All Chapters of これから、私は夫を捨てデザイナーを目指す: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

結婚して3年目。夫・神谷朔弥(かみや さくや)がシャワーを浴びている間、二宮琴音(にのみや ことね)は思いがけず、彼の携帯に届いたメッセージを目にしてしまった。【朔弥。あなたと別れてから、私はずっと幸せになれなかった。毎日あなたのことばかり考えちゃう。でもね、朔弥。私、明日結婚するんだ。だから、最後にどうしても一度だけ、あなたに会いたいの。私の初めてを、朔弥に捧げたい。30分だけ待ってる。もし来てくれなかったら、私はこの世を去ろうと思う】そのメッセージを読んだ瞬間、琴音は激しい衝撃を受け、しばらく言葉を失った。やがて、シャワーを浴び終えた朔弥が戻ってきて、携帯を手に取った。そのメッセージを見るや否や、彼はすぐに玄関へと向かう。その急ぐ背中を見て、胸が締め付けられた琴音は、思わず引き止めた。「ねえ、朔弥。男の人って、最後は家庭を選んだとしても、妻より不倫相手に対して罪悪感を抱くんだって。あなたも……そうなの?」震える琴音の声を聞き、朔弥は足を止めた。眉をひそめ、苛立ちと疲労が混ざったような声で言った。「琴音。俺はお前のとこに戻ってきただろ?それなのに、これ以上俺にどうしろっていうんだ?」冷え切ったその言葉が琴音の胸に突き刺さり、目からは涙があふれ出してきた。名目上は自分が妻であっても、心は今もまだ白川紗良(しらかわ さら)のところにあるんじゃないのか、そう聞きたくてたまらなかった。しかし朔弥は琴音の返事も聞かず、ドアを強く閉めて出て行ってしまった。琴音は目を閉じ、静かに涙を流す。琴音と朔弥は幼馴染で、誰もが認めるお似合いの二人だった。琴音が「西区のケーキが食べたい」と言えば、朔弥は嫌な顔をせず、すぐに買いに行き、琴音が追試になれば、朔弥は徹夜してまで、琴音の勉強に付き合ってくれた。琴音が生理痛で辛かった時は、朔弥は不器用ながらも、蜂蜜レモンティーを作ってくれた……琴音は朔弥に大切に守られる、まるでお姫様みたいだ、と皆が口を揃えて言ったし、両家の親が二人の結婚を決めた時も、誰も驚きはしなかった。しかし、紗良という後輩が現れ、全てが変わってしまったのだ。琴音が紗良に初めて会ったのは、朔弥の卒業式の日。朔弥はポニーテールにした紗良と並んで立ち、笑いながら話していた。それに、紗良が親しげに朔弥の袖を掴んで
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第2話

退院してすぐ、琴音はビザ申請の手続きを終えた。申請を出してから、受理まで約15営業日かかると、係員から告げられた。家に帰った琴音は2日休みを取り、朔弥に関係する物をすべて整理することにした。一緒に旅行へ行った時の写真、朔弥からのプレゼント、お揃いのコップや部屋着……琴音は躊躇うことなく、庭ですべてを燃やした。ちょうど帰ってきた朔弥が、灰の山を見て怪訝そうな表情を浮かべる。「何を燃やしたんだ?」「別に。要らなくなったものを燃やしただけ」そう聞いた朔弥は、深くは追及してこず、手に持っていたプレゼントを差し出してきた。口調が数日前より幾分か柔らかくなっている。「体調でも悪いのか?顔色が悪いけど。それに、ずいぶん痩せたな」突然自分を気遣ってくる朔弥に、琴音は一瞬たじろいだが、プレゼントを受け取ろうとはしなかった。「私は大丈夫だから」琴音のそっけない返答に、朔弥は違和感を覚える。前回、険悪な雰囲気のまま家を出て行ったことを思い出し、雅也は少し言い訳を口にした。「仕事でトラブルがあって、余裕がなかったんだ。これ、お前が前から欲しがってた鞄。秘書に買って来させたから、もう怒らないでくれよ」琴音はちらりと鞄に目を向けた。このシリーズが出たばかりの頃、確かに好きだと甘えて話したことがある。だが朔弥は特に聞いていない様子だったので、琴音はもう自分で購入していた。あれから、もう2ヶ月も経っているというのに、今さら買ってくるなんて。