《国境なき医師の私、この手でクズ夫を切り捨てる》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

11 章節

第1話

結婚三周年の記念日、妊娠九ヶ月の私は、寒い夜に、中沢幸平(なかざわ こうへい)の家から何時間も閉め出された。体がすっかり冷えてしまい、お腹の張りはどんどん間隔を縮め、波のように押し寄せてきた。そんなとき、幸平からボイスメッセージが届いた。再生すると、彼の声に他の女の笑い声が重なって聞こえる。「ごめん、今日ちょっと遅くなる。祐希がさ、一度も夜景を見たことないって言うから」病院に運ばれる直前、私はスマホを覗いた。彼のSNSが、たったいま更新されている。窓辺に立つ渡部祐希(わたべ ゆき)、その背後には、街の華やかな夜景が広がっていた。キャプションには、こうある。【彼女と世界を見る】そのとき、私は病院で手術を待っていた。手術の同意書には、夫の署名が必要なのに、その欄は空っぽだった。午前三時、彼は別の女のベッドで目を覚まし、私に十万円を振り込んできた。そして、メッセージが届いた。【お疲れさま】私はそのお金をすぐに送り返すと、私は決意を固めた。何があっても、彼のそばから離れようと。……産科の医師が検査結果を受け取って、眉をひそめた。「一人で来たのですか?旦那さんは?」私は少し笑っただけで、くわしくは説明しなかった。「いないの、夫は」「今のあなたの状態じゃ、誰かがそばについていないとダメですよ」医師は報告書の数値を指さし、有無を言わせない口調で続けた。「血圧が高い、尿蛋白も出てる……重度の妊娠高血圧腎症ですよ。いつけいれんを起こしても、脳出血や常位胎盤早期剥離を起こしても、おかしくない状況です」「わかった。ありがとう、先生」診察室を出ると、スマホが震えた。祐希から写真が届いていた。祐希は私のネグリジェを着て、うちのソファにだらりともたれかかり、私が三年飼っている猫を抱いている。ネグリジェの肩ひもが片方ずり落ちているのに、直そうともせず、肩をむき出しにしたままだった。【舞子さん、このネグリジェすごく気持ちいいね。普段どうして全然着なかったの?】あのネグリジェは、結婚したときに幸平が買ってくれたものだ。ずっと着なかったのは、産後に体形が戻ってから着ようと思っていたからだ。私はその写真を長いこと見つめた。それから幸平にメッセージを送った。【離婚協議書、サイ
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第2話

付き合って三ヶ月の間に、彼はY国に7回も飛んできた。来るたびに、大量の物資を抱えた。薬、医療器具、チョコレート、それから、彼の直筆の手紙だ。【舞子、今日流れ星を見た。願い事をしたんだ。どうか無事に帰ってきてほしい、って。笑うなよ】私はそれらの手紙をブリキの缶にしまい、スーツケースの一番底にそっと押し込んだ。ずっと後になって気づいた。どの手紙の最後にも、小さな字で書き添えられていた。【Y国の子どもたちによろしく。渡部祐希より】祐希は、彼のアシスタントだ。正確には、彼の父の旧友の娘で、経験を積ませるため彼のもとに置かれている。たかがアシスタントだ。当時の私は、なんとも思わなかった。今思えば、本当に馬鹿だった。妊娠は、まったくの偶然だった。Y国での仕事がすべて片づき、次はN国へ行く契約を結ぼうとしていた矢先だ。出発の一週間前、妊娠検査薬に二本の線が浮かんだ。私は慌てて幸平に電話をかけた。彼は港都に出張中で、電話越しに雑踏のざわめきと、女の笑い声が聞こえた。「どうしたんだ」「妊娠したみたい」電話の向こうが、一瞬しんとなった。それから、彼の声は壊れものを扱うみたいに、柔らかく、慎重になった。「ほんとか」「うん」「舞子」彼ははっきりと昂ぶった、かすれた声で私の名前を呼んだ。「待っていてくれ。明日、すぐに帰る」彼は本当に帰ってきた。指輪を手に、花束を抱えて、私の前で片膝をついた。「結婚してくれ。もうあんな遠くへ行くな。俺が養うから」私は迷った。何年も医学を学び、戦場で五年、この手で何百人もの命をつないできた。それを、たった一言で、全部投げ出せというのか。「舞子」彼は顔を上げて私を見た。目が赤い。「お前のいるところで、また戦争が始まったと聞くたびに、俺がどんなに怖かったと思う。お前が戻って来られないんじゃないか、もう二度と会えないんじゃないかって……俺は、お前に出会えたことが、人生でいちばんの幸運なんだ」彼はしばらく沈黙して、声を潜めた。「両親を早くに亡くして、ずっと独りだったんだろ。でも、今は俺がいる……頼む。俺に守らせてくれないか」その言葉が、胸の奥に刺さった。私の両親は海外医療援助隊の一員で、12歳のときに震災で亡くなった。そ
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第3話

