All Chapters of 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Chapter 101 - Chapter 109

109 Chapters

100.返さなかった答え

袖口の裏側に針を入れると、細い糸は布の陰へ静かに沈んでいった。美緒は、指先で縫い目を軽く押さえ、次の針目の位置を確かめた。預かっているのは、長く三嶋洋服店へ通ってくれている会社員のジャケットだった。表から見れば大きな傷みはないが、袖口の内側には擦れがあり、右の肩まわりだけ布に癖がついている。直すべき箇所は、目立つところばかりではない。着る人が腕を通した時、ほんの少し引かれる場所。立った時、片方の肩だけが落ち着かない場所。そういう小さな違和感を拾って整えるのが、この店の仕事だった。八月の終わりが近い午後、表通りにはまだ強い陽が残っている。ガラス戸から差し込む光は白く、店先に置かれた生地見本の角を鮮やかに照らしていた。作業場の奥では、父がミシンを踏んでいる。一定の速度で続く音。母が帳場で帳面をめくる音。時折、通りを走る車の音が、薄い戸越しに届く。料亭の静まり返った座敷とは違う。ここには、今日着る服を仕立て、明日も店を開けるための音がある。美緒は、袖口へもう一針入れた。あの夜から、五日が経っていた。店は、変わらず営業している。父は朝になると表の鍵を開け、客を迎える準備をする。母は帳場を整え、受け取りに来る客の名前を確かめる。美緒も裁ち台の前へ立ち、直し物の寸法を見て、針を持つ。自分が動いたことによって、店の日常が特別なものへ変わったわけではない。父と母が守ってきたこの場所は、誰かに認められたから価値を持ったのではなかった。誰かの都合で脅しの材料にされかけたからといって、突然弱いものになったわけでもない。ここは、最初から、父と母が仕事を積み重ねてきた場所だった。美緒が幼い頃から見てきた、布と糸と人の身体に向き合う場所だった。だからこそ、戻った今も、手を止めたくなかった。針を持つことは、何もなかったふりをすることではない。自分が今、どこに立っているのかを確かめることだった。背中には、衣服の下に弥勒菩薩がある。
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101.閉店後に来てください

「お父さん、お母さん」閉店まであと三十分ほどになった頃、美緒は、裁ち台の向こうにいる父と、帳場で伝票を揃えている母へ声を掛けた。父が、手にしていたチャコを止める。母も、紙を重ねていた指を静かに置いた。昼間の客足はもう途切れている。店先には、受け取りを待つスーツが二着、形を崩さないように間を空けて吊られていた。表通りを歩く人の影も、昼ほど多くはない。八月の終わりが近い夜の入口には、まだ薄い熱が残っていた。美緒は、自分から声を掛けたのに、一度だけ息を整えた。「今夜、閉店後に迅さんに来てもらいます」母の目が、僅かに見開かれた。父は、すぐには何も言わなかった。裁ち台に広げていた布へ落としていた視線を、美緒へ向ける。その沈黙に責める色はなかった。ただ、娘が今、何を選んで口にしたのかを、軽く受け取らないための間だった。「……お前が、話すと決めたんやな」父の低い声が、店の奥へ落ちた。美緒は、膝の前で指を重ねることはせず、立ったまま頷いた。「うん」それから、もう一度、はっきりと言った。「ちゃんと、自分で話したいの」迅に呼ばれたのではない。黒瀬から、何かの返事を求められたのでもない。自分が、ここへ来てほしいと伝えた。そのことを、父と母の前でも曖昧にしたくなかった。父は、美緒を見たまま、しばらく黙っていた。迅を責めたい気持ちがないはずはない。娘が何も知らされずに離婚され、この店まで誰かの都合に触れられかけたことを、父は知っている。それでも、父は、美緒が決めた時間へ自分の怒りを差し込もうとはしなかった。「分かった」短く答える。「店は使ったらええ」美緒の胸の奥が、僅かに緩んだ。「戸締まりだけ、最後に頼む」「うん。私がする」母が、ゆっくり帳場から出てきた。心配そうな目をし
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102.怖いことを、怖いまま

