All Chapters of 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Chapter 1 - Chapter 10

95 Chapters

1.離れの朝

離れの朝は、いつもと同じ音で始まっていた。庭の砂利を箒が撫でる音。遠くで車のドアが閉まる低い響き。本家の方からかすかに聞こえる男たちの声。短く交わされる挨拶は、朝の空気の中で乾いていて、それでも美緒には、もう長いあいだ耳に馴染んだ音だった。黒瀬本家の敷地内に建つ離れは、夫婦だけの住まいだった。けれど、完全に外から切り離された家ではない。庭を挟めば本家の気配があり、石畳を辿れば渡り廊下へ続く。季節ごとに手入れされた植え込みも、朝早くから動き出す人の気配も、ここがただの住宅ではなく、黒瀬の内側なのだと毎日知らせていた。美緒は、その音を背に受けながら湯を沸かしていた。やかんの底から小さな泡の音が立つ。湯気が細く上がり、台所の空気に淡い湿り気が混じった。美緒は棚から湯呑みを二つ出した。指が自然に、いつもの位置へ伸びる。迅が使う濃い灰色の湯呑みと、自分の白磁の湯呑み。何年も繰り返してきた朝の所作だった。けれど、今日はその動きのすべてが、どこか空々しかった。居間の低い机の上に、白い紙が置かれている。離婚届。その三文字を目でなぞらないようにしても、白さだけが視界の端に残った。畳の色も、湯呑みの丸みも、丁寧に畳まれた布巾も、壁際に掛けられた迅の黒いスーツも、すべていつも通りそこにあるのに、その紙一枚のせいで部屋の重心が変わっていた。美緒は湯呑みに茶を注いだ。ほうじ茶の香ばしさがふわりと立つ。けれど喉は少しも温まらなかった。茶托の位置を直し、布巾の端を揃え、机の角度までほんのわずかに直す。しなくてもいいことばかりをしていると、自分でも分かっていた。時間を稼いでいる。そのことに気づいた途端、胸の奥が冷えた。美緒は二十九歳だった。鏡の前で低くまとめた黒髪は、今日も乱れていない。生成りのブラウスの襟元を指先で整え、落ち着いた色のスカートの皺を掌で払う。装いは控えめだったが、粗末には見えないようにしていた。派手に飾るためではない。黒瀬の家にいる以上、誰の目に触れても礼を欠かないようにするためだった。仕立屋の娘だった頃から、服は人を映すものだと教えられてきた。襟が浮いていれば、その人がどこか落ち着かないことがある。袖口がくたびれていれば、手元をよく使う仕事をしている。肩の線が合っていなければ、本人も気づかないまま息を詰めていることがある。美緒は人を値踏みするため
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2.署名欄に残る黒瀬