祐希が謝りに来た日、私は台所でスープを煮込んでいた。彼女は声をあげて泣きじゃくっていた。「舞子さん、あの口紅は本当に、私がうっかり車に置き忘れただけで……社長とは、何もありません。どうか、誤解しないでください……」私は、その言葉を信じることにした。正確に言えば、自分にそう思い込ませたのだ。仕事を辞め、妊娠六ヶ月の私には、もう引き返せない場所まで来ていた。選べる余地がある時だけ、人は正気でいられる。何もかも失くしたら、ただとぼけるしかないのだ。幸平が帰宅すると、どっか上の空で薄く笑った。「ほら、言っただろ。別に何もないって祐希は本当に優しすぎるんだよ。お前に変に思われたくないから、わざわざ謝りに来たんだ」そう言いながら、後ろから私を抱きしめ、あごを肩にのせた。「舞子、やめてくれよ。前は、そんなんじゃなかった」前?そう、前の私は、幸平の妻なんかじゃなかった。あの頃の私の世界には、手術台があった。難民キャンプがあった。助けを待つ人たちがいた。男の帰りを待つために、台所でスープを煮込んだりはしなかった。たかが口紅一本で、夜通し眠れなくなることなんて、なかった。結婚してからの毎日は、恐ろしいほど退屈だった。一日の行動範囲なんて、半径三キロもない。家と、スーパーと、産婦人科の健診だけ。幸平の仕事はどんどん大きくなり、つきあいの数も増えていった。祐希はアシスタントからパートナーになり、そして、彼の隣にいるたった一人の女になった。会社の忘年会で、誰かがこっそり私の腕を引き、声をひそめた。「奥さん、知らないのですか?祐希さん、毎日社長とべったりで、社内じゃもう噂だらけですよ」私は、少し離れたところで祐希とグラスを合わせている幸平に目をやり、かすかに笑った。「噂なんて、させておけばいいのよ」相手はきょとんとしていた。まさか私がそんな反応をするとは思わなかったのだろう。でも、その人は知らない。私がとっくに調べ終えていた。祐希が住んでいるあの部屋は、幸平名義だった。あのマンションは、結婚して二ヶ月目に、彼が現金で一括購入したものだ。婚姻届を出した日、彼はばつの悪そうな顔で一枚の契約書を差し出した。「これ、母さんの意向なんだ。サインしないと、結婚を認めないっ
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第4話

