All Chapters of 全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話:揃う

日曜日の午前中。今日はたまたま翌日で手配ができた、家具のトラックを待っていた。トラックの停まる音が外で聞こえる。1台じゃなくて、何台も来ている。インターホンが鳴る。開けて、中に運んでもらって受け取る。また鳴っては、その繰り返し。「……一気に来すぎ」小さく呟く。ベッドにテーブル、そして椅子。段ボールが一気に増えていく。部屋の空気が、昨日と変わる。昼前になってから、やっと少し落ち着く。最低限、動ける状態にはなった。でも、まだ整ってはいない。椅子の箱を開ける。説明書とネジを出して、組み立てる。途中で止まる。「……合わない」何度やっても、ズレる。上手くはまらなくて、やり直す。でも、違う。「……」少しだけ苛立つ。そのときに、スマホが鳴る。...浅井さん。明日どうせ会うのに、なんだろうと思いながらも出る。「はい」『今日、家具?』外の音を拾っているみたいに。「はい」「一気に来ちゃって」『組み立て?』「……ちょっと苦戦してます」正直に言うと、短い沈黙。『何に』「椅子です」『背もたれ、上下逆だったりしない?』「……」一瞬、手が止まる。なんで分かるの。見えてるわけじゃないのに。反射的に、パーツを見る。「……あ」確かに。逆。「……ほんとだ」『よくあることだから。多分すぐ終わるよ』淡々と。「……ありがとうございます」電話を一旦切って、言われた通りにやる。綺麗に組み立てられた。「……できた」小さく息を吐く。気づいた時には、午後になっていた。部屋が少し整う。完全じゃないけど。生活はできるし、今の自分には十分だ。本当は観葉植物とか。好きな家電とか。少しずつ買ったり、揃えたりしたいけれども。そもそも、あひるの市に引っ越す未来が想像できなかったから。今は、最低限でいい。早速、椅子に座ってパソコンを開く。少しだけ、仕事に戻ることにした。データを再度整理して、関連会社の資料に目を通しつつ。助成金の流れを見る。昨日の続き。「……」違和感は消えなくて、むしろ、強くなる。時系列や、役所の動き。企業の数字。「……なんかおかしい」小さく呟く。まだ仮説段階でしかないが、違和感がある部分が更に出てきた。これ、私の考えてること、合ってるのかな。浅井さんと、確かめたい。無意識
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第22話:線

そのまま月曜日を迎えて、朝。徒歩で出社。もう慣れた、少し寂れた印象のあるドアを開ける。空気はいつも通り。でも、少しだけ違って見える。昨日までの積み重ねのせいだと思う。少しだけ、慣れてきてルーティンができている事に気づく。自席について、コーヒー片手にパソコンを開く。昨日浅井さんと話していたデータにすぐアクセスする。TK関連。助成金。時系列。「……」線になってきている。ただの違和感じゃなくて、全部繋がっている。「伊藤さん」佐藤さんの声。「おはようございます」「おはようございます」「家具、買えました?」「はい、最低限は」「よかったです」軽く頷いて、少し間。少し真面目な顔になる。「その気じゃなくてもいいんで」「職場の交流ってことで、飲み会やるんです」「木曜日、来ません?」「田中さんとか山川さんも来るので」逃げにくい誘い方。でも、嫌じゃない。自分がこの支社の1人として、慣れ始めている事に実感する。つい最近まで、東京にいたのだから。人生、本当に何があるかわからないものだ。「……分かりました、行きます」自然に答える。「よかった」少しだけ笑う。「伊藤」低い声。振り向くと、浅井さん。「会議室来て」「はい」会議室について、ドアが閉まる。「続き」それだけ言われて、すぐにデータを見せる。流れ。違和感。繋がり。全てを説明した。浅井さんは必要なところだけ拾う。「そこ、いい」「そのまま進めて」短くて、正確に。