جميع فصول : الفصل -الفصل 60

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50.知らないはずの予定

簾の向こうで、蝉が鳴いていた。まだ耳に馴染まない、今年の夏の声だった。雨の季節が終わって数日、強い日差しを浴びた庭の土からは、乾ききらない湿気がゆっくり立ち上っている。黒瀬本家の廊下は冷房と風の通り道のおかげで涼しかったが、柱や畳の奥には、梅雨の名残のような重さが残っていた。結衣は玄関脇の床の間へ目を向けた。細い花器に、白い木槿(むくげ)が一輪だけ活けられている。朝に開いたばかりなのだろう。白い花弁は光を含んで薄く透け、中心の淡い紅だけが静かに色を持っていた。夏の日差しの中でも涼やかで、余計なものを足さない佳穂らしい花だった。「結衣さん、こちらへ」控えの間から梓に呼ばれ、結衣は小さく頭を下げて畳へ上がった。低い卓の上には、いくつかの封筒と小さな帳面が並んでいる。紙の上には、家々の名前と短い用件だけが記されていた。誰にどの知らせを回すか。誰には当日顔を出させず、後日改めて挨拶させるか。余計な人の出入りを避けるための、細かな手配だった。上座には佳穂が座っていた。夏の薄物の着物をきちんと着こなし、いつもと変わらない姿勢で帳面へ目を落としている。けれど、卓の上の紙へ向ける視線は、単なる家の用事を見る時よりも慎重だった。結衣は梓の隣へ座った。「彰さんには、まだ詳しいことは伝えていませんね」佳穂が尋ねた。「はい。来週、本家の車回りで待機をお願いするかもしれないということだけです」「それで十分です」佳穂は帳面の一頁を指先で押さえた。「当日は、主人が病院から戻ったあと、静かに休めるようにしておきたいのです。出入りする人間が多いと、それだけで気を遣わせますから」「はい。こちらで必要な支度をしておきます」結衣は答えた。祐一郎が検査を受けることを、結衣は今日初めて聞いた。具合がよくないらしいという話は、前から漠然と感じていた。以前より本家で姿を見ることが減り、佳穂が外の用事へ出る回数もわずかに増えていたからだ。それでも、検査の日程まで聞かされたことはなかった。
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51.沈黙では守れない

障子が閉まると、庭から押し寄せていた蝉の声は、薄い紙の向こうでくぐもった。静かになったわけではない。それでも、由香がいた間は会話の隙間へ入り込んでいた夏の音が、急に遠ざけられたように感じられた。控えの間には、さっきまで由香が座っていた座布団と、半分ほど残された麦茶がある。硝子の器の表面に浮かんだ水滴は、受け皿へ落ちて小さな輪を作っていた。手土産として持ち込まれた夏菓子の包みも、卓の端に置かれたままになっている。結衣は、立ってよいのか、座ったままでいるべきなのか分からなかった。佳穂に残るよう言われて頷いたものの、身体の奥では、由香が口にした言葉が冷たい形のまま残っている。来週は二代目の検査もあるそうですし。何気ない気遣いの言葉に聞こえた。そのはずなのに、聞いた瞬間、部屋の温度が変わった。由香本人だけが、その冷えに最後まで気づいていなかったのかもしれない。梓が、由香の前にあった麦茶へ手を伸ばした。結衣も反射的に腰を上げる。「私も片づけます」盆を取ろうとした指先が、硝子の器の縁へ触れた。冷たいはずの器なのに、指がうまく掛からない。わずかに滑り、器が受け皿へ触れて、硬い音を立てた。結衣は慌てて手を引いた。「すみません」「大丈夫です」梓はそう言って、器を自分の側へ引き寄せた。責められたわけではない。けれど、結衣は自分の手が震えていたことを隠せなかったのが恥ずかしかった。由香の前では、何も口にしなかった。佳穂が表情を崩さずに応じていたから、結衣も黙っていなければならないと思った。梓も何も言わず、いつも通りに見送りまでした。誰も騒がなかったのだから、自分だけが取り乱してはいけない。けれど、もう由香はいない。閉じた障子の内側に残ったのは、曖昧に微笑む必要のない三人だけだった。結衣は膝の上で手を重ねた。爪が掌へ触れ、ようやく自分の指が冷え切っていることを知る。「……どうして、岩本の方が二代目の検査のことを
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52.夜の発信音

