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第39話

Auteur: 明かり
心の中では、もうわかっていた。最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた。

それでも、彼の言葉だけが現実を拒絶していた。残酷な現実を受け入れようとしなかった。

一聖は分娩室に飛び込んだ。そこには医療器具の後片付けをしている医師たちがいるだけで、分娩台の上に藍里の姿はなかった。

手術台の上に横たわっているはずの藍里が、完全に消え失せていた。

「さっきまでここにいたのに、なんで突然いなくなるんだ!」

血相を変えて飛び出してきた一聖は、医師たちに激しく詰め寄った。

「どこか別の部屋に移したんだろう。騙せると思うな。藍里を返せ!」

医師たちが必死に一聖の体を抑え込みながら、落ち着いた声で説明した。

「滝沢様、どうか落ち着いてお聞きください。私たちが奥様を隠しているのではありません。彼女は――最初から、ここにはいなかったのです」

「そんなはずはない。ずっと一緒にいた。プレゼントだってたくさん買った。公園にも行った。庭の温室にも一緒に行ったんだ……」

言いかけた途端、何かに気がついた。

熱い涙が頬を伝い、もうとめどなく溢れて止まらなくなった。一粒また一粒と落ちて、胸元を濡らしていく。

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    瑛子が担当医師に尋ねると、一聖のようにずっと意識が戻らないケースは、過去にも例があったという。残酷な現実と向き合うことを心が拒絶し、そのまま深い眠りの中に逃げ込むことを選んでしまうのだ。心因性の昏睡に近い状態と言ってもいい。「唯一の方法は、患者に声をかけ続けることです。できれば、ご本人が一番大切にしている人の声で。ただし、目を覚ましたときに感情がまだ不安定なままであれば……正直なところ、このまま眠り続けているほうが、ご本人にとっては楽なのかもしれません」だが瑛子には、息子をこのまま病床で眠ったままにしておくという選択肢などなかった。何としてでも目を覚まさせたかった。あらゆる手を尽くして、こちらの世界へ呼び戻したかった。彼が一番大切にしている人……それはもう、この世にはいない藍里しかいない。自分が母親でありながら、自分こそが息子にとって一番大切な人間だという確信が持てなかった。それでも瑛子は毎日病室へ足を運び、一聖と藍里がこの十ヶ月間ともに過ごした幻の出来事を、ひとつひとつ丁寧に語り聞かせた。母としてのその言葉で、一聖の意識を現実へと引き戻そうとした。その日も、いつもと同じように病室のドアを開いた。彼の好物の食事も作って持ってきた。期待に胸を膨らませて病室のドアを押し開けると、ベッドには、乱暴にはねのけられたシーツと布団だけが残されていた。洗面所、廊下、中庭。院内で一聖がいそうな場所をすべて探し回った。だが、どこにも姿はない。跡形もなく消え失せていた。瑛子はすぐに悟へ連絡を入れ、人を手配して探させた。自分は病院の警備室に駆け込み、防犯カメラの映像を確認した。そこには、ふいに目を覚ました一聖がひとりで病室を出て、病院の前に停まっていたタクシーに乗り込んでどこかへ去っていく姿が映し出されていた。知らせを受けた悟も仕事を投げ打って捜索に加わった。自宅も、心当たりのある場所も、片っ端から確認して回った。それでも、どこにも見つからなかった。そのとき、瑛子の脳裏に不意にある場所が浮かんだ。幻想の中で藍里と幸せな日々を過ごしていたあの頃、一聖が買い求めた海辺の別荘だ。目を覚ました一聖が向かうとしたら、十中八九、そこだと思った。夫にすぐさまそれを告げ、自分も急いで車で向かった。悟の車が現地に近づいたとき、遠く

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    心の中では、もうわかっていた。最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた。それでも、彼の言葉だけが現実を拒絶していた。残酷な現実を受け入れようとしなかった。一聖は分娩室に飛び込んだ。そこには医療器具の後片付けをしている医師たちがいるだけで、分娩台の上に藍里の姿はなかった。手術台の上に横たわっているはずの藍里が、完全に消え失せていた。「さっきまでここにいたのに、なんで突然いなくなるんだ!」血相を変えて飛び出してきた一聖は、医師たちに激しく詰め寄った。「どこか別の部屋に移したんだろう。騙せると思うな。藍里を返せ!」医師たちが必死に一聖の体を抑え込みながら、落ち着いた声で説明した。「滝沢様、どうか落ち着いてお聞きください。私たちが奥様を隠しているのではありません。彼女は――最初から、ここにはいなかったのです」「そんなはずはない。ずっと一緒にいた。プレゼントだってたくさん買った。公園にも行った。庭の温室にも一緒に行ったんだ……」言いかけた途端、何かに気がついた。熱い涙が頬を伝い、もうとめどなく溢れて止まらなくなった。一粒また一粒と落ちて、胸元を濡らしていく。藍里とのあの愛おしい会話は、すべて虚空に向けた彼の独り言だったのだ。彼女のために用意した料理を捨てたのも、自分自身だった。温室の花に水をやっていたのも、一聖自身。公園へ行き、ベンチに座っていたのも、ただひとりだったのだ。一聖の記憶の中にある藍里にまつわるすべての出来事は、すべて自分で行い、それを「藍里がしたこと」に脳内で巧妙にすり替えていただけだった。後から、医師が沈痛な面持ちで瑛子に説明した。「このような患者さんは、記憶の中のすべての人物と出来事を、ご自分の中で整合性のある物語として自動的に再構築してしまうんです。今回の赤ちゃんは、現実には存在し得ない。だから、幻想の中の藍里さんが十ヶ月かけて子どもを産むという出来事を、現実の記憶の中でどうしても当てはめることができなかった。矛盾が生じたその瞬間に、彼を守っていた幻想が完全に崩壊してしまったんです」瑛子は、ベッドに横たわる一聖を心配そうに見つめながら、医師に尋ねた。「先生、あの子が元に戻る方法は何かないんでしょうか」すがるような瑛子の問いに、医師の答えは残酷なほど変わらなかった。「心因性の

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