All Chapters of これから、私は夫を捨てデザイナーを目指す: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

朔弥の書斎には夜通し明かりが灯り、モニターには探偵から送られてきた最新の報告が表示されていた。琴音の行方は、まだ掴めていない。きのこスープが入った鍋を手にした紗良は、書斎の外に立っていた。中から漏れてくる溜息を聞き、きつく鍋の取手を握り締める。使用人たちまでもが、朔弥が紗良のことを全く愛していないと陰で噂していた。このまま黙っているわけにはいかない。寝室に戻り、紗良は引き出しの奥から細工した妊娠検査薬を取り出した。何としてでも朔弥の関心を引き戻さなければ。紗良は鏡の前で何度も練習を繰り返した。母親になる女の喜びを、瞳の揺れひとつに至るまで。翌日の朝食の時、紗良はわざとらしく妊娠検査薬を朔弥の目の前に落とした。朔弥は彼女をちらりと見て、それから目線を下げ、落ちたものが何かを確認する。その途端、彼の眉間に皺がよった。紗良はわざと焦るような声を出し、拾い上げた。「ごめんなさい、もう少し落ち着いてから伝えるつもりだったんだけど……私……赤ちゃんができたみたい」その場の空気が凍りついた。朔弥が顔を上げる。その瞳には期待など微塵もなく、あるのは冷え切った嫌悪だけだった。ずっと男女の営みなどなかったのに、どうして妊娠などするというのか?朔弥は氷のような声で言い放った。「産婦人科の診断書はあるのか?今すぐ全部見せてみろ」紗良の笑みが引きつる。「まだ病院へは……でも、この妊娠検査薬の結果で確定だと思う」「なら、今すぐ一緒に病院に行くぞ」朔弥はナイフとフォークを置き、淡々と言った。「今から運転手に車を用意させる。30分後に出発だ」拒絶など許されない。その瞳からは、琴音を見ていた時のような温かな瞳は消え、今や紗良の偽りをも見抜く冷徹さしか感じられなかった。ツンとするような消毒液の臭いが充満している、病院の廊下。診察室から戻った医師は、検査報告書を持って事務的に告げた。「奥さんは、妊娠されておりません」紗良の顔からみるみる血の気が引いていく。朔弥は検査報告書をひったくると、関節が白くなるほど拳を強く握り締め、足早に廊下の奥へと向かった。「朔弥!」紗良がその背中に叫ぶ。だが、朔弥はもう二度と振り返ることはなかった。無理やり自分たちの新居に作り変えた屋敷に戻った紗良は、まだ言い訳を続けようとした
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第12話

F国の秋が深まる頃、アート展が開かれた。琴音は自身の展示スペースの前に立ち、緊張で指先をこわばらせていた。展示されている「リボーン」は、3ヶ月もの間、寝る間も惜しんで打ち込んできた渾身の作品だった。それが思いがけず、多くの愛好家の注目を集めた。「そんなに緊張しなくていい」横から晴臣の落ち着いた声が届く。彼はシャンパングラスを二つ持ち、穏やかな瞳で琴音を見つめていた。「君の作品には命が宿っている。分かる人には必ず伝わるさ」晴臣は琴音の少し乱れた髪をそっと整え、シャンパンを差し出した。「さあ、有力なギャラリーキュレーターたちを紹介しよう。彼らは新しい才能をずっと探しているんだ」琴音は晴臣の後ろについて人波を進み、会場を回った。彼は事あるごとに、熱心に琴音の作品を紹介してくれる。「二宮さんのアートへの感性には、本当に目を見張るものがあるんです」琴音が記者に囲まれれば、晴臣はさりげなく琴音の前に立ちはだかり、際どい質問を代わりに受け流してくれた。そして、琴音が自分の言葉で堂々と作品について語れるよう、上手に会話をリードする。琴音の見事な作品紹介に魅了された一人のコレクターが、出展している作品すべてを買い取りたいと申し出た。信じられないという顔をし、琴音は思わず隣の晴臣を見上げた。晴臣は満足げに目を細め、静かにウィンクを送って琴音を励ます。だが、そんな二人の様子を物陰から見つめる者がいた。