店を閉めたあとの作業場には、昼間の熱がまだ薄く残っていた。表の硝子戸はもう鍵をかけ、帳場の照明も落としている。奥の住居へつながる暖簾の向こうからは、母が食器を片づける音が時折聞こえた。店先の道路を車が通るたび、ヘッドライトの淡い光が曇り硝子を横切り、すぐに消える。外では、夜になっても蝉が鳴いていた。梅雨が明けたばかりの大阪の夜は、日が落ちてもなかなか涼しくならない。けれど、作業台の上へ落ちる手元灯の白い光の中では、時間だけが静かに細く流れているようだった。美緒は、預かった夏物のジャケットの袖口を裏返していた。薄い灰色の麻混の生地は、年配の常連客が毎年のように夏になると着る上着だった。表から見れば、目立った傷みはない。けれど、裏側の縫い目のひとつが緩み、細い糸がわずかに浮いている。このまま着続ければ、腕を通すたびに少しずつ引かれ、やがて裏地まで傷むだろう。美緒は針山のそばに並べた糸から、生地に最も近い色を選んだ。光の加減でわずかに色味の違う糸を二本、指先で引き出して比べる。灰にほんの少し青みを含んだ方を取り、針穴へ通した。以前なら、何も考えずにできていたことだった。糸を選び、布を整え、針を進める。仕上がったあと、直した跡を相手に意識させないようにする。服を着る人が、ほつれのあったことなど忘れて、いつものように腕を通せることが一番いい。黒瀬を出て店へ戻ったばかりの頃は、針を持つだけで指がこわばった。布を見ようとしても、黒いスーツの肩線が浮かんだ。袖丈を測ろうとすれば、長い腕を静かに下ろした迅の姿が思い出された。目の前の仕事へ集中したいのに、自分の手がどこで誰のために動いてきたのかを、嫌でも思い知らされた。それでも、三週間ほどが経ち、今は小さな直しなら一人で任されるようになっている。父も母も、無理に大きな仕事を渡してはこなかった。美緒が「やります」と言えるものから、静かに作業台へ置いてくれた。袖口のほつれ。裏地の浮き。ボタンの付け直し。裾の長さの確認。小さいから軽い仕事というわけではない。目の前の一着に必要な手を入れる。そのことだ
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53.ほどけたままの糸

結衣との通話が終わってから、どれほど経ったのか、美緒には分からなかった。作業台の上に伏せたスマホは、もう光っていない。つい先ほどまで耳元に当てていたはずなのに、暗い画面は最初からそこに置かれていたもののように、手元灯の端で黙っている。閉店後の三嶋洋服店には、昼間の名残がまだ残っていた。表の硝子戸は施錠され、帳場の照明は消えている。それでも、道路から染み込んだ熱が店内の床や壁の奥に留まっていて、冷房を切った作業場の空気にはかすかな重さがあった。古いミシンの金属、裁ち台に積まれた布、アイロン台に残る乾いた熱。幼い頃から知っている匂いばかりなのに、今夜はどれも遠く感じられる。外では、近所の家々の室外機が低く唸っていた。ときどき大通りを走る車の音が、夜の湿りを押し分けるように流れ、また静かになる。美緒は、目の前に置かれた夏物のジャケットへ視線を戻した。薄い灰色の麻混生地。袖口を裏返したところに、細い糸の緩みがある。表からはほとんど見えない。着る人も、今はまだ気づいていないかもしれない。けれど、腕を通すたびに布は引かれ、糸は少しずつほどけていく。放っておけば、いずれ裏地の端まで傷むだろう。通話が入る前、美緒はそこへ手を入れようとしていた。布に馴染む色の糸を選び、針へ通し、指で縫い代を押さえたところで、スマホが震えた。今も針には糸が通ったままだった。白い台布の上で、その糸はゆるく垂れ、手元灯の光をかすかに拾っている。美緒は、袖口に指を添えた。どこに最初の一針を入れればよいかは分かっている。緩んだ糸を余計に引かず、裏側から布をすくい、表に響かない細かさで留めればよい。難しい仕事ではない。指先が覚えている。それでも、手が進まなかった。結衣の声が、耳の奥に残っている。由香さんが、二代目の検査予定を知っていたんです。美緒は、袖口から指を離した。胸に残っているのは、それだけではない。由香が、自分のことを口にしたという。仕立屋の娘では、黒瀬のような家では大変だっただろう、と。
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54.京都からの依頼

