All Chapters of 死に戻りの妻は、妹を愛する夫を完全に見限る: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「うわっ、ユキちゃん!また吐いたの?」美優は悲鳴を上げると、すぐに腰を下ろし、苦しむ愛犬を抱き上げた。そして目に涙をいっぱい溜めて湊を見上げて、訴えた。「湊さん、どうしよう?ユキちゃん、もっとひどくなってるみたい!さっきから具合が悪そうだったけど、また吐いちゃったの。ここだと土地勘もないし、動物病院もどこがいいのかわからなくて……お願い、湊さん。車を出して探してくれない?心配で、どうにかなりそうだよ」すると香織がすぐに便乗するかのように言った。「そうよ、湊!急いで車を出して、ユキちゃんを病院に連れてってあげて!犬だって生き物よ、さあ急いで!夏美のことは連絡が来てから考えればいいわ。どうせまた、何か悪戯してるだけでしょ!」一方、湊は美優に抱かれた愛犬を見つめながら、どうしようもない徒労感に襲われていた。拒否したい。今、最も優先すべきは夏美の状況を確認することだと伝えたい。だが、不安に顔をゆがめる大輔、香織と美優を見れば、言葉が喉に詰まって出てこなかった。「……ああ」結局、彼は折れて、乾いた声で答えた。「車を出してきます」そして、大輔と香織も心配し、一緒に付いてくることになった。こうして車が駐車場の出口を出ると、閑散とした正月未明の通りへと走っていった。車内はどんよりとした重い空気。犬の鳴き声と、美優の優しく宥める声だけが響いているのだった。後部座席では香織が、未だにぶつぶつと文句をこぼしているのだ。「帰ったら、夏美に一言言わないと。本当に迷惑ね!こんな正月の夜中に、犬のせいで家族中が病院を探し回るなんて。一体どうなってるのかしら」一方、湊はハンドルを握りしめたまま、前を見据えて口を閉ざした。そして、不安がどんどん高まり、どうにも落ち着けないでいたのだ。スマホはダッシュボードのホルダーに置かれている。画面は消えたままだが、彼は取り急ぎの連絡を待ち続けているのだった。「湊さん、次の交差点を右だよ。ナビで見たら、この辺りに24時間の動物病院があるみたい」美優がスマホの地図を指さして言った。そう言われ、湊は無言で右のウィンカーを出し、右折の態勢をとった。すると、右側の道路へ入ろうと、車体が向きを変えたその瞬間――リンリンリン――静まり返った車内に、けたたましいスマホの着信音が響き渡った。車内のブルートゥー
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第12話

激しい衝撃と耳をつんざく音。そして、息苦しいほどの闇と痛みが襲ってきた。湊は、底なしの深海に漂っているような感覚の中で、意識が薄れていった。耳の奥で、周囲の悲鳴やパニックに陥った声、救急車のサイレンがかすかに聞こえ、やがてすべての音が遠ざかり、彼は悪夢の中へと落ちていった。そして、夢の中で、時間は3年前の大雨の晩まで遡った。必死に車で探し回った末に、いつものバス停の下で小さくうずくまる夏美の姿を見つけた。激しい雨で彼女の髪も服もびしょ濡れになり、冷え切った体の痩せ細ったシルエットを浮かび上がらせているのだった。彼女はまるで雨の中、捨てられた子猫のように、膝に顔を埋めて肩を震わせていた。周囲には誰もいない。冷たい雨が降り注ぎ、車の行き交う音が響く中、夏美は世界から忘れ去られたように、ひとりぼっちだった。湊は車を止め、ドアを開けて雨の中に飛び出した。雨で髪も服もずぶ濡れになったが、そんなことはどうでもよかった。コートを脱いで彼女の震える肩にかけ、そのまま強く抱き寄せた。「夏美、帰ろう」その瞬間、胸の奥で言葉にできない感情が渦巻いた。そこに金を持ち逃げした美優への絶望と怒りがあった。その一方で、全てを失い莫大な借金を背負うことになった夏美への同情と憐れみもあった。夏美が自分を好きなのは、幼い頃からずっと知っていた。それでも湊は、太陽のように眩しく自分を惹きつけてくれた美優しか見えなかった。