All Chapters of 全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話:仮説

外に出ると、浅井さんは何も言わずに歩き出した。置いていかれるほど速くはない。でも、並べとも言わない。その距離が、少しだけ楽だった。ビルの裏手に出ると、人通りはまばらになる。「さっきの続きだけど」浅井さんが言う。「伊藤が気にしてたこと」「……はい」「今の時点で全部は分からない」あっさりとした口調。「ただ、仮説はある」仮説。その言葉に、自然と背筋が伸びる。「聞きたいです」少し歩いた先で、浅井さんは足を止めた。「まず前提」振り返らずに言う。「今回の。データの改竄も含めて、伊藤の異動処理は早すぎる」「……私もそう思います」「理由は?」試されている。そう感じた。でも、不思議と嫌ではない。「準備されていたように見えました」言葉を選びながら続ける。「後任も、席も、全部」「発表のあとに決めたというより、前から決まっていた感じがします」「だから私的関係は理由じゃなくて、使われた」浅井さんが小さく頷く。「そうだと思う」短い一言。それだけで十分だった。「伊藤のレポートは、前から見てる」不意に言われて、少しだけ驚く。「……見てたんですか」「本社の週次と、プロジェクトの分析資料。あひるのに関連する内容も、たまたま多かった」淡々と続ける。「伊藤の資料は、数字の拾い方が正確すぎる」視線は前のまま。「都合よく読まないし、ズレをそのまま出す」「……普通だと思ってました」「普通じゃない」即答だった。「会社で評価されるのは、使いやすい数字だから」その言葉に、少しだけ苦くなる。「伊藤のは、使いにくい」「だから価値があるはずなんだよ、本来は」その言い方が、この人らしい。褒めているのに、温度は低い。でも、誤魔化していない。「……ありがとうございます」少しだけ視線を落として言う。「で」浅井さんはすぐに戻る。「伊藤が異動しなければいけなかった理由」「……分析ですか」「可能性は高い」断定しない。でも外さない。「数字の“使い方”と、本社が求めている方向性が合わなかったんだと思う」昨日の言葉が浮かぶ。バランス。タイミング。調整。——繋がる。「樹も...似たことを言ってました」「だろうね」浅井さんは驚かない。「彼は何か知ってますよね」「知ってる側だと思う」その一言が、少しだけ重い
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第12話:あひるの市

今日は、週の後半の平日。異動になったし特に会社による必要がないので、あひるの市に訪れた。そもそも、週の前半にいろんなことがありすぎた。付き合っていると思っていた彼氏が、自分の親友と婚約発表をするなんて。まだ、夢でも見ている気分。現実として受け止めるには、少し時間がかかりそうだ。そんななか、異動がすぐと言うこともあり、ちょっとだけ前に進むべく移動先に訪れることにした。早めにあひるの市に来たのは浅井さんに準備を進めるよう、急かされたこともあるが。電車を降りた瞬間、空気が違った。ホームは静かで、広告も少ない。駅前に出ると、背の低い建物と、遠くに見える山の稜線。人の流れも、東京みたいに途切れないわけじゃない。——車がないと厳しそう。そう思いながら、タクシーに乗る。運転手にホテルの名前を告げると、ああ、とすぐに頷かれた。「出張ですか?」「はい、しばらく滞在します」「この辺りは車ないと不便だからねえ」やっぱり、そういう場所らしい。窓の外を流れる景色を見ながら、少しだけ現実味が出てくる。——本当に来たんだ。あひるの市。駅近くだが少し離れたホテルに着いて、チェックインを済ませる。部屋はシンプルだけど、清潔で、静かだ。スーツケースを置いて、ベッドに腰を下ろす。一瞬、力が抜ける。何もかも急すぎて、まだどこか現実感が薄い。でも。止まっていると、考えてしまう。だから、立ち上がる。——やること、やらないと。