All Chapters of 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Chapter 81 - Chapter 90

95 Chapters

80.失望の目

昨夜届いた、登録していない番号からの短い返信を、由香は朝から何度も開いていた。ご連絡は若頭へ伝えます。時間につきましては、改めてご連絡いたします。若頭。その呼び方が、胸に引っかかっていた。自分にとっては、迅さんだった。父が話を持ち込み、離婚後はいずれ自分の隣に立つはずだと信じてきた男だった。けれど、久我の文面の中では、由香がどれほど彼を近い存在だと思っていようと、ただ黒瀬の若頭として扱われている。由香がその場へ会いに行くことを願い出ているのではなく、外から用件を持ち込む者として、面会の可否を待たされているようだった。昼を過ぎても、返事は来なかった。由香は部屋を出る気になれず、鏡台の前へ座ったまま時間を潰していた。昨夜、父との履歴を見返してから、何かを考え始めるたびに、画面の中に残る自分の言葉が浮かんでくる。迅さん、明日は外の会合みたいやで。二代目の検査、来週らしいわ。坂下さん、昔からの取引先の人と話してたみたい。美緒さん、今は実家の店に戻ってるみたい。三嶋洋服店って、古いだけの小さい店やろ。父に聞かれたから答えただけだと、何度も思おうとした。けれど、自分から送った文面まで見つけてしまった今、その言葉だけで胸を塞ぐことはできなかった。父は、自分に必要だから聞いたのだ。迅の隣へ立つ女として、黒瀬の家のことを知らなければならないから。由香はそう信じたかった。迅に会えば、まだその信じ方を捨てずに済むかもしれない。自分がしたことは、黒瀬を傷つけるほどのことではなかったと、迅が言ってくれるかもしれない。父が尋ねたのも、娘の婚姻を思ってのことだったのだと、迅の態度から確かめられるかもしれない。そんな期待が、胸の奥のどこかに残っていた。夕方近くになって、スマートフォンが震えた。表示されたのは、昨夜と同じ登録していない番号だった。由香は、息を止めるようにして画面を開いた。本日十八時三十
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81.娘ではなく、窓口

黒瀬興業の玄関を出た瞬間、湿った夕気が由香の頬へまとわりついた。外はまだ完全な夜ではなかった。西の空には濁った橙色が細く残り、道路沿いの看板や信号の灯りが、暮れかけた街の中で一つずつ輪郭を強め始めている。迎えの車は、少し離れた場所に停まっていた。由香は、そこまでの短い距離を、どのように歩いたのか覚えていなかった。踵が舗道を叩く音も、道を走り抜ける車の音も、自分の耳には遠く感じられた。ただ、バッグの中に入れたスマートフォンだけが、身体の一部のように重かった。消すな。迅の声が、何度も蘇る。今すぐ俺に渡せとは言わん。けど、消して何もなかったことにできる話やない。由香は、車の後部座席へ乗り込んだ。運転手がミラー越しにこちらを見て、発進の確認をしようとした。由香は、その前に声を出した。「……少し、待って」運転手は、すぐに頷いた。「かしこまりました」「ちょっと、一人にしてほしいの」自分の声が、思った以上に弱く聞こえた。運転手は何も尋ねず、車を近くの時間貸し駐車場へ入れた。白線の内側へ車を収め、エンジンと冷房だけを残して外へ出ていく。少し離れた場所で待機するつもりなのだろう。扉が閉まる。車内には、冷房の風が流れる音だけが残った。由香は、座席の背にもたれることができなかった。両手でバッグを抱えたまま、前屈みの姿勢で膝元を見つめる。黒瀬の応接室を出るまで、泣くものかと思っていた。久我の前で、惨めな顔を見せるものかと思っていた。迅にどれだけ冷たく問われても、自分は岩本の娘であり、少しも取り乱さずに帰れる女なのだと示したかった。けれど、誰も見ていない車内へ入った途端、その意地が身体を支えなくなった。迅の目が、まだ目の前にあるようだった。怒りではなかった。由香が泣けば揺らぐような、感情の熱でもなかった。美緒と自分の間で迷っている男の
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82.店ではない場所