夏美は湊にとって、側にいて当たり前の、影のような存在。いてくれることに慣れていても、決して彼女に心を開いたことはなかった。彼女と結婚したのは同情と責任感。それから、美優へのあてつけもあったかもしれない。そして結婚生活も、至って平凡で何の変哲もないものだった。夏美は借金を返すために死に物狂いで働き、極限まで節約を続けた。そんな彼女は愚痴をこぼすことはなく、ただ黙ってすべての苦労を一身に引き受けた。日々痩せ細っていき、疲れ果てた夏美の横顔を見ているうちに、最初は同情と責任感に過ぎなかった感情が、湊の中でいつの間にか形を変えていた。毎日帰宅して夏美の顔を見るのが日課になった。彼女の作る優しい味のご飯、疲れた時に差し出される温かいお茶、言葉がなくとも隣にいてくれる安心感。すべてが当たり前になっていた。そして彼女の
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第13話

それから湊が意識を取り戻したのは、翌日の午後だった。彼は精一杯の力を振り絞って、ゆっくりと頭を回した。香織はすでに目を覚ましており、ベッドで背中を丸めて座っていた。窓の外を見つめる瞳は虚ろで、頬には涙の跡が痛々しく残り、一夜で10歳は老け込んだように見えた。隣では大輔が黙って座り、彼女の手を握りしめている。眉間には深いしわが刻まれ、その目は充血していた。美優もその傍らにいた。そして彼女も青ざめた顔で、俯いたまま、表情が良く見えないでいたのだった。そこで、白衣を着た医師が、看護師を連れて病室に入ってきた。医師は目覚めた一同を見回し、「皆さん、意識は戻られましたか?体調はいかがですか?」と尋ねた。だが、一同は誰も答えなかった。それを見て医師は一呼吸おいて、言葉を続けた。「中村さん、あなたがご親族の代表ですね。できるだけ早く手続きを済ませ、遺体を確認し、後の対応について決めていただく必要があります」すると香織の虚ろだった目が一瞬引きつり、大きな恐怖と現実を受け入れられない驚きが混ざり合い、彼女は震えながら声を上げた。「嘘でしょ……そんな、あり得ない。夏美、私の夏美……今すぐ会わせて!」そう言って彼女は勢いよく布団を払いのけると、ふらつきながらベッドを降りようとした。そんな彼女を見て、慌てた大輔と美優が、懸命に体を支えた。「お母さん!冷静になって!体がまだ回復してないんだから!」と美優が叫ぶ。「放して、夏美に会わせて!そんな嘘、信じられない!」香織は凄まじい形相で激しく抵抗した。一方、湊は黙ってその様子を見つめていた。引き止めもせず、ふらつく足で自分も体を起こすと、枯れた声で告げた。「俺も行きます」それから看護師は無表情のまま、彼らを番号の付いた霊安室の冷蔵ケースの前まで案内した。「こちらです。ご本人かどうか確認してください」そう言って看護師はトレイを引き出した。すると、冷たい白い霧が、あたりに漂った。香織は震える足取りで、一歩ずつ前に出た。そして冷蔵ケースの中に収められた、血の気を失い、目をつぶって痩せこけたその顔を認めた瞬間、彼女は立ち尽くした。それは紛れもない、夏美だった。だが、香織の記憶の中の夏美とは、別人のようだった。かつての夏美は、特別華やかではなかったとしても、穏やかでいつも優
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第14話

その言葉に大輔は激しい衝撃を受け、これまで見て見ぬふりをしていた光景が脳裏に蘇った。日に日に青ざめていく夏美の顔、いつも胃をさすってつらそうにしていた姿。痩せていく体、疲れ切った目。痛みを堪えるような、彼女のふとした表情。それに対して、自分は何をしていた?「再会の記録」を書き、美優と食事やドラマを楽しんでいた。夏美が倒れた時はデートを邪魔されたと責め立てた。最も助けを必要としていた時には、美優の犬の世話を優先して夏美を置き去りにした。「気づいていたのか、俺たちは気づいていたのか……」湊は、途方もない後悔の念に押し潰されそうになりながら、消え入りそうな声で呟いた。