All Chapters of 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Chapter 71 - Chapter 80

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70.留守を選ぶ足

事務所へ戻った時には、表の灯りが半分ほど落とされていた。久我誠司は、入口脇の傘立てに自分の傘がないことを一瞬見てから、昼間に雨が降っていなかったことを思い出した。八月の夜は、日が暮れても空気が重い。車を降りてから建物へ入るまでのわずかな距離で、シャツの背に湿気がまとわりついている。廊下の奥では、清掃を終えた若い者が一人、会釈をして帰っていった。いつもなら、まだ何人かが残って電話を受けたり、翌日の段取りを確認したりしている時間だが、今夜は妙に静かだった。坂下が、余計な者を残さなかったのだろう。久我は、事務所の奥へ足を向けた。開け放したままの小さな打ち合わせ室に、坂下が座っていた。机の上には、茶も珈琲もなく、薄茶色の封筒が一つだけ置かれている。その封筒の位置が、普段の事務書類の置き方とは違っていた。読み終わったものではなく、誰かに渡すために向きを揃えられた置き方だった。「お待たせしました」久我が入ると、坂下は立ち上がらずに小さく頭を下げた。「お呼び立てして、すみません」「構いません。見せたいものいうのは、それですか」「はい」坂下は、封筒を久我の前へ滑らせた。久我は椅子へ腰を下ろし、封筒の口を開いた。中から出てきたのは、一枚の名刺と、数枚の提案資料、それから坂下の字で整理された聞き取り記録だった。余計な言葉のない、几帳面な字だった。取引先の名前、来訪した会社名、訪問日、尋ねられた内容、黒瀬側から紹介した事実の有無。その下に、確認できていないことが別にまとめられている。名刺を取る。初めて見る会社名だった。表向きは催事支援や人員手配、施設管理を扱う会社らしい。裏には湾岸部の住所が刷られている。久我はその住所に一度だけ目を止めたが、そこへ意味を決めつけることはしなかった。「この会社が、古い取引先へ来たんですか」「ええ。今日、先方から直接相談がありました」「何を聞かれた」坂下は、机の上で両手を組んだ。「うちとの取引が今後も続くのか。秋以降の催事がどこまで決まっ
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71.表札のない入口

八月の午後は、車の冷房を入れていても、信号で停まるたびに窓の外の熱が押し寄せてくるようだった。森下彰は、助手席に置いた角封筒が滑らないよう、赤信号の間にそっと位置を直した。中に入っているのは、催事会場へ入る資材の確認書と、受領印をもらうための控えだけである。黒瀬興業の若い者として任される仕事の大半は、こうした細々とした外回りだった。書類を届け、返事を預かり、必要なら車を回し、人手が足りなければ設営にも入る。目立つ仕事ではない。けれど、黒瀬に入ってから、目立たない仕事ほど間違えれば多くの人へ迷惑がかかるのだと知った。信号が青へ変わる。彰はアクセルを踏み、流れの緩い車列へ合流した。前の晩、久我に呼ばれた時の声が、まだ耳に残っていた。探るな。普段の仕事の中で目に入ったことだけ、持って帰れ。短く、退ける余地のない言い方だった。叱られたのだと思ったわけではない。むしろ、あれは自分を無用な危険へ入れないための言葉だったのだと、頭では分かっている。それでも、胸の奥には、引っかかるものが残っていた。自分が以前見た男たちについて話しても、分かったのはわずかなことだけだった。岩本側の人間と思われる男が、見慣れない相手と会っていた。車の色と、番号の末尾が少し。場所と時刻。相手が何者なのかも、何を話したのかも分からない。あの程度のことしか持ち帰れなかった自分が、果たして役に立っているのか。そう考えるたびに、久我のもう一つの言葉が浮かぶ。見てへんことまで言う必要はない。彰は、ハンドルを握る指に余計な力が入っていることに気づき、息を吐いた。何かを掴みたいと思う気持ちはある。結衣が、美緒へ電話をかける前に、どれほど迷っていたかを見ていた。由香が黒瀬へ出入りするようになってから、結衣の顔つきが変わったことにも気づいていた。美緒がいなくなった本家の空気が、目に見えないところで乾いていくようだったことも、若い自分にだって分かった。美緒は、彰のような下の者の妻にまで、気を配っていた人だった。本家へ顔を出した帰り、緊
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72.二人の姐の声

