Lahat ng Kabanata ng 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛: Kabanata 91 - Kabanata 100

109 Kabanata

90.その先で動いたもの

玲子の指が、封筒の口を静かに開いた。紙の擦れる音は、思いのほか小さかった。それなのに、美緒には、その音だけで客間の空気がひとつ深いところへ沈んだように感じられた。由香の口から、三嶋洋服店へ自分が戻っていることを父へ話したと聞いた直後だった。すでに、店の名が圧力の材料として扱われていた可能性は聞いている。何も知らないまま、今ここで初めて打ちのめされるのではない。それでも、目の前で由香が認めた言葉と、玲子が預かっていた外の記録とが、これから同じ卓の上でつながっていく。そのことは、知っていた事実を、別の重さで美緒へ突きつけた。玲子は、封筒からすべてを取り出そうとはしなかった。数枚の紙だけを選び、卓上へ置く。どれも華美な印のない、簡潔な記録だった。美緒は以前、料亭の席で、その一部を見せられている。あの時は、自分が抱いた違和感が、ただの不安ではなかったと知るための紙だった。今は違う。由香自身へ、彼女が父へ渡したものの先で、何が動いていたのかを示すためのものになっている。玲子は、資料へ目を落とす前に、由香を見た。「由香さん」由香は、膝の上のバッグを握ったまま、ゆっくり顔を上げた。先ほどよりも顔色が薄い。佳穂の問いに答え、自分が父へ何を話したのかを認めた時点で、もう余裕のある笑みを作ることはできなくなっていた。「今、佳穂さんへお話しになったことに、間違いはありませんね」由香の唇が、僅かに動いた。「……はい」声が小さく落ちる。「父へ話したことは、ございます」そこで、由香はすぐに言葉を重ねた。「けれど、先ほども申し上げた通り、黒瀬へ何かをするつもりで話したわけではありません」玲子は、由香の弁明へ頷きも否定もしなかった。「それは、あとで聞かせてもらいます」由香の指先が、バッグの縁へ食い込む。玲子は、卓上の一枚へ手を置いた。「まず
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91.離婚された人

その言葉を口にした途端、由香は、自分の呼吸だけがひどく大きく聞こえることに気づいた。誰も、すぐには答えなかった。佳穂も。玲子も。迅も。そして、美緒も。客間の中央に置かれた卓には、数枚の資料が整然と並べられている。岩本側の者が動いた日。真砂に近い会社の名。黒瀬の古い付き合い先へ持ち込まれた話。三嶋洋服店が、黒瀬へ圧を掛けるために使える場所として扱われていたという確認。すべてが、由香の目の前に置かれている。けれど、由香が今欲しかったのは、紙に書かれた事実ではなかった。自分だって知らなかったのだと、誰かに言ってほしかった。父に利用されたのであれば、自分も傷つけられた側なのだと、少しでも認めてほしかった。黒瀬を潰そうとしたわけではない。三嶋洋服店を脅せと望んだわけでもない。ただ、父に聞かれたから答えた。迅の隣へ立てる女になるために、嫁ぎ先のことを知っておくのは当然だと思った。それだけだったはずなのに。なぜ、自分だけが、こんなふうに卓の向こうから見られなければならないのか。由香は、膝の上のバッグへ指を食い込ませた。先ほどの言葉へ、佳穂が厳しく返してくれればよかった。玲子が冷たく咎めてくれれば、父に騙されていたのだと訴えることもできた。美緒が取り乱して怒りを向けてくれれば、元妻が感情をぶつけているだけだと思うこともできた。だが、美緒は泣かない。怒鳴らない。由香の反発を聞いても、ただ静かに座ったまま、視線を逸らさない。その落ち着きが、由香には耐え難かった。なぜ、この女が、問いただす側に座っているのか。離婚されたのは、美緒の方だ。黒瀬から出されたのも、美緒の方だ。迅の隣を失い、三嶋の店へ戻ったのも、美緒の方だ。それなのに、今ここで追い詰められているのは、自分だった。由香は、玲子を見ることができなかった。
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92.弥勒の背中