フロントで教えてもらった近くの不動産屋に向かう。駅前から少し離れた通りにある、小さな店舗だった。ドアを開けると、鈴の音が鳴る。「いらっしゃいませ」中に入ると、すぐに声がかかる。「すみません、物件を探していて」そう言いながら、店内を見渡す。その瞬間。「あれ」聞き覚えのある声。顔を上げる。——浅井さん。カウンターの奥で、不動産屋の担当者と話している。一瞬、思考が止まる。「……どうしてここに。まだ東京じゃ?」思わず口に出る。浅井さんも、こちらを見る。ほんの一瞬だけ、目が止まる。それから、わずかに視線を逸らした。「……伊藤」少しだけ間があってから。「早いね」それだけ言う。でも、さっきまでの空気と少し違う。——ちょっと気まずそう?珍しい。「浅井さんこそ、まだこっちにいないって聞いてましたけ
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第13話:切り替わらないまま

店を出たあと。「行くよ」浅井さんが、そう言って歩き出す。駐車場の奥。停まっていたのは、黒の外車だった。この街には、少しだけ似合わない。無駄のないフォルム。「……浅井さんの車ですか」「そうだけど」短い返事。それ以上は、何も言わない。助手席のドアが開く。促されるままに、乗り込む。車内は静かだった。匂いも、ほとんどしない。ちょっとだけ、ミントのような香りがする。車内には、余計なものがない。彼らしい車。エンジンがかかる。そのまま、滑らかに走り出す。静かで、ブレがない。「……運転慣れしてますね」思わず言う。「仕事で使うから」それだけ。でも、納得するしかないくらい自然だった。街灯の少ない道を抜ける。気づけば、伝えていたホテルの前に着いていた。「着いた」「ありがとうございます」ドアを開けて降りる。「また、連絡する」「はい」それで終わる。車は、そのまま静かに走り去る。テールランプが消えるまで、少しだけ見ていた。——なんなんだろう、この人。そう思いながら、ホテルに入る。***部屋に戻る。静か。さっきまでの空気が、少し残っている。でも、すぐにスマホを手に取る。不動産屋からのメールを開く。昼間に見た物件。浅井さんと今日見ていた部屋。オートロック。防犯カメラ。駅から少し遠い。でも、静か。支社までは自転車で通える。——十分だ。「この物件でお願いします」短く打つ。送信。すぐに返信が来る。《手続きを進めます》早い。全部が。「……決まった」小さく呟く。実感は、まだない。***金曜の夜。東京に戻る。見慣れた街。でも、少し遠い。部屋のドアを開ける。変わらない空間なのに。もう自分の場所じゃない気がする。スーツケースを置く。一瞬、止まる。——考えたら、止まる。....分かってる。私は、恋人にも親友にも見捨てられて、異動をする立場だっていうことを。立ち止まったら、すぐに思い知らされてしまう。だから、動くしかない。***土曜日。朝から外に出る。管理会社。役所。銀行。手続きを、順番に終わらせる。スマホを開く。新居の不動産屋からのメール。契約書。入居日。鍵の受け渡し。《月曜夜以降》問題ない。全部、予定通り。***部屋に戻る。段ボ
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第14話:初日

支社の建物は、近くで見ると想像よりも古かった。外壁は少し色が褪せている。ガラスも、新品みたいな透明さはない。それでも、人は出入りしている。止まっている場所ではない。「……ここか」小さく呟く。自動ドアを抜ける。空気が変わる。少し湿った匂い。そのまま奥へ進む。フロアに出た瞬間。視線が、一気に集まる。——やっぱり。一瞬、空気が止まる。「……え、誰?」「何か撮影スケジュールあったかしら」「モデルさん?」笑い混じりの声。全部、聞こえる。「すみません、本社から来ました伊藤です」「私の席の場所を教えて頂けないでしょうか?」軽く頭を下げる。空気が少し緩む。