All Chapters of 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Chapter 61 - Chapter 70

95 Chapters

60.桂木という人

午後の光が、簾を通して作業台の上へ細長く落ちていた。三嶋洋服店の表通りは、八月に入ってさらに白く乾いて見える。通りの向こうでは、自転車で買い物に来た女が、片手で額の汗をぬぐいながら日陰へ寄っていた。近くの商店からは、冷蔵ケースの低い唸りと、客へ声をかける店主の声が、ときおり途切れながら届く。作業場の冷房は控えめにしてあった。古い布を広げる時、強い風で薄紙がめくれたり、軽い生地が不用意に動いたりするのを父は嫌う。美緒も、いつの間にか同じように、作業台の上の空気まで気にするようになっていた。台の中央には、桂木玲子から預かった青灰色の薄物が広げられている。解いて洗い張りされた布は、かつて着物だった時の静かな記憶を残しながら、いまは新しい形へ移る前の長い布片として、美緒の前にあった。透ける地に流れる流水柄と、小さな草花。見る角度によって、柄は前へ浮かび、また布の奥へ沈んでいく。布の左右には、薄紙に描いた二つの仮案を置いていた。一つは、腰より少し下で軽く揺れる羽織ものだった。前を閉じず、肩から自然に落ちる形で、夏の外出や気軽な会食なら扱いやすい。青灰色の透け感を損なわず、以前美緒が仕立てた玲子の洋装へ重ねても重くならないよう、正面の柄は控えめにする案だった。もう一つは、それより丈を長めに取り、膝の少し上で落ち着かせる形だった。背中から脇へ流水柄を長く通せるため、座敷や改まった席で立った時にも、美しい流れが残る。ただ、布の折り跡に見えるわずかな弱りを避けながら裁つには、使える柄の位置が限られる。美緒は、薄紙の一枚を布の上へ慎重に重ねた。直接、線を当てるわけではない。柄の流れと、形にした時の見え方を確かめるためだけの仮置きだった。小さな重しを四隅へ置き、背中に当たる位置へ鉛筆で細い印を加える。正面へ柄を出しすぎれば、玲子の品のある静けさには強すぎる。かといって、柄を抑えすぎれば、この布をわざわざ新たな形へ仕立てる意味が薄れる。美緒は、玲子が以前店へ来た時の姿を思い浮かべた。背筋が伸びているのに、威圧的ではなかった。声を荒らげず、相手の言葉を急かさず、ただその場にいるだけ
Read more

61.二つの封筒

午後の作業場には、布を広げたあとの静けさが残っていた。預かり品の棚には、桂木玲子の青灰色の薄物が収められている。今朝、もう一度状態だけを確かめたあと、必要以上に出し入れしないよう、薄紙ごと箱へ戻した。作業台の上にあるのは、透明なクリアファイルだった。一番前には、依頼主の名と預かり品の内容を記した小さな見出し紙が入っている。その後ろへ、羽織ものの仮案を二種、流水柄と草花柄をどこへ置くか示した図、折り跡付近の弱りを避けるための確認メモ、丈と衿元の選択肢、玲子本人へ確認したいことをまとめた用紙を、順に差し込んであった。美緒は、ファイルの中身を一枚ずつ引き上げ、説明する順番に並んでいるかを確かめた。軽い羽織ものの案。少し丈を長く取り、改まった席でも落ち着いて見える案。どちらを勧めるかは、まだ決めていない。玲子がどのような場へ着て行きたいのか、座っている時間が長いのか、以前仕立てた洋装に重ねるつもりがあるのかを聞かなければ、布の良さだけで形を選ぶことはできなかった。仮案の薄紙の端を揃え、ファイルへ戻す。仕事の資料については、迷いがなかった。玲子に会って、聞く必要がある。その判断は、玲子が桂木会の先代姐であると知る前から変わっていない。美緒が預かったのは、立場を示すための品ではなく、今の玲子が身にまとう服だった。どれほど重い名を持つ人であっても、着る人の身体と暮らしを見なければ、仕立てることはできない。美緒はクリアファイルを閉じ、作業台の左側へ置いた。その隣に、無地の封筒がある。前日に用意したまま、中にはまだ何も入れていない。玲子へ、仕事とは別に話を持っていくのなら。その時に、自分が聞いたことと、まだ分かっていないことを分けて差し出すための封筒だった。美緒は、すぐには触れなかった。クリアファイルの透明な表面には、仮案の線がそのまま見えている。どの案も、布へ手を入れる前の、確認するための形だ。一方、封筒の中へ入れるものは、目に見える布の話ではない。結衣が迷いな
Read more

