意識を失った。慎一は血走った目で医師に救命を怒鳴りつけると、矢のように屋上テラスへと駆け上がった。凄まじい轟音とともに、屋上への重い鉄扉が暴力的に蹴り開けられた。その場に立ち尽くしていた純佳が事態を飲み込む間もなく、慎一に乱暴に首を絞め上げられた。容赦なく喉を扼され、窒息の苦しみが肺を焼くように広がっていく。「お前……佑紀子に何をした!」男は目を血走らせ、歯を食いしばって怒鳴りつけた。純佳はもがきながら、震える手でスマートフォンの画面を彼の顔に突きつけた。【彼女が自分で飛び降りたの!】文字を打ち終えるより早く、慎一は純佳の手からスマートフォンを乱暴に払いのけた。目を赤く血走らせて相手を睨みつけるその姿は、今にも彼女を八つ裂きにせんばかりの、猛り狂った獅子のようだった。「まだあいつに罪をなすりつける気か!俺の目が節穴だとでも思っているのか!こいつを押さえつけろ!」慎一が冷酷に命じると、背後に控えていたボディガードたちが、もがく純佳の腕を掴み、まるで不用意なゴミでも扱うかのように屋上の縁へと引きずって行った。純佳は声も出せずに抵抗したが、衰弱した体では訓練されたボディガードたちに敵うはずもなかった。屋上の風が容赦なく純佳の胸元に吹き込み、感覚が麻痺するほど骨の髄まで冷え切っていく。「お前、以前佑紀子を一度陥れただけでは飽き足らず、俺の目の前で二度目も企んだのか!」慎一は指先のタバコを握り潰し、怒りに震えていた。「佑紀子がこれ以上傷つくことは絶対に許さない。お前が佑紀子を突き落としたのと同じように、ここから飛び降りて詫びろ!」風は吹き荒れ、恐怖で噴き出した背中の冷や汗が乾いていく。眼下には底知れぬ目眩が広がっていた。純佳は彼に向かって首を振り、自分は関係ないと弁解しようとしたが、
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第8話
メッセージを確認した後、純佳はすぐにそれを削除した。痛む体を無理やり起こし、集中治療室へと急ぐ。「先生、娘の具合はどうでしょうか?」観察室の窓越しに見える桃香は、深い眠りについていた。小さな体にはいくつものモニターが繋がれ、心電図の波形がゆっくりと動いている。その痛々しい姿に、純佳は再び心臓が締め付けられる思いだった。「現在のところ危険な状態は脱しましたが、まだ数日は経過観察が必要です。元々体が弱く、高熱だけでも厄介だったところに、こんな小さな子に度数の高い酒を飲ませるなんて……処置があと少しでも遅れていれば、取り返しのつかないことになっていたでしょう」医師は搬送時の危険な容態を思い返したのか、青ざめた顔で語った。なにもかも慎一のせいだ。佑紀子の歓心を買うためなら、あの男は見境もなく、どんな異常なことでも平気でやってのける。桃香が不憫でならなかった。まだこんなに小さな子が、どうしてあんな恐ろしい目に遭わなければならなかったのか。「先生、詳細な診断書を書いていただけませんか。娘がこうなった原因が急性アルコール中毒であることを、はっきりと記載してほしいのです」これらをすべて記録し、証拠として残しておくためだ。いずれ裁判が開かれた時、これが慎一の許されざる罪を立証する強力な証拠となる。診断書を手に医師の部屋を出ようとした時、廊下で若い看護師たちの噂話が耳に入ってきた。「早川社長の内山さんへの執着、マジでヤバくない?鶴の一声でトップクラスの先生たち集めまくって、今、内山さんの処置室に市内の名医が勢揃いしてるらしいよ。内山さんも本当可哀想。小さい頃に両親亡くして苦労してるのに、あんな目に遭うなんてさ」「ねえ聞いた?内山さん、事故で落ちたんじゃなくて、奥さんに突き落とされたらしいよ!普段はおとなしくて優しそうなのに、裏の顔ヤバすぎでしょ。マジでサイコパスじゃん。あんな女が妻だなんて、早川社長も気の毒すぎるわ……」純佳は足を止め、集まって噂話をしている彼女たちを冷たい横目で見た。歩み寄って反論しようとしたが、ふと廊下の奥に、回診中の看護師長が鬼の形相で立っているのに気づき、そのまま踵を返して歩き出した。しばらくして、壁際で噂話をしていた看護師たちは看護師長に見つかって厳しく叱責され、あちこちで泣きべそをかいて
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第9話