それは、取引先との市場調査で現地を訪れていた、朔弥の秘書、純一だった。彼は携帯を握り締め、琴音たちにレンズを向ける。画面を拡大し、琴音が晴臣に向かって微笑み、晴臣の手が琴音の耳元を優しく撫でている瞬間を収めた。二人の距離はあまりにも近すぎる。その日、純一はすぐに朔弥へ報告を入れた。「社長、二宮さんを見つけました。F国のアート展で、知らない男性と親しげに過ごしています。どうやら、そこのキュレーターのようです」送信された写真には、互いを見つめ合う二人の仲睦まじい姿が鮮明に残されていた。深夜の社長室で、朔弥は画面の中の琴音を睨みつけ、関節が白くなるほど、拳を強く握りしめた。写真の中の琴音は、今まで見たこともないエレガントなドレスをまとい、晴れやかな笑顔を見せている。隣にいるメガネをかけた男は、琴音を溢れんばかり
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第13話

うつむき加減で作品のホコリを払っていた琴音は、背後にふと気配を感じた。「すみません、まだ開けてないんです」彼女が言っても、相手は答えず、黙り込んでいた。琴音の全身が強張る。嫌な予感がした……振り返ると、そこには目を赤くした朔弥がいた。ひどく痩せ細り、スーツも肩幅が余っていて、目の下には深い隈もある。「琴音」掠れているが、聞き慣れたその声に、琴音は言いようのない寒気を覚えた。「俺が悪かった。一緒にうちに帰ろう、な?」琴音の手に持っていた道具が音を立てて落ちた。驚きのあと、言いようのない嫌悪感が押し寄せてくる。半歩下がって陳列ケースに背を預けた。「朔弥。私たちはもう関係ない他人なの」「他人じゃない!」朔弥が一歩踏み出し、琴音の手首を掴もうとする。「話を聞いてくれ。俺は紗良にハメられたんだ。自殺すると脅されて……」「もう十分」琴音は冷え切った声で、朔弥を遮った。「誰が悪いとか、もうどうでもいいの。私は今の生活が幸せだから。あなたの話を聞く必要もないし、あなたと帰るつもりもない」朔弥の目に一瞬にして悲しみが溢れ、琴音の腕を掴んだ。それは、骨が砕けそうなほどの強さだった。「お願いだ。ここを離れよう……あの男となんか一緒にいるなよ!」ふと朔弥の視線が作業台に向けられた。二人が生活している痕跡を目にし、嫉妬に理性が吹き飛ぶ。「俺と一緒に来るんだ。今すぐに!」「琴音から離れろ!」いつの間にか入口に立っていた晴臣の鋭い声が響いた。晴臣は怒りを湛えた表情で歩み寄ってきて、朔弥の手首を関節が白くなるほどの力で、思い切り掴む。「琴音が嫌がっているのが分からないのか?痛がってるだろ!」朔弥は晴臣の目の中にある怒りに一瞬気圧されたが、ふっと鼻で笑った。「自分の妻と話してるんだ。お前に指図される筋合いはない」「琴音はあんたの妻じゃないだろ?」晴臣は琴音を優しく背中に隠すと、朔弥の前に立ち塞がった。「琴音は今、自由なんだ。生き方を選ぶ権利がある。こんな強引なやり方は、拉致と何が違うんだ?」しかし、朔弥は晴臣を飛び越え、後ろの琴音をじっと見つめている。俯く琴音の表情は、前髪で隠れていたが、強く引き結んだ唇が拒絶を示していた。その表情は完全なる決別で、親の仇でも見るかのような冷淡
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第14話

琴音は穏やかな目で、静かに朔弥の向かいに腰を下ろした。一方、朔弥は顔を強張らせ、コーヒーカップを握りしめている。冷たい瞳を前にした朔弥は、何を話したらいいのか分からなくなり、二人の思い出を語ることしかできなかった。「覚えてるか?お前がF国のラベンダーが好きだって言ったから、花の見頃に1ヶ月間お前と過ごすために、庭付きの屋敷を買ったこと」朔弥の声には、機嫌をうかがうような響きが含まれている。「お前の誕生日の時なんかは、遊園地を貸し切って夜空に花火でお前の名前を打ち上げたこともあった……」琴音はティーカップを手に取り、ふとその動きを止めた。「その話、私と何の関係があるの?」