画面をスクロールする。手が止まる。「……ここ」「この資金の流れ」「同じ企業、何度も通ってます」浅井さんが頷く。「TK」「……やっぱり」確信に近づく。「似たような動き、前にも違う案件であった」静かに言う。「……え?」「本社のときに」それ以上は言わない。空気が少し変わる。「そのときも、数字は綺麗だった」「現場と合ってなかった」「今と同じ感じで」淡々と。でも重い内容だと察する。「その案件、どうなったんですか」自然に聞いてみた。同じような事象が起きているだけでも、不吉な予感がするのに。私は、恋人と友人を失い、急に左遷とも言える異動があって。同じようなことがあったのだろうか。気になって聞いてしまった。少しだけ沈黙。「潰された」短く。「……誰が」踏み込
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第23話:再会

水曜日は、久しぶりに東京に戻ってきた。朝早くに帰ってきて、久しぶりの空気を感じた。人の多さや、音の多さ。「ああ、戻ってきたんだな」そう思う。でも。懐かしさより先に、少しだけ違和感がある。前と同じ場所なのに。前と同じじゃない。本社のエントランスを抜ける。視線が集まる。「え、誰?」小さな声。「……伊藤さん?」「雰囲気変わってない?」前の部署を通るだけで、周りが少しざわつく。無視しながら、そのまま歩く。服は、前みたいに地味じゃない。もう、隠す必要がないと思ったから。髪も、いつもより整えている。それだけなのに。たったそれだけで、こんなに周りの反応が変わる。「……」少しだけ、苦笑する。会社でこんなに自分に対して視線が集まったこと、あの婚約発表くらいだったかな。見られる仕事をしていたのに。相変わらず、自分は人に注目されるのが嫌いである事に気づく。フロアに入って、懐かしい配置のフリースペースで座る。少し、周りとの距離を感じる。そのとき。視線がぶつかる。樹。一瞬だけ、時間が止まる。でも、樹の表情は変わらない。すぐに、いつもの顔に戻る。「……久しぶり」軽く言う。何もなかったみたいに。「……うん」短く返す。樹の視線が動く。髪。服。全体をなぞるみたいに。私をまっすぐに見る目線。少しだけ、熱が入った視線は変わらない。「髪、変えた?」少し笑う。「失恋したから?」...軽い言い方で、冗談のつもりなのだろうか。私は、まだとても笑える状況にないし。冗談だとしても、笑えるわけがない。でも。ふと目線を合わせると、少しだけいつもより冷ややかな表情で。言葉に、どこかに棘がある事に気がついた。「……」一瞬、胸の奥が揺れる。でも、表情は変えない。「プライベートなことなので」短く返す。本当に、それだけ。樹が少しだけ止まる。ほんの一瞬だけ、言葉を探すみたいに。でも、すぐに戻る。「そっか」軽く流す。「...じゃあ、また」それだけ言って、すぐにその場を離れる。周りの視線も集まっていたし。公開婚約をした手前、下手に私と交流ができないのは明らかだ。みゆが、私と樹の関係を周りに話していたことも。自分たちの婚約発表前に、私が下手なことを言わないように。しっかりと、偽りの証拠をSNSに流して
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第24話:温度差

その日の夜に、よく2人で訪れていたカフェでみゆと会う。駅から少し離れた場所で。落ち着いた灯りに、落ち着いた雰囲気で。...前はよく、ここでみゆの失恋話とか聞いてたんだっけ。親友だった彼女に裏切られた今の状況が、まだ夢のように感じられて。ふと、以前の距離が懐かしくなってしまう。このカフェは人はいるのに、やけに静かに感じる。先に着いて、見慣れた席にいつも通り座る。水のグラスに触れると、少し冷たい。そのまま1人、窓の外を見つめる。...このまま、みゆが来なくても。私はもう驚かないだろうな。変わってしまったのだ、それほどまでに私たちの関係は。「愛海!」ふと、そんな時に聞き覚えのある声がした。