Masuk式場として広い庭を貸し切った。きらびやかなアーチなどはなく、友人たちが手作りしてくれた絨毯だけが敷かれていた。ありきたりな曲は流さず、ギタリストに軽快な曲を奏でてもらう。招待したのは、海外で出会った大切な友人20人ほど。琴音は自作のドレスを纏っていた。サテンのシンプルなドレスには蝶の羽を刺繍し、歩くたびに光の粒が流れるように反射する。彼女は祝福のなかを通り抜け、新郎を待った。仕立ての良いライトグレーのスーツを着た晴臣が近づいてくる。琴音はふと、ギャラリーで初めて会った時のことを思い出した。あの時の晴臣も、今と同じ優しい笑みを浮かべていた。晴臣が自分の心にそっと入り込んだのは、あの時だったのかもしれない。「緊張してる?」晴臣はそう言って立ち止まると、琴音の髪を優しく撫でた。首を横に振った琴音だったが、晴臣に指輪をはめてもらう時は、少し指先が震えた。オーロラの下でプロポーズの際に贈られた指輪よりずっとシンプルなものだったが、晴臣の手ではめてもらうことによって、かけがえのない意味を持つ気がする。二人の指輪が重なり、琴音はふと笑みをこぼした。「はい、誓います」はっきりとした自分の声が、琴音の耳に届く。その瞳には、どんな光よりも眩しい輝きが宿っていた。晴臣が身を屈めて琴音を抱き寄せる。そっと寄り添うその口づけは、温かく誠実なものだった。会場から拍手と笑い声が聞こえてくる。出席した友人が目元を拭いながらつぶやいた。「本当によかった。この日をずっと待ってたんだから」琴音は晴臣の腕の中で、彼の香りに包まれながら、ふと思った。かつて胸が張り裂けるほど苦しんだ日々も、その痛みのすべてが、この瞬間の幸せへとつながっていたのだと。暗闇を抜けたあとの日差しは、こんなにも暖かい。会うべき人と出会えたことが、こんなにも幸せだなんて。友人たちが式の様子をSNSへ投稿すると、思わぬ形で国内のメディアまでそのニュースが届いた。見出しには【ファッションデザイナー二宮琴音、海外で挙式。相手も有名なキュレーター】とあった。写真のなかで満開の笑みを浮かべる琴音。指先には、小さな指輪がキラキラと光っている。朔弥はその写真を新聞記事の中で見つけた。だれもいない静かな部屋で、片手にはタバコを挟み、やつれ果てた
すると突然、甲高い声で笑い出し、呪文のようにぶつぶつと何かを呟き始めた。「朔弥は私のもの。あの女は私から何もかも奪った……」刑務官が異変に気づいた時、紗良は壁に頭を打ち付けており、その瞳からは光が消えていた。最終的に精神状態が不安定と診断され、精神病院へと移送された。紗良の余生は、薬と拘束具の中で過ごすことになるだろう。夢の中でさえ、朔弥に連れ去ってもらったあの結婚式が繰り返されていたのだから。時を同じくして、神谷グループにも半年かけた綻びが、徐々に広がっていった。朔弥は屋敷に引きこもり、琴音の写真を眺める毎日を送っていたので、山積みの書類には見向きもしなかった。そのずさんな経営により、神谷グループは倒産寸前まで追い込まれていた。純一が焦って状況を伝えても、朔弥はただ淡々とこう言うだけ。「俺名義の60%の株を琴音に移してくれ。手続きが終わったら、もう報告はいらないから」呆気に取られる純一に対し、朔弥は「償いだ」とだけ付け加えた。株式譲渡の書類がF国に届いた時、琴音は工房で新しいコレクションの画稿を描いていた。晴臣は書類を琴音に手渡し、琴音が最後のページをめくる様子を見守った。琴音は少し呆気に取られていた。なぜならそれが、朔弥からの株式譲渡の書類だったからだ。走り書きの朔弥のサインの横に、万年筆でこう添えられていた。【琴音、唯一お前にあげられるものだ】その一言を見て、二人はしばらく無言になった。琴音は書類を閉じ、冷静に晴臣へ言った。「弁護士に連絡してくれる?この株をすべてDV被害女性支援基金に寄付したいから」「わかった」晴臣は、琴音の手を優しく握り締め、指輪の輝くその薬指をそっと撫でる。すると、琴音が顔を上げ、はっきりとした瞳で言った。「もう全部過ぎたこと。前を見て生きなきゃ」朔弥から株を受け取った後、琴音は自らの工房を開いた。もちろん晴臣は、この琴音の決断を応援した。工房はF国の古い建築物を改装した場所で、庭には季節のチューリップが咲き乱れている。晴臣は自分のギャラリー用のオフィスを、琴音の工房の隣に移した。仕事をするのに便利だからと言いながら、実際には琴音がカルトンに向かう姿をドアの隙間からこっそりと見ていることが多かった。仕事に集中する横顔も、紙の上を走るペン