作業台の上に置いた上着の袖口へ、午前の光が白く落ちていた。七月の終わりに近い陽射しは、まだ昼前だというのに強い。ガラス戸の向こうでは、舗道の照り返しに人の足元が一瞬だけ眩しく浮かび、遠くで荷物を運ぶ台車の音が乾いて響いている。三嶋洋服店の中には、布の匂いと、アイロンを使った後のわずかな熱が残っていた。父は奥の作業台で紳士物のパンツへ折り目をつけ直しており、母は帳場で伝票を揃えている。店は、いつものように動いていた。美緒は、椅子へ腰を下ろしたまま、袖口の裏へ触れた。常連客から預かった、夏用の薄手の上着だった。袖の内側にわずかなほつれがあり、裏から目立たないよう縫い留めれば済む仕事である。布地そのものはまだ傷んでおらず、丁寧に直せば、今季も問題なく着られるはずだった。昨夜、美緒はその縫い目を閉じられなかった。針に糸を通し、布を手に取ったところまでは覚えている。けれど、その先へ手が進まなかった。指先は布へ触れているのに、心だけがどこか遠い場所へ引かれたまま、どうしても戻ってこなかった。作業台の端には、昨夜の糸がまだ針に通されたまま置いてあった。美緒は、針山からその針を抜き取った。糸を指先でつまみ、静かに抜く。一晩置いたからといって、糸が使えなくなったわけではない。けれど、昨夜の自分が選んだままの糸で、何も考えずに縫い始める気にはなれなかった。布を窓から入る光へ寄せる。表へは出ない場所でも、色がほんの少し浮けば、袖を動かした時に違和感として残る。美緒は糸箱を開き、近い色を三本取り出した。布の上へ並べ、角度を変えて見比べる。頭の奥には、まだ昨夜の声が残っている。電話越しに告げられたことのすべてを、もう一度並べようとは思わなかった。並べたところで、今の美緒には何も確かめようがない。ただ、耳に入ってしまったことは消えない。自分がもう外へ出たはずの場所で、知らないうちに何かが動いている。その感触だけが、指先の集中を時折さらっていく。美緒は、ゆっくり息を吐いた。目の前にあるのは、預かった上着だった。
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55.預かった布

夕方の西日が、三嶋洋服店の硝子戸を斜めに透かしていた。店先の道路を、自転車が一台ゆっくり通り過ぎる。近所の商店では、外へ出していた品を少しずつ中へ戻し始めているらしく、木箱を引きずる音や、店主同士の短い挨拶が途切れ途切れに聞こえていた。美緒は作業台の前に座り、紺色のパンツの裾へ待ち針を留めていた。常連客から預かったもので、丈をほんの少し詰めるだけの仕事だった。布を折り返し、左右の長さを確かめ、線を引く。目の前の仕事へ意識を落とせる時間は、以前より確実に増えている。結衣から電話を受けてから、三日が経っていた。あの夜、縫いかけたまま置いた夏物のジャケットは、翌朝、気持ちを整えてからきちんと仕上げた。袖口の裏に入れた針目は揃い、表から見れば手を入れたことなど分からない。父は仕上がりを確かめ、何も褒めずに「包んどき」と言った。それで十分だった。仕事はできる。手も、動く。けれど、何も知らなかった頃と同じ静けさへ戻れたわけではない。祐一郎の検査予定を、由香が知っていたこと。その出所を、父から聞いたような気がすると話したこと。自分と三嶋洋服店の名が、すでに由香の口から出ていたこと。それらは、仕事をしている間も、心の隅から完全には消えなかった。針を持つ指を止めるほどではない。ただ、布の向こうに薄い影のように残っている。美緒は、裾の折り返しへ目を凝らした。その時、店先に車が止まる音がした。配送業者の車だと分かったのは、すぐあとに硝子戸の向こうで台車の車輪が鳴ったからだった。帳場にいた母が椅子を引き、受け取りに出る。美緒は作業を続けようとしたが、やがて母の声がした。「美緒。桂木さまから届いたよ」待ち針を留めかけていた手が止まった。美緒は、針を針山へ戻して立ち上がる。「もう届いたの?」「今、受け取ったところ。ほら」帳場の横に、平たい箱が置かれていた。大きすぎず、重々しすぎない箱だった。過度に華美な包装も、目立つ印もない。けれど、角はきれ
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56.柄を置く