「あ、聞いてます!」「今日からですよね?」席に案内される。でも。視線は消えない。「綺麗な方ですね」「東京の人って感じ」悪気はない。分かってる。でも。——こういうの、苦手。席に座る。まだパソコンには触れない。周りから声がかかる。「お茶いります?」「困ったことあったら何でも言ってくださいね」優しい。丁寧。だからこそ、逃げ場がない。「ありがとうございます、大丈夫です」笑って返す。何度も。繰り返す。——本社と同じ格好で来ればよかった。頭の中で、何度も思う。少しずつ、疲れる。周りの私に対しての気遣いが疲れる。まだ何もしていないのに。「伊藤さん」声をかけられる。振り向く。「佐藤です。佐藤裕太」柔らかい笑顔。「浅井さんの補佐やってます」「よろしくお願いします」親しみやすい感じの印象だが、距離が近い。少しだけ、樹を思い出す。「これ、浅井さんからです」そんな感想の余韻に浸る間もなく。資料を渡される。「戻るまでに見ておいてって」「ありがとうございます」「ちょっと、この資料数字が合わなくて。」「パソコンにもデータ送ったので見て頂けると」軽く、なんでもないことのように言う。でも。その言葉が、引っかかる。PCを開く。データを開く。流し込む。確認する。違和感。すぐに出る。揃いすぎている。データの伸び方が均一。波がない。「……」呼吸が少し浅くなる。——何かが、ある。でも。1人だと、確定できない。繋ぎきれない。少し表情がこわばっている自分に気づく。「伊藤さん、大丈夫ですか?」横から声が聞
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第15話:余白

会議室を出たあと。フロアに戻る。さっきと同じはずの空気。でも、少し違う。ざわつきが、落ち着いている。「伊藤さん」声をかけられる。振り向く。落ち着いた女性。「田中です」軽く会釈する。「事務やってます」「よろしくお願いします」「初日、大変でしょ」少し笑う。「まあ、最初はみんなああなるのよ」フロアに視線を流す。「びっくりするくらい静かでしょ」「……はい」正直に頷く。「浅井さんが来る前は、もっと職場の空気が重かったのよ」「え?」「なんていうか」少し考える。「みんな、おかしいって思ってても言わない感じ」「そのまま流す、みたいな。まあ、仕事だしって受け入れるしかないし」「……」分かる気がする。さっきの空気。「でもね」田中さんが続ける。「来てから、変わったの」ちょっと、考えるように彼女は間を置いた。「いろんな現場、回ってたみたいで」「役所の人とか、現場の人とか」「一人一人、ちゃんと話聞いて」「……」「で、気づいたら」少し肩をすくめる。「みんながモヤっとしてたところ、勝手に整理されてるのよ」「え?」「なんか、“そういうもんか”って思ってたことが」「いつの間にか直ってる、みたいな」リアルな言い方。派手さはない。でも。確実に、浅井さんは職場の環境を変えている。「だからね」田中さんが小さく笑う。「今は、いないと困る人」「……なるほど」小さく返す。なぜ、田中さんが私にこの話をしたのかはわからないけど。田中さんの言葉は、私に安心を残した。そして、そのまま席に戻る。パソコンを見る。でも、頭の中は別のところにある。浅井さんが、やってること。見えてる範囲と、見えてない部分。少しずつ繋がる。「伊藤さん」声。佐藤さん。「今日このあとなんですけど」距離が近い。この人は、人との距離を学んでこなかったのかと思うほどに。「よかったら、ご飯どうです?」軽い。とりあえず、距離を詰めたいのは伝わってくる。自然に一歩、詰めてくる。...なんて返そうか。「——佐藤」低い声。振り向く。浅井さんが、すぐ後ろにいた。「ちょっと来て」短い。相変わらず、いつもの通りに端的な言葉しか発しない。「今?」「今」間を置かない。「例の資料、見直し」「今日中」逃げ場を作らない。「あ
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第16話:出張