顔を上げる。みゆ。軽く、手を振っている。しかも、笑顔で。その笑顔は、昔と同じように見えた。「……久しぶり」立ち上がる。「ほんと久しぶり!」そのまま隣に座る。...距離が近い。あんなことがあったのに、変わらない距離感。「元気だった?」「……元気だと思う?」はっきりと、目を見て返す。すると、みゆが少しだけ息を吐いて視線を逸らす。でも、笑顔のままで。一息つくと、少しだけ真剣な目になり視線を合わせ直した。「ちゃんと話したいことがあって」「……何?」「樹のこと」迷いなく言う。「……」逃げ場がなくなる。最初から、逃げるつもりはなかったけれども。直接、みゆから説明を聞くのが怖い。認めたくなかったから、今日この瞬間まで。親友だったみゆ。なんでも相談できた仲だったみゆが。証拠まででっち上げて、私を二股相手に仕立て上げて。私の元恋人と、婚約までしているのだから。言葉を選べずにいると、左手の婚約指輪に目が行く。視線を落とした私に対して、察するかのようにみゆは言う。「私、何も考えてなかったわけじゃないよ」「……」「分かってるでしょ、私が何も考えずにこんなことしないって。」少し含みを持たせた言い方が気にかかる。「……何が」「愛海は、私の行動が愛海にとってどういうことか...私が理解した上でやったことをわかってるはず。」「……」分かってる。みゆは後先考えないところもある。その明るい性格と、少し適当で大胆な行動を取る癖があるのは、誰よりも近くで見てきた。でも、知っている。彼女は、考えなしには行動しないことぐら
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第25話:並ぶ

本社の外の近くに戻る、夕方。東京に、私の家はもうない。新しい家に引っ越すと同時に、一気に手放した前の家。そもそも、今年は結婚する予定だったから。更新のタイミングに、出ていく予定ではあった訳だし。家自体に、未練はない。ただ、出て行くタイミングが早まっただけ。ふと、そんなことを考えながらホテルに戻る道を歩く。人の流れが少しずつ落ち着いていく時間。ふらっと、どこにも寄らずに帰ろうと。歩き出した瞬間だった。「愛海」誰かと、聞かなくてもわかる。馴染みのありすぎる声。止まって、振り向く。一呼吸置いてから。樹。「……何?」距離を少しだけ取る。半歩、そのまま後ろに下がる。「みゆと会ったって聞いたから」言葉を選んでいる。「何、聞いた」その目には少し不安が宿る。だが、私はこの場で足を止めるつもりはない。「……特に、何も」「何話した」「関係ないでしょ」少し強く返す。感情的に、なるつもりはなかったのに。かろうじて、冷静を装いながら。遠くを見つめる、帰りたい雰囲気を醸し出しながら。樹が一瞬止まる。「……関係なくはない」「でも、なんか、あるだろ」ボソ、っとつぶやくように言われる。会話が続かない。「……何?」痺れを切らす。早く、この場を離れないといけない。私のそんな面倒そうな態度が気に障ったのか。「お前さ」少しだけ、声が荒くなる。「なんでそんなに冷静なんだよ」「……は?」想定外の言葉が、降ってきた。「普通、もっと怒るだろ」「……」言葉が、詰まる。「何も言わないし」「何も聞かないし」「……」「それでいいのかよ」「……」胸の奥が揺れる。樹は、私に何を期待しているのだろう。捨てられた後悔?選ばれなかった嫉妬?急に別れたこと?あるよ、たくさん言いたかったこと。前会った時に言わなくて後悔したことも、たくさんある。でも、それらの言葉になんの意味はなくて。全て、後の祭りだ。この場を終わらせたい気持ちもある。でも、こんな身勝手な態度を取られて。私も、ただ黙っていられない。「じゃあ何?」「どうすればよかったの?」空気が張る。「……」「何も言わないで消えたの、そっちでしょ」樹が言葉を失う。さっきまで、表に出さない言葉を引き出そうとしてたくせに。なんで急に、黙るの?「……」「ちゃん