昼を過ぎると、店先に掛けた簾の影が、作業場の床へ細く落ち始めた。外は朝からよく晴れていた。梅雨が明けてからの陽射しは遠慮がなく、表の通りを歩く人の影まで濃くしている。硝子戸の向こうでは、近所の自転車店の主人が水を撒き、濡れた舗道が一瞬だけ白く光った。三嶋洋服店の奥の作業場には、冷房の控えめな風と、布の匂いが静かに溜まっていた。美緒は棚の前に立ち、両手で平たい箱を取り出した。桂木玲子から預かった薄物が収められている箱だった。箱を置く前に、広い作業台の上をもう一度見渡す。使いかけの糸巻きも、仕上げを待つボタン付けの上着も、すでに脇の台へ移してある。中央には新しい薄紙を敷き、型を取るための大きな紙と、小さな重し、鉛筆、寸法記録を揃えていた。前に確認した時は、夕方から夜へ移る光の中だった。今度は、昼の光で見る。薄物の透け方は、照明の下と自然光の下では印象が違う。柄がどれほど前へ出るのか、布の弱りがどの程度目に触れるのか、実際に衣服として身体へ掛かった時にどんな表情を見せるのか。切る前に見るべきことは、まだいくつも残っている。美緒は手を洗い直し、指先に水気が残っていないことを確かめてから、箱の蓋を開けた。薄紙の包みを取り出し、台の中央へ置く。一枚ずつ開いていくと、淡い青灰色の布が、昼の光の中へ現れた。元は着物として仕立てられていたのだろう。いまは丁寧に解かれ、洗い張りされ、長い布片として整えられている。袖だったと思われる部分、身頃だったと思われる幅、縫い跡のかすかな名残。かつて誰かの身体へ沿っていた布が、新しい形になる前の姿で、美緒の前に広がっていた。美緒は布の端を両手で持ち、無理な力がかからないようゆっくりと伸ばした。昨夜、手元灯の下で見た時より、色が軽い。青灰の地は冷たすぎず、ほんの少しだけ霞を含んだように柔らかい。細い流水の柄は、布の表面へくっきり浮くのではなく、透ける地の向こう側から静かに流れてくるように見えた。草花の小さな意匠も、目を近づけて初めて見つかるほど控えめだった。派手な布ではない。け
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57.梓の覚え書き

店先の灯りを落としてから、まだ一時間も経っていなかった。表の硝子戸は施錠され、簾も内側へ取り込んである。昼間には通りの熱と人声を受けていた店内も、今は奥の住居から漏れる明かりだけが、床の端へ細く伸びていた。作業場では、手元灯だけが点いている。昼に広げた玲子の薄物は、すでに棚へ戻していた。仮配置案と確認事項を収めたクリアファイルも、依頼記録とともに書類棚の定位置へ入れてある。作業台の上には、何も広げられていない。美緒は、あえてそうしていた。玲子から預かった仕事と、これから聞く話を、同じ机の上で扱いたくなかった。どちらも軽く触れてよいものではないからこそ、今夜は仕事の紙も布も出さず、空いた作業台の前に座っている。近隣の室外機が、窓の向こうで低く回っている。ときおり遠い道路を車が通り過ぎ、その音だけが静かな店内へ薄く届いた。奥では、母が食器を棚へ戻しているらしく、陶器の触れ合う小さな音がする。美緒は、作業台の上に置いたスマホへ目を向けた。結衣からの連絡を受け取ってから、胸の奥にはずっと、重いものが残っている。梓が、由香のことで伝えておいた方がよいと思うことを思い出した。佳穂の確認を取ったうえで、電話をしたい。美緒は、それを聞くと返した。お義母さまが伝えてよいと判断されたことでしたら、聞かせてください。送信した時から、この夜に電話が来ることは分かっていた。それでも、実際にスマホが震え、画面に結衣の名が浮かぶと、指先がわずかに冷えた。美緒は一度、浅く息を吸った。それから通話を受ける。「はい。結衣さん」「美緒さん。夜にすみません」結衣の声は、前に電話を受けた時より落ち着いていた。けれど、軽い挨拶で済む声ではない。何を伝えるために電話をしているのか、初めから分かっている人の声だった。「大丈夫です。お電話をくださると伺っていましたから」美緒も、近況を尋ねなかった。元気ですか、と声をかければ、結衣はきっと答えてくれる。けれど今、その言葉を挟むことは
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58.動いた取引先