美緒が立ち上がった瞬間、迅の身体も反射的に動きかけた。膝の上で握っていた手に力を込め、どうにかその衝動を押し留める。立って、どうするつもりなのか。由香へこれ以上の言葉を返すのか。それとも、投げつけられた言葉に耐えられず、この場を離れるのか。だが、美緒の顔には、席を立って逃げる者の色はなかった。由香だけを見ている。迅へ助けを求めるでもなく、佳穂へ庇ってほしいと訴えるでもなく、玲子へ判断を委ねるでもない。そのことが、迅の胸へ鋭く刺さった。自分はここにいる。けれど、今、美緒が向き合っている相手は自分ではない。自分へ何かを伝えるために立ったのでも、自分の後悔を受け取るために立ったのでもない。分かっていたはずだった。母から、美緒の場を奪うなと告げられた時から。それでも、由香に「離婚された人」と言われた美緒が立ち上がれば、手を伸ばしたい衝動は胸の奥から消えてくれなかった。美緒は、由香の前で静かに身体の向きを変えた。迅の息が、わずかに詰まる。由香へ背を向ける形になったが、それは言葉から逃れるための動きではなかった。背筋は伸びたままで、肩に迷いはない。深い色のワンピースの背に、美緒の指が掛かった。何をするのか理解できないまま、迅はその動きを見た。衣擦れの音が、小さく客間へ落ちる。背の布が、必要なところまで静かに下ろされた。現れたものを見た瞬間、迅は呼吸を失った。美緒の背中に、弥勒菩薩がいた。穏やかに伏せられた眼差し。静かな慈悲を宿す顔。肩甲骨の間から下へと落ちる衣の流れ。その身を支える、開いた蓮台。背後には、途切れることなく閉じた光背が広がっている。威を張る図柄ではなかった。炎で敵を退け、睨み据えるものでもない。ただ、痛みも悲しみも抱えた先で、なお立ち続けるような静かな姿だった。迅の背中に
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93.消せなかった履歴

背中へ布が戻る時、まだ完全には引いていない熱が、肌の奥でかすかに疼いた。美緒は、衣服を静かに整えた。見せるべきものは、もう示した。これ以上、背を晒したまま由香の言葉を待つつもりはなかった。弥勒菩薩は、相手を圧倒するためのものではない。自分が何を選び、何を背負ってここへ来たのかを、軽く扱わせないために必要だっただけだ。座布団の前へ戻り、ゆっくり膝を折る。背中へ布が擦れないよう気をつけた動きは、できるだけ目立たせないようにしたつもりだった。それでも、客間の空気は、先ほどまでとは変わっていた。由香は、膝の上のバッグへ視線を落としたまま、顔を上げない。玲子は、卓上に置かれた資料の横へ手を添え、何も言わずに座っている。佳穂もまた、由香を急かさなかった。迅は、端の席で沈黙したままだった。美緒の名を呼んだ声は、まだ耳の奥へ残っている。掠れた、ひどく低い声だった。あの背中を見られた。夫婦だった頃から一人で抱えていたものを、迅は今初めて知った。そのことを思えば、胸の奥は穏やかではいられない。遅すぎた痛みもある。もっと早く知ってほしかったという思いが、まったくないわけでもない。けれど、美緒は迅を見なかった。今ここで受け取るべきなのは、迅の驚きでも、後悔でもない。由香が、次に何をするのかだった。卓を挟んだ向かいで、由香の指が動いた。バッグの持ち手を握ったまま、しばらく離れなかった手が、ゆっくり口金の方へ滑る。開けようとして、止まる。もう一度、布地の上で指が震える。美緒は、黙ってその動きを見ていた。由香の顔には、先ほどまで美緒へ向けていた尖った色は残っていなかった。代わりに、隠していたものへ自分で触れなければならなくなった人の硬さがある。何かを持っている。それを出せば、自分が父へ渡したものまで、言い逃れのできない形になる。出さなければ、今までと同じように、自分は知らなかったのだと言い続けるこ
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94.上座の人