「あれから結構経つのに、どうして今さら?」喜んでくれると思っていた朔弥は、琴音の反応に調子が狂った。「お前が好きなものは、なんだって買うよ。前だって、よく買ってあげて……」そう言いながら、朔弥は自分が最近、琴音にプレゼントを贈っていないことを思い出した。前回何をプレゼントしたのかさえ、はっきりと思い出せない。その事実に気づいた朔弥は黙り込み、複雑な表情を浮かべる。朔弥の目に一瞬よぎった気まずさに気づいたが、琴音は何も言わなかった。部屋へ戻ると、ラインに友だち申請が来ていた。見覚えのあるアイコンに、琴音の瞳がふっと暗くなる。追加ボタンを押すと、すぐに相手からある住所が送られてきた。【時間ある?一度会おうよ。あなたが興味がありそうなもの、たくさん持っているから】
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第3話

紗良の言葉が終わるや否や、琴音は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。すると、反応する間もなく、紗良が琴音の手首を掴み、車道へと引き摺り込んだ。耳をつんざくブレーキ音が響く。はっと顔を上げると、制御を失った車が自分たちに向かって猛スピードで突っ込んできていた。全てがスローモーションとなる。そして、琴音にははっきりと見えた。道の反対側から必死の形相で走り寄ってくる朔弥の姿が。彼の瞳には絶望が浮かび、かつて見たこともないほど、慌てている。「紗良!」次の瞬間、朔弥が腕を伸ばし、紗良だけを引き寄せた。そして、琴音は――ドンッ。鈍い音がした。琴音の体はまるで重力を失ったように宙を舞い、10メートルほど先の路上に叩きつけられた。激痛が全身を襲う。五臓六腑がすべて破裂したようだった。口からは血を吐き、視界も霞んでいく。それでも琴音は力を振り絞って顔を上げた。しかし、そう遠くないところでは、朔弥が紗良を力強く抱きしめ、「大丈夫、大丈夫だから。俺がいる……」と優しく背中をさすっていた。意識が闇に飲まれる直前、琴音はふと18歳の頃を思い出した。高熱を出した時、朔弥もあんな風に自分を抱きしめ、一晩中眠らずに見守ってくれたっけ……どうして、こうなってしまったんだろう?気がつくと、琴音は病院のベッドの上にいた。重い瞼を開くと、朔弥が隣に座っていた。目が合った瞬間、朔弥の険しかった表情がわずかに和らいだが、すぐに冷酷な色へと変わった。「琴音、お前は何がしたかったんだ?」氷のような冷たい朔弥の声が響く。「俺は、お前に言われた通り、紗良とは距離を置いた。なのに、どうして紗良の生活を邪魔する?」琴音の瞳孔がきゅっと締まった。死の淵から目覚めたばかりの自分にかける言葉が、心配の一言ではなく、詰問であるとは。琴音はかすれた声を絞り出す。「あなたが言う距離を置くって……白川さんの結婚式場に乱入して。彼女を連れ出すこと?」朔弥の体が明らかに硬直し、瞳には冷気が宿った。「俺のことを調べたのか?紗良は親に、一回り以上も上の男との政略結婚を無理強いされたんだ。それに、俺は一度あいつを裏切ってるんだから、もうこれ以上あいつを見過ごすことなんてできないに決まってるだろ?」朔弥の声が大きくなり、最後にはほぼ叫んでいるくらいにな
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第4話

病院で数日間療養し、琴音は一人で退院した。医者からは鬱の兆候があるから、気分転換をするように勧められた。ちょうど天気が良かったので、琴音はそのまま散歩に出かけることにした。南区まで歩いて疲れた琴音は、ふらりと静かなバーに入った。腰を下ろし、ふと窓の外に目を向けると、見慣れた二人の姿がそこにはあった。朔弥と紗良。人混みの中で、紗良の顔に付いたクリームを朔弥がハンカチで拭ってやったり、ほどけた靴紐をかがんで結んであげたりしていた。琴音はそれを黙って見ていた。まだ仲が良かった頃の、自分たちの昔を思い出す。かつての朔弥は、自分にも同じようにしてくれたっけ。