すると香織のすすり泣きも、不意に途切れた。香織も思い出していた。誕生日当日、夏美の青白い顔とひっそりとした後ろ姿。当時、彼女のことをただ「生気がない」「不吉だ」と疎んだ。美優のことばかり気にかけて、夏美を「面倒くさい」「気取り屋」だと突き放していた自分がいた。そう思うと、後悔の波が香織を襲い、呼吸すらできなくなるほど涙が溢れ出した。湊は、霊安室の冷たい冷蔵ケースの中で、まるで見知らぬ人のように静まり返った夏美の顔を見つめ、溜め込んできた焦燥感と行き場のない怒りが、ついに限界に達した。彼は激しく泣き崩れる香織に体を向け、絞り出すような怒りと悲しみを露わにして言った。「今さら悲しむなんて、よくそんなことができたな!夏美が生きていた時、あなたは何をしてたんだ?会うたびに罵ってただろ。彼女はバイトで稼いだ金を全部家に送り、食費を削ってまで貢いできたんだ。なのにあなたは感謝の一言でも言ったか?あなたの誕生日、ご馳走が並ぶ中で夏美が食べられるものはあったか?精一杯の贈り物として買ったスカーフ、あなたは次の日にはそれを……犬の首輪に使ったんだろう!!!」その最後の言葉を彼は叫ぶように言い放つと、凍りついた霊安室に絶叫のように響き渡った。そう言われ香織は泣きやみ、涙で顔を濡らしたまま、困惑と驚きで目を丸くした。「スカーフ?犬の首輪?スカーフは家にちゃんとしまってあるはずじゃ……」そう言いかけて、彼女の視線は端に立つ青ざめた美優へと向いた。すると美優は思わず半歩下がり、目を泳がせた。その動揺を見て、さらに美優が抱える犬に目をやった時、かつて見た光景が脳裏をよぎった
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第15話

そして、夏美の葬儀は、どんよりと曇った午前中に行われた。参列者は少なかった。湊と夏美の両親、それに元バイト先の同僚が数人いるだけで、心細くなるほどひっそりとしていた。香織は最初から最後まで泣き崩れ、自力では立つことすらできず、大輔と美優に支えられ、やっと立っている状態だった。彼女は夏美の小さな遺影を見つめ、後悔の涙を流し続けていた。だが、湊だけは驚くほど冷静だった。彼は黒い喪服に身を包み、一番前で黙り込んでいた。そして沈んだ表情で、微笑を浮かべる夏美の遺影を見つめていた。まだ温もりの残る骨壷を抱えると、湊の指先がかすかに震えた。だが、すぐにまた何事もなかったかのような表情に戻った。そして、彼は香織の提案を断り、骨壷を墓地には入れず、自宅に持ち帰った。かつては暖かな雰囲気の家。今では彼にとってただ、冷たくて広がる空間でしかないのだ。湊は小さな骨壷をリビングの一番目立つ棚の上に置いた。隣には二人の結婚写真を並べて。そして、彼は辺りを見回した。家中の至る所に、まだ夏美の面影が残っているように見えた。ベランダには、夏美が丁寧に育てていた観葉植物。今は手入れをする人もなく、少し元気がなかった。キッチンには、彼女が愛用していた猫のマークのマグカップ。ソファには、いつも彼女が被っていた、洗濯で白っぽくなった膝掛け。書斎の棚には、彼女が読んでいた古い料理本が並んでいた。結婚したばかりの頃、夏美は限られた食材で工夫して料理を作り、「いつか自分のキッチンを持てたら、豪勢なフルコースをご馳走するね」と笑っていたのだった。借金を返すためにいくつもの仕事を掛け持ちし、深夜に帰ってそのままソファで眠ってしまった夏美。そっと毛布を掛けてやると、彼女は寝ぼけながら自分の手を掴み、「湊、すぐに返してみせるから。迷惑は掛けないよ」と呟いていたこともあった。胃が痛い時も、夏美は決して辛いと言わなかった。自分に見つかると、無理に笑って、「いつものことだよ、温かいのを飲めば大丈夫」と言った。自分が一度だけ、欲しいと言ったペンを夏美は内緒で貯金をはたいて買うと、大切に包装して手渡してきた。その時の彼女の瞳は、まるで自分の持てる全てを捧げるかのようにキラキラしていた。そして、最期の1ヶ月のこと。湊は自分が顔色の悪い夏美に向かって