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第26話:一緒に

次の日の夜。あひるの市に戻った。浅井さんは、本社で急な調整案件が出たとのことで。明日の午前中に帰ってくるとのこと。...あえて、社内チャットで送られてきた。わざわざ連絡くれるのが、あの人らしい。心配してくれているのだと思った。でも、この街に戻ること自体、だいぶ慣れてきた気がする。たった数週間だというのに、人は思ったよりも環境に適応できると学んだ。ガヤガヤとした人混みがなく、この街は静か。あるものと言えば、住宅街を除くと畑、川、そしてハイキングができるような山。地方復興支援の一環で、役所が力を入れているせいか。最近は移住者が増えているというのは、引っ越してから知った。東京とは違う、音の少ない夜。部屋に戻り、鍵を閉める。靴を脱ぐ。そのまま、少しだけ立ち止まる。「……」昨日のことが、まだ残っている。樹。みゆ。そして。「一緒にいるから」その言葉。ソファに座る。深く息を吐く。戻れない。もう、戻らない。私は、自分が何巻き込まれたのか?この街で、調べるしかないのだ。あの日から、ずっと調べていてわかったことがある。改竄されているデータの一部がこの街の事業者に繋がっていた。偶然なのか、必然なのか。わかることとしては、上層部は私の異動は安全策と考えているということ。1社員が、あひるの支社で集められる情報は限られている。面倒な社員が送られても、何か大きな問題を起こす可能性は低い。そう考えられているのは、明確だ。だからこそ。「……やるしかない」小さく呟く。** そして、次の日の昼。いつも通り、作業をして。少しずつ回すことになった、あひるの市関連のプロジェクトに手をつける。お昼近くに、帰ってくるって言ってたな。...ふと、浅井さんのことを考える。そのタイミングで「伊藤」低い声がして、振り向く。....浅井さん。「戻られたんですね」「会議室来て」「はい」会議室につき、ドアが閉まる。資料を広げる。「整理しよう」「はい」淡々と進む。TK。助成金。そしてそこまでの流れ。「ここまでは確定」「はい」「グレーがここ」まだ証拠にならない部分を指す。いくつか不明点が残る。だからこそ、業者に訪れて、直接調べなければならない。「現場もう一回見ます」自然に言う。浅井さんが頷く。「わかった」
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第27話:居酒屋

木曜日の夜。あひるの市内の、とある居酒屋。地元の農家と連携しているらしく。野菜が美味しいと有名で、観光に来た人たちもよく訪れる場所。...そういえば、好きなお店とか。こっちに来てから、考えたことなかったな。ぼんやり考える。「こっちです!」佐藤に案内された。今日は結局、浅井さんが来ることもあって。最終的に参加することになったのは、25人くらいと聞いた。他部署の見かけない人も、顔を出していて。テーブル席でフロアを貸し切る形になっていた。すでに何人か集まっている。「伊藤さん!」「待ってました!」空気が一気に明るくなる。「今日は歓迎会なんで!」佐藤が声を張る。「主役ですから!」「……よろしくお願いします」短く返す。ここで初めましての人とも挨拶。挨拶と軽い会話繰り返しているうちに。大体の人数が集まってきた。「かんぱーい!」グラスがぶつかる。みんな少しずつ飲み始めて。気分が楽になり、会話が広がる。「東京どうでした?」「やっぱ違います?」質問が飛ぶ。特に、私宛ての質問が多い。過去にも、支社に来た人がいて。その人たちは大体3年くらいで本社に帰っているという。...私の任期は、どれくらいになるのだろう。ふと、頭によぎる。「伊藤さん、乾杯しましょう!」次々と、人が集まっては挨拶してくれる。私の周りは、小さいグループが出来ていて。お酒があることもあり、不思議と居心地は悪くなかった。「今日、人が多いですね」「ですよねー!」笑いが起きる。「お酒色々いけますか?」