時間が流れれば、人の心は簡単に変わる。もう、自分を苦しめるのはやめようと、琴音は思った。もう彼らのことを考えるのはやめよう、と二人から視線を外したその時、紗良が朔弥を引っ張って、偶然にも後ろの席に座った。琴音に気がついていない彼らの会話は、丸聞こえだ。「朔弥。あんなことがあったから、結婚の話がなくなったでしょ?だから、怒った親が別の見合いを無理強いしてきて、しかも断ったら親子関係を切るなんて言うんだよ?でも、朔弥以外考えられないの……ねえ、朔弥。籍なんて入れられなくてもいいから、あなたのそばにいさせて」一瞬の沈黙の後、朔弥の低い声が聞こえてきた。「俺と籍を入れるって、ご両親に言え」その言葉に、紗良は一瞬固まり、驚きの声を上げる。「何を言っているの?琴音さんと籍を入れているでしょ?」「琴音とは式を挙げただけで、籍は入れていない。数日後、結婚記念日だと言って、旅行で彼女を海外へ送り出すから、その隙に入籍しよう」琴音は爪が手のひらに食い込むほど、手を強く握りしめた。そういうことだったのか。あの記念日のサプライズが、すべてが自分を遠ざけるための嘘だったなんて。その瞬間、琴音の胸がナイフで切り裂かれたように痛んだ。彼女は口角をわずかに上げ、引きつった笑みを浮かべた。後ろから入籍について楽しそうに話す声がずっと聞こえ、耐えられなくなった琴音は鞄を掴むと、逃げるようにトイレへ駆け込んだ。鏡に映る顔は真っ青で、目も充血している。蛇口をひねり、震える指を冷たい水で洗うが、心に込み上げる痛みを押し流すことはできなかった。どれくらいの時間が過ぎた頃か、耳障り
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第5話

琴音の指先がわずかに震えた。朔弥が突然戻ってくるなど、予想もしていなかった。心の中で波立つ感情を必死に抑え、努めて冷静を装って答える。「オーロラを見に行くんでしょ?さっき、旅行会社から確認の電話があったの」朔弥は一瞬、呆気に取られていた。どうやら旅行のことを完全に忘れていたらしい。額にはまだガーゼが貼られ、顔色はいくらか青白かったが、それでもやはり顔立ちは整っている。「数日前、怪我をして入院したから、何回もメッセージや電話をしたのに、どうして無視したんだ?」朔弥はじっと琴音の目を見つめた。琴音は視線を伏せ、いつも通りの淡々とした声で答える。「携帯を失くしちゃったの」そう言って、そのまま部屋を出ようとした。琴音の冷たい態度に朔弥は眉をひそめ、たまらず琴音を呼び止めた。「それだけか?怪我の具合とか、病気のことは気にならないのか?」琴音は足を止める。もちろん、朔弥が何を期待しているのか理解していた。以前の自分のように、彼の怪我を心配し、心を痛めながら薬を塗り、甲斐甲斐しく尽くしてほしいのだろう。今までの琴音は、朔弥が胃を痛めれば、大雪の中でも薬を買いに走り、朔弥が酔い潰れれば、一晩中眠らずに介抱した。朔弥が肉親を亡くした時も、片時も離れずそばで見守った……だが、自分は馬鹿じゃない。かつて、自分が彼を愛していたのは、朔弥も同じく誠実な愛を返してくれていたからだ。今、彼の心の中には別の誰かがいて、自分への愛が泥で汚されてしまったのなら、もう終わらせるべきだ。「私があなたに関わりすぎるのが嫌だって言ってなかった?」琴音は振り返り、静かな笑みを浮かべる。「だからね、これからは適度な距離を保つから。あなたが話したくないなら無理には聞かないし、やりたくないことを強要もしないよ」まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃が、朔弥に走った。何か言いたかったが、何も言葉が出てこない。なぜなら、琴音が放った言葉は、かつて自分が琴音に投げつけた言葉そのものだったから。張り詰めた空気を、沈黙が支配する。その後、自分でもなぜかわからないまま、朔弥は琴音を追って寝室に入った。朔弥はドアの前で立ち尽くし、黙々と荷造りをする琴音の背中を見つめながら、胸が押し潰されるような苦しさに襲われていた。「2ヶ月前、お前の誕生日