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第16話

幸い、香織は輸血により一命を取り留め、一般病棟へ移された。麻酔が切れると、美優はすぐに駆け寄った。「お母さん、目が覚めましたか?気分はどう?」そう言って彼女は心配そうな表情を浮かべてはいるが、その声にはかすかな緊張が混じっていた。香織は、じっと美優を見つめ返した。「美優」そう呟く香織のかすれた声には絞り出すような疲労が滲んでいた。「あなたの血液型の検査結果、看護師に見せてもらったよ」そう言われ美優は体が硬直し、視線を泳がせた。「お母さん、血液型なんて何の意味もないわ。たぶん……たぶん昔の病院が間違えたのか、そうでなければ……」「間違い?」香織は目を閉じ、再び開いた瞳には深い絶望が宿っていた。「一度は間違いだとしても、二度も三度も?昔、あなたを連れ戻したのは、子供の頃の写真と体のあざ、それに育ての人の証言があったからよ。実はその後、検診で結果を見て疑ったこともあったが、あなたの素直な様子を見て、何かの間違いだと自分に言い聞かせてきた。あなたを捨てるような酷いことはできないと思って、自分を騙し続けてきたの」香織が言葉を重ねるたびに、美優の顔色がみるみる青ざめていった。「私はいつも夏美があなたの居場所を奪ったと思い、借りを返そうとしてきた。あなたを甘やかし、何でも与え、夏美を蔑ろにして……傷つけてしまった」香織の濁った瞳から、静かに涙が溢れ出た。「良心に咎められないように、罪を償っているつもりだった」「お母さん、違うの!そんなこと考えないで!」美優はパニックになって香織の手を掴んだ。「私はあなたの娘よ!今まで一緒に暮らしてきた分私たちには固い絆があるはずよ。私が時々ワガママを言うのも、あなたたちを失うのが怖かったから!もしかしたら自分はあなた達の子じゃないとわかった時もすごく怖かったけれど、皆が優しくしてくれるから、その温かさを失いたくなかったの。お姉ちゃんから愛情を奪うつもりじゃなくて、ただ私も愛してほしくて、見てほしかっただけ!」美優は目を真っ赤にして泣き崩れた。知っていたのか。そう言われると香織は力任せに手をすっと引き抜いた。そして美優を見る目には、明らかに拒絶しか残されていなかった。「もう出て行って」香織は顔を背けた。「ここには二度と現れないで」「お母さん?」美優は衝撃を受けたように立ち尽くした。
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第17話

それから家に戻った湊は、激しい窒息感の中で意識を失った。夏美の骨壷の隣に置かれた空の睡眠薬の瓶、テーブルに広げられた後悔と絶望が綴られた遺書、そして最後に結婚写真に向けられたあまりにも苦痛に満ちた眼差しを残して。そして意識の中で、これでやっと夏美に会える。たとえ許されなくても、「ごめん」を言えるだけでもいいと彼はそう思った。だが、予期していた永遠の闇は訪れなかった。それどころか、体が引き裂かれるような感覚の後、湊はカッと目を見開き、荒い息を吐き出した。気づくと、彼は運転席にいた。窓の外は激しい雨で、ワイパーが忙しなく動いているが、前方はほとんど見えなかった。そして、見慣れたはずの街並みが、雨の向こうへ次々と遠ざかっていくのだった。ここは……どこだ?呆然と手元を見ると、ハンドルを握る自分の手は若く、着ている服は3年前によく愛用していたグレーのコートだった。カーナビの表示を見て、湊は動きを止めた。3年前だ。夏美の実家が倒産し、美優が海外へ飛んだ、あの日。夏美を探して車を走らせたあの夕方。時を遡ったのか?そのあまりにあり得ない事実に彼は驚くほど喜び、胸が高鳴った。自分は時を遡っていたのだ。悲劇の始まる前。夏美がまだ生きていて、すべてをやり直せる時間に戻った。大きな期待に胸を躍らせながら、湊はアクセルを踏み込み、記憶の中のバス停へと車を飛ばした。着いた。ここだ。そして雨の向こうに、バス停の下で身を小さく丸める、あの華奢な人影がすぐに見えた。