二人はすぐに出発した。夜空には、色とりどりの光が天の川のようにたゆたい、様々な姿に変わる。防寒着に身を包んだ琴音は、凍った湖の上で白い息を、夜空に吐き出していた。「寒い?」晴臣は背後から琴音にふんわりとマフラーを巻きつけ、その指先には心地よい温かさを帯びていた。琴音は首を横に振ると、空で舞い踊るオーロラに感嘆の声を漏らす。「こんなに美しかったのね」「君の描く絵より綺麗?」と晴臣は冗談めかして言ったが、風の音に少しだけかき消された。「絵とはまた違う美しさかな」と、琴音が笑いながら振り返ると、晴臣の優しい視線とぶつかった。「絵は想像の世界、今目の前にあるのは本物の世界。ありがとう、晴臣……」晴臣は微笑み、そっと琴音の手を取って少し離れた場所にある小屋へと歩き出す。薪がきれいに積まれた小屋の前に、吊るされた風鈴が風に吹かれて、心地よい音色を響かせていた。「目をつぶってて」晴臣が内緒話のようにそっと囁いた。琴音は言われた通りに従い、ひんやりとした空気の中で長い瞼をそっと閉じる。再び目を開けた琴音は、目の前の光景に息を呑んだ。小屋前の雪の上には光を放つ石が敷き詰められ、展示会に出した「羽化」と同じ蝶が描かれていたのだった。そして蝶の中央で、晴臣が膝をつき、シルクの小箱を手にしている。箱の中の指輪はとても特別で、一番上に光るサファイアも鮮やかに輝いていた。琴音には、自分の鼓動がうるさいほど激しく打ち鳴っているのが聞こえた。「君のためにデザインしたんだ」晴臣の声が緊張で少し震えている。「君に渡したくて、ずっと前から準備していたんだ」琴音を見上げる彼の瞳は、オーロラよりも深く温かい。「ギャラリーで初めて会った時、修復している絵を見つめる君の瞳、どの姿からも目が離せなかった。それから、夜通し絵を描いている姿や、一生懸命修復している横顔、それに批判にも負けず頑張る君の姿を見てきて……もうただの友達ではいたくないって思った」晴臣は深呼吸をし、真剣な眼差しで伝えた。「琴音。君と肩を並べて世界の美しい景色を全部見て回りたい。どんなに辛い過去があっても、これからどれだけ遠い道のりであっても、僕が君の手を引いて歩んでいくから。君は……そのチャンスを僕にくれる?」琴音の目から、涙が溢れ出す。
「嫌!やめて!!」最初、紗良は琴音や朔弥を罵っていた。しかし、暴力が激しくなるにつれ、その声は助けを求める泣き声へと変わっていく。「黙れ!」それでもボディーガードは腹部を蹴り上げ、紗良が苦しげに体を丸めた。肋骨が折れる激痛で紗良の意識は遠のき、口元からは血を流していて、その整った顔が無残にも腫れ上がっている。朔弥は、そんな様子を感情のない冷たい目で見下ろしていた。紗良が暴行されるのを見ても、同情など微塵も感じない。ただ、朔弥の脳裏に、堕胎手術を受けた琴音の血の気のない顔、役所で気を失ってしまったこと、晴臣の後ろで怯えていた時の瞳が次々と思い出されるのだった。あの時の琴音は、今の紗良が感じている痛みよりも、何倍も苦しかったはず。だからその痛みを、今ここで紗良に少しずつ味わわせてやるのだ。「朔弥……私が間違ってた……お願い、許して……」血だらけになった紗良は、もう限界だった。涙と鼻水で顔を汚し、椅子から転がり落ちると、折れた足を引きずりながら朔弥の足元に縋りついた。「ごめんなさい、もう二度としない……今回だけは、許して……」朔弥はゆっくりと視線を落とした。その底知れない嫌悪感が紗良を飲み込んでいく。「許して、だと?」腰を屈めて紗良の顎を掴み、無理やり自分を見させた。「お前が琴音を苦しめた時、許しなんて与えたか?悪質なメッセージで琴音を追い詰めた時、情けなんてかけたか?ネットで騒ぎを煽った時、罪悪感なんて微塵もなかっただろ!」手を振り払われた紗良は、そのまま血の海の中にぐったりと横たわった。「お前が琴音にしたこと、倍にして返してやる」朔弥は立ち上がり、乱れたスーツを直すと、淡々とした声で言い放つ。「あとは君たちに任せる。死なない程度にな」重厚な鉄の扉が閉まり、紗良の泣き声が深い闇に消えていった。部屋を出た朔弥は、その足で警察に通報した。「もしもし、神谷グループの企業秘密漏洩の件で、通報しました。容疑者は白川紗良という女です。証拠も手元にあります」警察に連行される紗良は、全身傷だらけで意識も朦朧としていた。法廷のモニターに彼女自身と競合会社との取引記録が映し出されると、紗良は突然叫び出した。「私がやったの!全部私がやった!朔弥さんとあの女の関係を壊して、私と籍を入