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第6話

周囲の心ない噂話が、琴音の心に深く刺さる。自分の隣で、自信に満ち溢れる朔弥の横顔を見上げ、琴音は自分が何だかとても滑稽に思えた。世間から見れば、自分たち二人は憧れの夫婦なのかもしれない。だが、この結婚自体が嘘で塗り固められていたことを知っているのは、琴音しかいないのだ。朔弥は紗良の存在を忘れてなどいなかったし、自分たち二人の間には、一生埋まることのない溝があるのだから。一度離れた心は戻らない。ましてや、壊れた家庭が再び幸せを取り戻すことなどあり得ないのだ。オークションが終わり、朔弥が電話をとるため、席を立った。スタッフが丁寧に包装されたジュエリーボックスを琴音の手に渡す。ずっしりとした重みで手首がじんと痛んだ。彼女は途方もない価値を持つジュエリーを抱えて外へ向かったが、角を曲がったところで、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。個室のドアの隙間から、涙目で朔弥の手を振り払う紗良の姿が見えた。「残業って嘘までついて、結局琴音さんをオークションに連れてきてたの?」紗良が泣きそうな声で訴える。「もし、私が結婚指輪をここに選びにこなかったら、そのまま隠し通すつもりだったの?!」朔弥がため息をつき、その濡れた瞳を指で優しく拭った。「残業なのは本当だよ。会社にはこの後すぐ戻るから。琴音を連れてきたのは、誕生日祝いがまだだっただけ。怒らないで」琴音は、ドアの隙間から紗良の表情が、次第に穏やかになっていくのを眺めていた。「じゃあ、どうして先に言ってくれなかったの?」紗良は朔弥の袖を掴んで揺さぶる。「私が欲しかった結婚指輪まであなたが入札した。もう、本当むかつくんだけど」「俺が悪かったって」朔弥は愛しそうに紗良の頭を撫でた。「その指輪は、また後でお前にやるから」「それに、あのサファイアのネックレスも……」「ああ」「ヒスイのブレスレットも素敵だった……」「全部お前にやるよ」琴音は重たいジュエリーボックスを手に、口角を歪めた。紗良が些細なことで機嫌を損ねても、朔弥は理解を示し、受け入れ、自分から謝る。なのに、それが自分になると、ただ一言聞いただけなのに、「無理難題を押しつけている」「わがままを言っている」と片付けられてしまうのだ。紗良が欲しがるものは何でも即座に用意する。自分のための誕生日プレゼントですらも、
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第7話

2日後、ようやく琴音の熱は下がった。退院のための荷物をまとめていたとき、突然携帯が震えた。紗良から長文が送られてきた。【あなたって、本当に可哀想。あなたと朔弥は入籍なんてしてなかったのよ。知ってた?朔弥はそもそもあなたと結婚するつもりなんてなかったから、ずっと嘘をつき続けていた。大好きだった夫に裏切られるなんて、惨めだと思わない?私のこと、あなたたちの家庭を壊した浮気相手だって思ってるんでしょ?だったら、教えてあげるよ。朔弥はね、私と正式に入籍するって決めてくれたの。明日の朝、朔弥は私と役所に行ってくれるんだって。だから、これからは私こそが朔弥の妻で、あなたこそが愛人なんだから!】紗良からの挑発に対し、琴音は冷静に携帯をしまい込んだ。その瞳には、もう何の感情も映っていない。琴音は堕胎手術をしてくれた担当医の元を訪ね、頼んでいたエコー写真を受け取ると、業者に依頼して役所へ届けさせるよう手配した。すべてを済ませ、琴音は退院の手続きをとった。自宅に戻ると、すでに朔弥が帰宅しており、テーブルの上には自分へのプレゼントだという品々が積み上げられていた。以前なら、大切にされていると喜んでいただろう。だが、今はもう分かっていた。朔弥はただ罪悪感を、プレゼントという形で、誤魔化しているだけなのだと。琴音はちらりと目を向けただけで、特に気にすることもなく、「ありがとう」とだけ伝えて寝室へ向かった。