事の転機は、妊娠九ヶ月のときに訪れた。幸平は出張中で、祐希がひとりでやって来た。彼女は高価なワンピースを着て、私には手の届かないハイヒールを履いていた。リビングをゆっくり一周すると、晴れやかな笑みを浮かべる。「舞子さん、お宅、すごく広いね」私は相手にしなかった。祐希は気にする様子もなく、ソファに腰を下ろすと、勝手にテーブルの上の妊婦健診の報告書をめくり始めた。「あら、来週、帝王切開なの」私は歩み寄り、彼女の手から報告書を取り上げた。「何しに来たの」祐希は笑った。その笑みは、いつも幸平の前で見せる顔とはまるで別人だった。か弱さも、無垢さもない。背筋が凍るような冷たさだけが、そこにはあった。「ねえ、舞子さん、ひとつ教えてあげようか」「言え」「知ってる?幸平の母さんが先週、私に電話してきたの」私は息を呑んだ。「婚約指輪、どんなのが好きかって聞かれた」空気が一瞬で凍りついた。祐希は立ち上がり、私の目の前まで来ると、わずかに顔を上げて私を見た。彼女のほうが背が低いのに、その視線は明らかに見下ろすものだった。「幸平の母さんは言ってたよ。中沢家の嫁は、釣り合う家柄か、仕事の役に立つ人間じゃなきゃ駄目だって。あなた、自分はどっちだと思う?孤児で、身寄りもなくて、仕事も辞めて男に養ってもらってるだけのくせに。私に敵うと思ってるの?」祐希はまた笑った。バッグからスマホを取り出し、一枚の写真を表示させて私の前に突きつけた。Lineのトーク画面のスクリーンショットで、相手の名前は「お母さん」となっていた。【中沢おばさん、幸平の奥さん、妊娠したみたいだよ】【知ってる。幸平には言ってた。子どもは産んでもいいけど、私はあの女を認めないから】【そんな、かわいそうに】【何がかわいそうなもんか。自分から幸平にしがみついてきて、こっちは頼んだわけじゃない】私はそのやりとりを凝視した。手にしていた報告書を、ぐしゃりと握りつぶしていた。祐希はスマホをしまい、いかにも思いやりがありますよというように、私の肩を軽く叩いた。「舞子さん、ゆっくり体を大事にね。赤ちゃんが生まれたら、中沢家からお金を用意させるから」彼女は玄関まで行くと、一度振り返って私を見た。「そうだ、子ども
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第5話

幸平は罪悪感で、一瞬表情が凍りついた。瞳孔が縮まり、唇がわずかに開く。まさかそんな言葉が出るとは思っていなかった、という顔だ。ほんの数秒の間に、彼の目の奥をよぎった後ろめたさを、私ははっきりと見てとった。そしてすぐに、その表情は変わった。罪悪感はきれいに消え去り、代わりに図星を突かれた怒りが浮かぶ。彼は勢いよく立ち上がり、私に指を突きつけた。「舞子、どういう意味だよ」私は淡々と言った。「言葉通りだよ」「お前……」彼は深く息を吸い、首に青筋を浮かばせた。何かを必死に堪えているようだった。「朝っぱらから見舞いに来て、花も弁当も買ってきてやったのに、その言い草かよ」「花はついでに買っただけだし、弁当は下のコンビニでしょ」私は花束をちらりと見やった。「私がバラを一番嫌いだってことすら、忘れてるのね」彼は完全に頭に血が上り、声を張り上げた。「舞子、いったいどうしたいんだよ」病室の入り口で、看護師がちらっとこちらを覗いたが、声に驚いてすぐ引っ込んだ。「俺は外で必死に働いてるのに、そんなふうに疑うのか。妊娠してからお前、変わったよ。前のお前はこんなじゃなかった」「前の私?」私は笑った。「あなたと知り合う前の私は、確かにこんなじゃなかったね」「お前……!」彼は怒りで顔を真っ赤にし、震える指で私を指した。「自分の顔、鏡で見てみろよ。くたびれたツラして、気だけは強いんだな。祐希の言う通りだ、暇すぎていちゃもんつけてるんだよ」そう言うと、彼は憂さを晴らすように、どんどん言葉が荒くなっていった。「彼女が毎日会社でどれだけ俺を助けてくれてるかわかってるのか。お前はどうだ、俺の金を使う以外に何ができる?彼女がお前をどう評してるか知ってるか?お前はただの……もういい、話す気もうせた」私は彼の顔を見つめた。かつて私の心を動かしたその人は、変わってしまった。突然、この人がわからなくなった。いや、最初から一度も、私はこの人を知らなかったのかもしれない。彼はテーブルの上の車のキーを乱暴につかみ、青ざめた顔で背を向けた。出口まで行くと、振り返って言った。「好きにしろ!弁当は犬にでもやれ」ドアが激しく閉まり、窓ガラスがびりびりと震えた。ベッドの背にもたれかかり、私はその
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第6話