記憶の中と同じ。びしょ濡れになっている。その瞬間湊の胸は熱く切なく締め付けられたかのようになり、目頭が熱くなった。その想いを胸に急ブレーキをかけると、傘を持つ余裕もなく彼は車を飛び出し、冷たい雨の中へ駆け出した。この時たとえ雨で体中ずぶ濡れになっても、彼の目には夏美の姿しか映っていないのだ。「夏美!」と叫ぶと、うずくまっていた背中が動いて、ゆっくりと顔を上げた。夏美だ。本当に夏美だ。あの日の、生きている彼女だ。そう思うと彼は感情を抑えきれず、数歩で走り寄ると、震える腕でずぶ濡れの小さな体を力いっぱい抱きしめた。「夏美」湊は彼女の髪に顔を埋め、震える声で告げた。「見つけたよ。もう怖くない。俺と一緒に帰ろう。家に帰るんだ」だが、腕の中の
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第18話

一方車が走り出し、夏美はふかふかのシートにもたれかかって、小さく息を吐いた。雨に濡れた服が肌にまとわりついて、冷たくて気持ち悪かった。それでも、夏美の心は不思議と穏やかだった。目を閉じると、さっき湊が雨の中を走ってきて、彼女を抱きしめた時のことが脳裏に浮かんだ。その瞳には狂おしいほどの喜びと動揺、そして失ったものを取り戻したという安堵と、また失うことへの恐怖が渦巻いていた。あんな目つき、今の湊がするはずがない。その瞬間、夏美はすべてを悟った。湊も時を遡ったのだ。4ヶ月前。がんの痛みに耐え、死の淵の寒さに凍えて目を覚ますと、夏美は4年前の寮のベッドにいた。窓の外は晴れ渡り、ルームメイトたちはランチの話題で賑やかに笑っているのだった。それを見た彼女は死ぬ直前の幻影を見ているのだと思った。その事実が信じ難く、彼女は何度も自分をつねり、スマホの日付を確認し、図書館で起きるはずでまだ起こっていない事件や報道を調べてみた。そして衝撃を感じながらも、夏美は少しずつこの状況を受け入れた。自分は時を遡り、悲劇の始まりへ戻ってきた。まだ全てを変えられるチャンスはあるのだ。実家はまだ破産しておらず、両親も美優を見つけ出したとはいえ、まだ自分に対してそれほど冷淡ではなかった。湊はまだ、心の中に美優を抱いている近所の男のままだった。今の自分には健康な体と、運命を変える時間がある。そう思って夏美は学業に打ち込み、前世よりも必死に勉学に励んだ。そして、空いた時間は、すべてアルバイトに費やした。元々理数系が得意で言語センスもあった彼女は、すぐに友人の紹介で好条件の家庭教師の仕事を見つけた。裕福な家庭で、受験を控えた男子生徒の数学と物理の補習が必要だった。生徒の名は久保充(くぼ みつる)。今夏美を迎えに来ている運転手・陣内武(じんない たけし)を雇っている家の御曹司である。充の両親は成功した商売人で、いつも海外を飛び回っている。一人息子には期待が大きいが、放任主義だった。充は頭がいいものの反抗期で、成績も安定していなかった。夏美が教え始めた頃、充は完全にやる気をなくしていた。だが、前世で培った根気強さがあった夏美は、無理に厳しくしたり媚びたりせず、複雑な理論をゲームモデルに例えて解説するなど、工夫を凝らした。何度
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第19話

一方、湊はあきらめなかった。最初のおぼろげな記憶が去ると、彼はより一層執着するようになり、自分は、夏美を取り戻さなければならないと思い込むようになったのだった。神が自分たちに時を遡るチャンスをくれたのなら、二度と夏美を失うわけにはいかない、そう堅く決意していた。そして、湊は持てるすべてのコネを使って、狂ったように夏美の行方を探した。ようやく、彼女が充という高校生の家庭教師をしており、久保家に住み込んでいることを突き止めた。これは、前世とまったく違う展開だ。それを知った湊の中で、不安が次第に膨らんでいった。ここに来て夏美も、同じく時を遡ったのだと彼は確信した。だから、自分も前世のように受け身で待っているわけにはいかない。