外に出るたび、誰かに見張られているような不安が募る。しかし、このまま琴音に負けを認めるなんて到底できなかった。紗良はパソコンの画面を埋め尽くす罵詈雑言を眺めながら、ただひたすらに思った。すべての元凶は琴音にある。自分の人生を台無しにし、琴音だけ幸せになっているのが、何よりも許せない。自分が手に入れられないなら、朔弥なんていっそ破滅させてやればいい。そんな真っ黒い考えが、毒のように心に、紗良の心へと根を下ろしていった。どうすれば朔弥に復讐できるか、そればかりを考えていたが、なかなか機会は訪れなかった。そんなある日、神谷グループの社内で純一がしている会話が、紗良の耳に入ってきた。神谷グループが誇る、今や注目の的である最新技術を、競合会社が躍起になって狙っているというのだ。紗良は不敵な笑みを浮かべ、確かな手応えを感じながら会社を後にする。その晩、社員がほとんど帰ったのを見計らい、紗良は以前朔弥から渡されていた予備の鍵を使い、神谷グループの機密管理室に侵入した。朔弥がふと口にしていた暗証番号の記憶を頼りに、紗良はなんと「極秘」と書かれたプロジェクトファイルを、USBにコピーできてしまったのだ。これは神谷グループの生命線とも言える最重要機密。これを競合会社に渡すだけで、朔弥を完全に叩き潰すことができる。紗良は神谷グループの競合会社へと電話をかけた。「あなたたちが欲しがっているものを、手に入れたわ。週末にこの住所へ来て」取引場所に指定したのは、郊外の廃工場。紗良は狂気を帯びた顔でUSBを握りしめ、約束の地へ向かった。しかし、後ろに朔弥の車が静かに張り付いていることに、全く気づいていなかった。F国から帰国したばかりだった朔弥が、溜まっていた仕事を片付けようとしていた矢先、純一から緊急報告を受けたのだ。「社長、大変です!白川さんが社長の権限を使って機密管理室に入り、ファイルをすべて競合会社に売り渡そうとしています!」朔弥は厳しい表情のまま車を走らせる。「さっさと現金を渡して」工場内で、紗良は顔色を変えず、相手の仲介人を見つめた。ここまで念入りに場所を選んだのだから、この場所は自分たちしか知らないはず。紗良がマスク姿の男にUSBを手渡そうとした瞬間、倉庫の照明が全て一気についた。驚いて振り返ると、
琴音の個展がギャラリーで幕を開けた。展覧会開催初日、ギャラリーの前には長蛇の列ができ、メディアのフラッシュも激しく焚かれていた。個展のタイトルは「羽化」。例の騒動を経て、琴音は「女性の自立」のシンボルとなったのだ。裏切られた一人の女性が、いかにして筆一つでその足枷を砕いていったのか?人々は皆知りたがった。展示室の真ん中には、今季のメイン作品が一番目立つ場所に飾られている。キャンバスに描かれた、必死に蜘蛛の巣から抜け出そうともがいている青い蝶。その絵は個展のテーマであると同時に、琴音自身の人生そのものでもあった。晴臣はその前に立ち、優しくも強い眼差しで絵を鑑賞している。彼は昨夜、誰よりも早くこの絵を個人的に買い取っていた。「蜘蛛の巣は過去の重圧、そこから力強く羽ばたく蝶は、未来へと向かう希望です」琴音は自らデザインしたオフホワイトのスーツを着ていた。袖口には小さな蝶の刺繍があしらわれている。彼女は質問に堂々と答え、ふとした拍子に振り返るたび、晴臣の視線と重なった。傍らで見守ってくれている彼の眼差しは、陽だまりのように、琴音を温かく照らしてくれていた。そんな時、見知った人影が琴音の視界に飛び込んできた。会場の入り口に朔弥が立っていた。身なりは整っているが、やつれた表情は隠せないようで、その黒髪にもかなり白髪が目立つ。手には、瑞々しい雫を宿した白バラのブーケが抱えられていた。琴音と朔弥の視線が交差したが、琴音は歩みを緩めることもなく、まるで見えていないかのように通り過ぎた。「琴音……」朔弥が呼び止める。その声は掠れていて、ほとんど聞こえない。「個展、見たよ。自分がどれだけひどいことをしたか……今更ながら分かったんだ。でも、お願いだ……一度だけでいい。一度だけ、チャンスをくれないか……」「朔弥」琴音は淡々とした声で朔弥を遮った。「私たちはもう終わってるの」琴音は絵を指す。「あの蝶を見て。巣から出たらもう二度と振り返らない。花園に向かって飛んでいくの。ずっとその場に留まって、死んでいくことなんてしないんだから」その言葉には、確固たる意志が込められていた。琴音の指先が指す方に、朔弥も視線を向ける。その絵の中では、描かれた蝶が大きく羽を広げていた。朔弥は突然ふっと笑った。その表情は泣き