裁ち台の上で、薄物の袖がかすかに揺れた。店の奥まで届くほど強い風ではない。表のガラス戸が開くたび、外の熱を含んだ空気が細く入り込み、作業台の上に広げた淡い布の端だけを撫でていく。美緒は、仮縫いのために留めていたしつけ糸の一本へ指を添えた。玲子から預かった薄物は、ようやく羽織の形を見せ始めていた。古い生地のやわらかさを損なわないよう、裏側へ掛ける力を抑え、衿の立ち上がりが重くならないように整えてある。まだ完成には遠い。けれど、布を広げたばかりの頃には見えなかった、着る人の肩へ落ちていく線が、今は確かに浮かび始めていた。美緒は、衿元の待ち針を一本だけ差し直した。その時、作業台の脇に置いていたスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見た途端、指先の動きが止まる。桂木玲子。美緒は、薄物へ触れていた手をそっと離した。布を扱う指のまま、別の話を受け取ってはいけないような気がした。掌へついた細かな糸屑を払い、短く息を整えてから、通話へ応じる。「はい。三嶋です」「美緒さん。お仕事中でしたか」玲子の声は、以前と変わらず穏やかだった。けれど、その声を聞いた瞬間、美緒の胸の奥には、自然と緊張が走った。「はい。薄物の仮縫いを進めてました」「そうですか。手ぇ止めさせてしもうて、すみませんね」「いえ。大丈夫です」玲子は、すぐには次の言葉を続けなかった。美緒は、その沈黙の中に、仕事の進み具合を尋ねるためだけの電話ではない重みを感じた。裁ち台の上の布が、午後の光を受けて静かに透けている。美緒は、待ち針へ触れそうになった指を、膝の前で握った。「美緒さん」「はい」「先日の話、黒瀬の佳穂さんと、きちんと合わせる席を設けます」一瞬、店の音が遠くなった。表で母が伝票を揃える紙の音。奥で父がアイロンを置く気配。外を通り過ぎる自転車のベル。それらの間に、佳穂の名だけが、はっきりと落ちた。佳穂と会う。そういう日が来る可能性を
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83.並べられた糸

卓の中央へ寄せられた二つの書類入れは、どちらも驚くほど薄かった。厚みだけを見れば、これほど空気を重くするようなものには思えない。梓が本家から持参した黒の書類入れと、玲子の手元にあった生成り色の封筒。その間に、冷茶の器が行儀よく置かれている。障子越しの夏の光は、先ほどよりも少し弱くなっていた。庭の蝉の声も、夕刻へ向かうにつれて遠のいている。料亭の個室には、仲居が下がった後の静けさと、かすかな白檀の香だけが残っていた。佳穂は、膝の上で重ねた手に、知らず力が入るのを感じた。自分たちが持ってきた書類の中身は知っている。由香が本家で何を口にし、何を尋ね、どの場面で梓が違和感を覚えたのか。表情や言い方への印象は避け、日時と発言だけを残すよう梓に伝えたのは佳穂自身だった。由香を気に入らないから記録を取ったのではない。そう思いたかった。自分はあくまで、黒瀬本家を預かる者として、不自然なことを不自然なまま残しておいただけだと。けれど、美緒が目の前に座る今、その言い分だけで自分の胸を守ることはできなかった。美緒は、玲子の側へ寄せられた座布団に、姿勢を崩さず座っている。先ほど佳穂を「お義母さま」と呼んだ声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。離婚したからといって、佳穂が教えたことまで消えたわけではない。だからこそ、美緒はここにいる。黒瀬の嫁としてではなく、三嶋洋服店の娘として、自分が知ってしまったことから目を逸らさずに座っている。その姿を見れば、胸の内から詫びたい言葉が込み上げる。けれど、今、佳穂が先に口にすべきなのは謝罪ではなかった。美緒へ許しを求める前に、黒瀬の中で何が起きていたのかを、一つも曖昧にせず差し出さなければならない。玲子が、卓上の資料へ視線を落としたまま口を開いた。「まず、黒瀬さんの中で見えていたことを、お聞かせください」声は柔らかかったが、場の線を引く響きがあった。「うちで確認したことへ合わせる必要はありません。いつ、誰が、何を聞いたのか。それだけで結構
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84.桂木が預かる