今度こそ自分から動き出し、すべてを変え、そして今の自分の本当の気持ちを伝えるのだ。その日の夕方、湊は夏美の大学で早くから待ち伏せしていた。夏美はこの日講義があると知っていたからだ。講義が終われば、必ず久保家へ向かうだろうと予想していたのだ。そして見慣れた、しかし少し懐かしい姿が目に入ると、湊の胸は高鳴った。夏美は白いTシャツにジーンズというシンプルな服装で、リュックを背負っている。前世の、いつもどこか憂いを帯び、疲れていた彼女とは別人だった。「夏美!」湊はそう呼び掛けて、早足で近づき、夏美の行く手を阻んだ。一方、呼び止められた夏美は足を止め、顔を上げた。湊だとわかっても、彼女は全く驚く様子がなかった。「湊、何か用?」彼女の声は淡々としていた。「少し話をしよう」湊は大きく息を吸い、食い入るように夏美を見つめ、声を落とした。「夏美、お前も時を遡ったんだろう?覚えているだろう?」そう言われ、夏美は冷ややかな目線を彼に向けるだけで、認めることも、否定することもしなかった。しかし、その沈黙こそ湊には同意のように思えた。彼の中で、複雑な感情が湧き上がった。「夏美、やり直せるということだ。前世の俺が悪かった、本当に申し訳なかった。お前を無視したことも、最期にあんな態度を取ったことも。でも今度は違うと誓う。美優とはきっぱり縁を切った。俺はずっと、本当は……」「湊」夏美は湊の熱弁を遮った。「前世のことなんて、もういいの。覚えていようがいまいが、私にとっては意味がないことだから」そう言
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第20話

そして、春先の芽吹きがちらほらと見える頃、試験が終わるチャイムとともに、充の大学入学共通テストと、1年近く続いた夏美の家庭教師の仕事が終わりを迎えた。結果はまだ出ていないが、試験を終えて出てきた充の顔からは余裕が感じられていたから、きっと上手くいったのだろう。久保家の人々は心から喜んでくれた。謝礼として多額のボーナスまで払われ、こちらが申し訳ないくらい感謝された。だが、銀行口座に振り込まれた大金を眺めても、夏美の心は驚くほど冷静だった。彼女はその内の一部を、香織の口座に送金した。これで実家の借金のうち最も差し迫った部分は返せるはずだ。両親も今後追い込まれることがないだろうから、育ての恩返しもできたってわけだ。そう考えると、夏美は今までにないほど気分が晴れやかになった。残りの資金については、既に決めていたことがある。留学することだ。前世の夏美は借金と病気に苦しみ、あの息苦しい関係の中で、どんよりとした世界から這い上がれずにいたのだった。一方、彼女の幸せを奪い取った美優は、自分のお金ではない大金を手にして、海外で悠々自適に暮らしていた。羨ましくなかったと言えば嘘になるし、あの時の羨望には悔しさと悲しみが多く混じっていたように思えた。だから、今世は、自分の力でその景色を見に行こうと思う。学び、歩き、見たことのない景色の中に立ち、自分だけの人生を体験するんだ。そう思って彼女が久保家の方々に留学の意向を伝えると、彼らは驚くほど熱心に応援してくれた。「いいことだね!あなたならどこの学校にでも行けるさ!」と充の母親が夏美の手を握った。「実は、充も留学させようと思ってね。ちょうどいい。二人で一緒に行けば励まし合えるんじゃない?」充の父親も頷いた。「私たちは海外にもある程度のつてはあるから、学校への申請も連絡も、君のために手配しておくよ。これまでの感謝の気持ちだと思って受け取ってくれ」夏美もこれがどれほど大きなチャンスかをよくわかっていた。だから彼女は素直に受け入れ、そして丁寧にお礼を伝えた。そして、彼らの協力のおかげで手続きはあっという間に進み、希望していた大学院への入学許可があっという間に下りた。出発の前日、荷物をまとめるために彼女は学生寮へ立ち寄った。すでにみんな学校を去っていて、部屋はがらんと
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