男性社員の一人が聞く。「はい、飲めます」「じゃあこれ」すぐに注がれる。「ありがとうございます」受け取る。「これもどうぞ」別の人がさらに注ぐ。「あ、もう大丈夫で...」ペースがちょっと早すぎるかも。と、言いかけたとき。階段を上がる音が聞こえて。「……来た」誰かが小さく言う。振り向く。...浅井さん。一瞬で空気が変わる。「ほんとに来た」「珍しくない?」「一回も歓迎会とか来たことなくない?」女性の声が少し上がる。浅井さんは変わらない。「お疲れ」それだけ。席に近づく。視線が集まる。自然と。私の隣が空く。そして、そのまま座る。...距離が近い。「……」「来たんですね」小さく言う。「言ったで
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第28話:未練

あの、飲み会から数日後。浅井さんの冗談が、頭のなかでたまにフラッシュバックする。否定しなかったら、どうなってたのだろう。...なんて。樹と別れて、自分が恋愛を始めるかもしれない可能性があることを。一ミリも想像していなかったから。...あれは、浅井さんが素敵な人じゃない、とかではなく。今の自分が恋愛に戻る準備ができていないという意味で。色んな言葉が頭を巡る。数字が、頭に入ってこない。視線は画面にあるのに、思考が別の場所にある。浅井さんのことを考えると、同時に思い出す。樹。あの夜の、歪んだ表情。言いかけて、飲み込んだ言葉。「……」あれは、ただの未練じゃない。何かを隠している人の顔だった。そのとき。「伊藤さん」田中さん。「外にさ」少し声を落とす。「なんか、イケメンが呼んでる」「……」嫌な予感がする。イケメンという表記にこの支社で呼ばれるのは、浅井さんくらいだ。このあひるの支社に来て。しかも私を呼び出す人なんて、限られている。立ち上がって、外に出る。駐車場に近い、入り口から少し離れていたところ。...いた。やっぱり、樹だ。スーツ姿。この場所に、あまりにも似合わない。綺麗なブランドもののスーツで。髪も綺麗に整えられていて。視線がぶつかる。一瞬だけ。樹の目が揺れる。そして。周囲を確認する。警戒している。「何しに来たの」「出張」そう言い放つ。無視する間もなく、プロジェクト関連で来たという。偶然なのか...それとも。考えを巡らせると同時に。「……今日、あの上司は?」低く、探るように。唐突に聞いてきた。「……浅井さん?」「……」小さく頷く。「今日は役所に行ってる」短く答える。「……そう」ほんのわずかに、緊張がほどける。(なんでそこ確認するの)違和感が残る。「……何か用?」「出張だし」「……なんで?」「頼まれてる」「……誰に」少しだけ間。「上層部に頼まれた調査で」「……」繋がる。点と点が。「……ここの役所に関連すること?」「……」否定しない。それが答え。「……」やっぱり。同じ線の上にいる。「……何しに来たの」「……」「仕事だけ?」一歩踏み込む。「それとも」「……愛海に」遮られる。その呼び方。一瞬、胸が揺れる。「……
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第29話:報告

その日の夕方。幸いにも、樹は日帰りだったとのことで。そのまま、業務連携会社の担当者との打ち合わせをしている間。彼はオフィスを去っていた。その事実にホッとしたのも束の間。心を落ち着かせることができず、仕事に集中する。忙しいことが、今の状況では救いになった。ふと、手を止め。休憩室の前を通りかかる。「ねえ見た?」小さな声。「駐車場近くで」「伊藤さん」足が止まる。「イケメンと」「抱き合ってたらしい」「うそでしょ」「こないだ彼氏いないって言ってなかったっけ?」「えー、隠してたのかな」「本社から来てる人っぽかったけど」「そうじゃない?向こうの人と別れてなかったとか?」噂の対象が自分であることがわかり、軽く笑う。その相手が、本社で私となんの関係もないと宣言していただけに。