62.京都へ持っていくもの

昼を過ぎると、表通りの光はいっそう白くなった。三嶋洋服店の硝子戸には、外へ下ろした簾の影が細く揺れている。向かいの店の軒下では、届いた段ボールを運び込む音がし、少し離れた通りでは、配送車が停まるたびに短いエンジン音が響いた。午前中の作業を終えた店の奥は、ひとときだけ静かだった。父が使っていた裁ち台には布が畳まれ、母が帳場で揃えていた伝票も一度脇へ寄せられている。ミシンの音も、アイロンの蒸気が抜ける音も止んでいた。美緒は、自分が使う作業台の端へ、革の鞄を置いた。濃い焦茶の、装飾の少ない鞄だった。黒瀬にいた頃、改まった席へ持つために選ばれた華やかなものではない。書類の角を傷めずに収められ、客先へ持参しても失礼にならない。三嶋洋服店の仕事で外へ出る時に使えるよう、戻ってきてから母と選んだものだった。留め金を外し、口を開く。内側の一方には、透明なクリアファイルが収まっている。玲子から預かった薄物を、今の玲子に合う羽織ものへ仕立てるための資料。仮案を描いた薄紙も、柄を置く位置を示した図も、説明と確認のために必要な順で差し込んである。美緒は、ファイルの端が折れていないことを確かめた。透明な表面の向こうに、描いた線の一部が見えている。まだ裁つ前の、玲子へ見せ、言葉を受け取ってから定めるための形だった。もう一方の仕切りには、無地の封筒が入っている。白くも生成りでもない、淡く落ち着いた色の封筒。表には宛名も題も書いていない。封は、昨夜閉じたままだった。美緒の指は、封筒の縁へ一度だけ触れた。中に何が入っているのかは、分かっている。今、もう一度確かめる必要はなかった。由香への怒りを言葉へ変えたものではない。迅へ戻りたいと訴えるためのものでもない。聞かされたことと、まだ確かではないことと、自分が玲子に見てもらいたいことを分けて収めたものだった。読み返したところで、新しい事実が加わるわけではない。ただ、封筒を開けば、その中に並べた言葉の重さに足を止められるかもしれなかった。美緒は、封が閉
Read more

63.今のあなたに合う形

障子戸が静かに開いた。案内の女性がわずかに身を引き、美緒は鞄を両手で持ったまま、敷居を越えた。応接間には、障子を通した午後の光が淡く満ちていた。外の陽射しは強いはずなのに、この部屋へ届く頃には角が取れ、畳の目や低い座卓の木肌をやわらかく照らしている。床の間には、細い花器に涼やかな緑と白い花が控えめに生けられていた。飾り棚にも、目を奪うような品は置かれていない。ただ、どこへ視線を向けても余分なものがなく、ここで交わされる言葉まで乱れなく収まるように整えられている。部屋の奥に、玲子がいた。淡い灰紫の薄物を纏い、背を伸ばして座っている。髪はきちんとまとめられ、耳元にも手元にも、華やかさを誇るようなものは見えない。それでも、美緒が三嶋洋服店で会っていた時より、玲子の存在はずっと明確に感じられた。店へ来てくれていた時の玲子は、美緒へ服を預ける客だった。ここでは、この部屋も、庭も、案内の女性の所作も、すべてが玲子の静かな意志の中にある。その人が、自分を待っていた。美緒は部屋の入口で膝をつき、深く頭を下げた。「本日は、お時間をいただきありがとうございます」玲子は、穏やかに微笑んだ。「遠いところ、よう来てくださいましたね」電話で聞いたのと同じ、落ち着いた声だった。その声に、先代姐という言葉を知る前の記憶と、知ってからここへ来た緊張とが、胸の中で同時に揺れる。「どうぞ、こちらへ」「失礼いたします」美緒は勧められた座布団の前へ進み、鞄を膝の横へ置いて座った。背筋を伸ばしたまま、両手を膝の上へ揃える。案内の女性が、音を立てずに茶を運んできた。薄い白磁の器に、冷たい茶が注がれている。器の外側には、ごく小さな水滴が浮かび、添えられた小皿には透明感のある一口の水菓子が置かれていた。「暑かったでしょう」玲子が言った。「はい。でも、車で伺いましたので、大丈夫です」そう答えながら、美緒は、自分の声がわずかに硬いことに気づいた。
Read more