祐一郎が床に就いた後の居間には、湯の冷めていく匂いと、薬包を開いたあとのわずかな紙の匂いが残っていた。佳穂は、卓上に並べていたものを一つずつ片づけていた。湯呑みを盆へ移し、薬の袋を重ね、病院から渡された次回検査の案内を封筒へ戻す。どれも、以前ならそのまま小箪笥の上に置いておいたものだった。夫が飲み忘れないように。車を出す者が時刻を確認できるように。家の内側で必要な者が、必要な時に見られるように。けれど今は、封筒を伏せて置くだけでも落ち着かなかった。由香が、祐一郎の検査の日取りを口にした時の声が、佳穂の耳から消えずにいる。あの時、由香は悪びれる様子もなく、まるで本家の者なら知っていて当然のように話した。問い返せば、父から聞いたような気がすると、曖昧に笑った。その笑顔の軽さが、かえって佳穂の胸に冷たいものを残した。検査予定を知っていたことだけなら、どこかで話が漏れたのかもしれない。人が出入りする家で、すべてを閉じ込めておくことなどできない。そう考えようとしたこともある。だが、由香が知りたがっていたのは、それだけではなかった。迅がいつ本家を空けるのか。誰が祐一郎に付き添うのか。事務所では、誰に話を通せば動くのか。坂下がどの取引先と深く関わっているのか。一つ一つは、嫁ぐつもりの家へ気を配っているのだと言い逃れのできる問いだった。だから佳穂は、すぐに由香を拒まなかった。岩本との間には、感情だけでは切れない過去がある。迅がどれほど由香を望んでいないとしても、佳穂が先に礼を失えば、黒瀬の側が筋を違えた形にされる。それを分かっているからこそ、佳穂は由香に茶を出し、挨拶を受け、顔色一つ変えずに席へ迎えてきた。けれど、本家の内側へまで気を張り、夫の身体のことまで隠すようになるとは思わなかった。佳穂は、封筒の角を揃えた指先を止めた。本家の廊下の奥は暗い。祐一郎の寝室へ続く襖は閉じられ、夏の夜の湿り気を含んだ静けさが、家全体へゆるく沈んでいる。少し前までなら、この家の中で一番重い沈黙は、迅が何かを抱えて帰ってきた夜に生まれるものだった。今は違う。誰が何を聞き、誰が
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73.守ったはずの外側

黒瀬興業の事務所へ戻った時、時計の針はすでに日付の変わる方角へ近づいていた。玄関脇の照明だけが残され、昼間には人の出入りで絶えず揺れている硝子扉も、今は静まり返っている。迅は車を降りると、閉まりかけた扉を自分で押して中へ入った。外気の湿った熱が、スーツの背に薄くまとわりついている。出先から戻る間、久我の声は一度しか聞いていない。岩本の件です。こちらで、見過ごせんものが重なりました。それ以上は電話で聞かなかった。久我が電話口で言葉を絞ったということは、聞かせる前に見せるべきものがあるということだった。受付の奥に人の姿はない。蛍光灯の落とされた廊下を進むと、奥の応接室だけに灯りが残っていた。扉を開ける。革張りの長椅子の前に、久我と坂下が立っていた。坂下までいる。その事実だけで、迅は胸の奥に落ちるものの重さを測った。岩本の人間が何か言ってきただけなら、久我一人で足りる。由香がまた本家で無遠慮な振る舞いをしたという程度なら、こんな夜更けに坂下が資料を抱えて待つことはない。低い卓の上には、二つの封筒が置かれていた。一つは厚みがない。もう一つには、数枚の紙と名刺らしき白い角が覗いている。その横には珈琲が三つ置かれていたが、どれもほとんど手をつけられないまま冷えていた。「若」久我が一歩下がる。迅は返事をせず、応接椅子へ腰を下ろした。上着は脱がなかった。ネクタイにも触れない。「話せ」声に出した途端、室内の空気がさらに締まった。先に座ったのは坂下だった。封筒の一つを開き、白い名刺を卓上へ置く。迅の方へ正面を向けて滑らせる動きに、余計な逡巡はなかった。「古くから付き合いのある設営会社から、相談がありました」「何の相談や」「見慣れない会社が営業に入ったそうです。催事設営、人員手配、警備補助。表向きは、そのあたりを一括で請け負う会社です」迅は名刺へ視線を落とした。社名に覚えはない。所在地は湾岸寄り。事業内容の表記は綺麗に整
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74.店先まで伸びる影