料亭の黒塀が見えた時、岩本は車内でわずかに顎を上げた。表通りから一本奥へ入った場所に、控えめな暖簾と、打ち水の跡がまだ濃く残る石畳がある。大阪で古くから商いを続けてきた者や、表立って名を騒がれぬ方がよい筋の者が、話を整える時に使う店だった。派手さはない。看板も、門構えも、初めて訪れる者を圧倒するような造りではない。それでも、この店の奥座敷へ通される話が、軽いものでないことくらいは、岩本にも分かっていた。黒塗りの車が、玄関前で静かに止まる。隣に座っていた幹部が、先に扉へ手を掛けようとしたのを、岩本は視線だけで止めた。自分で降りる。今日の席で、最初から余計な慎重さを見せるつもりはなかった。桂木会から届いた連絡は、短かった。黒瀬との今後について、確認したい事項がある。桂木会立会いのもと、正式な席を設ける。岩本側の責任者として、岩本自身が出席するように。不愉快な文面だった。黒瀬と岩本の間の話に、なぜ京都の桂木が出てくるのか。由香と迅の話が思うように運んでいないことは、すでに察していた。由香は近頃、父へ顔を見せることも減り、こちらから尋ねても、ろくに答えようとしない。迅に何かを言われたのか、黒瀬本家で扱いが変わったのか。娘が何を思って黙り込んでいるのかは分からなかったが、縁談の足元が揺らいでいることだけは見えていた。だから、黒瀬が外へ話を持ち出したのだろうと岩本は考えた。祐一郎が、由香を迅の隣へ据える話を白紙へ戻したい。しかし、自分の口だけでは岩本へ言い切れない。過去のことがあるからだ。黒瀬が苦しかった頃、岩本は手を貸した。誰もが黒瀬の先行きを値踏みしていた時期に、岩本だけは祐一郎の顔を立てた。金だけではない。付き合い先へも、外の筋へも、岩本は黒瀬を潰させないための話を通した。あの借りを、祐一郎が忘れているはずはない。迅がいくら頑なでも、黒瀬全体が岩本を切ることなどできるはずがなかった。桂木を連れてきたところで、結局は家同士の話である。
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95.娘のしたこと

清比古の問いが置かれたあと、座敷の中には、誰もすぐに口を開かない時間が流れた。障子の向こうで、庭木の葉が微かに擦れる。陽はまだ完全には落ちていないが、外から差し込む明るさより、座敷に点された灯りの方が少しずつ輪郭を持ち始めていた。祐一郎は、向かいに座る岩本の顔を見ていた。「まず、あなたが娘さんを通じて、黒瀬さんの内側から何を得ようとしていたのか。そこから伺います」清比古の声は、穏やかなままだった。怒気を含んだわけでも、相手を恫喝するように重く落とされたわけでもない。それでも、岩本の目の奥には、ほんの一瞬、硬いものが走った。問いの意味が分からない者の顔ではなかった。自分へ向けられた言葉の範囲が、どこまで及んでいるのかを測る顔だった。祐一郎は、胸の奥に静かな重さが沈んでいくのを感じた。すでに、由香が何を認めたのかを知っている。由香が、自分の手で父との履歴を差し出したことも。美緒が、三嶋洋服店を軽く扱わせないために、自分の身体へ刻んだ覚悟まで示して由香へ向き合ったことも。だからこそ、今、岩本がどのような言葉を選ぶのかを、祐一郎は見届けなければならなかった。岩本は、間を置いたあと、薄い笑みを作った。「内側から何を得ようとしていた、とは……随分と穏やかでない聞き方をされますな」声には、まだ余裕があった。不快を示しながらも、礼を失わない程度に整えられた声音。長年、他人と条件を交わし、相手の出方を見ながら自分に有利な形へ話を運んできた男の話し方だった。「由香が黒瀬さんで何を聞き、何を話したのかまでは、娘本人のことです」岩本は、座卓の端へ片手を置き、軽く指を揃えた。「私が、娘を使うて黒瀬さんを探らせたように言われるのは、心外ですな」祐一郎は、その言葉を黙って聞いた。娘本人のこと。早くも、岩本は由香を自分から切り離そうとしている。由香が自分の意思で何かを聞き、自分の考えで父
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96.向こうへ渡す話