慎一は佑紀子の傍らで、丸三日もの間つきっきりで看病を続けた。彼女がようやく目を覚ましたことで、極限まで張り詰めていた神経がようやくわずかに緩んだ。「佑紀子、具合はどうだ。どこか苦しいところはないか?」目を覚ました佑紀子は、枕元に座り込む慎一の姿を認めると、青ざめた顔に安堵の笑みを浮かべた。大丈夫だと伝えようとしたその時、ふと純佳のことが頭をよぎり、わざとらしく言葉を濁した。「……私のことはいいの。純佳さんも、きっと一時の感情でやってしまっただけだから。あまり責めないであげて……」その言葉を聞いた瞬間、慎一の瞳の奥に複雑な色が過った。佑紀子はその僅かな変化を見逃さなかった。一瞬、彼女の背筋に冷たいものが走る。慎一は本来、自分を傷つけた者には容赦しない男だ。これほどの仕打ちをされて純佳を野放しにするはずがない。今頃あいつは、どこか薄暗い隅っこで息も絶え絶えになっているはず……佑紀子は心の底で、純佳が惨めに震えている姿を想像し、隠しきれない悦びに浸っていた。「純佳は……身ごもっていたんだ」慎一の喉の奥から、絞り出すような苦渋に満ちた声が漏れた。佑紀子は耳を疑った。「えっ……?」慎一は顔を背け、突き放すように言葉を継いだ。「あいつは妊娠していた。突き飛ばした拍子に腕を折ったようだし、それが罰になったと思えば十分だろう。この件は、もうこれで幕引きだ。あいつには見張りをつけてある。もう二度とお前の前に現れさせはしない」純佳に対して、慎一は自分でも測りかねる迷いの中にいた。彼女が再び身ごもったと知らされたとき、胸の奥底で奇妙な感覚が渦巻いた。むず痒いような、言いようのないざわめき。本来なら、血で血を洗うような償いをさせるつもりだった。だが、咄嗟に口をついて出たのは、突き飛ばした弾みで腕を折ったことを「罰」として無理やり納得させ、それ以上の追及をやめるという、彼にしてはあまりに手ぬるい幕引きだった。自分を疑うような佑紀子の眼差しを前に、慎一は言い知れぬ後ろめたさに苛まれていた。その時、純佳の見張りを命じていた部下から電話が入った。「旦那様、大変です……奥様が病室におられません。看護師の話では、昨日のうちに退院されたとのことです」慎一は弾かれたように立ち上がり、顔色を変えた。「なんだと……
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第10話
突然のことに思考が追いつかない。うつむいた慎一の視界に、傾けたファイルから滑り落ちたもう一枚の紙片が飛び込んできた。「中絶手術同意書(控)」信じがたいものを見るように瞳をわずかに見開き、床に落ちたその紙を拾い上げる。無機質な印字を、一字一句食い入るように見つめた。署名欄に記された日付を見た瞬間、慎一の体はびくりとこわばった。十二日。それは、佑紀子の騒動があったまさに翌日ではないか。純佳は妊娠を確認した直後、躊躇うことなく中絶の予約を入れていたのだ。どうしてそこまで残酷になれるのか。あいつは自分を深く愛していたはずではなかったか。自分との子供を、どうしてこうもあっさりと手放せたというのか。あり得ない。これは嘘だ……絶対に嘘だ。これは現実ではないと、慎一は幾度も自分に言い聞かせた。そこへ、情報を掴んだ秘書が血相を変えて飛び込んできた。「社長、退院時の防犯カメラを確認したところ、奥様は退院後、まっすぐこのお屋敷に戻られたようです。ですが、周辺のカメラを当たっても、残っていたのはこれだけで……」秘書はそう言って、手元の端末を慎一に差し出した。映像には、純佳が屋敷に戻って一時間も経たないうちに、スーツケースを引いて出て行き、カメラの死角へと姿を消す様子が映っていた。慎一は一時停止した最後のフレームを睨みつけ、すぐさま付近の交差点の映像を洗うよう命じた。荷物を持って屋敷を離れる際、わざわざ死角を選んで歩くとは。どこへ行ったのか自分に知られるのが、それほど嫌だったのか。間もなくして、秘書が新たな映像データを慎一に見せた。読み通りだった。映像の中に黒いカイエンのナンバープレートが映し出される。慎一は画面を止めさせ、早川家の問題に首を突っ込む命知らずな車の持ち主を徹底的に調べるよう命じた。指示を終えた直後、凄まじい剣幕で千春が部屋に乗り込んでくるなり問い質した。「一体何があったの?また純佳に何をしたの!」千春の知る純佳は、大人しいが分別があり、礼儀をわきまえた女性だ。自分が妊娠しているのに、病院を抜け出すような無茶をするはずがない。慎一が押し黙っていると、千春の鋭い視線がテーブルの上の離婚調停申立書に止まり、胸の内に燻っていた怒りが一気に爆発した。「純佳はまだ妊娠したばかりで、怪我
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