裁ち台の上に広げた薄物には、まだ鋏を入れていなかった。柔らかく透ける生地の上には、白いしつけ糸が控えめに渡され、淡いチャコの線が、長めの羽織へと形を変えるための輪郭を描いている。夏の午後の光を含んだ布は、見る角度によって柄の色合いを微かに変えた。古いものだからこそ、どこへ力を掛ければ傷むのか、どこを活かせばもう一度美しく着られるのかを、急がず見極めなければならない。美緒は、衿の落ちる位置に指を置き、縫い代の取り方をもう一度確認した。京都から戻って以来、何度も確かめている場所だった。玲子の身体に合わせ、昔の布が今の姿へ無理なく沿うようにするには、この位置が一番よいはずだった。それでも、鋏を入れる前には迷いが残る。切ってしまえば、もう元には戻せない。だからといって、切らずに置いておけば、布はいつまでも仕立て上がらない。美緒は、細い定規を当て直し、線の端をほんの少しだけ整えた。店の表では、母が帳場の伝票を揃えている。紙をめくる音と、古い電卓の小さな打鍵音が、一定の間隔で聞こえてくる。奥の作業場では、父が預かり物の上着の裏地を外していた。時折、裁ち鋏を置く金属音がして、そのたびに、ここが長い年月をかけて息づいてきた店なのだと感じる。離婚して戻ってきた当初、この音を聞くのは苦しかった。自分だけが、何も持たずに戻ってきたように思えたからだ。父と母の仕事は変わらず続いているのに、自分は黒瀬の家で背負おうとしたものを失い、妻だった名も、居場所も、迅の隣に立つ未来も、何一つ手元へ残せなかった。けれど今は、少し違う。布に触れている間、美緒の手は迷いながらも動く。自分がどこで生まれ、何を覚え、何を積み上げてきたのかを、指先が思い出してくれる。「美緒」帳場から、母の声がした。「少し休んだらどうやの。ずっと細かいところ見てたら、目が疲れるよ」美緒は薄物から目を離さないまま、微笑むように答えた。「あと少しだけ。切る前に、ここだけもう一回見ときたいの」「そう。無理せん程度にな」母はそれ以上言わなかった。
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75.相談ではなく、筋

夜の庭には、昼の熱がまだわずかに残っていた。障子を細く開けておくと、湿り気を含んだ風が、応接間の畳の上を静かに渡ってくる。遠くで虫の声が重なり、庭石のそばに落ちた水の気配だけが、時折、暗がりの中で音を立てた。桂木玲子は、卓上に置いた湯呑みへ手を伸ばさず、庭の向こうを見ていた。今夜の着物は、薄墨色の絽だった。袖口を動かすたび、白い灯りの下で織りの影がわずかに揺れる。右手の翡翠の指輪は、淡い光を含んだまま、膝の上で静かに止まっていた。ふと、三嶋洋服店へ預けている薄物のことを思う。長い年月を経て、元の形ではもう着る機会のなくなった布だった。それでも、仕舞い込んで朽ちさせるには惜しく、かといって若い頃の姿へ無理に戻すつもりもなかった。今の自分が、今の身体で、無理なく纏えるものへ変えてほしい。そう頼んだ時、美緒は、安易に華やかな仕立て直しを勧めなかった。布の傷みを見て、柄の流れを見て、どこを残せばこの薄物の時間を損なわずに済むかを考えていた。物を扱う手つきは、そのまま人の話を扱う姿勢にも出る。玲子は、美緒がこの部屋へ座った日のことを思い出していた。まだ暑さの残る昼下がり、美緒は仕事の話を先に済ませた。その後、別の封筒を膝の上へ置き、黒瀬で起きていることを話した。元夫を取り戻したいとは言わなかった。自分を傷つけた女を退けてほしいとも言わなかった。ただ、黒瀬の人間たちと、三嶋洋服店が、誰かの思惑のために使われようとしているのなら、知らないふりはできないと言った。確かに見聞きしたことと、疑っているだけのことを、美緒は最後まで混ぜなかった。感情を失っていたわけではない。声の奥には、裏切られた痛みも、迅への割り切れない思いも残っていた。それでも、その痛みを証拠のように差し出そうとはしなかった。だから玲子は、話を預かった。美緒が誠実であることと、岩本を動かすに足る事実が存在することは、同じではない。どれほど美緒を信じても、確かなもののないまま桂木の名を使えば、その瞬間に話の筋を汚す。それは、美緒が望
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76.返らない約束