翌朝。少しだけ早く目が覚めた。完全に心身ともに回復しているわけじゃない。でも、昨日よりは動けるし、昨日よりはあまり樹とみゆのことを考えないで済みようになった。忙しいのが唯一の救い。でも、それでいい。その感情の流れのまま、支社に入る。視線は、まだある。でも、昨日ほどではない。慣れたのか。支店の人たちが慣れたのか。まだ、分からない。「おはようございます」軽く頭を下げる。返ってくる声も、昨日より自然だった。席に座って、パソコンを開く。昨日の続きから始める。雇用数。稼働率。報告レポート。関連企業一覧。「……」違和感は、全く消えていない。むしろ、はっきりしている。数字が、揃いすぎている。むしろ伸び方が均一。現場の動きというより。誰かが、後から整えたみたいだった。期間をずらして、並べ替える。別の角度で見る。でも、同じパターンが出る。特定のタイミングでだけ、数字が伸びる。そのあと、不自然に維持される。「……これは、偶然じゃない」小さく呟く。自然な成長じゃない。誰かが作っている。そう思った瞬間。企業一覧の中で、ひとつの名前に手が止まった。「TK Network……」完全には思い出せない。でも、どこかで見たような名前。関連資料を開くが出てくるのは、普通の報告書。地方再生事業の協力会社。地域イベント。雇用支援。事業者連携。どれも綺麗な言葉で整えられている。でも。数字の動き方は、さっきと同じだった。「……ここも」胸の奥が、少し冷える。でも、まだ断定はできない。無視できない。そのとき。「伊藤さん」...佐藤さんの声。振り向く。「朝からすごいですね」柔らかい笑顔。昨日と同じ。少しだけ距離が近い。「もうそこまで見てるんですか」「……気になったので」短く、端的に返す。「さすがですね。本社でご活躍されていたと聞いていたので」佐藤さんが、一歩近づく。「というのは置いておいて。今日、もし時間あったら——」間髪入れずに、誘ってきた佐藤さん。「佐藤」同時に、低い声が被さる。浅井さんだった。いつの間にか戻ってきている。「こっち」それだけ。「……今ですか?」あまりにも、急な呼び出しに少し動揺する佐藤さん。「今」間を置かないのが、浅井さん。「昨日の資料、続き」「あ……は
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第17話:距離

朝。ホテルの前で浅井さんを待つ。まだ少し空気が冷たい。時間より少し早く来てしまった。「……ちょっと早いよね」小さく呟く。スマホを見る。まだ8時20分。待とうとした、そのとき。黒の車が、目の前に止まる。窓が少しだけ下がる。「乗って」浅井さん。いつも通り。時間ぴったりじゃない。少し早い。「……おはようございます」「おはよう」助手席に乗る。ドアが閉まる。車が動く。静か。相変わらず。エンジン音も、ほとんどしない。「朝、早いんですね」何となく言う。「道路空いてる方が早いから」それだけ。合理的。それ以上はない。でも。その一言で、なんとなく納得する。しばらく無言。気まずくはない。でも。何も話さないわけにもいかない気がして。「今日って、どこ回るんですか」「市の再生課」「あと、協力事業者何件か」「距離あるから、まとめて回る」短い説明。分かりやすい。「……結構動きますね」「普通、こっちだと」即答。思わず、少しだけ笑いそうになる。車が市役所の前で止まる。「ここ」「はい」車を降りる。中に入る。受付について、担当者に通される。会議室で、簡単な挨拶。浅井さんは、ほとんど喋らない。必要なところだけ。いつも通り無駄がない。その代わりに視線だけで、こちらに振ってくる。「伊藤が見てる数字で」「気になる点があって」それだけで、説明はしない。丸投げに近い。でも。ちゃんと私が言いたいことに繋がる。「……はい」自然に言葉が出るし、データの話をする。ズレているポイント。現場の感覚との差。担当者が少しだけ言葉に詰まる。