袖口の裏側に針を入れると、細い糸は布の陰へ静かに沈んでいった。美緒は、指先で縫い目を軽く押さえ、次の針目の位置を確かめた。預かっているのは、長く三嶋洋服店へ通ってくれている会社員のジャケットだった。表から見れば大きな傷みはないが、袖口の内側には擦れがあり、右の肩まわりだけ布に癖がついている。直すべき箇所は、目立つところばかりではない。着る人が腕を通した時、ほんの少し引かれる場所。立った時、片方の肩だけが落ち着かない場所。そういう小さな違和感を拾って整えるのが、この店の仕事だった。八月の終わりが近い午後、表通りにはまだ強い陽が残っている。ガラス戸から差し込む光は白く、店先に置かれた生地見本の角を鮮やかに照らしていた。作業場の奥では、父がミシンを踏んでいる。一定の速度で続く音。母が帳場で帳面をめくる音。時折、通りを走る車の音が、薄い戸越しに届く。料亭の静まり返った座敷とは違う。ここには、今日着る服を仕立て、明日も店を開けるための音がある。美緒は、袖口へもう一針入れた。あの夜から、五日が経っていた。店は、変わらず営業している。父は朝になると表の鍵を開け、客を迎える準備をする。母は帳場を整え、受け取りに来る客の名前を確かめる。美緒も裁ち台の前へ立ち、直し物の寸法を見て、針を持つ。自分が動いたことによって、店の日常が特別なものへ変わったわけではない。父と母が守ってきたこの場所は、誰かに認められたから価値を持ったのではなかった。誰かの都合で脅しの材料にされかけたからといって、突然弱いものになったわけでもない。ここは、最初から、父と母が仕事を積み重ねてきた場所だった。美緒が幼い頃から見てきた、布と糸と人の身体に向き合う場所だった。だからこそ、戻った今も、手を止めたくなかった。針を持つことは、何もなかったふりをすることではない。自分が今、どこに立っているのかを確かめることだった。背中には、衣服の下に弥勒菩薩がある。
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