64.知ったから、来ました

美緒の膝の上で、無地の封筒は静かに重みを持っていた。先ほどまで座卓の上に広げられていた薄物の仮案は、もうない。透明なクリアファイルへ戻し、鞄の一方の仕切りへ収めた。玲子がどのような席で羽織りたいのかを聞き、長めの形を基本に整え直すと決めた仕事の資料は、ひとまずそこで役目を終えている。座卓の上には、新しく替えられた冷たい茶が置かれていた。涼しげな白磁の器の表面に、細かな水滴が浮かんでいる。障子越しの午後の光は、部屋へ通された時よりもわずかに傾き、畳の上へ落ちる明るさを少しだけ柔らかくしていた。同じ部屋だった。同じ玲子が、変わらず穏やかな姿勢で美緒の前に座っている。それでも、布の柄や丈を話していた時とは、空気の重さが違った。玲子は、美緒を急かさなかった。もう一つの話を聞かせてもらいましょうか、と促したあとは、ただ静かに待っている。膝の上で封筒を持つ美緒の指が、わずかに強く重なっていることにも気づいているだろう。それでも、何が入っているのかを尋ねることも、早く差し出すよう求めることもしない。美緒は、封筒へ視線を落とした。封は、閉じたままだった。中に収めた言葉は、ここへ来る前に何度も確かめた。事実として聞かされたこと。まだ確認されていないこと。自分が玲子に見てもらいたいこと。だが、それを開き、読み上げる前に、伝えなければならないことがある。玲子が何者であるかを知らず、ただ信頼できる客へ困りごとを打ち明けるつもりで来たのではない。かといって、大きな力を持つ人だと知った途端、縋るように訪ねてきたのでもない。美緒は、封筒を両手で支えたまま、ゆっくり顔を上げた。「その前に、申し上げておきたいことがあります」玲子は、わずかに顎を引いた。「はい」短い返事だった。美緒の言葉を待つ声だった。喉が、わずかに乾く。茶に手を伸ばすことはしなかった。いま器へ触れれば、ほんの一瞬でも、自分の言葉を先延ばしにしてしまう気がした。美緒は、玲子の目を見た
Read more

65.封筒の中の事実

「岩本由香さんは、岩本組の組長の娘さんです」美緒は、膝の上で両手を揃えたまま、静かに言葉を始めた。座卓の脇には、玲子が受け取った無地の封筒が、まだ閉じられたまま置かれている。玲子はそれへ手を伸ばさず、美緒の声だけを聞こうとしているようだった。「現在、迅さんの……結婚を前提としたお相手として、黒瀬本家へ出入りしておられます」迅の名を口にした時、胸の奥で痛みが小さく動いた。その痛みを、なかったことにはできない。由香が迅の隣へ入ろうとしている事実を、何の感情もなく話せるほど、美緒はまだ遠くへ来てはいなかった。けれど、いま玲子へ伝えるべきなのは、自分がどれほど苦しいかではない。美緒は、呼吸を整えて続けた。玲子は、少しだけ目を伏せた。「婚約、ということですか」問いは淡々としていた。由香が迅の相手であることを責める響きも、美緒の傷を探る気配もない。ただ、事実として、どこまで関係が定まっているのかを確認する声だった。美緒は、小さく首を横に振った。「正式な婚約とは聞いておりません。再婚も、まだされていません」「そうですか」「ただ、岩本側からは、いずれ迅さんの隣へ入る方として扱われているようです。黒瀬本家へも、その立場で来られていると聞いています」玲子は、すぐには何も言わなかった。新しく替えられた冷茶の器には、まだ細かな水滴が浮かんでいる。障子の向こうでは、夏の光が庭の葉へ落ち、風が通るたびに影がわずかに揺れた。やがて、玲子が静かに言った。「結婚を前提に、本家へ出入りしてはる」「はい」「けれど、まだ黒瀬の妻でも、正式な婚約者でもない」「はい」玲子の声は、そこで止まった。由香が迅の新しい相手であること自体について、玲子は何の判断も示さなかった。美緒は、胸の奥でかすかに息を吐いた。もし玲子が、その事実だけで由香を非難したなら、自分が持ってきた話は
Read more