夕方の西日が、厚いカーテンの隙間から細く差し込んでいた。冷房の効いた部屋には、外の熱気は届かない。鏡台の上に並べた香水の瓶も、ケースに収めた宝飾品も、クローゼットの扉へ掛けた薄手のワンピースも、汗ひとつ知らない顔で整然と収まっている。岩本由香は、鏡台の椅子に浅く腰を掛けたまま、ベッドの上へ置いたスマートフォンを見ていた。画面は暗い。通知は、来ていない。由香は、わざと視線を外して、手元の口紅の蓋を開けた。夕食へ出る予定があるわけではない。誰かに会う約束もない。それでも、薄く色の落ちかけた唇を整えずにはいられなかった。いつ連絡が来ても、すぐに応じられるように。そんなふうに考えてしまう自分が、ひどく気に入らない。迅へ連絡を入れたのは、午後を少し回った頃だった。重くならないように文面は選んだ。責めるようには見せず、待たされている女の惨めさが滲まないように、何度も書き直した。最近、お忙しいのでしょうか。少しお顔を見られたらと思っています。お食事だけでも、ご都合のよい日を教えてください。送信した後、すぐに返事が来るとは思っていなかった。迅は、以前から愛想のよい男ではない。自分から甘い言葉を送ってくることも、会いたいと連絡してくることもなかった。食事へ誘うのはたいてい由香の方で、会えたとしても、迅は必要な言葉だけを交わし、早く席を立つことばかり考えているように見えた。けれど、返事はあった。遅くても、夜には来た。忙しい。今は時間が取れない。また連絡する。いずれも、喜べるような文面ではなかった。けれど、由香にとっては、それで十分だった。また、という言葉が残されている限り、自分は拒まれてはいない。迅は、美緒との離婚を引きずっているだけだ。長く一緒にいた女を、すぐに忘れられないのは仕方がない。むしろ、その程度の情も持たない男なら、由香だって魅力を感じなかったかもしれない。時間が経てばいい。美緒の痕跡が黒瀬から薄れればいい。
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77.閉じられた本家

車の窓越しに見える黒瀬本家の塀は、夏の日差しを受けて白く乾いていた。門の手前で車が静かに止まる。由香は膝の上に置いていた紙袋の持ち手へ指を添え、乱れていないことを確かめてから、ゆっくりと扉を開けた。冷房の効いた車内から降りた途端、湿った熱が肌へまとわりついた。けれど、額に汗が浮くほど歩く距離ではない。由香は、深い青緑色のワンピースの裾を軽く整え、肩に掛けたバッグの位置を直した。選んできた服に間違いはない。華やかすぎず、かといって地味に沈みもしない。落ち着いた色合いの中に、仕立てのよさと値の張る生地が見える。耳元の真珠も、バッグも、手土産として選んだ老舗の菓子折りも、黒瀬本家を訪ねる女として不足はないはずだった。前夜、画面に残った迅の一文が、ふいに脳裏へ浮かぶ。当面、私的な時間を取る予定はありません。必要な用件がある場合は、久我へ伝えてください。由香は、紙袋を持つ手へ僅かに力を入れた。あれは、迅が忙しさの中で余裕を失っていただけだ。父親の体調も、代替わりを控えた仕事もある。自分とゆっくり会う時間を取れないことくらい、理解できないわけではない。けれど、理解することと、受け入れることは別だった。自分は、ただ会いたいと縋る女ではない。岩本の娘であり、迅と結婚を前提に付き合っている立場である。黒瀬の家にとっても、いずれ無視できない存在になる。本家へ来れば、そのことを確かめられる。由香は、呼び鈴へ指を伸ばした。ほどなくして、玄関の戸が静かに開いた。出てきたのは梓だった。淡い色の着物を隙なく着こなし、髪も乱れなくまとめている。由香がこれまで本家へ顔を出した時にも、何度か応対に出てきた女だった。佳穂のそばで動き、美緒がいた頃には、随分と親しげに仕えていたように見えた女。梓は、由香を見るなり、丁寧に頭を下げた。「ご足労いただき、ありがとうございます。奥さまがお待ちでございます」その声にも、姿勢にも、非礼は一つもない。由香は、持っていた紙袋を少し前へ出した。「こちら
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78.父が欲しいもの