琴音は顔を上げ、氷のように冷たい視線を朔弥に向ける。朔弥は言葉を詰まらせた。「私たちには入籍した記録もないし、恋人として世間に関係を公表したこともないよね?」そう言われ、朔弥は凍りつく。琴音がティーカップをテーブルに置くと、カチャリと硬い音が鳴った。「あの2年間、あなたは単に誰かに慰めてもらいたかっただけ。だから、私のことなんて愛してなかったの。私じゃなくて、他の誰かでも良かったはずよ」「そんなことはない!」朔弥が勢いよく立ち上がり、椅子が音を立てる。「違う!俺は……」「違う?」琴音は遮るように言うと、ふっと鼻で笑った。「自分でお酒を飲んだふりをして、私と寝るように仕向けたことを言っているの?」その一言は鋭いナイフのように、朔弥の心に深く突き刺さった。朔弥の顔は真っ青になり、おぼつかない足取りで、テーブルの角にぶつかった。「違うんだ、琴音……それは、ただ酔っていただけで……」「酔っていたからと言って、私を傷つけていい理由にはならないでしょ?」琴音の声は依然として淡々としたものだったが、明らかな決別の意思が込められていた。「あなたは私の気持ちなんて少しも考えていなかったよね。だって、あなたは自分がすべてを支配することと、自分の手元に二人の女を都合よく置いておくことしか考えていなかったから」朔弥は唇をわななかせ、何も言えずにいた。冷静で別人のように冷たい琴音を見て、彼はようやく悟った。かつての甘い二人の思い出が、琴音の心の中では耐えがたい皮肉に成り果てていたことを。「お前を愛しているんだ、琴音。ただ……自分の気持ち
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第15話

精神的に追い詰められ、琴音は誰とも会おうとしなかったが、3日目に晴臣が訪れると、そのドアがそっと開けられた。晴臣は特に朔弥のことに言及するわけでもなく、ただ画材道具を片手にドアの前に立っていた。「郊外の楓が色づいたから、少し見に行かないか?」車が街を出ると、琴音はずっと窓の外を流れる街路樹の葉を見つめていた。枯れ葉に覆われた山道に到着し、晴臣が車を小川の近くに停めると、琴音はようやく車を降りた。晩秋の風が心地よく、小川は水飛沫をあげ、対岸の楓林も燃えるような紅葉で美しく輝いている。「描いてみる?」晴臣は琴音に筆を差し出すと、自分もキャンバスを広げて小川を写生し始めた。大自然の美しい景色を前に、琴音は両腕を広げ、全身が癒されるのを感じた。しばらくして、紙の上に最初の一筆を入れた。そして、吐息を吐くように、琴音はぽつり、またぽつりと言葉をこぼし始める。「朔弥とは……もともと幼馴染で。学生の時に告白してくれて、そこから……」晴臣は筆を持つ手も止めず、振り返りもせず静かに耳を傾けた。琴音の目から、音もなく涙がこぼれ落ちる。朔弥が紗良を結婚式から連れ出す動画、籍が入っていなかったこと、手術室で麻酔を打たれ、意識が途切れる瞬間の窒息感……色々なことが思い出された。胸の奥深くに押し込んでいた記憶が、渓流の音と風に乗って、鮮明に蘇ってくる。琴音は途切れ途切れに話を続けた。幼馴染として一緒に育ったこと、紗良の存在、愛のない嘘の婚姻、そして流産の時、電話の向こうから聞こえてきた紗良の甘えた声を……晴臣は一切口を挟まなかったが、琴音が声を詰まらせるたびに、そっとハンカチを差し出した。ようやく琴音が語り終えた頃には、日も沈みかけていた。晴臣は筆を置き、真剣な眼差しで琴音に向き合う。「琴音。傷つけられたのは君のせいじゃない。誰かの悪意のせいで、自分を過去に縛り付けておく必要はないよ」晴臣が描いたスケッチを眺めた琴音の瞳から、再び涙が溢れてきた。だが今度は、悲しみからではなく、心が温かくなるのを感じる。琴音は急に笑みをこぼし、涙を拭った。「この絵、とっても素敵」晴臣はキャンバスを手に取った。「次は君を描かせて」楓の下に座るようにと、晴臣が琴音を促す。木漏れ日が琴音の髪に降り注いだ。最初は緊張していた琴音も、