沈黙の中で、氷が小さく鳴った。母が置いてくれた冷たいほうじ茶のグラスには、もう細かな水滴が幾筋も伝っている。氷は少し角を失い、薄い琥珀色の中で静かに浮かんでいた。迅は、美緒の言葉を聞いたまま、すぐには何も返さなかった。言い訳をしない。分かったとも言わない。苦しかったのは自分も同じだと、傷の重さを分けようともしない。ただ、向かいの椅子に座ったまま、美緒から目を逸らさずにいる。その沈黙は、料亭の廊下で迅が謝罪した時のものとは違っていた。あの夜、美緒は、置いていかれたのだと伝えた。許せないと告げた。迅は、自分が奪ったものを認め、待つと言った。けれど、今ここで話そうとしているのは、その傷があったという事実だけではない。どうして、そこまで傷ついたのか。本当は、どうしてほしかったのか。もし、もう一度この人と向き合うことを考えるなら、何が変わらなければならないのか。美緒は、それを自分の言葉で伝えるために、迅をここへ呼んだ。作業場の明かりの下で、裁ち台の木目が淡く浮かんでいる。端を揃えて畳んだ布。所定の位置へ戻した鋏。壁際に掛かった採寸用のメジャー。ここには、美緒が戻ってから積み重ねてきた日々がある。誰かの妻である前に。誰かに守られる前に。自分の手を動かし、自分の暮らしを取り戻してきた時間がある。だから、言える。美緒は、膝の上で重ねていた指をゆっくりほどいた。「由香さんを選ばれたように見えたことも、苦しかったです」迅の表情は、大きくは動かなかった。けれど、目の奥に、わずかに痛みが差したように見えた。美緒は、そこへ気遣う言葉を重ねなかった。「離婚届に名前を書いたことも、黒瀬を出たことも……苦しかったです」あの紙の白さを、今ここで思い返したいわけではなかった。黒瀬の門を出た時の空気も、荷物をまとめた指先の冷たさも、もう一度言葉で辿り直す必要はな
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103.戻るのではなく

氷が、グラスの内側で小さく触れ合った。母が置いてくれた冷たいほうじ茶は、ほとんど減っていない。透明なグラスの表面には結露が重なり、コースターへ落ちた水滴が、淡い輪を広げていた。迅の言葉は、まだ作業場の中に残っている。お前に、もう一度選んでもらえる男になりたい。美緒は、膝の上で組んだ指を見た。その手で、今日も布へ針を通した。ほつれを拾い、肩の癖を見て、生地が無理なく身体へ沿うように整えた。一度歪んだものを、何もなかった頃と同じ形へ戻すのではない。今そこに残っている癖や傷みを見て、それでも使い続けられる形へ整える。自分と迅の間にあるものも、きっと同じだった。傷がないふりをして、以前の夫婦へ戻ることなどできない。離婚を告げられた夜を忘れたように、また黒瀬の中へ入っていくこともできない。けれど、傷が残っているからといって、自分の中に残る思いまで、すべてなかったことにするのも違う。美緒は、ゆっくり顔を上げた。迅は、向かい側の椅子に座ったまま、動かなかった。美緒が何を言うのかを待っている。返事を急かすことも、先ほどの言葉を取り消すこともない。ただ、選ばれることを望んだ自分が、次に決める側へ回らないようにしているのが分かった。その姿を見ていると、胸の奥が痛んだ。以前なら、こんなふうに待ってはくれなかった。迅は、美緒のためだと信じたことを、自分の中で決めてしまった。美緒がどう思うのかを聞く前に、守る形も、別れる形も、すべて一人で選んだ。今、目の前にいる迅は、美緒が口を開くまで、どんな答えも取りに来ようとしない。だからこそ、美緒は、自分の中にあるものを曖昧にしたくなかった。「迅さん」迅の目が、静かに美緒へ向いた。「私には、まだ傷があります」迅の呼吸が、ほんの僅かに止まったように見えた。美緒は、続けた。「あなたを見たら、離婚を告げられた日のことを思い出さないとは言えません
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104.選びなおす夜

美緒は、膝の上でほどいた手を、そのまま静かに置いていた。迅は、待っている。立ち上がったまま、卓の向こうから一歩も動かずに、美緒の答えだけを待っている。作業場の灯りが、迅の濃い色のスーツの肩へ淡く落ちていた。昼間なら、わずかな布の張りや縫い目の流れまで見ようとしていたかもしれない。けれど今、美緒の目に映るのは、その身体が自分へ近づきたい思いを抑えて、きちんと留まっていることだった。妻だった頃なら、尋ねられることなどなかった。迅が腕を伸ばせば、美緒はそこへ入った。帰りの遅い夜も、言葉の少ない朝も、触れられることを拒む理由などないと思っていた。それは、愛されていると信じられる日常だった。けれど、その日常は、一度、美緒の意思とは関係のないところで終わらされた。だから今、迅が問いを置いたことには、言葉以上の意味があった。触れることさえ、もう自分一人の思いで決めない。美緒が望むのかを、待つ。その姿を見ているうちに、胸の奥へ張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。怖くないわけではない。この距離を越えれば、身体が覚えているものまで戻ってくる。迅の体温も、匂いも、腕の中にいた頃の安心も、それを失った日の痛みも、同じ場所から押し寄せるかもしれない。それでも、美緒はもう、怖さに代わりに答えを出させたくなかった。迅へ近づきたいと思っているのは、自分だった。美緒は、迅を見上げた。「……はい」小さな声だった。けれど、自分でも分かるほど、はっきりとした返事だった。迅の目が、深く揺れた。すぐに歩み寄ってくることはなかった。声を上げることも、安堵したように息を吐くこともない。ただ、短く息を呑んだように胸元が動き、それから、迅は一歩だけ美緒へ近づいた。そこで止まる。まだ、卓の端を回れば触れられる距離には至っていない。美緒の返事を聞いてなお、最後の距離は美緒へ残されていた。
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105.新しい一着