幸平には、育ての親が海外に住んでいることは話していなかった。実の両親を亡くしたあと、私を引き取ってくれたのは今の養父母だ。学費を出してくれて、医学部まで行かせてくれた。戦地医療に行きたいと言ったときも、背中を押してくれた。血のつながりはなくても、私は孤児なんかじゃないと、そう思わせてくれた人たちだ。戦地に行く直前、育ての父が私の手を握って言った。「舞子、外でどうにもならなくなったら、いつでも帰っておいで。父さんが面倒みるから」迷惑はかけられないと思って、ずっと帰らなかった。それに、あのころの私は本気で信じていた。幸平のいる場所こそが、自分の居場所なんだ。今なら、わかる。家と呼べる場所は、部屋を買ってくれることでも、「俺が養う」と言われることでもない。心から幸せだと思える場所のことだ。予定していた帝王切開の日、私は前日から入院して、すべての手続きを済ませた。緊急連絡先を聞かれて、長いあいだ迷った末に、育ての父の番号を書いた。手術は午前10時からだった。8時半、術前処置に来た看護師が、ためらいがちに尋ねた。「旦那さんは、まだですか」「もうすぐ来ます」そう答えた。9時ちょうど、最後の望みをかけて、彼にメッセージを送ろうとした。けれど、ブロックされたままの画面には、やはり送信できませんと表示された。ベッドに横になったまま、スマホをじっと見つめる。SNSが更新されていた。祐希が動画をアップしていた。高級レストランで、彼女の隣には幸平、向かいには品のいい中年夫婦が、にこやかに座っていた。祐希はとても嬉しそうに笑って、ワイングラスを掲げてカメラにピースをしている。キャプションには、【今日、彼を親に紹介したよ】とあった。私はその動画を、いつまでも見つめていた。9時50分、手術室へ運ばれた。病院の廊下は長くて、照明がやけに白くまぶしかった。ストレッチャーの車輪が床をきしませて、ギィ、ギィと音を立てる。手術室の扉が閉まった。医師が私の名前を呼び、麻酔科医が薬を準備し、看護師が血圧計のカフを巻いている。私は静かに目を閉じた。手術は順調に終わった。女の子で、産声はとても力強かった。看護師が赤ん坊を私の顔の前に抱き上げる。「ほら、女の子ですよ」し
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第7話

幸平の笑みが、そのまま固まった。「教えてよ。これが、あなたの言う『もっといい生活』なの?」「舞子、俺……ちゃんと償うから」「償うって、どうやって」私は言葉を遮った。「過ぎてしまったことは、もう取り返しがつかないのよ。私が子どもを産んでる時、あなたは他人の親と食事をしていた。それと同じよ」幸平の顔色が変わった。「なぜ、それを……」私は黙ったままだった。「祐希が送ったのか」声が急に荒くなる。「彼女がふざけてやっただけだ。本気にするなよ」よくもそんなことが言えるものだ。彼にしてみれば、私の感じることなんて、全部ただの八つ当たりにしか見えないんだろう。「幸平」私は子どもをそっとベッドに寝かせ、顔を上げて彼を見た。「離婚協議書、読んでくれた?」彼の表情がわずかにこわばる。「本気で離婚するつもりか」「ええ」「よく考えたのか。女ひとりで子どもを抱えて、どうやって生きていくんだ」私は彼を見つめて、思わず笑ってしまった。「幸平。私が誰だか、覚えてる?」「はあ?」「私は国境なき医師団の医者よ。Y国で開腹手術を何度も行い、難民キャンプでは43人の赤ちゃんを取り上げてきた」彼の顔から、血の気がさあっと引いていく。「私があなたと別れたら、生きていけないとでも思った?」「舞子、そういう意味じゃない……」「もういい。どうでもいいわ」くるりと背を向けて、引き出しから署名済みの離婚協議書を取り出し、彼の前に差し出す。「本当に私のことを思うなら、サインして」彼が受け取らないのを見て、私はそれをテーブルに置き、もう一度子どもを抱き上げた。「三日待つわ。それまでにサインがなければ、弁護士を立てるから」幸平は離婚協議書に目もくれず、背を向けて歩き出す。ドアを閉める間際、言葉を残した。「離婚なんて絶対にしないからな。できるものならやってみろ」私は相手にしなかった。腕の中で、子どもが静かな寝息を立てている。小さな寝顔を見おろして、私はそっとささやいた。「ママと一緒におうちに帰ろうね」十日後、幸平は弁護士に追い詰められ、ようやくサインした。だが、彼自身は一度も姿を見せず、離婚協議書も弁護士が届けてきた。取り決めに従い、マンションとまとまったお金が私
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第8話