迅の言葉が落ちたあと、離れの中には、紙一枚分の沈黙が広がった。美緒はすぐにペンを取れなかった。低い机の上に置かれた離婚届は、先ほどよりも近くにあった。迅が指先で押し出したぶんだけ、美緒の膝元へ寄せられている。白い紙は薄い。指で持てば簡単に折れてしまうはずなのに、いまの美緒には、本家の門よりも重く見えた。記入欄の上には、すでに迅の名前があった。黒瀬迅。黒いインクで書かれたその字は、乱れていなかった。跳ねも、止めも、いつもの迅らしく無駄がない。強く押しつけた跡もなければ、迷いで滲んだ形もない。きれいに整った名前だった。美緒は、その字を見つめた。自分の知らないところで、迅はもうここまで終わらせていた。紙を用意し、自分の欄を書き、あとは美緒が名前を置くだけにしていた。その事実が、胸の奥に冷たい針のように刺さる。美緒の署名欄だけが空いていた。そこに書く名前を、美緒は知っている。黒瀬美緒。まだ自分の名前のはずなのに、紙の上ではすでに、手放すための文字になっていた。迅は何も言わなかった。急かしもしない。ただ、止めもしない。その沈黙が、かえって答えだった。待っても何も変わらない。これ以上、問いを重ねても返ってくるものはない。そう告げられている気がした。美緒は、ペンへ手を伸ばした。指先は冷えていた。ペン軸に触れた瞬間、金属の冷たさが皮膚を通って骨まで届くようだった。普段なら、手はもっと確かに動く。布を押さえ、糸を選び、針先を見ながら、ほつれた部分を直していく。誰かの身体に合うように、服の余りや張りを確かめるための手だった。それなのに、今からこの手で、自分の居場所を終わらせる。美緒はペンを持ったまま、しばらく動けなかった。低い机の木目が見える。白い紙の端が見える。迅の手が見える。大きな手は机の向こう側にあり、紙に触れてはいなかった。けれど、その手がこの離婚届をここまで運んできたのだと思うと、美緒の喉が詰まった。「書けば、終わるんですね」自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。終わることなど、分かっている。分かっているからこそ、目の前の紙が怖い。それでも、聞かずにはいられなかった。もしかしたら、その問いの隙間に、迅が何か別の言葉を挟んでくれるのではないかと思ってしまった。迅はすぐには答えなかった。そのわずかな間に、美緒はまた期待し
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3.見ない男

伏せられた離婚届の上に、迅の手が置かれていた。その手は、今まで何度も美緒の暮らしの中にあった手だった。夜遅く、何も言わずに帰ってきて、肩口に触れた手。湯呑みを受け取る時、ほんの一瞬だけ美緒の指先に触れた手。外では若頭として人を黙らせるほどの圧を持つのに、離れの中では、時々ひどく疲れたように力を抜いていた手。けれど今、その手は美緒ではなく、紙を押さえている。美緒はその事実から目を逸らせなかった。離婚届に名前を書けば、何かが動くのだと思っていた。終わるなら終わるで、せめて理由が語られるのではないか。迅がなぜここまでしたのか、一言くらいは聞けるのではないか。そんな期待が、まだどこかに残っていた。けれど迅は何も言わない。伏せた紙の上に手を置いたまま、低い机の向こうで黙っている。朝の光は少しずつ強くなっていた。障子越しの白い明かりが畳の目を浮かび上がらせ、湯呑みの影を薄く伸ばす。本家の方からは、人の気配が途切れず届いていた。庭を掃く音。誰かが短く交わす返事。遠くで車の扉が閉まる音。黒瀬の朝は、何事もなかったように続いている。その中で、美緒だけが、息をする場所を見失っていた。「理由を、聞かせてもらえませんか」声は思ったよりも静かだった。迅の手が、紙の上でわずかに止まった。指先が動く。離婚届の端にかかった親指が、ほんの少しだけ紙を押す。けれど迅は顔を上げなかった。「聞いても変わらん」低い声が落ちる。美緒は唇を引き結んだ。前にも似た言葉を聞いた気がした。聞いても変わらない。決めたことだ。関係ない。言葉の形は少しずつ違っても、迅が美緒へ差し出すものは同じだった。入ってくるな。そう言われているようだった。「変わらへんとしても、聞くことくらいは許されると思ってました」美緒は膝の上で指を重ねた。指先にまだペンの冷たさが残っている。掌の内側に、自分で名前を書いた感触が残っている。その手を見下ろすと、急に自分が何をしたのか分からなくなりそうだった。だから、迅を見た。迅は美緒を見ない。伏せられた離婚届。机の端。火のついていない煙草。視線はそのあたりを静かに移るだけで、美緒の顔には届かなかった。美緒はその視線の動きを追ってしまう。署名前からそうだった。名前を書いてもそうだった。理由を求めてもそうだった。迅は一度も、美緒の目を正面から見ていない。見た
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4.渡り廊下の向こう