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第16話

デマの影響で、琴音は心ない誹謗中傷や執拗なメッセージに晒されることとなった。ある日、琴音がデスクでネットニュースを眺めていると、ホットミルクを淹れて持ってきてくれた晴臣も、その画面を目にして眉をひそめた。【有名デザイナーの二宮琴音、既婚の富豪を略奪?正妻が証拠写真を公開!】琴音がその投稿がされた時間を見てみると、紗良の投稿した長文は、すでに炎上して8時間も経っているらしかった。添えられた目に刺さるほど真っ白な婚姻届受理証明書、不倫の事実を泣きながら訴える文章が並んでいる。コメント欄は怒りに駆られたネット民で溢れ、琴音のアカウントにも濁流のような誹謗中傷が押し寄せていた。晴臣は、琴音の冷たくなった手をそっと包み込んだ。「弁護士に対処させるよ」しかし、琴音は笑みを浮かべた。その静かな笑みは、すべてを見通しているかのようだった。「大丈夫。相手が騒ぎたいなら、放っておけばいいよ。彼らの芝居が終わったら、幕を引くだけだから」琴音の言葉には余裕があり、どこか確信が宿っていた。まもなく、彼女は立ち上がって書斎に入り、金庫から茶封筒を取り出した。中には3年前に朔弥が偽造した婚姻届受理証明書。あとは、二人が結託して自分を騙した当時の会話が録音されたボイスレコーダー、さらに紗良からの執拗な挑発メッセージ……すべての証拠、一つ一つのスクリーンショットを、こうして自分を守る日のために、すべてを残していたのだ。夜8時、琴音の公式HPが更新された。そこには、情へと訴えるような弁明はなく、ただ淡々と事実の証拠が並べられていた。冒頭に偽造文書を載せ、時系列に沿ってラインの内容と攻撃メッセージを配置し、あの時の録音データも付け加えた。最後に一言、琴音はこう記した。【私と朔弥には法的婚姻関係は一度もありません。私は、彼ら二人に騙されていただけなのに、なぜ略奪になるというのですか?】この声明が出るやいなや、ネットは大炎上した。【婚姻届受理証明書が偽物だったの?この男、とんだクズじゃん!本当の詐欺師はこの男の方だよ!】【もともとあの紗良って女が略奪しておいて、他人を愛人呼ばわりなんて……恥ずかしくないのかな?】【二宮さんが可哀想……詐欺男に騙された挙句、あんな女に泥を塗られて誹謗中傷を受けるなんて。私は二宮さんを応援する】こう
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第17話

琴音の個展がギャラリーで幕を開けた。展覧会開催初日、ギャラリーの前には長蛇の列ができ、メディアのフラッシュも激しく焚かれていた。個展のタイトルは「羽化」。例の騒動を経て、琴音は「女性の自立」のシンボルとなったのだ。裏切られた一人の女性が、いかにして筆一つでその足枷を砕いていったのか?人々は皆知りたがった。展示室の真ん中には、今季のメイン作品が一番目立つ場所に飾られている。キャンバスに描かれた、必死に蜘蛛の巣から抜け出そうともがいている青い蝶。その絵は個展のテーマであると同時に、琴音自身の人生そのものでもあった。晴臣はその前に立ち、優しくも強い眼差しで絵を鑑賞している。彼は昨夜、誰よりも早くこの絵を個人的に買い取っていた。「蜘蛛の巣は過去の重圧、そこから力強く羽ばたく蝶は、未来へと向かう希望です」琴音は自らデザインしたオフホワイトのスーツを着ていた。袖口には小さな蝶の刺繍があしらわれている。彼女は質問に堂々と答え、ふとした拍子に振り返るたび、晴臣の視線と重なった。傍らで見守ってくれている彼の眼差しは、陽だまりのように、琴音を温かく照らしてくれていた。そんな時、見知った人影が琴音の視界に飛び込んできた。会場の入り口に朔弥が立っていた。身なりは整っているが、やつれた表情は隠せないようで、その黒髪にもかなり白髪が目立つ。手には、瑞々しい雫を宿した白バラのブーケが抱えられていた。琴音と朔弥の視線が交差したが、琴音は歩みを緩めることもなく、まるで見えていないかのように通り過ぎた。