岩本の家へ戻っても、由香はすぐに着替えなかった。鏡台の前に立ち、深い青緑色のワンピースの腰まわりを撫でる。車に座っていたせいで、裾にごく浅い皺が寄っていた。指で伸ばせば消える程度のものだったが、それがひどく目障りに思えた。朝、鏡の前でこの服を選んだ時には、間違いがないと思っていた。色も、丈も、合わせた真珠の耳飾りも、持参した老舗の菓子折りも。黒瀬本家へ伺う女として、どこにも隙はなかったはずだ。それなのに、帰ってきた自分の手元には何もない。二代目の様子も。迅の居場所も。佳穂の口から、自分を認めるような言葉も。梓の口から漏れる、わずかな気配すら。由香は、耳飾りを外してケースへ戻した。小さな真珠が、布張りの内側へ静かに沈む。次にバッグを鏡台の脇へ置き、スマートフォンを取り出した。画面には、迅から届いた文面が残っている。当面、私的な時間を取る予定はありません。必要な用件がある場合は、久我へ伝えてください。それを見た瞬間、玄関先で聞いた梓の声が重なった。若頭へのご用件は、久我さまへお伝えくださいませ。由香は、画面を閉じた。何度見ても同じだった。迅に会えなかったことよりも、会おうとする道そのものを、こちらへ何も説明しないまま細く塞がれたことが腹立たしい。佳穂も、梓も、最後まで礼儀を崩さなかった。だから、怒鳴ることも、父へすぐ訴えることもできずに帰ってきた。黒瀬の本家で粗末に扱われた、と言えばよかったのだろうか。実際には、茶も出された。見舞いの品も受け取られた。佳穂は穏やかに礼を述べ、梓は玄関まで丁寧に見送った。ただ、何も教えてくれなかった。ただ、由香がこれから入っていくつもりでいた場所へ、触れさせてくれなかった。その扱いが、露骨な拒絶よりも深く胸へ刺さっている。由香は、ようやくワンピースの背中へ手を回した。ファスナーを下ろそうとした時、鏡台の上のスマートフォンが震えた。表示された名前を見て、指が
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79.聞かれたから答えただけ

化粧を落としても、頬の内側に残った熱は引かなかった。由香は、薄い部屋着へ着替えたまま、ベッドの端に座っていた。鏡台の脇には、黒瀬本家へ着ていった青緑色のワンピースが、ハンガーに掛けられている。袖も裾も乱れていない。昼間、自分がそこへ何を求めて出向いたのかなど知らない顔で、落ち着いた艶を帯びていた。耳飾りはケースへ戻した。化粧ポーチの蓋も閉じた。鏡に映る顔からは、黒瀬の前で崩すまいとしていた色も、佳穂へ認められたいと願って選んだ顔立ちも、きれいに落ちている。それなのに、気持ちだけが、何ひとつ片づかなかった。枕元のスマートフォンには、父へ送った返信が残っている。「分かった。次はちゃんと聞いてみる」そのすぐ上には、父の文面がある。「次は、聞けることを聞いてこい。お前のためでもある」由香は、画面へ指を触れないまま、長く見つめていた。送った時には、ほかに答えようがないと思った。迅にも会えず、本家へ行っても佳穂と梓に何ひとつ教えてもらえず、まるで自分だけが黒瀬の外へ押し出されたようだった。そのうえ父にまで、何も分からず帰ってくるのでは話にならないと言われた。ここで父に背を向ければ、自分を支えるものがなくなる。だから、次は聞くと答えた。次こそは、迅の隣に立てる女として認められるために。美緒とは違うのだと示すために。父から、岩本の娘として見限られないために。そこまで考えた時、由香は、自分の胸に浮かんだ疑問から目を逸らせなくなった。次は、何を聞くのだろう。迅が自分をどう思っているのか、ではない。いつ会ってくれるのか、でもない。祐一郎の具合。次の検査の日取り。迅が本家や事務所を空ける時間。久我と坂下が何を見ているのか。美緒がどこにいて、三嶋洋服店に黒瀬の人間が出入りしているのか。それを知ることが、どうして自分のためになるのか。父は、由香が迅に愛されるために必要だと言った。
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