迅が立ち上がったあとも、美緒はすぐには動けなかった。畳に座ったまま、膝の上で指を重ねる。指先にはまだ、ペンを握っていた時の冷たさが残っていた。離婚届はもう迅の手元にあり、封筒に入れられている。自分の名前は見えない。見えないのに、そこに書いた感触だけが、掌の内側に残っている。迅は何も言わず、離れの扉へ向かった。美緒は、その背中を見た。黒いスーツの背中。広い肩。整った立ち姿。何度も見送ってきた姿だった。本家へ向かう朝、組の用件で出ていく朝、夜明け前に呼び出される朝。美緒はいつも、その背中を見ながら、気をつけてください、と言う代わりに、襟元や袖口を整えてきた。今朝は、そのどちらもできない。迅が扉に手をかけた。木枠が小さく軋む。外の空気が、細く部屋へ入ってきた。障子越しの白い光とは違う、庭から直接差し込む朝の光だった。冷えた沈黙に閉ざされていた離れの居間が、扉一枚で本家の朝へつながる。美緒はゆっくり立ち上がった。膝に力が入りにくい。けれど畳に手をついて崩れるような真似はしたくなかった。背筋を伸ばす。肩を落とさない。視線をむやみに揺らさない。そう教えられたわけではなくても、黒瀬の家で暮らすうちに、自然と身体に染み込んだ所作だった。その所作を保とうとするほど、胸が痛んだ。まだ自分は、黒瀬の嫁のように立とうとしている。扉の向こうには、渡り廊下が見えた。離れから本家へ続く廊下は、庭を横切るように伸びている。磨かれた木の床。脇に敷かれた石畳。朝露を含んだ植木。砂利はすでに掃き清められ、玄関先には水を打った跡が薄く残っていた。竹箒が砂利を撫でる音がする。車を回す低いエンジン音が、本家の奥から聞こえた。男たちの声は短く、無駄がない。誰かが低く返事をし、足音が石畳を踏んで遠ざかっていく。いつもの朝だった。美緒はその流れを知っている。どの時間に玄関が開き、誰が本家へ顔を出し、どの車が先に出るのか。二代目姐である姑の佳穂がどこに花を活けるのか。雨の朝には砂利の色が少し濃くなり、晴れた朝には廊下の端に光が長く落ちることも知っている。離れは夫婦の場所だった。けれど、その扉一枚向こうには、いつも黒瀬本家の朝があった。美緒はそこへ出ていき、会釈を返し、声をかけられれば返事をし、必要なら本家の台所や客間へ向かった。ここは、ただ住んでいた場所ではなかった。自分の朝の
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5.荷造りされた部屋

離れの奥へ戻ると、本家の朝の音は少し遠くなった。襖を閉めたわけではない。けれど、渡り廊下の方から届いていた砂利を掃く音も、低い男たちの声も、障子と壁に吸われて薄くなっていた。かわりに、部屋の中にあるものの気配が、急に近くなる。畳の匂い。箪笥の木の匂い。布の匂い。朝の光を受けて、窓際の床に細い明るさが落ちている。そこから見える庭は、昨日と何も変わらなかった。枝の先の葉が少し揺れ、石灯籠の影が静かに伸びている。美緒は、部屋の入口で足を止めた。ここは、夫婦の部屋だった。本家の重い空気とは違う。黒瀬という名前の奥にありながら、この部屋には、二人で暮らした時間の温度が残っていた。夜遅く戻った迅が上着を脱いだ場所。美緒が畳んだシャツを置いた場所。窓を少し開けて、季節の湿気を逃がした朝。何も特別ではない日々の痕跡が、あちこちに静かに残っている。畳の上には、鞄が開いたまま置かれていた。昨夜、美緒が自分で用意したものだった。眠れないまま、ひとつずつ衣類を畳み、必要なものだけを選んだ。肌着、普段着、化粧道具、手帳、財布。最小限のものだけを入れて、それでも最後まで蓋を閉じられなかった。使わずに済むかもしれない。どこかで、そう思っていた。迅がやはりやめると言うかもしれない。何か事情を話してくれるかもしれない。朝になれば、この鞄を笑って片づけることになるかもしれない。そんな都合のいい希望を、昨夜の自分はまだ手放せずにいた。それなのに、手はちゃんと荷造りをしていた。終わらないでほしいと思いながら、終わる準備だけはしていた。その矛盾が、今さら美緒の胸を静かに傷つける。美緒は鞄の前に膝をついた。畳の目が掌に触れる。少し冷たい。鞄の中を覗くと、畳んだ衣類がきちんと並んでいる。自分の手で詰めたものなのに、他人の荷物のように見えた。こんなに少なかったのかと思った。ここで暮らしていた時間は、もっと重かった。朝も夜も、迅を待った時間も、本家の空気に身を置いた日々も、もっと大きなものだった。けれど、持っていけるものだけにすれば、驚くほど
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6.離れの鍵