「……確かに、その時期は」小さく、漏れる。——何かある。「具体的にはどういう動きでしたか」一歩踏み込む。浅井さんは何も言わない。ただ、見ているし、私に任せてくれている。ミーティングの後、役所を出た。車に戻ってすぐに、浅井さんは私を見る。「今日のミーティング」急に話を振ってきた。「良かった」短い。むしろ、短すぎるほど。「……ありがとうございます」それだけで、十分だった。「詰めすぎてないし」「相手が喋る余地残してる」そして、再び目が合う。「向いてるよ」さらっと言う。「こういうの」具体的に、褒めてくれる。昨日より、少し踏み込んだ言
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第18話:隣

出張のような感覚であひるの市に入って、そのまま現場回りが続いて。気づけば、1週間が一気に過ぎていた。本当は、もう少し早く新しいアパートに入る予定だった。でも、余裕がなかった。考える時間も、整理する時間も。全部、後回しにしたまま。「……やっとか」小さく呟く。タクシーに乗る。「この住所までお願いします」運転手が頷く。車が動く。見慣れてきた道。でも、まだ“自分の場所”ではない。マンションの前で降りる。思っていたより、綺麗だった。この街にしては、少しだけ整いすぎている。「……悪くないよね」オートロックのエントランスに入る。鍵をかざして、中に入る。部屋のドアを開ける。電気をつけて、明るくなる。がらんとした、空っぽの部屋。でも、ちゃんと生活できる場所。「……ここで暮らすのか」声に出す。やっと、現実になる。でも、まだ現実味はない。そのまま床に座る。荷物は、まだほとんど届いていない。最低限のものしか持っていない。バッグ、パソコン、ペットボトルの水。それだけ。静かすぎて、音がない。東京と違う。何もかも、あまりにも。「……」スマホを手に取る。無意識だった。画面を開く。SNS。特に意味はない。ただ、なんとなく。流れてくる投稿を、スクロールし続ける。その中で、ふいに指が止まる。「……」みゆ。見慣れた名前と写真。笑っている。隣に、樹。肩を寄せている。そして、指輪。はっきり分かる。左手の薬指にはめた指輪の意味は、誰にでもはっきりとわかる。文章は、短い。《色々あったけど、やっと落ち着きました》軽い、あまりにも。私が親友だったということは、まるで彼女の記憶にないかのように。幸せな2人の物語として、SNSには映されていた。「……」息が止まる。何も感じない、と思った。そう思っていたのに。胸の奥が、静かに痛む。遅れてくる、じわじわと。「....本当に結婚するんだ」声に出る。まるで、他人事みたいに。でも。視線が、離れない。離すことができない。笑っている顔。隣にいるのが、自分じゃない現実。もう、戻らない。その現実は、分かっているのに。「……」スマホを閉じる。一度、伏せる。でもすぐに、もう一度手に取る。メッセージアプリ。通知が来ている。みゆ、だった。タイミングが、
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第19話:同じ朝

朝、アラームより少し前に目が覚める。天井を見る。真っ白で、灯りがない。カーテンすら買っていないのだから、自然光がやけに眩しい。一瞬だけ、視界がぼやける。この数週間で、色々ありすぎて。目が覚めたときに、場所を確認しないと落ち着かない。東京じゃない。もう、戻る場所でもない。だからこそ、ここで生活をしていくしかない。やるしかない、と自分を奮い立たせるしかないのだ。体を起こす。あまりにも静かで、まだ少しぎこちなく感じる。音がない。時間もわからないから、スマホを見る。時間を確認して、通知に目を向ける。そのまま、連絡アプリを開く。指を止める。家族のスレッド。両親はアメリカに住んでいる。基本的には放任主義な親だ。最後のメッセージは、2ヶ月前に。婚約の報告。いつ顔合わせをしようか?なんて、帰国日時の調整をしていた。