「履歴」という言葉が落ちた途端、岩本の顔に残っていた薄い笑みが止まった。ほんの一瞬のことだった。口元はすぐに整えられ、目元にも先ほどまでの余裕が戻ったように見える。だが、桂木玲子は、その一瞬を見逃さなかった。美緒が座っていることでは崩れなかった。清比古が上座から問いを向けても、岩本はまだ笑っていた。祐一郎に過去の恩を思い出させる言葉を投げた時など、むしろ、長年使い慣れた札を手元へ戻した者の顔をしていた。けれど、由香が自分の手で差し出した履歴があると知った途端、その顔が止まった。娘が何を思っているかではない。娘が傷ついているかでもない。自分が娘へ向けた言葉が、自分の支配の外へ出たことに反応した顔だった。玲子は、封筒へ指を添えたまま、岩本を見ていた。岩本は、しばらく黙っていた。やがて、わずかに喉を鳴らすようにして口を開く。「履歴、ですか」声には、まだ崩れを見せまいとする硬さがあった。「由香が何を見せたんかは知りませんが……あの子も、迅くんとの話がうまくいかんようになって、随分と取り乱していたようですな」先ほどまでは、娘が嫁ぎ先のことを気に掛けただけだと言っていた。今度は、縁談が揺らぎ、感情を乱した娘が父を悪く見せるために差し出したものだという形へ変えるつもりらしい。岩本は、清比古へ向けていた視線を、玲子へ移した。「感情的になった娘が出したもんで、親の意図まで決めつけられても困ります」玲子は、封筒から手を離さなかった。由香を庇うために、この席へ座っているのではない。由香自身が美緒を見下し、黒瀬の中へ入れる自分を誇り、父へ情報を返していたことは、すでに本人の口から確かめられている。知らなかったことと、話したことは別である。その線を、美緒は由香の前で崩さなかった。ならば、玲子もまた、由香を何も知らず利用された可哀想な娘として扱うつもりはなかった。
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97.恩の終わる日

「せやけど、黒瀬さんがうちへ負うてきたもんまで、これで無かったことにできると思わんことですな」岩本の声が、灯りの落ちた座敷へ重く残った。障子の向こうでは、すでに庭の色が夜へ沈み始めている。飛び石の輪郭は足元の灯籠に淡く照らされ、昼間には聞こえなかった虫の声が、わずかに耳へ届いていた。卓の上には、もう隠しようのない資料が並んでいる。由香が差し出した履歴の写し。久我が整理した時系列。坂下の付き合い先へ伸びた外の手。桂木が確かめた、真砂の周りとの接点。それらを前にしてなお、岩本は頭を下げなかった。代わりに、祐一郎へ向けて、長年使い続けてきた言葉を出した。恩。祐一郎の胸の奥へ、その一文字が沈んだ。知らない言葉ではない。忘れたことなど、一度もなかった。黒瀬がまだ今ほどの地場を持たず、周囲から足元を見られていた頃。先代から受けた看板を、自分の代でどうにか繋ごうとしていた時期に、岩本は手を貸した。付き合い先へ顔を利かせた。外の筋へ話を通した。黒瀬を今すぐ切るなと、まだ見込みのある家だと、岩本の名で支えてくれた。あの時、助けられたのは事実だった。祐一郎は、その恩を忘れないために、何度も自分を抑えてきた。多少の無理も、古い付き合いの中で飲み込んだ。迅の相手として由香の名が出た時も、息子の顔を見れば答えは分かっていたのに、最初から拒み切ることができなかった。過去に助けられた家へ、今になって掌を返すような真似はできない。そう思っていた。その結果、美緒を守れなかった。迅に、妻を手放すしかないと思わせた。三嶋の店へ向いた影に、気づいた時には遅かった。膝の上で、祐一郎は自分の手を見た。この手は、長い間、恩を返すつもりで黙ってきた。だが、目の前の男が今差し出しているものは、かつての助けそのものではない。過去に一度差し伸
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98.黒瀬を救った女

