簾の向こうで、蝉が鳴いていた。まだ耳に馴染まない、今年の夏の声だった。雨の季節が終わって数日、強い日差しを浴びた庭の土からは、乾ききらない湿気がゆっくり立ち上っている。黒瀬本家の廊下は冷房と風の通り道のおかげで涼しかったが、柱や畳の奥には、梅雨の名残のような重さが残っていた。結衣は玄関脇の床の間へ目を向けた。細い花器に、白い木槿(むくげ)が一輪だけ活けられている。朝に開いたばかりなのだろう。白い花弁は光を含んで薄く透け、中心の淡い紅だけが静かに色を持っていた。夏の日差しの中でも涼やかで、余計なものを足さない佳穂らしい花だった。「結衣さん、こちらへ」控えの間から梓に呼ばれ、結衣は小さく頭を下げて畳へ上がった。低い卓の上には、いくつかの封筒と小さな帳面が並んでいる。紙の上には、家々の名前と短い用件だけが記されていた。誰にどの知らせを回すか。誰には当日顔を出させず、後日改めて挨拶させるか。余計な人の出入りを避けるための、細かな手配だった。上座には佳穂が座っていた。夏の薄物の着物をきちんと着こなし、いつもと変わらない姿勢で帳面へ目を落としている。けれど、卓の上の紙へ向ける視線は、単なる家の用事を見る時よりも慎重だった。結衣は梓の隣へ座った。「彰さんには、まだ詳しいことは伝えていませんね」佳穂が尋ねた。「はい。来週、本家の車回りで待機をお願いするかもしれないということだけです」「それで十分です」佳穂は帳面の一頁を指先で押さえた。「当日は、主人が病院から戻ったあと、静かに休めるようにしておきたいのです。出入りする人間が多いと、それだけで気を遣わせますから」「はい。こちらで必要な支度をしておきます」結衣は答えた。祐一郎が検査を受けることを、結衣は今日初めて聞いた。具合がよくないらしいという話は、前から漠然と感じていた。以前より本家で姿を見ることが減り、佳穂が外の用事へ出る回数もわずかに増えていたからだ。それでも、検査の日程まで聞かされたことはなかった。
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