「琴音……」朔弥が呼び止める。その声は掠れていて、ほとんど聞こえない。「個展、見たよ。自分がどれだけひどいことをしたか……今更ながら分かったんだ。でも、お願いだ……一度だけでいい。一度だけ、チャンスをくれないか……」「朔弥」琴音は淡々とした声で朔弥を遮った。「私たちはもう終わってるの」琴音は絵を指す。「あの蝶を見て。巣から出たらもう二度と振り返らない。花園に向かって飛んでいくの。ずっとその場に留まって、死んでいくことなんてしないんだから」その言葉には、確固たる意志が込められていた。琴音の指先が指す方に、朔弥も視線を向ける。その絵の中では、描かれた蝶が大きく羽を広げていた。朔弥は突然ふっと笑った。その表情は泣き
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第18話

外に出るたび、誰かに見張られているような不安が募る。しかし、このまま琴音に負けを認めるなんて到底できなかった。紗良はパソコンの画面を埋め尽くす罵詈雑言を眺めながら、ただひたすらに思った。すべての元凶は琴音にある。自分の人生を台無しにし、琴音だけ幸せになっているのが、何よりも許せない。自分が手に入れられないなら、朔弥なんていっそ破滅させてやればいい。そんな真っ黒い考えが、毒のように心に、紗良の心へと根を下ろしていった。どうすれば朔弥に復讐できるか、そればかりを考えていたが、なかなか機会は訪れなかった。そんなある日、神谷グループの社内で純一がしている会話が、紗良の耳に入ってきた。神谷グループが誇る、今や注目の的である最新技術を、競合会社が躍起になって狙っているというのだ。紗良は不敵な笑みを浮かべ、確かな手応えを感じながら会社を後にする。その晩、社員がほとんど帰ったのを見計らい、紗良は以前朔弥から渡されていた予備の鍵を使い、神谷グループの機密管理室に侵入した。朔弥がふと口にしていた暗証番号の記憶を頼りに、紗良はなんと「極秘」と書かれたプロジェクトファイルを、USBにコピーできてしまったのだ。これは神谷グループの生命線とも言える最重要機密。これを競合会社に渡すだけで、朔弥を完全に叩き潰すことができる。紗良は神谷グループの競合会社へと電話をかけた。「あなたたちが欲しがっているものを、手に入れたわ。週末にこの住所へ来て」取引場所に指定したのは、郊外の廃工場。紗良は狂気を帯びた顔でUSBを握りしめ、約束の地へ向かった。しかし、後ろに朔弥の車が静かに張り付いていることに、全く気づいていなかった。F国から帰国したばかりだった朔弥が、溜まっていた仕事を片付けようとしていた矢先、純一から緊急報告を受けたのだ。「社長、大変です!白川さんが社長の権限を使って機密管理室に入り、ファイルをすべて競合会社に売り渡そうとしています!」朔弥は厳しい表情のまま車を走らせる。「さっさと現金を渡して」工場内で、紗良は顔色を変えず、相手の仲介人を見つめた。ここまで念入りに場所を選んだのだから、この場所は自分たちしか知らないはず。紗良がマスク姿の男にUSBを手渡そうとした瞬間、倉庫の照明が全て一気についた。驚いて振り返ると、
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第19話

「嫌!やめて!!」最初、紗良は琴音や朔弥を罵っていた。しかし、暴力が激しくなるにつれ、その声は助けを求める泣き声へと変わっていく。「黙れ!」それでもボディーガードは腹部を蹴り上げ、紗良が苦しげに体を丸めた。肋骨が折れる激痛で紗良の意識は遠のき、口元からは血を流していて、その整った顔が無残にも腫れ上がっている。朔弥は、そんな様子を感情のない冷たい目で見下ろしていた。紗良が暴行されるのを見ても、同情など微塵も感じない。ただ、朔弥の脳裏に、堕胎手術を受けた琴音の血の気のない顔、役所で気を失ってしまったこと、晴臣の後ろで怯えていた時の瞳が次々と思い出されるのだった。あの時の琴音は、今の紗良が感じている痛みよりも、何倍も苦しかったはず。