同じ料亭の、同じ個室だった。けれど、卓の上に置かれるものも、そこへ集まる人間の重みも、先日の席とは異なっている。障子の向こうでは、夕方の庭へ打ち水がされていた。水を含んだ石の匂いが、わずかに冷えた空気へ混じって届く。陽はまだ落ち切っていないが、庭木の影は濃く、座敷に入る光も前より落ち着いていた。桂木玲子は、卓の端へ置かれた冷茶にはまだ手をつけず、向かいに座る美緒を見ていた。美緒は、深く静かな色のワンピースを着ていた。目立つ装いではない。けれど、衿元も袖もきちんと整えられ、髪も低くまとめられている。手元には小さなバッグだけがあり、その上へ重ねた指は、崩れてはいなかった。三嶋洋服店で仕事をしてから来たのだろう。袖口の近くに、布を扱う者の指の癖が残っているように玲子には見えた。針を持ち、糸を引き、傷みを確かめながら布を仕立てる手。その手で、美緒は自分の家に伸びてきたものを知り、それでも今日ここへ来た。玲子は、余計な労わりを口にしなかった。美緒へ、無理をしなくてよいと言うことはできる。けれど、すでに知ると決めた者へ、耐えられるかどうかを外から決めるのは違う。守るために外すことが、どれほど人を傷つけるのかを、美緒はすでに身をもって知っている。「今日は、黒瀬さんが、ご自分の側のものを持って来はります」玲子は、静かに告げた。美緒は、わずかに顔を上げた。「はい」「前より、重い話になります」美緒は、一度だけ息を整えた。その目が、玲子の前に置かれた空の場所へ向く。先日はそこへ、佳穂と梓が持参した記録と、玲子の外で掴んだ控えが並べられた。今日は、そこへさらに何が置かれるのか。美緒は、その意味を理解した上で、目を逸らさなかった。「分かっています」声は小さかったが、はっきりしていた。「聞かせてください」玲子は、短く頷いた。ほどなくして、廊下の向こうに足音がした。障子の前で仲居が声を控えめに掛け、戸が開かれる。
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85.戻るためではなく

障子が閉じられたあとも、男たちの気配はしばらく座敷に残っていた。祐一郎が座っていた座布団。久我と坂下が資料を差し出した卓の端。玲子の手元へまとめられた、幾枚もの写し。冷茶の氷はとうに溶けかけているのに、誰も器へ手を伸ばさなかった。障子の向こうでは、夕暮れの庭に明かりが入り始めていた。打ち水を含んだ石が淡く光り、蝉の声に混じって、少しずつ夜の虫の音が聞こえ始めている。美緒は、膝の上で両手を重ねたまま、閉じられた障子を見ていた。お義父さまは、黒瀬の責任として逃げないと言った。三嶋の店まで巻き込んだことを、迅一人の判断で済ませる話ではないと認め、深く頭を下げた。桂木玲子は、黒瀬側から差し出された資料を預かった。岩本と真砂へ向き合うための筋は、確かにこの場で形になった。けれど、それで胸の奥に積もっていたものが、きれいにほどけたわけではなかった。父と母の店が、誰かの都合で揺さぶりの材料に数えられていたこと。迅が、自分へ何も話さずに離婚を決めたこと。黒瀬の誰も、自分に選ぶ余地を渡してくれなかったこと。その一つ一つは、証拠が揃い、責任が認められたからといって、最初からなかったことにはならない。美緒は、自分の手元へ視線を落とした。指先には、店を出る前まで触れていた布の感触がまだ残っているようだった。玲子の薄物へ針を進めていた指で、今は自分が失ったものと、守らなければならないものの重さを受け止めている。その時、玲子が静かに口を開いた。「佳穂さん」佳穂は、玲子を見た。玲子は、卓の上へ揃えた資料に手を置いたまま、穏やかに続ける。「ここから先は、うちが先に口を挟むところやありませんね」佳穂の表情が、わずかに変わった。美緒は、そこでようやく気づいた。祐一郎たちが席を立っても、佳穂と梓が残っている理由を。まだ終わっていない。黒瀬の側が責任を認め、桂木が証拠を預かるという話とは別に、佳穂が美緒へ言
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86.守ると言う資格

