LOGIN一方、湊はチャペルの脇にある大きなナラの木の幹に背を預けていた。そうでもしないと、崩れ落ちそうな体を支えきれなかったからだ。そして手には、もうくしゃくしゃになった結婚式の招待状が握りしめられている。そこに書かれた二人の名前が、あまりに眩しくて痛かった。夏美、弘樹。本当に彼女だった。この数年、彼は狂ったように夏美を探し回った。しかし彼女はすべてをきれいに捨てて去った。連絡先を変え、国内の友人たちさえ行き先を知る者は少なかった。海外で幸せに暮らしているという噂だけが、かすかに届いた。夏美はまるで消えてしまったかのようだった。あるいは、湊の人生から自分が存在した証を一つ残らず消し去ろうとしたのだろう。それを受け入れられず、湊は立ち直ろうと必死に働いた。そして忙しさで気を紛らわそうとした。けれど静寂が訪れ目を閉じれば、前世で夏美と過ごした記憶がやはり鮮明に蘇るのだ。帰りを待つ瞳、胃痛をこらえた青白い顔、そして最後に冷蔵ケースで見た、あまりにも冷たく痩せ細った彼女の姿。さらには今世のあの雨の夜、夏美が自分を突き放した時の、冷めた瞳までも。彼はこうして二つの時空の記憶に引き裂かれそうになった。罪悪感と後悔が夜通し湊を苛む中、彼が夏美のように新しい人生を歩むことなど、到底できそうになかった。湊の時間は、前世で夏美が亡くなった瞬間に止まってしまったのだ。そんなある日、昔の友人のSNSに、夏美の結婚式に参列するという投稿を見つけた。すると、彼はいてもたってもいられず、すぐさま現地への航空券を取った。道中、頭の中はひどく混乱していた。ただ遠くから姿を見届けるだけだ、と思っていた。夏美が幸せそうなら諦めがつくはずだ、そう自分に言い聞かせていた。けれど実際にチャペルの隅に立ち、まばゆい陽射しの中で白いドレスを身にまとい、別の男性のもとへと歩む夏美を前にすると、すでに麻痺した心がまたズキズキと痛み、息すらできなくなった。こうして式が終わると、湊は足を引きずりながらチャペルを去った。陽射しは刺さるほど眩しいのに、彼は体中が凍えるように冷たく感じた。異国の知らない通りをあてもなく彷徨った。行き交う人々は騒がしく、別の言葉を喋っている。この賑やかさは自分とは無関係で、華やかさがあればあるほど心の荒廃が際立った。
夏美が志望した大学院は、学風が厳しくも自由だった。彼女が選んだ専門は、自分の興味と能力を最大限に活かせる道だった。指導教官は、その分野で高い実績を持ち、厳しくも親身な女性教授だった。そして彼女はすぐに夏美の才能を見抜いた。「御手洗さん、あなたには研究者としての素質があります」とある日のゼミの後、指導教官は夏美を呼び止めて高く評価し、その目は確かな信頼に満ちていた。「あなたの考え方は独創的でありながら、地に足がついています。このまま初心を忘れずに頑張ればきっと素晴らしい結果を得られるはずよ」その言葉は、夏美にとって大きな支えとなった。それから彼女はさらに勉学と研究にのめり込んだ。図書館、ラボ、学生寮を行き来する生活は質素だったが、これまでになく満ち足りた日々だった。こうやって知識で考えを実現できるように構築し、地道な努力で問いの答えを見つけ出す。その達成感が彼女は好きだった。そして深夜、ラボをあとにするときに見上げる異国の星空は、夏美に静かな安らぎをくれた。経済面では、久保家からの援助が幸先良くスタートを切り、奨学金や研究助手の報酬もあった。裕福ではないが、学業に専念するには十分だった。そんな中夏美は、見知らぬこの街の探索を始めた。美術館を巡り、コンサートへ行き、郊外へ散策に出かけた。かつて美優がインスタで見せびらかしていた有名スポットにも行ってみたし、誰もいないような隠れた小径も歩いた。どこまでも広がる海を眺め、潮風に当たりながら、夏美はふと悟った。なぜ前世で、湊が海外で「広い世界を知った」はずの美優に固執したのかを。当時の自分は、貧しさの中にいて、借金を返し、病気と闘うので精一杯だった。自分が決して手に入れられない「自由」と「愛」の象徴だった美優に、湊が惹かれたとしても無理はない。その想いが一瞬過ったが、夏美は首を振って、そんな過去の記憶を頭の中から追い出した。あれはすべて過ぎ去った夢物語なんだから、今の自分には何の関係もない。これからは、自分だけの人生を大切にしていこう。こうして論文、実験、学会に没頭していると、時が矢のように過ぎていった。夏美は修士課程を優秀な成績で終えた。指導教官の強い引き留めと期待を受け、そのまま博士課程へ進み、中枢となる研究チームの一員に加わった。彼女の論文は国際ジャ