なんだか、あまりにも言ってることとやっていることが違っていて。思わず笑ってしまう。「……」息が詰まる。(違うよ、あの人は私にはなんの関係もない人で)そう伝えたい、でも。否定できない形で見られている。そのまま、聞かなかったことにして通り過ぎる。席に戻る。「……」何もなかった顔を作る。できているかは分からない。「伊藤」声。浅井さん。「会議室」「……はい」逃げられない。報告しないといけないことがある。言いたくない。でも。「……」会議室。ドアが閉まる。「いうことある?」端的に言われる。最初は、樹とのことについてかと思い、思わずドキッとした。けど、すぐに現場確認の件だとわかり、気を引き締め直す。「……はい」資料を開く。「現場確認ですが」声が少し硬い。「TKと役所の接点は一致していて」「……」説明を進める。でも。止まる。残っている。「……」浅井さんが視線を上げる。「それで?」「他にないの」短い。逃げ道はない。私をまっすぐに見て。まるで見透かすかのような目で。「本部からの出張履歴の承認作業で」「高山樹、って名前があったけど」「……」「……樹が来てました」空気が変わる。でも。表情は変わらない。「上層部からの依頼で、調査が必要な出張で」「役所関連の確認で」「……」浅井さんが少し考える。「高山は」そこで言う。「個人的に伊藤に目的があったんじゃないの?」「……」否定できな
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第30話:静かな圧

樹が来た日から、2週間が過ぎた。「伊藤さん、おはようございます!」前よりも、声をかけられる回数が増えた。最初は“外から来た人”。今は、ちゃんと“中の人”になり始めている。「今日、午後空いてます?」佐藤さんは、相変わらずいつでも私を何かに誘ってくれる。最初は下心をなんとなく感じていたが、最近は誘うのが癖のような。そんな軽い感じで、友だちのような感じで誘われるから。段々と、この距離感に慣れてきた。「畑、みんなで行くんですけど」「そのあと今度バーベキューもやろうって話で」「田中さんも山川さんも来ますし」「どうですか?」まだ川に誘ったことないですよね?と、軽く付け足される。まだちょっとだけ慣れないが、そんな誘いが自然に出てくる距離。違和感が減ってきて、段々とコミュニティに溶け込めている気がする。「……いいですね」「でしょ!」笑う。そのやり取り。少し離れたところで見ている視線を感じる。「……ねえ」その会話の輪に入っていた、山川さんが小さく言う。「浅井さん、最近わかりやすくない?」「……わかる」田中さんも、頷く。「仕事って言ってるけど」「大体、伊藤さんの外出は同行だし」「呼ぶタイミングもおかしいし」「……会話、切るよね」くすっと笑う。「完全に囲ってる」「……」その視線の先。...浅井さん。いつも通りの距離はあの日以来、保てているはず。でも。「伊藤」呼ばれる。いつも、絶妙なタイミングで。佐藤さんの話が、ちょうど盛り上がりそうな瞬間。「これ、確認」自然に会話が切れる。「……はい」資料を受け取る。(今の)タイミングが。「……」意図的に見える。昼。「午後、現場来て」「私もですか?」「行くでしょ」「でも、午後イチの資料が」「伊藤の案件に一番関係あるから来て」即答。迷いがない。「……」(やっぱり一緒)当たり前みたいに。現場。畑。土の匂い。「伊藤さん、慣れてきたね」「そうですか?」笑いながら返す。「今週の土曜日バーベキューやるから来なよ」別の人からも、声をかけられる。この街では、収穫後のバーベキューが休日の過ごし方のひとつとして人気で。私はようやくお誘いを受けられるほど、この街に慣れたことを示すらしい。...実感はまだあまりないけれども。違和感がな
last updateLast Updated : 2026-05-03
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