祐一郎が、美緒の方へ身体を向けた。それまで岩本の座っていた場所へ集まっていた視線が、ゆっくりと自分へ移ってくるのを、美緒は感じた。襖の向こうへ消えた足音は、もう聞こえない。卓の上には、紙が残っている。誰かの問いに使われ、誰かの逃げ道を塞ぎ、父と母の店の名まで載せていた紙の束が、座敷の灯りの下に静かに置かれている。けれど、美緒はもう、それを見ようとは思わなかった。見ればまた、文字の一つ一つが胸へ入ってくる。自分が店へ戻っていること。黒瀬の者が出入りしているかを探られていたこと。父と母が、毎日変わらず針と鋏を手にしていただけの場所が、誰かを動かすための弱みとして数えられていたこと。それらが消えたわけではない。岩本がこの席を去ったからといって、なかったことになるわけでもない。自分は勝ったのだとは、美緒には思えなかった。望んでいたのは、誰かを膝折らせることではない。由香を泣かせることでも、岩本の面子を潰すことでもなかった。軽く扱われたものを、軽いまま終わらせたくなかった。ただ、それだけだった。背中には、服の下に弥勒菩薩がある。由香の前で示した時の、肌へ空気が触れた感覚はまだ残っていた。完成してからの日は浅く、身体を動かすたびに、奥の方で淡い熱が思い出される。けれど、もう見せる必要はない。自分が何を背負ってここに来たのかは、すでに伝えた。今、自分の前に残っているのは、守られるべきだった側に、自分が何を返されるのかを受け取る時間だった。祐一郎は、美緒へ向き直ったまま、しばらく声を出さなかった。美緒が黒瀬へ嫁いだ頃から知っている、重みのある人だった。大きな声を出さずとも、組の者たちが自然と背筋を正す。佳穂と並んで座る姿には、黒瀬という家を長く支えてきた人間の強さがあった。その祐一郎が、今は、美緒へ何かを言うことをためらうように息を置いている。やがて、祐一郎の両手が畳へついた。美緒の胸が、強く詰まっ
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99.守るつもりだった

振り返った美緒の目に、廊下の奥に立つ迅の姿が映った。奥座敷の襖は、迅の背後で閉じている。先ほどまで幾人もの声が交わされていた部屋は、もう厚い襖の向こうに隔てられ、ここへ届くのは料亭の中を流れる静かな気配だけだった。庭に面した障子の下方へ、灯籠の明かりが淡く滲んでいる。打ち水の残る石は夜の光をわずかに返し、湿った土と青い葉の匂いが、廊下の冷えた空気に混じっていた。迅は、美緒を呼び止めた場所から動かなかった。手を伸ばせる距離ではない。歩み寄ればすぐに縮められる程度の距離でありながら、迅はそこへ足を踏み入れようとしなかった。美緒は、そのことに気づいた。呼び止めたのだから、追いついてくるものだと思っていたわけではない。けれど、かつての迅なら、何かを伝えると決めた時には、美緒の都合より先にその距離を埋めていた気がする。守るために。安心させるために。あるいは、逃がさないために。そのどれも、あの人の中では愛情だったのだろう。だからこそ、美緒は傷ついた。迅は、美緒の顔を見たまま、しばらく言葉を出さなかった。濃い色の着物の袖から出た手は、身体の脇へ下ろされたままだった。拳を握ることも、美緒へ伸ばすこともない。何かを堪えているのかもしれない。けれど、美緒は、その気持ちを先回りして汲み取ろうとは思わなかった。もう、彼が言葉にしなかったものまで、自分が受け取ってやる必要はない。美緒は、静かに待った。迅が、自分で何を言うのかを。夜の庭から、小さく水の落ちる音がした。やがて、迅が口を開いた。「……少しだけ、聞いてくれるか」掠れてはいないが、奥座敷で岩本へ向けていた声より、ずっと低かった。美緒は、すぐには頷かなかった。話を聞くことと、受け入れることは違う。呼ばれたからといって、以前のように、迅のために柔らかな顔を作るつもりもなかった。「話すことがあるなら、聞きます」
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