樹の昇進が決まって落ち着いたら、なんて言ったけ。そのまま、止まっている。「……」説明していない、あれから何も。どうなったのか。なぜこうなったのか。何も、自分でも状況に追いつけない今。両親になって説明すればいいのか、わからない。「……最悪」小さく呟く。やらなきゃいけないこと。1つ、増える。でも。正直、今は無理だと思う。整理できていない。言葉にできる状態じゃない。スマホを閉じる。....考えない。今は。身支度をして、服を選ぶ。少しだけ迷う。そのまま、シンプルなものを取る。本社にいた頃と同じように、目立たない格好。新しい環境で仕事をするのに。もはや、目立つ目立たないとか、考える必要はない。そんな事実に気づき少し冷笑してしまうが、シンプルなスーツをあえて変える必要もない。「……これでいっか。」小さく鏡で姿を確認する。そして、そのまま支社に向かう。空気が少し冷たい。でも、もう慣れてきた。歩いて15分ほどのところにある、建物に入る。「おはようございます」自然に言葉が出る。返ってくる声も、柔らかい。最初の日とは、違う。もう慣れた、自分の席に座る。パソコンを開いて、インスタントのコーヒーを片手に画面をつける。そのタイミングで。「おはようございます」佐藤さんの声。「おはようございます」軽く返す。彼が、こちらを見る。少しだけ間。「あれ」視線が上下に動く。「今日はクールな感じ
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第20話:選ぶ

土曜日の朝。少し遅く起きる。そして、相変わらず慣れない静かさ。ただ少し違うのは、平日の張りつめた感じがない。スマホを見ると、通知が残っている。みゆからのメッセージは、そのまま。未読のままで、開かない。開けない。「……あとでいいよね」小さく呟く。まだ、触れたくない。今日は家具を浅井さんと家具を見にいくことに。昨日、会議室で。浅井さんに「手伝う約束してるから」と言われた流れ。断る間もなく、今日行くことが決まった。少し強引だったのに、嫌じゃなかった。浅井さんに真っ直ぐに目を見られながら聞かれると、不思議と断れない。それが少し引っかかる。少しして、すぐに着替えて玄関を出る。空気がやわらかい。少し伸びをしたタイミング。隣のドアが、ほぼ同時に開く。「……おはようございます」「おはよう」浅井さん。...私服。想像していた通り、無駄がない。「行く?」それだけ。「はい」自然に並んで、駐車スペースまで少し歩く。「何から見るの」「ベッドですかね」「サイズは?」「シングルで」「部屋の寸法、測った?」一瞬、止まる。「……だいたいで、なんとかなります」「じゃあ、後で確認した方がいい」淡々と。「合わないと無駄になる」責めないけど、正しいことしか言わない。最初は責められているような気分になっていたが、今では慣れ始めている。「……そうですね」「戻る?」「いえ、先に見ます」「うん」それで終わる。車を出してもらって、店に着く。広くて、選択肢が多い。ベッド売り場で、一つずつ見る。座ったり、触ったり。でも、自分で全く決めきれない。最近いろんなことがあり過ぎたからか、あまり物に執着がない。もはや寝れたらいい、それだけ。とはいえ、一緒に家具を見にきてもらってる手前、絶対にそんなことは言えないが。「それ、沈みすぎ」横から急に、浅井さんが話しかけてきた。「腰痛くなる」具体的な意見。考えながら、座り直す。確かに、沈む。「こっち」別のものを指す。「硬め」促されるままに、座る。安定する。「……いいかも」自然に出る。「でしょ」短い。押さない。選ばせる。そのまま、いくつか見る。少し慣れてきた。でも、どこかで引っかかる。「……」ベッドに手を置いたまま、止まる。「どうした」浅井さんの声
last updateLast Updated : 2026-05-01
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