「ねえ、忘れたの?私の仕事」「……は?」「医者よ。DNA鑑定が偽造かどうかなんて、見ればすぐにわかるの。あなたが使った機関、三回も偽りの報告書を出して、もう免許取り消しになってる。それすら調べずに、私を脅そうなんて、よくそんなことができるわね」電話の向こうが、一瞬で静まり返った。「それに、出生届の父親氏名の欄はもともと空欄だった。幸平は、法的に一度だってこの子を認めていない。だから、この子が彼の子かどうかなんて、どうでもいいのよ」「あなた……」「ましてや、私、最初からあの人を父にするつもりなんてなかったから」言い終えると、私は電話を切った。幸平は結局、あの偽の鑑定書のことを知った。もちろん、私が言ったわけじゃない。祐希が彼と喧嘩したときに、うっかり口を滑らせたのだ。その夜、知らない番号から着信があった。幸平だった。酒に酔っていて、声はひどく曖昧だった。「舞子、悪かった……俺、祐希がまさか、あんなことを……」「酔ってるのよ」「酔ってない。ちゃんとわかってる……舞子、会いたい。俺たちの子どもにも、会いたいんだ……」「幸平、私たち、もう離婚したでしょ」「わかってる。でも後悔してる……本当に後悔してるんだ。戻ってきてくれないか。祐希は異動させた。もう二度と俺たちの前に現れない。だから、戻ってきて、やり直そう……なあ」私は子どもを抱き、窓辺に立った。窓の外では、街の灯りがきらめき、まるで星の海のように広がっていた。「幸平」「ああ」「プロポーズのとき、なんて言ったか、覚えてる?」「……覚えてる」「『ずっと守る』って言ったわよね」「……」「守ってくれたこと、一度でもあった?」電話の向こうが、黙り込んだ。「なかったよね。あなたが守ったのは、渡部祐希だったり、自分の仕事だったり、世間体だったり。私だけは、一度も守ってくれなかった」「舞子……」「もう、あなたに守ってもらう必要はないの」私は腕の中で眠る子どもに目を落とし、声をひそめた。「私には、守らなきゃいけない人がいるから」電話を切ったあと、すぐにその番号を着信拒否にした。一年後。私はN国の難民キャンプに立っていた。国境なき医師団の青いベストを着て、手にメスを握っている。目の前の簡易手術台には、8
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第9話