そして、春先の芽吹きがちらほらと見える頃、試験が終わるチャイムとともに、充の大学入学共通テストと、1年近く続いた夏美の家庭教師の仕事が終わりを迎えた。結果はまだ出ていないが、試験を終えて出てきた充の顔からは余裕が感じられていたから、きっと上手くいったのだろう。久保家の人々は心から喜んでくれた。謝礼として多額のボーナスまで払われ、こちらが申し訳ないくらい感謝された。だが、銀行口座に振り込まれた大金を眺めても、夏美の心は驚くほど冷静だった。彼女はその内の一部を、香織の口座に送金した。これで実家の借金のうち最も差し迫った部分は返せるはずだ。両親も今後追い込まれることがないだろうから、育ての恩返しもできたってわけだ。そう考えると、夏美は今までにないほど気分が晴れやかになった。残りの資金については、既に決めていたことがある。留学することだ。前世の夏美は借金と病気に苦しみ、あの息苦しい関係の中で、どんよりとした世界から這い上がれずにいたのだった。一方、彼女の幸せを奪い取った美優は、自分のお金ではない大金を手にして、海外で悠々自適に暮らしていた。羨ましくなかったと言えば嘘になるし、あの時の羨望には悔しさと悲しみが多く混じっていたように思えた。だから、今世は、自分の力でその景色を見に行こうと思う。学び、歩き、見たことのない景色の中に立ち、自分だけの人生を体験するんだ。そう思って彼女が久保家の方々に留学の意向を伝えると、彼らは驚くほど熱心に応援してくれた。「いいことだね!あなたならどこの学校にでも行けるさ!」と充の母親が夏美の手を握った。「実は、充も留学させようと思ってね。ちょうどいい。二人で一緒に行けば励まし合えるんじゃない?」充の父親も頷いた。「私たちは海外にもある程度のつてはあるから、学校への申請も連絡も、君のために手配しておくよ。これまでの感謝の気持ちだと思って受け取ってくれ」夏美もこれがどれほど大きなチャンスかをよくわかっていた。だから彼女は素直に受け入れ、そして丁寧にお礼を伝えた。そして、彼らの協力のおかげで手続きはあっという間に進み、希望していた大学院への入学許可があっという間に下りた。出発の前日、荷物をまとめるために彼女は学生寮へ立ち寄った。すでにみんな学校を去っていて、部屋はがらんと
一方、湊はあきらめなかった。最初のおぼろげな記憶が去ると、彼はより一層執着するようになり、自分は、夏美を取り戻さなければならないと思い込むようになったのだった。神が自分たちに時を遡るチャンスをくれたのなら、二度と夏美を失うわけにはいかない、そう堅く決意していた。そして、湊は持てるすべてのコネを使って、狂ったように夏美の行方を探した。ようやく、彼女が充という高校生の家庭教師をしており、久保家に住み込んでいることを突き止めた。これは、前世とまったく違う展開だ。それを知った湊の中で、不安が次第に膨らんでいった。ここに来て夏美も、同じく時を遡ったのだと彼は確信した。だから、自分も前世のように受け身で待っているわけにはいかない。今度こそ自分から動き出し、すべてを変え、そして今の自分の本当の気持ちを伝えるのだ。その日の夕方、湊は夏美の大学で早くから待ち伏せしていた。夏美はこの日講義があると知っていたからだ。講義が終われば、必ず久保家へ向かうだろうと予想していたのだ。そして見慣れた、しかし少し懐かしい姿が目に入ると、湊の胸は高鳴った。夏美は白いTシャツにジーンズというシンプルな服装で、リュックを背負っている。前世の、いつもどこか憂いを帯び、疲れていた彼女とは別人だった。「夏美!」湊はそう呼び掛けて、早足で近づき、夏美の行く手を阻んだ。一方、呼び止められた夏美は足を止め、顔を上げた。湊だとわかっても、彼女は全く驚く様子がなかった。「湊、何か用?」彼女の声は淡々としていた。「少し話をしよう」湊は大きく息を吸い、食い入るように夏美を見つめ、声を落とした。「夏美、お前も時を遡ったんだろう?覚えているだろう?」そう言われ、夏美は冷ややかな目線を彼に向けるだけで、認めることも、否定することもしなかった。しかし、その沈黙こそ湊には同意のように思えた。彼の中で、複雑な感情が湧き上がった。「夏美、やり直せるということだ。前世の俺が悪かった、本当に申し訳なかった。お前を無視したことも、最期にあんな態度を取ったことも。でも今度は違うと誓う。美優とはきっぱり縁を切った。俺はずっと、本当は……」「湊」夏美は湊の熱弁を遮った。「前世のことなんて、もういいの。覚えていようがいまいが、私にとっては意味がないことだから」そう言