黒瀬本家へ戻った時には、夜の気配がすでに庭の奥まで降りていた。門をくぐる車のヘッドライトが、植え込みの葉を一瞬だけ白く浮かび上がらせ、そのまま車寄せの前で消える。迅は後部座席の扉を開け、外へ降りた。蒸した空気が、首元へまとわりつく。昼間に積もった熱はまだ石畳に残っていたが、本家の中はひどく静かだった。玄関の明かりはいつも通り点いている。廊下の奥にも、人の気配はある。だが、そこに暮らしの音はほとんどなかった。先ほど、移動中の迅へ久我から連絡が入った。「若頭。奥さまがお呼びです」普段なら、佳穂が迅を直接呼びつけることはほとんどない。必要な用件があれば梓を通すか、食事の席で自然に伝える。まして、久我を使って本家へ戻るよう告げるなど、よほどのことがない限りあり得なかった。「親父のことか」電話口で尋ねた迅に、久我はすぐに答えなかった。その僅かな間が、胸に重く残っている。「本家の奥の書斎へ、お越しください」それだけだった。祐一郎の身体に、何かあったのか。検査の後から、父の疲れが増していることは迅も知っていた。本人は表へ出さないが、長く座っているだけで呼吸が浅くなる時がある。だからこそ、自分が前へ出られる部分は出るつもりで動いていた。それなのに、由香へ父の検査日を渡していた可能性を突きつけた時、自分は、祐一郎の体調が外へ漏れることの意味を初めて別の角度から見た。父を案じる話ではない。誰が、いつ、黒瀬の中で動けなくなるのか。誰が不在となり、どこに隙が生まれるのか。それを外の者に渡す話だった。迅は、靴を脱ぐと、そのまま奥へ進んだ。廊下の照明は落とされ、必要な場所だけが淡く照らされている。父の書斎へ向かう途中、梓の姿は見えなかった。いつもなら、佳穂が人を呼ぶ時には、梓が先に動いている。今夜はそれすらないことが、かえって不穏だった。障子の前で一度足を止める。「迅です」「入りなさい」返ってきたのは、佳穂の声
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87.最後まで、入れてください

料亭の暖簾を出たあとも、美緒はしばらくその場から動けなかった。夜の大阪には、昼の熱がまだ残っている。大通りを走る車の音、信号が変わるたびに動き出す人の足音、路地の向こうで漏れる店の明かり。そのどれもが普段と変わらないのに、美緒の身体の内側だけが、静かに別の場所へ進み始めていた。あなたを戻すためではなく、あなたが立てるように、私は動きます。佳穂の声が、まだ耳に残っている。黒瀬へ戻れと言われたのではない。迅を許せと言われたのでもない。もう一度、迅の妻として振る舞えと求められたわけでもない。自分の言葉で、由香の前へ立てるようにする。そう言ってもらえた。離婚を告げられた時には、与えられなかったものだった。何も知らされず、何も選べず、ただ黒瀬から外された自分に、ようやく返されたものだった。美緒は、バッグからスマートフォンを取り出した。連絡先を開く。指が、一つの番号の上で止まる。長く触れていなかった番号だった。登録名を見ただけで、背中の奥がかすかに疼くような気がした。雨の匂いが記憶の中に戻る。まだ黒瀬の姓を名乗っていた頃、誰にも告げずに訪れた場所。細い階段を上がり、覚悟だけを抱いて戸を開けた。迅の背中にある不動明王を知ったあと、自分もただ守られるだけではなく、彼の隣へ立てる人間になりたいと思った。だから、弥勒菩薩を選んだ。静かに、しかし逃げずに、背負うものを受け止めるための姿として。けれど、その図柄は途中で止まった。迅が、美緒へ何も話さないまま離婚を決めたから。自分が黒瀬の妻ではなくなったあと、続きを入れる意味など、もうないと思ったから。美緒は、画面に映る番号を見つめた。黒瀬へ戻るためではない。迅に見せるためでもない。由香へ見せつけるために刻むのでもない。自分で選んだものを、誰かの決断によって途中のまま終わらせたくなかった。美緒は、通話ボタンを押し
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88.呼ばれた客間