後のことは、人づてに聞いた。幸平の会社が倒産した。祐希の父が出資を引き揚げ、資金繰りが一夜にして行き詰まった。幸平は、数十億を超えていた資産から一転、数億の借金を抱えることになった。祐希は、彼が一番金を必要としているときに、ありったけの金を持ち逃げした。輸出入貿易をやっているの男と一緒に海外へ逃げたのだ。幸平はひとりで借金を背負い、会社は倒産し、自宅まで手放した。そして、六畳ほどの賃貸アパートに移り住んだ。港都市で彼を見かけた者がいる。ひどく老けこんで、髪は半分以上白くなっていた。まだ四十前なのに、五十がらみに見えたそうだ。彼はその相手に尋ねたらしい。「川瀬舞子がどこにいるか、知らないか」相手は首を振った。「いや、知らない」幸平はその場に立ち尽くし、それ以上は何も聞かなかった。その話を耳にしたとき、私は難民キャンプで、地雷で脚を失った老婆の切断手術をしていた。手術灯がやけに白くまぶしくて、床には血が広がり、老婆はずっと泣いていた。私は声をひそめて、当地の言葉で言った。「大丈夫、私がちゃんと治すから」老婆は私の手をぎゅっと握りしめ、尋ねた。「外国から来たのね……あなた、ひとりなの?」私は笑った。「いいえ、娘がいるの。家族もいる」手術室を出ると、空の端に息をのむような夕焼けが広がっていた。オレンジ色の光が、燃え尽きることのない炎のように揺らめいている。私はスマホを取り出し、育ての母に電話をかけた。「お母さん、赤ちゃん、もう寝た?」「寝たよ。代わろうか?」「ううん、起こさないで。そのまま寝かせてあげて」電話を切ると、私は夕焼けのなかで深く息を吸い込んだ。風が強くて、白衣がばたばたとはためく。遠くでは、子どもたちがサッカーをし、女たちが食事の支度をし、男たちは雨で壊れたテントを直していた。これが生活で、これが生きるということ。私が力を振り絞って、ようやく自分自身を……取り戻した。幸平はかつて、私にこう言った。「舞子、お前はまるで全身が輝いているみたいだ」そのとおりだった。私は確かに輝いていた。でも、それは彼の帰りを待つ台所じゃない。ひとりで順番を待った産婦人科の待合室でもない。眠れずに過ごした夜のなかでもない。私が輝いていたのは
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第10話

写真の中の彼女は、手術着を着てマスクをつけていた。顔には汗がにじみ、なのに目だけは、まっすぐに光を宿していた。幸平はその写真を長いあいだ見つめていた。そして、ふと胸の奥から言葉がせり上がってくるのを感じた。この女は、自分のものじゃない。だが、そう思えば思うほど、手に入れたくてたまらなくなった。彼は頻繁にY国へ通うようになった。最初の訪問では、舞子は15分だけしか時間をくれなかった。「このあと、まだ三件も手術があるから」と彼女は言った。二度目に行ったときは、カップ麺をごちそうしてくれた。「食堂が閉まっちゃって、これしかなくて」と笑った。三度目、四度目、五度目と会ううちに、彼女は少しずつ彼に笑顔を見せるようになった。手術が終わると、「今日はうまくいったよ」とメッセージをくれることもあった。空港へ迎えに行けば、遠くから手を振ってくれる。気がつけば、日々のちょっとした出来事まで話してくれるようになっていた。ふたりの関係はどんどん深まり、ツタが絡み合うように、いつの間にか離れられなくなっていた。これでうまくいった、と幸平は思った。舞子の妊娠を知った日、幸平は別の街で大事な会議に出ていた。電話を切った瞬間、体が震えるほど興奮して、頭の中はそれだけだった。──彼女はもう逃げられない。翌日、すぐに飛行機で舞子のもとへ戻り、プロポーズした。片膝をついて、目は真っ赤に充血していた。自分でも何を言ったかろくに覚えていない。誓いの言葉を並べたてたはずだ。ただ、あのときの舞子の目だけは、はっきりと覚えている。初めて会った頃の、つき放すような冷たさは消えていた。かわりに浮かんでいたのは、やわらかな優しさと、迷いをたたえた依存だった。勝った──その瞬間、そう思った。その後のことは、誰にも話したことがない。幸平は、玄関で自分の帰りを待つ舞子の姿が好きだった。かつて戦場でメスを握り、人の命を救ってきた女が、エプロン姿でスリッパをそろえ、「今日、疲れた?」と声をかけてくる。それがたまらなかった。自分なしでは生きていけないと思い込んでいる、そんな舞子が好きだった。胸の一番深いところにしまい込み、誰にも明かさないまま、彼はその感覚に浸るようになった。彼女を神の座から引きずり下ろし、自分だけを見上
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