一方車が走り出し、夏美はふかふかのシートにもたれかかって、小さく息を吐いた。雨に濡れた服が肌にまとわりついて、冷たくて気持ち悪かった。それでも、夏美の心は不思議と穏やかだった。目を閉じると、さっき湊が雨の中を走ってきて、彼女を抱きしめた時のことが脳裏に浮かんだ。その瞳には狂おしいほどの喜びと動揺、そして失ったものを取り戻したという安堵と、また失うことへの恐怖が渦巻いていた。あんな目つき、今の湊がするはずがない。その瞬間、夏美はすべてを悟った。湊も時を遡ったのだ。4ヶ月前。がんの痛みに耐え、死の淵の寒さに凍えて目を覚ますと、夏美は4年前の寮のベッドにいた。窓の外は晴れ渡り、ルームメイトたちはランチの話題で賑やかに笑っているのだった。それを見た彼女は死ぬ直前の幻影を見ているのだと思った。その事実が信じ難く、彼女は何度も自分をつねり、スマホの日付を確認し、図書館で起きるはずでまだ起こっていない事件や報道を調べてみた。そして衝撃を感じながらも、夏美は少しずつこの状況を受け入れた。自分は時を遡り、悲劇の始まりへ戻ってきた。まだ全てを変えられるチャンスはあるのだ。実家はまだ破産しておらず、両親も美優を見つけ出したとはいえ、まだ自分に対してそれほど冷淡ではなかった。湊はまだ、心の中に美優を抱いている近所の男のままだった。今の自分には健康な体と、運命を変える時間がある。そう思って夏美は学業に打ち込み、前世よりも必死に勉学に励んだ。そして、空いた時間は、すべてアルバイトに費やした。元々理数系が得意で言語センスもあった彼女は、すぐに友人の紹介で好条件の家庭教師の仕事を見つけた。裕福な家庭で、受験を控えた男子生徒の数学と物理の補習が必要だった。生徒の名は久保充(くぼ みつる)。今夏美を迎えに来ている運転手・陣内武(じんない たけし)を雇っている家の御曹司である。充の両親は成功した商売人で、いつも海外を飛び回っている。一人息子には期待が大きいが、放任主義だった。充は頭がいいものの反抗期で、成績も安定していなかった。夏美が教え始めた頃、充は完全にやる気をなくしていた。だが、前世で培った根気強さがあった夏美は、無理に厳しくしたり媚びたりせず、複雑な理論をゲームモデルに例えて解説するなど、工夫を凝らした。何度
それから家に戻った湊は、激しい窒息感の中で意識を失った。夏美の骨壷の隣に置かれた空の睡眠薬の瓶、テーブルに広げられた後悔と絶望が綴られた遺書、そして最後に結婚写真に向けられたあまりにも苦痛に満ちた眼差しを残して。そして意識の中で、これでやっと夏美に会える。たとえ許されなくても、「ごめん」を言えるだけでもいいと彼はそう思った。だが、予期していた永遠の闇は訪れなかった。それどころか、体が引き裂かれるような感覚の後、湊はカッと目を見開き、荒い息を吐き出した。気づくと、彼は運転席にいた。窓の外は激しい雨で、ワイパーが忙しなく動いているが、前方はほとんど見えなかった。そして、見慣れたはずの街並みが、雨の向こうへ次々と遠ざかっていくのだった。ここは……どこだ?呆然と手元を見ると、ハンドルを握る自分の手は若く、着ている服は3年前によく愛用していたグレーのコートだった。カーナビの表示を見て、湊は動きを止めた。3年前だ。夏美の実家が倒産し、美優が海外へ飛んだ、あの日。夏美を探して車を走らせたあの夕方。時を遡ったのか?そのあまりにあり得ない事実に彼は驚くほど喜び、胸が高鳴った。自分は時を遡っていたのだ。悲劇の始まる前。夏美がまだ生きていて、すべてをやり直せる時間に戻った。大きな期待に胸を躍らせながら、湊はアクセルを踏み込み、記憶の中のバス停へと車を飛ばした。着いた。ここだ。そして雨の向こうに、バス停の下で身を小さく丸める、あの華奢な人影がすぐに見えた。記憶の中と同じ。びしょ濡れになっている。その瞬間湊の胸は熱く切なく締め付けられたかのようになり、目頭が熱くなった。その想いを胸に急ブレーキをかけると、傘を持つ余裕もなく彼は車を飛び出し、冷たい雨の中へ駆け出した。この時たとえ雨で体中ずぶ濡れになっても、彼の目には夏美の姿しか映っていないのだ。「夏美!」と叫ぶと、うずくまっていた背中が動いて、ゆっくりと顔を上げた。夏美だ。本当に夏美だ。あの日の、生きている彼女だ。そう思うと彼は感情を抑えきれず、数歩で走り寄ると、震える腕でずぶ濡れの小さな体を力いっぱい抱きしめた。「夏美」湊は彼女の髪に顔を埋め、震える声で告げた。「見つけたよ。もう怖くない。俺と一緒に帰ろう。家に帰るんだ」だが、腕の中の