襖を閉める音が、背中の向こうで静かに消えた。美緒は鞄の持ち手を握り直した。片方の手には、風呂敷に包んだ仕立て道具がある。荷物は思っていたより軽かった。黒瀬で暮らした時間は、あれほど重く身体の奥に残っているのに、持って出られるものだけにすれば、片手で持てるほどになってしまう。廊下へ出ると、床板が小さく鳴った。何度も聞いた音だった。朝、本家へ向かう時。夜、迅を迎えるために玄関へ出た時。雨の日、湿気を含んだ空気の中で、足音が少し鈍く聞こえた時。何の気なしに通ってきた廊下が、今朝だけひどく長い。美緒はゆっくり歩いた。急げば、逃げるように見える気がした。ゆっくり歩けば、まだここに留まりたい気持ちを自分で見せつけられるような気がした。どちらを選んでも苦しかった。ただ、鞄の中にある仕立て道具の重みだけが、掌に確かに残っている。居間の横を通る時、美緒は視線を落とした。低い机はもう片づけられている。湯呑みはそのままだった。朝に淹れた茶は、きっと冷めている。伏せられた紙のあった場所には何もない。そこだけが不自然に空いていて、美緒はその空白を見ないようにした。玄関の方に、迅がいた。離れの出入口に近い場所で、黒いスーツのまま立っている。背が高く、玄関から入る光を受けて、輪郭が濃く見えた。急かすわけではない。声をかけるわけでもない。ただ、そこにいる。待っている。美緒が出ていくのを。その事実に、胸の奥が静かに沈んだ。美緒は玄関へ向かった。框の手前で足を止める。そこには、靴が並んでいた。迅の黒い革靴が、靴箱の下に揃えて置かれている。よく磨かれていた。深い黒に、玄関の光が細く映っている。いつもより少しだけ硬く見えるのは、美緒の目がそう受け取っているだけかもしれない。その横に、美緒の靴がある。昨日までなら、それは同じ家に帰る二人の靴だった。迅の革靴は夜遅くに戻ると、ほんの少し砂を連れてくることがあった。美緒は翌朝、それに気づくと、何も言わずに布で払った。靴を磨くことまで自分の役目だと思っていたわけではない。ただ、目についてしまう。放っておけな
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7.本家の門