初夏の光は、まだ夏ほど強くなく、三嶋洋服店のガラス戸を通して、店内へ柔らかく差し込んでいた。表に並べた生地見本の上に、淡い光の筋が落ちている。深い紺、灰色、炭色。その中から、美緒は黒の見本帳を抜き出し、作業台の上へ広げた。黒といっても、ひとつではない。光を強く返すものは、改まった席では華やかに映るが、迅には少し目立ちすぎる。重みの強い生地は、立場を示すには十分でも、長い時間身に着ければ、ただでさえ張りやすい肩へ負担を掛けるかもしれない。美緒の指は、数枚の生地を順に撫で、最後に、艶を抑えた深い黒の上で止まった。静かで、奥行きのある黒だった。立った時の輪郭を端正に見せながら、着る人を必要以上に大きく飾り立てることはない。正式な席にも耐え、けれど、服そのものが前へ出すぎない。美緒は、その生地の端を少し持ち上げ、光の下で落ち方を見た。作業台の脇には、採寸用の用紙と、仕立て用の鉛筆、巻き取ったメジャーが揃えてある。予約欄の今日の日付の横には、黒い文字で名前が記されていた。黒瀬 迅。夫の名である。同時に、今日この店へ、新しい一着を依頼しに来る客の名でもあった。迅は、三嶋洋服店へ来る時、必ず事前に時間を確認する。美緒が店にいるから、妻の実家だからと、都合のよい時間に突然姿を見せることはなかった。忙しい時期には、仮縫いや受け取りの日程も、ほかの客と同じように店の予定へ合わせる。最初、美緒がそれを少し堅すぎるのではないかと思ったこともある。けれど今では、迅が自分の仕事を、妻がしてくれることとしてではなく、三嶋洋服店の職人へ預ける仕事として扱ってくれているのだと分かっている。美緒は、選んだ黒の生地見本を採寸表の隣へ置いた。今日仕立て始めるのは、既にある服の直しではない。黒瀬興業の三代目となった迅が、これから正式な席へ着ていくための、新しい一着だった。代を継いだ直後に慌ただしく揃えたものではなく、今の迅の身体を測り直し、今の彼が立つ場所に合わせて、一から作る服。
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106.帰る先の灯り

夕方の光が、三嶋洋服店の作業台へ斜めに差し込んでいた。昼間の白い明るさはもう薄れ、ガラス戸の向こうを通る人の影も、少しずつ長くなっている。店内には、仕立てを終えた上着を包む薄紙の音と、母が帳場で伝票を揃える音が静かに重なっていた。美緒は、作業台の端に置いていた採寸表の控えを、透明な書類入れへ収めた。その横には、小さく切り分けた深い黒の布見本がある。先日、迅のために選んだ生地だった。光を強く返さず、けれど沈みすぎることもなく、立った人の線をきれいに見せる黒。今日、美緒が持ち帰るのは、その見本と、確認用の記録だけだった。型紙へ引く線も、仮縫いへ向けて整える布も、この店に置いていく。三嶋洋服店の仕事は、黒瀬の家へ持ち帰り、夜の合間に済ませるものではない。美緒が明日もここへ来て、作業台の前に立ち、自分の手で進める仕事だった。鞄の口を閉じたところで、母が帳場から声を掛けた。「今日は、そのまま本家へ帰るんやろ?」美緒は、肩へ掛ける前の鞄へ手を添えたまま頷いた。「うん。明日の確認用に、見本と控えだけ持って帰る」布見本が動かないよう、書類入れの間へもう一度きちんと収める。「作業は、また明日ここでするから」母は、それを聞いて、少しだけ表情を和らげた。「ほな、ええわ。家へ帰ってからまで、針仕事を抱え込まんようにね」「分かってるよ」「ほんまに?」「ほんまに。今日は見るだけ」美緒が小さく笑うと、母もようやく笑った。奥で作業をしていた父が、裁ち台の向こうから顔を上げる。「明日は、仮縫いまでの段取り見るで」「うん。お願いします」「こっちも、先に確認しとく」父は、それだけ言うと、再び手元へ視線を戻した。美緒は、胸の奥に静かな温かさを感じた。迅の服を仕立てることを、父は特別に扱わない。黒瀬の三代目の服だからと大げさに構えることも、娘の夫の服だからと任せきりにすることもない。
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107.美緒さんのお仕事として