66.女の意地ではなく

玲子の問いは、静かだった。責める調子ではない。美緒が話した事実を疑う響きでもない。それでも、座卓の上に揃えられた紙よりも重く、その言葉は美緒の胸へ落ちた。この話を、自分が玲子へ持ってきた理由。それを問われることは、分かっていたはずだった。父にも言われていた。玲子へ話すなら、傷ついたから助けてほしいではいけない。何を見てもらいたいのかを、自分で決めてから行かなければならないと。電車の中でも、鞄へ重ねた手の下で、何度も確かめた。けれど、玲子本人の前でその問いを向けられると、美緒が自分の中で分けてきたはずのものが、急に近い場所へ押し寄せてくる。迅の顔。離婚を告げられた時の、逃げ場のない痛み。由香が、これから迅の隣へ立つ女として黒瀬本家へ出入りしているという事実。それを知った時、胸が痛まなかったわけではない。むしろ、苦しかった。玲子は、座卓の上に置いた資料へ視線を落としたまま、ゆっくりと続けた。「美緒さん。事実としてのお話は、よう分かりました」美緒は、膝の上で重ねた指へ力が入るのを感じた。「はい」「祐一郎さんのことが、外へ伝わっていたかもしれんこと。岩本が黒瀬の付き合い先へ触れていること。その先に、まだ確かではないにしても、真砂の名が見え始めていること」玲子の指先が、美緒の用紙の端へそっと置かれている。「それから、三嶋さんのお店の名まで、由香さんの口から出ていたこと」美緒は、黙って頷いた。玲子は、そこで初めて資料から目を上げた。障子を通した午後の光の中で、その視線は穏やかだった。けれど、美緒が言葉を濁して逃げることを許すような目ではなかった。「せやけど、私が聞かなあかんのは、それだけやありません」喉が、わずかに詰まった。美緒は、膝の上で指を重ねたまま、玲子を見た。「はい」玲子は、美緒から目を逸らさなかった。「これは、迅さんを取り
Read more

67.預かるための条件

玲子の手が、座卓の上の資料をもう一度、静かに揃えた。薄く重なった紙の端が、障子越しの光を受けて淡く浮かぶ。少し前まで、美緒の手元にあったものだった。聞いたことと、まだ分からないことを分けるために、三嶋洋服店の作業場で一行ずつ書いた紙。いま、それは玲子の前に置かれている。美緒の胸には、話を受け取ってもらえた安堵が、まだわずかに残っていた。けれど、玲子の表情は、その安堵へ美緒を浸らせたままにはしなかった。「まず、分かっておいてください」玲子の声は柔らかい。それでも、先ほど美緒の仕事を認めてくれた時とは違う、明確な線があった。「私は、美緒さんのお話を軽いものやとは思っていません」美緒は、膝の上で指を揃えた。「はい」「けれど、軽くない話やからこそ、これだけで誰かを責めるわけにはいきません」胸の奥に、ほんの一瞬だけ硬いものが触れた。拒まれたわけではない。そのことは分かっている。玲子は、筋の話として聞くと言ってくれた。そのうえで、由香や岩本をすぐに断じないのは、美緒の話を疑っているからではない。玲子の言葉が持つ重みを、玲子自身が最もよく知っているからなのだろう。「由香さんが、どこまで分かって話してはったのか」玲子は、資料から目を上げずに続けた。「岩本が、何を目的に黒瀬の周りへ動いているのか」 「真砂の名が、本当にその先へ続いているのか」 「そこを見んうちに、筋を違えたと決めることはできません」美緒は、すぐに頷いた。「はい」 「私も、決めつけていただきたいわけではありません」自分が欲しかったのは、由香を悪い女だと言ってもらうことではない。迅の隣に立とうとする女を、力のある誰かに追い払ってもらうことでもない。黒瀬と三嶋洋服店へ向いているかもしれないものが、本当に見過ごしてよいものなのか。そこを、正しく見てもらいたかった。玲子が慎重であることは、落胆ではなく、むしろ美緒の
Read more