離れの玄関を出ると、朝の空気が頬に触れた。内側に残っていた畳と布の匂いが、背後へ退いていく。かわりに、庭の土の湿り気、石畳に残った水の気配、植木の青い匂いが前に出てきた。ほんの少しだけ、車の排気の匂いも混じっている。黒瀬本家の朝だった。美緒は、手元を確かめた。鞄。風呂敷に包んだ仕立て道具。それだけだった。鍵はもうない。さっきまで手のひらにあった小さな金属の重みは、迅の手の中に移っている。戻ろうとしても、あの扉を自分で開けることはできない。離れは背後にあるのに、もう自分の家ではない。その事実を、外気の冷たさが改めて教えてくるようだった。美緒は息を吸い、歩き出した。離れから本家の門までは、決して遠くない。庭を抜け、石畳を辿り、玄関前を過ぎれば、黒い門が見える。何度も歩いた道だった。迅を見送った朝。佳穂に呼ばれて本家へ向かった朝。雨のあと、裾を汚さないよう足元に気をつけた朝。けれど今朝は、足が違っていた。本家へ向かう足ではない。本家から離れる足だった。石畳は、朝の光を受けて鈍く光っていた。掃き清められた砂利には、箒の跡がきれいに残っている。玄関先には、佳穂が整えた花があった。淡い色の花弁が、騒がず、乱れず、ただそこにある。昨日までなら、目に入っても胸が痛むことはなかった。美緒は、花の前を通り過ぎた。玄関近くにいた若い衆が、美緒に気づいた。動きが一瞬止まる。彼はすぐに頭を下げた。礼の角度はいつもと変わらない。けれど、声がなかった。別の男も車寄せのそばで立ち止まった。手にしていた書類を胸の前で押さえ、目を伏せる。誰かが一歩出かけて、すぐに下がった。誰も、美緒を責めていない。誰も、嫌っているわけではない。それは分かった。分かるから、余計に苦しかった。この家の人たちは、今朝のことをもう知っている。美緒が離れの鍵を返し、荷物を持ち、門へ向かっていることを知っている。それでも、誰も止められない。軽く声をかけていいことではないと、それぞれが理解している。
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8.三嶋洋服店

大阪市船場の大通りから少し外れた裏通りに、三嶋洋服店はあった。大通りから一本入ると、車の音は少し遠くなる。古いビルの壁には、長い年月で雨の跡が薄く残り、商家だった頃の名残を思わせる格子戸や、昔からの看板を掲げた小さな店がところどころに並んでいた。その一角に、三嶋洋服店の控えめな看板がある。派手な店ではなかった。表のガラスに流行の服を飾ることもない。大きな文字で客を呼び込むこともない。扉を開けると、まず布の匂いがした。糊の匂い、アイロンの熱、木製の棚に染み込んだ古い空気。店の奥では、使い込まれたミシンが静かに佇み、壁際の棚には反物と布地見本が整然と収められている。三嶋洋服店は、祖父の代から続く小さな仕立屋だった。美緒は、その店で育った。二十五歳になった今も、朝、店の奥で布を広げる音を聞くと、子どもの頃の記憶が身体のどこかで目を覚ます。布が作業台の上に落ちる低い音。アイロンの蒸気が上がる音。糸巻きが箱の中でかすかに触れ合う音。どれも、三嶋家の朝の音だった。美緒は黒髪を仕事の邪魔にならないよう低くまとめ、袖口のすっきりしたブラウスの上から薄いエプロンをつけていた。派手な服は着ない。針や鋏を扱う以上、引っかかる飾りもいらない。ただ、清潔で、動きやすく、布に失礼のない装いであればよかった。開店前の店内で、美緒は採寸メジャーを巻き直していた。白いメジャーの数字を指でなぞり、途中に癖がついていないかを確かめる。チャコは角を軽く削って、線が太くなりすぎないようにする。針山の針は、長さごとに少しだけ角度を揃えた。糸切り鋏は手元へ。帳面は母が使いやすい位置へ。父は奥の作業台で、アイロンの温度を確かめていた。三嶋修造は、口数の少ない職人だった。客と長く世間話をするより、その人が立った時の肩の高さを見る。椅子に腰かける時の背中の丸まり方を見る。腕を上げる時、どこで布が引っかかるかを見る。身体に合う服は、数字だけでは作れない。そのことを、父は何度も言葉少なに示してきた。「美緒」父が作業台の前で言った。「うん」美緒はメジ
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9.黒いスーツの客

