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第3話

作者: 山谷いくえ
祐希が謝りに来た日、私は台所でスープを煮込んでいた。

彼女は声をあげて泣きじゃくっていた。

「舞子さん、あの口紅は本当に、私がうっかり車に置き忘れただけで……

社長とは、何もありません。どうか、誤解しないでください……」

私は、その言葉を信じることにした。

正確に言えば、自分にそう思い込ませたのだ。

仕事を辞め、妊娠六ヶ月の私には、もう引き返せない場所まで来ていた。

選べる余地がある時だけ、人は正気でいられる。

何もかも失くしたら、ただとぼけるしかないのだ。

幸平が帰宅すると、どっか上の空で薄く笑った。

「ほら、言っただろ。別に何もないって

祐希は本当に優しすぎるんだよ。お前に変に思われたくないから、わざわざ謝りに来たんだ」

そう言いながら、後ろから私を抱きしめ、あごを肩にのせた。

「舞子、やめてくれよ。前は、そんなんじゃなかった」

前?

そう、前の私は、幸平の妻なんかじゃなかった。

あの頃の私の世界には、手術台があった。難民キャンプがあった。助けを待つ人たちがいた。

男の帰りを待つために、台所でスープを煮込んだりはしなかった。

たかが口紅一本で、夜通し眠れなくなることなんて、なかった。

結婚してからの毎日は、恐ろしいほど退屈だった。

一日の行動範囲なんて、半径三キロもない。

家と、スーパーと、産婦人科の健診だけ。

幸平の仕事はどんどん大きくなり、つきあいの数も増えていった。

祐希はアシスタントからパートナーになり、そして、彼の隣にいるたった一人の女になった。

会社の忘年会で、誰かがこっそり私の腕を引き、声をひそめた。

「奥さん、知らないのですか?祐希さん、毎日社長とべったりで、社内じゃもう噂だらけですよ」

私は、少し離れたところで祐希とグラスを合わせている幸平に目をやり、かすかに笑った。

「噂なんて、させておけばいいのよ」

相手はきょとんとしていた。

まさか私がそんな反応をするとは思わなかったのだろう。

でも、その人は知らない。私がとっくに調べ終えていた。

祐希が住んでいるあの部屋は、幸平名義だった。

あのマンションは、結婚して二ヶ月目に、彼が現金で一括購入したものだ。

婚姻届を出した日、彼はばつの悪そうな顔で一枚の契約書を差し出した。

「これ、母さんの意向なんだ。サインしないと、結婚を認めないって言われてて……」

彼は長いこと母と話し合い、ようやく折れてくれたのだと言った。

そのかわりに、結婚後の収入はすべて、まっ先に私のところに渡すと、約束した。

人を救うことしか知らなかったこの両手で、私はその契約書にサインした。

あの頃は、わからなかった。

契約書の向こう側にあるのは、法律なんかじゃない。人間の本性なのだ。

今ならわかる。あの契約書は、彼を何ひとつ縛れはしなかった。

縛れる相手は、私だけだった。

妊娠三ヶ月の頃、つわりがひどくて吐き続けていた。

その時、どこからか一本の電話がかかってきた。彼は上着を羽織って部屋を出て行った。

夜中に帰ってきて、体から香水の匂いと酒の気配が混ざっていた。

「どこに行っていたの」と尋ねた。

彼は平然とした顔で言った。

「祐希が酔い潰れてて、迎えに行ってたんだ」

私が黙っていると、彼は言葉を続けた。

「勘違いするなよ。彼女は港都市でたった一人で、頼れる相手もいないんだ。放っておくわけにいかないだろ」

たった一人で、頼れる相手もいない。

じゃあ、私は?

お腹に子どもを抱え、がらんとした家にひとりきりで、深夜まで彼を待ち続けている私は、いったい、何なのだろう。

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