68.桂木が預かるもの

美緒の鞄の留め金が、静かに閉じた。一方の仕切りには、玲子の薄物についてまとめたクリアファイルが入っている。もう一方には、黒瀬に関わる事実を記した原本を戻した無地の封筒が収まっている。京都へ来た時と、入っているものは変わらない。けれど、その重みは、もう同じではなかった。薄物の仮案は、玲子本人の言葉を受け、これから美緒が店へ持ち帰って整え直す仕事になった。封筒の中の資料は、美緒一人が抱えていた不安の記録ではなくなった。同じ内容の写しが、玲子の手元に残った。確かめるべき話として、玲子が受け取った。そして美緒自身にも、残された役目がある。玲子が外から確認してくれるからといって、美緒が守られるだけの場所へ戻れるわけではない。由香と向き合う時が来れば、そこに立つのは自分だ。美緒は、膝の横に置いた鞄へ手を添えた。座卓の向こうで、玲子が美緒の手元を見ている。その前には、相談資料の写しが整えて置かれていた。美緒が持ち帰る原本と同じ内容を持つ紙が、夕方へ傾き始めた光の中で、静かに玲子の側へ残っている。「今日は、来てくださってよかったと思います」玲子が言った。美緒は、すぐに頭を下げた。「聞いてくださって、ありがとうございました」口にした声には、安堵が混じった。だが、玲子は、大丈夫ですよとも、心配はいりませんとも言わなかった。「薄物のことは、楽しみに待っています」玲子の視線が、美緒の鞄へ穏やかに落ちる。「急いで形にせんでもええですから、納得のいくように進めてください」胸の奥へ、静かな温かさが入った。美緒が今日ここへ来た理由には、黒瀬の話がある。けれど、玲子は最後まで、そのことによって仕事の意味を曖昧にしなかった。玲子が美緒へ預けた布は、相談を持ち込むための理由ではない。美緒が三嶋洋服店の職人として引き受けた、玲子のための仕事だった。「はい」美緒は、鞄の中のクリアファイルを意識
Read more

69.名を聞かれた店

午後二時を回ったころ、黒瀬興業の事務所は、外の暑さから切り離されたように静かだった。古い壁掛けの空調が低い音を立てている。冷気は十分に回っているはずなのに、窓の向こうから照り返してくる日差しの白さを見ていると、身体のどこかに熱が残っているような気がした。蝉の声は、厚いガラスを通しても消えず、一定の間隔で事務所の沈黙へ細い亀裂を入れている。坂下浩二は、机の上に広げた伝票へ視線を落としていた。八月は、表向きの仕事が立て込む時期だった。商店街の納涼祭、料亭で行われる宴席、地元企業の会合に伴う設営。黒瀬興業が前に出て名を売るような仕事ではない。必要な人員を揃え、業者との間に無理が出ないよう話を通し、予定された日に滞りなく場を整える。それだけのことだ。だが、その「それだけ」を何十年も積み重ねてきたから、黒瀬はこの土地で顔を失わずに済んでいる。坂下は、請求書の金額と支払予定の欄を突き合わせ、赤鉛筆で小さく印をつけた。間違いがないことを確かめた紙を右側へ寄せ、次の束へ手を伸ばしたところで、机の電話が鳴った。受話器を取る。「はい、黒瀬興業、坂下です」相手の名を聞いた瞬間、坂下の指が受話器の縁で止まった。古くから、祭礼や料亭の宴席の設営で黒瀬と付き合いのある会社の社長だった。先代の頃からの縁で、派手な利益を追うより、決めた仕事を丁寧に納めることで信用を重ねてきた男である。普段なら、夏場の段取り確認や、人員の追加についての連絡で済む相手だった。「暑いですねえ。そちらさんも、この時期はお忙しいんと違いますか」「おかげさまで。今月の分は、予定どおり進めています。何か変更がありましたか」「いや、うちの予定のことやないんです。ちょっと、確認させてもらいたいことがありましてね」社長の声が、わずかに低くなった。その言い淀み方に、坂下は赤鉛筆を置いた。仕事の変更であれば、相手はもっと端的に用件へ入る。長い付き合いがあるだけに、言葉を選んでいる時の間は分かった。「確認といいますと」「先日、うちへ新しい会社さんが営業に来はったんです。催事の設営や
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status