朔弥が琴音を呼び止めた。「琴音、最近いろんなプロジェクトでトラブルが起きてて、ずっと会社にいなくちゃいけないんだ。だから、一人で先に南極に行っててくれないか?向こうの滞在の手配は全部済ませてあるし、世話係も同行させる。会社のことが落ち着いたら、俺もすぐに合流するから。いいかな?」朔弥に背を向けながら、琴音は力なく笑った。仕事を言い訳にして、実際は紗良と婚姻届を出すつもりなんでしょ?ねえ朔弥。16歳のあなたは、26歳になった自分がこんなふうに私を裏切るなんて想像したかしら?「いいよ」琴音は振り返りもせずに、静かに答えた。朔弥は固まった。用意していた言い訳や甘い慰めの言葉が喉につかえ、何も言葉が出てこない。素直に受け入れた琴音の態度が、どこか他人みたいで不安に襲われる。朔弥が何か言おうとしたその時、紗良から【足を
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第8話

なぜだか分からないが、胸がざわつく。その中に入っていたのは、エコー写真だった。一枚の書類も添えられている。【妊娠12週、死産】日付を見ると、それは二人が最後に喧嘩をした3日後のことだった。朔弥の瞳が見開かれ、全身からは血の気が引いていく。心臓の激しい鼓動だけが耳に響き、目の前が真っ白になる。手にした書類を、今にも引きちぎりそうだった。「何だこれは……」すると、足元に一通の手紙が落ちた。【愛は永遠だって信じていたけど、人の心は変わるのね。最後に、我が子の写真だけ送ってあげるわ。二度と探さないで。これで終わりにしよう】琴音との子供……いつの間にかこの世から消えていたなんて。自分はその存在さえ知らなかった。「何これ?」紗良も不思議そうに紙をのぞき込んだ。朔弥ははっと我に返り、紗良を突き飛ばした。「3ヶ月……あの時、琴音のお腹には俺の子がいたのか?」朔弥の声は掠れ、ひどく震えている。紗良は顔色を変え、慌ててその紙を奪おうとした。「嘘よ!私たちを邪魔したいからって、きっと彼女が偽物を用意したんだわ!」パシッ、と音が響く。朔弥が激しく紗良の手を振り払ったのだ。その衝撃で紗良はよろけ、手首には赤い跡ができた。初めて見せる朔弥の冷徹な姿に、紗良は凍りついた。「偽物だと?」朔弥は下に落ちてしまった手術同意書を拾い上げる。署名欄に書かれた琴音のサインは、ひどく震えていた。「琴音が入院した日、あいつは6回も電話をかけてきた。でも、俺はお前といて、手術の前夜にはお前の結婚式に行って……」朔弥はまるで自らを責め立てるように、言葉を吐き出していた。朔弥が見ようとしていなかった事実が、次々と頭をよぎる。日に日にやつれていく琴音の頬、琴音がずっと自分から目を逸らしていた理由、一人で階段さえ満足に上れなかったあの弱々しい背中……嫉妬で怒っていたわけではない。自分が琴音を、そうなるまで追い詰めていたんだ。「近寄るな……」憎悪と怒りが渦巻く瞳で、朔弥は叫ぶ。「お前、琴音が妊娠してたこと、知ってたんじゃないのか?!」朔弥の予想外の激昂に震え上がり、紗良は泣き出しそうな顔で首を振った。「し、知らないよ……朔弥、一体どうしちゃったの?」朔弥は紗良を無視して、記憶を辿った。琴音の病院へ向かう背中、絶望に満
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第9話

広い社長室に座る朔弥は、充血した目でパソコンの画面に並ぶ膨大なデータを追っていた。3日間、一睡もしていない。神谷グループの人脈を総動員し、多額の費用で探偵まで雇ったが、琴音の痕跡は全く掴めなかった。疲れを滲ませた様子の秘書・山本純一(やまもと じゅんいち)が口を開く。「社長、二宮さんのマイナンバーや銀行口座はすべて解約され、SNSのアカウントも消去されています。まるで、この世界から跡形もなく消えてしまったようです」朔弥は関節が白くなるほど、拳を強く握りしめた。以前はいつも後ろについて歩き、海外旅行の予定さえ逐一報告してくれた琴音が、今回は完全に自分の世界から消え去る決断をしたらしい。