翌日の午後、三嶋洋服店の空気は、いつもより少しだけ硬かった。布の匂いも、アイロンの余熱も、古い木棚の影も、何ひとつ変わってはいない。通りから入る光も、昼を過ぎた頃の淡さで、店先のガラスに控えめに反射している。けれど美緒には、店の中のものが少しずつ息を潜めているように感じられた。黒瀬興業の若頭が来る。昨夜から何度も頭の中で繰り返した言葉だった。父はいつも通りだった。作業台の上に布見本を広げ、黒、濃紺、チャコールグレーの生地を黙って確かめている。指先で布を撫で、光に向け、織りの細かさと落ち方を見る。その表情は、相手が誰であろうと変わらない。母も帳場を整え、湯呑みを用意し、予約帳を開いていた。声はいつもの柔らかさのままだったが、湯呑みを並べる手つきが少しだけ慎重だった。美緒はメジャーを巻き直し、帳面と鉛筆を揃えた。チャコ、針山、しつけ糸。必要なものはすべて手の届くところにある。それでも、何度も同じ位置を確かめてしまう。店先のガラス戸が風で微かに鳴るたび、美緒は顔を上げた。まだ来ない。そう思うたびに、胸の奥で小さく息が詰まる。父が布見本から目を離さずに言った。「美緒」「うん」「相手が誰でも、見るところは同じや」美緒は手元の帳面を見下ろした。「うん」「肩、背中、腕の動き。そこを間違えたら、高い布でも意味がない」その言葉で、少しだけ呼吸が深くなった。黒瀬の若頭。古い組織の名前。近づいてはいけないような世界。そう考えれば、緊張は消えない。けれど三嶋洋服店に来る以上、相手は客だった。新しくスーツを仕立てる客。身体に合う一着を必要としている人。美緒はメジャーに触れた。見るべきものは同じ。そう自分に言い聞かせた時、店の戸が開いた。外の光を背にして、黒いスーツの男が立っていた。空気が変わった。大きな音がしたわけではない。声を荒げられたわけでもない。ただ、その男が一歩店に入っただけで、古い木棚に囲まれた三嶋
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10.採寸の沈黙

採寸台の前に立つと、迅の黒いスーツは、店の中でさらに深く沈んで見えた。古い鏡が正面にある。曇りひとつないよう磨かれてはいるが、縁の木には長い年月の色が染み込んでいた。鏡のそばには人台があり、壁際には布見本と糸巻きの棚が並んでいる。店先から入る光は控えめで、作業台の上に置かれた白いメジャーだけが、やけにくっきり見えた。父はいつもの調子で迅を鏡の前へ案内した。「こちらへ。楽に立ってください」「ああ」迅は短く答え、言われた場所へ立った。楽に、と言われたはずだった。けれど、美緒にはそれが楽な姿勢には見えなかった。背筋は伸びている。姿勢も崩れていない。肩も落ちていない。むしろ、どこから見ても隙のない立ち姿だった。だが、力が抜けていない。肩から首へかけて、薄く緊張が残っている。胸元は動いているのに、呼吸が深くない。大きく息を吸い込むのではなく、必要な分だけを静かに取り込んでいるような呼吸だった。父が迅の横に立ち、メジャーを手に取った。「肩幅から見ます。美緒、控えて」「はい」客の前では、父への返事も自然に仕事の声になる。美緒は帳面を開き、鉛筆を構えた。紙の上には、まだ何も書かれていない。新しく仕立てる一着のための数字が、ここに並んでいく。父は迅の肩へメジャーを渡した。無駄のない手つきだった。身体に触れるのは必要なところだけで、余計な圧をかけない。迅は動かない。鏡の中の顔も、表情を変えない。「肩幅」父が数字を告げる。美緒は書き取った。鉛筆の先が紙を擦る音がする。古い時計の秒針が、壁の上で小さく時を刻んでいる。店の奥ではアイロンの余熱がまだ残っていて、布と糊の匂いが静かに漂っていた。父は胸囲、胴回り、袖丈へと進めていく。美緒は数字を書きながら、迅の身体の線を見ていた。採寸は、顔を見る仕事ではない。肩を見る。背中を見る。腕の落ち方を見る。父がいつもそうしているように、美緒も見ようとした。迅の身体は、均整が取れていた。長
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