「美緒、京都からお荷物が届いてるよ」店先から母の声がして、美緒は、裁ち台の上に広げていた仮縫い用の黒い上着から顔を上げた。昼を少し過ぎた三嶋洋服店には、初夏の明るい光が入り込んでいる。ガラス戸の向こうでは、通りを行く人の影が白っぽい舗道へ短く落ち、開けていた小窓からは、風に混じって遠い車の音が聞こえていた。美緒は、迅の上着へ掛けていた薄布を整え直した。深い黒の生地は、すでに上着らしい形を持ち始めている。まだしつけ糸が残り、襟の返りも、脇の線も、これから実際に身体へ合わせて直す余地がある。午後には迅が仮縫いへ来る予定だった。それまでに確認しておきたかったところへ、小さな待ち針を一本だけ残し、美緒は作業台から離れた。「京都から?」「ええ。桂木玲子さまのお名前になってる」母の言葉に、美緒の足が一瞬だけ止まった。「……玲子さまから」店先には、品のよい和紙で覆われた細長い箱が置かれていた。大げさな飾りはない。けれど、角のひとつまで崩れないように包まれた荷には、中に収められたものを丁寧に預けようとする気遣いが表れていた。送り状には、確かに桂木玲子の名がある。宛先は、黒瀬本家ではなかった。三嶋洋服店。その文字を見た時、美緒の胸へ、静かな重みが落ちた。玲子から便りが届くことは、不思議ではない。けれど、これは美緒個人の住まいへ届いたものではなく、店へ預けられた荷だった。美緒は、箱へすぐ手を掛けることはせず、まず送り状を丁寧に外した。「作業台、空けてくるね」「そうし。お預かりものやったら、ゆっくり見た方がええから」美緒は頷き、作業場へ戻った。迅の仮縫い用の上着は、別の台へ慎重に移し、薄布を掛ける。裁ち台の上を清めた布で軽く拭き、新しい薄紙を広げた。荷を受け取るための場所をきちんと整えてから、母が持ってきてくれた箱を中央へ置く。手を洗い、乾いた布で指先の水気を確かめる。それからようやく、紐をほどいた。
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108,今度は、ちゃんと合ってる

閉店後の三嶋洋服店には、作業場の灯りだけが残っていた。表の照明はすでに落としてある。ガラス戸の向こうには、昼の熱をわずかに残した初夏の通りがあり、時折、車のライトが滑るように過ぎていく。その光が一瞬だけ店内へ入り、壁際に並ぶ生地見本や、裁ち台の角を淡く照らしては消えた。美緒は、ハンガーに掛けた黒いスーツの前に立っていた。深い黒は、作業灯の下で静かな艶を返している。光を受けても華美にはならず、ただ布の奥にある端正さだけが浮かび上がる色だった。袖口へ指を添え、縫い目を確かめる。襟の返りは左右とも落ち着いている。前身頃は、釦を留めても余計な皺が出ない。背中から裾へ落ちる線にも、無理な引きつれは残っていなかった。仮縫いの時に留めていたしつけ糸は、もうない。何度も見直し、布をほどき、線を整え、ようやく一着の服として迅へ渡せるところまで来た。美緒は、袖先からそっと手を離した。迅が三代目として正式な席へ出るための服であることは、分かっている。けれど、威厳をまとわせるためだけに仕立てたのではなかった。人の前に立つ時も、座って話を聞く時も、歩いて誰かの隣へ並ぶ時も、迅が必要以上に身体を固めずにいられるように。立場へ押し込められた人に見えるのではなく、迅自身がその服を着て立てるように。それを考えて、一針ずつ整えた。裁ち台の端には、柔らかな布を掛けた細長い包みが置かれている。玲子から預かった、淡い灰青の単衣だった。その横には、軽い羽織ものへ仕立て直すための提案をまとめた控えが置いてある。襟の線をどう生かすか。織りの美しい部分を、どこへ置くか。玲子が洋装の上へ羽織った時に、布の品が過剰にならず、けれど静かに映える形はどれか。明日、もう一度紙の上で整えてから、正式に返事を出すつもりだった。迅の一着は、今夜ここで渡す。玲子の一着は、明日からまた手を入れていく。どちらかが終われば、どちらかだけが残るわけではない。作業場には、これからも、着る人の違う布が届き、美緒はその一つずつへ向き合っていく。美緒は、黒い上着の肩へ掛けていた薄布を外し、ハンガーごと鏡の前へ移した。その時、店先の戸が控えめに鳴った。美緒は時計を見た。約束した時間だった。奥から表へ出ると、ガラス戸の向こうに迅が立っていた。今夜のために整えた白いシャツに、落ち着いた色のネクタイ。足元
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