スマートフォンが震えたのは、午後の光が部屋の奥まで差し込み、鏡台の上の硝子瓶を白く照らしていた頃だった。由香は、ソファの端に座ったまま、膝に置いていた雑誌から視線を上げた。紙面を開いてはいたが、何ひとつ読んでいなかった。ここ数日、何をしていても集中できない。テレビを点けても音だけが流れ、買い物に出ようとしても玄関で気が変わる。人に会う気にもなれず、父のいる居間へ降りることさえ避けていた。画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥が強く跳ねた。黒瀬佳穂。由香は、すぐにはメッセージを開けなかった。佳穂から直接連絡が来ることなど、これまでほとんどなかった。本家へ顔を出す時も、日取りを合わせる時も、必要な連絡は梓を通すことが多かった。佳穂が自分の端末から、由香へわざわざ文面を送ってくる。それだけで、軽い用件ではないことが分かる。画面を開く指が、微かに冷たくなった。由香さん。迅との今後について、本家で確認させていただきたいことがございます。明後日の午後二時に、こちらへお越しください。私から直接、お話しいたします。文字は、丁寧だった。責める言葉はない。岩本の名も、父のことも、自分が迅に問われたことも書かれていない。ただ、「迅との今後」とある。由香は、そこだけを何度も見た。迅との今後。それは、終わらせるための話だろうか。それとも、まだ何かを言える場が残っているということだろうか。由香は、画面を持つ手へ力を込めた。迅に会った日以来、彼から連絡はない。由香から送ることもできなかった。会ってくれたことへ縋りたかったのに、あの応接室で向けられた視線を思い出すたび、指は動かなくなった。怒鳴られたわけではない。罵られたわけでもない。だからこそ、あの静かな目を忘れることができなかった。自分が泣けば、何かが変わる男の目ではなかった。弁解すれば、まだ自分を抱え直してくれる男の目でもなかっ
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89.聞かれたから、答えただけ

由香は、すぐには返事をしなかった。佳穂の言葉が落ちたあと、客間には、庭の葉を揺らす風の音だけが薄く届いていた。障子越しの光は、少しずつ傾き始めている。由香の前に置かれた冷茶の器には、細かな水滴が浮いたままだった。指を伸ばせば届く距離にあるのに、由香は一度もそれへ触れようとしない。膝の上に置かれたバッグの持ち手だけを、白くなるほど強く握っている。佳穂は、その指先を見た。怯えているのだろう。迅との話を進めるためではなく、自分が黒瀬で得たものを、実家へどう渡したのか確認するために呼ばれたのだと、ようやく理解した顔だった。だが、その怯えに手を差し伸べることはできない。美緒は、もっと長い間、何も知らされないまま傷つけられていた。自分の実家がどこまで見られていたのかも、自分がなぜ離婚されなければならなかったのかも知らされず、ただ黒瀬の外へ出された。その美緒が、今は由香の向かいに座っている。背筋を崩さず、顔を伏せることもなく。佳穂は、由香が口を開くまで待った。由香の視線が、わずかに迅へ動く。端の席に座る迅は、何も言わなかった。由香を睨みつけることも、責めることもない。ただ、佳穂が進める場を遮らず、静かに座っている。その沈黙に気づいたのか、由香の喉が小さく動いた。「……確認とは、どういうことでしょうか」声はまだ丁寧だった。けれど、先ほどまで無理に保っていた余裕は、もうそこにはなかった。「私は、何か誤解を受けているのでしょうか」誤解。佳穂は、その言葉を胸の内で受け取った。由香は、まだ自分が責められる側だとは認めていない。何かが行き違っただけであり、自分が説明すれば戻せるものだと思いたいのだろう。佳穂は、由香の言葉を否定しなかった。「誤解かどうかを決めるためにも、まず事実を伺います」由香の表情が、かすかに固まる。「こちらから、順にお尋ねいたしま
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