社長室のドアが静かに開いた。琴音が以前好んでいたピンク色のワンピースを着た紗良が、野菜スープを持って入ってくる。「朔弥、野菜スープを作ったの。もう何日もまともな食事をしていないでしょ?」紗良は琴音の優しい話し方を真似ながら、朔弥にお椀を差し出した。だが、朔弥はまるで熱湯にでも触れたかのように体をのけぞらせた。「誰がここに入っていいと言った?」紗良は手を宙に浮かせたまま、笑顔を強張らせた。彼女は朔弥と籍を入れて以来、徹底して琴音の真似をしていた。朝は蜂蜜レモンティーを用意し、夜の書斎には朔弥のために灯りをつけ、服装から愛用の香水まで琴音と同じにした。それでも返ってくるのは冷ややかな目だけだった。「疲れてると思って……」と小声で弁解し、もう一度スープを差し出す。「持っていけ」朔弥の声は氷のように冷たい。「俺は、セロリが苦手なんだ。琴音なら、絶対に入れない」朔弥がそう言い終わるや否や、二人は固まった。紗良の顔がみるみるうちに、青ざめていく。また琴音……ここ数日、朔弥は書類に目を通しながら独り言を言い、食事の際には空席を見つめ、寝言ではその名を呼んでいた。紗良はこみ上げる怒りを必死に抑え、野菜スープを机に乱暴に置いた。「あなたの妻は私なの!ねえ朔弥、どれだけ頑張れば、私のことを見てくれるの?」だが朔弥は相手にもせず、部屋を出て行った。外の空気を吸わなければ、息苦しさで、狂ってしまいそうだったから。帰宅すると、屋敷が異様なほど静かに感じられた。使用人の話によれば、紗良が琴音の寝室を模様替えし、紗良の
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第10話

飛行機がF国に着陸すると、外は霧雨だった。琴音はスーツケースを引きながら空港を出る。異国の冷たい風に触れ、ようやく朔弥から完全に離れられたのだと実感した。自分は今日から、この土地で生きる一人の名もなき人間。残りわずかな貯金で、琴音は古い町並みのマンションを一室借り、丸3日かけて部屋を整えた。数少ない洋服をクローゼットに入れ、フリーマーケットで買った画材をデスクの前に並べた。そして最後に、あの偽物の婚姻届受理証明書を茶封筒に入れ、そっと書斎の金庫の中へとしまい込んだ。すべてを終えると、ようやく自分を取り戻せたような気がした。F国に発つ前に申請していた、美術デザインを専攻するための大学から、今日合格通知書が届いた。学費と家賃を稼ぐため、琴音は大学の近くにあるギャラリーでアルバイトを始めた。そのギャラリーは細い路地の奥にひっそりと佇んでおり、扉を開けると鈴がチリンと鳴って、中にはほのかに良い香りが漂っている。琴音の仕事は作品の整理や、時折訪れる客の対応だった。彼女はいつも前髪で顔を隠すようにうつむき、静かに黙々と作業をこなす。平穏な日々が流れていたが、ある土砂降りの午後、一人の男がやってきた。トレンチコートを着て、何やら古そうな絵を脇に抱えたその男は、凛々しい立ち姿で、優しく微笑んでいる。「何かお探しでしょうか?」そう尋ねる琴音に、男は優しく笑い、手を差し出した。「東雲晴臣(しののめ はるおみ)。このギャラリーのキュレーターだよ」琴音の頬が一瞬で赤く染まる。「すみません!大変な失礼を!」晴臣は温かい目で微笑んだ。「最近忙しくてなかなか来られなかったけど、これからちょくちょく会うことになると思うよ」その日以来、二人はたびたび芸術について語り合うようになった。最近、晴臣が古い作品の修復作業に追われていた時、琴音は傷んだ一枚の絵の前で足を止めた。晴臣が優しく声をかける。「何を考えているのかな?」琴音ははっとし、慌てて目を伏せた。「すみません。勝手に見たりして……」晴臣はふっと笑うと、指先で画を軽く叩いた。「気にしないで。そんな風に食い入るように見てくれるなんて、芸術的センスがある証拠だよ」琴音の指についた乾ききらない絵具と、テーブルに広げられたラフ画に、晴臣の目が留まる。「絵を描くの
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