夕方になっても、窓の外には昼の熱が残っていた。黒瀬興業の事務所が入る古いビルの二階では、ブラインドの隙間から差し込む西日が、書類棚の角と床の一部だけを橙色に染めている。昼間の来客は途切れ、入口近くにいた若い衆も、一人は外回りへ出て、もう一人は下の倉庫へ降りていた。聞こえるのは、天井の空調が低く吐き出す風の音と、坂下が紙をめくる音だけだった。坂下浩二は、机の上に広げた支払予定表へ目を落としていた。月末は、いつも以上に数字の確認が増える。建材の仕入れ、管理を請け負っている物件の修繕費、車両関係の支払い、付き合いのある会社への振込。表向きは興業会社である黒瀬の仕事も、帳簿の上では一つずつ、期日と金額を合わせていかなければならない。一円の違いも、ひとつの遅れも、古い信用には傷になる。だからこそ、坂下は、何事も起きていない日のように手を動かしていた。事務所の中には、数日前から、表へは出さない緊張があった。祐一郎の検査が近い。詳しい容態を坂下が知らされているわけではない。知る必要のないところまで踏み込むつもりもなかった。ただ、久我を通じて、余計な来客を増やさないこと、二代目の体調について外へ不用意に話さないことだけは伝わっている。それは当然の配慮だと思っていた。黒瀬の二代目が身体を診てもらう。ただそれだけのことであっても、外へ漏れれば、勝手な憶測を呼ぶ。祐一郎が引くのではないか。迅への代替わりが近いのではないか。黒瀬の内側に揺らぎがあるのではないか。口を閉じているべき話だった。廊下を歩く靴音が近づき、事務所の戸が開いた。久我誠司が戻ってきた。いつも無駄のない動きをする男だが、今日は戸を閉めたあともすぐには上着を脱がず、事務所内を一度見回した。人の気配を確かめるような視線だった。坂下は、ペンを置いた。「本家で何かありましたか」久我は返事の前に、入口に近い机の向こうへ視線を向けた。誰もいないことを確認してから、坂下の机の前まで来る。「少し、確認してほしいことがあります」
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59.顔の割れていない男

食卓の上には、手をつけられていない味噌汁が置かれていた。彰が玄関の鍵を開けて中へ入った時、居間の照明は点いていたが、テレビの音はしなかった。台所からは炊いた米と焼き魚の匂いがしている。いつもなら、帰宅の気配を聞きつけた結衣が台所から顔を出し、遅かったねと少し困ったように笑う。今夜は、結衣は食卓の端に座ったまま、玄関の方へ顔を向けていた。「ただいま」「……おかえり」返事が、わずかに遅れた。彰は靴を脱ぎ、上着を椅子の背へ掛けた。ネクタイを緩めながら、結衣の前に伏せて置かれたスマホへ目を向ける。画面は暗い。それなのに、結衣はさっきまでその画面を見つめていたような顔をしていた。味噌汁から上がっていたはずの湯気は、もうほとんど見えない。「どうしたん」結衣は、すぐには答えなかった。彰は向かいの椅子ではなく、結衣の隣へ座った。食事を待たせたことを詫びるより先に、聞かなければならないと思った。「本家で、何かあった?」結衣の指が、膝の上で重なった。「美緒さんに、電話したんよ」彰は、ネクタイから手を離した。結衣が美緒を気にしていることは知っていた。黒瀬を出てから、どのように暮らしているのか。三嶋洋服店へ戻って、本当に息ができているのか。心配でないはずがない。それでも結衣は、連絡をためらっていた。美緒を慕う気持ちのままに声をかければ、あの人をまた黒瀬の空気へ引き戻すことになるのではないか。そう言って、何度もスマホを手に取っては置いていた。その結衣が、電話をした。「佳穂さんには、話してええと言われたんか」結衣は小さく頷いた。「美緒さんに関わることやから、知らせる権利があるって」彰の胸に、重いものが落ちた。佳穂が、美緒へ知らせることを認めた。懐かしいから声を聞いてもよいという話ではない。黒瀬を出た美緒にまで、知らせないままでは済まないことが生じたという意味だった。「
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