だからその痛みを、今ここで紗良に少しずつ味わわせてやるのだ。「朔弥……私が間違ってた……お願い、許して……」血だらけになった紗良は、もう限界だった。涙と鼻水で顔を汚し、椅子から転がり落ちると、折れた足を引きずりながら朔弥の足元に縋りついた。「ごめんなさい、もう二度としない……今回だけは、許して……」朔弥はゆっくりと視線を落とした。その底知れない嫌悪感が紗良を飲み込んでいく。「許して、だと?」腰を屈めて紗良の顎を掴み、無理やり自分を見させた。「お前が琴音を苦しめた時、許しなんて与えたか?悪質なメッセージで琴音を追い詰めた時、情けなんてかけたか?ネットで騒ぎを煽った時、罪悪感なんて微塵もなかっただろ!」手を振り払われた紗良は、そのまま血の海の中にぐったりと横たわった。「お前が琴音にしたこと、倍にして返してやる」朔弥は立ち上がり、乱れたスーツを直すと、淡々とした声で言い放つ。「あとは君たちに任せる。死なない程度にな」重厚な鉄の扉が閉まり、紗良の泣き声が深い闇に消えていった。部屋を出た朔弥は、その足で警察に通報した。「もしもし、神谷グループの企業秘密漏洩の件で、通報しました。容疑者は白川紗良という女です。証拠も手元にあります」警察に連行される紗良は、全身傷だらけで意識も朦朧としていた。法廷のモニターに彼女自身と競合会社との取引記録が映し出されると、紗良は突然叫び出した。「私がやったの!全部私がやった!朔弥さんとあの女の関係を壊して、私と籍を入
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第20話

二人はすぐに出発した。夜空には、色とりどりの光が天の川のようにたゆたい、様々な姿に変わる。防寒着に身を包んだ琴音は、凍った湖の上で白い息を、夜空に吐き出していた。「寒い?」晴臣は背後から琴音にふんわりとマフラーを巻きつけ、その指先には心地よい温かさを帯びていた。琴音は首を横に振ると、空で舞い踊るオーロラに感嘆の声を漏らす。「こんなに美しかったのね」「君の描く絵より綺麗?」と晴臣は冗談めかして言ったが、風の音に少しだけかき消された。「絵とはまた違う美しさかな」と、琴音が笑いながら振り返ると、晴臣の優しい視線とぶつかった。「絵は想像の世界、今目の前にあるのは本物の世界。ありがとう、晴臣……」晴臣は微笑み、そっと琴音の手を取って少し離れた場所にある小屋へと歩き出す。薪がきれいに積まれた小屋の前に、吊るされた風鈴が風に吹かれて、心地よい音色を響かせていた。「目をつぶってて」晴臣が内緒話のようにそっと囁いた。琴音は言われた通りに従い、ひんやりとした空気の中で長い瞼をそっと閉じる。再び目を開けた琴音は、目の前の光景に息を呑んだ。小屋前の雪の上には光を放つ石が敷き詰められ、展示会に出した「羽化」と同じ蝶が描かれていたのだった。そして蝶の中央で、晴臣が膝をつき、シルクの小箱を手にしている。箱の中の指輪はとても特別で、一番上に光るサファイアも鮮やかに輝いていた。琴音には、自分の鼓動がうるさいほど激しく打ち鳴っているのが聞こえた。「君のためにデザインしたんだ」晴臣の声が緊張で少し震えている。「君に渡したくて、ずっと前から準備していたんだ」琴音を見上げる彼の瞳は、オーロラよりも深く温かい。「ギャラリーで初めて会った時、修復している絵を見つめる君の瞳、どの姿からも目が離せなかった。それから、夜通し絵を描いている姿や、一生懸命修復している横顔、それに批判にも負けず頑張る君の姿を見てきて……もうただの友達ではいたくないって思った」晴臣は深呼吸をし、真剣な眼差しで伝えた。「琴音。君と肩を並べて世界の美しい景色を全部見て回りたい。どんなに辛い過去があっても、これからどれだけ遠い道のりであっても、僕が君の手を引いて歩んでいくから。君は……そのチャンスを僕にくれる?」琴音の目から、涙が溢れ出す。
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