All Chapters of 決して手の届かないあの人への恋: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「航」澪は甘えるような優しい声で話しかけた。「私たち、これで……ようやく、堂々と一緒にいられるようになるね」そう言う彼女の瞳は、未来への希望で輝いていた。そう言われ、航はハッと我に返った。期待に満ちた澪の目を見つめると、急に喉が詰まるように感じ、ただ短く、「ああ」とだけ言って頷いた。それでも彼の視線は、どうしてもダイニングテーブルの、ある空席に向かってしまう。そこは、この3年間、紬がずっと座っていた場所だった。澪と両親の楽しそうな笑い声の中で、航にとってのその日の食事は、なんとも味気のないものだった。この家から紬の姿が消えてしまった。いつも黙々と働き、何もかもを完璧に整えてくれた、あの温かい存在。それを失って航が初めて感じるのは……これほどまでに、ぎこちないということだ。深夜。寝室にて。航は広いダブルベッドに横たわっていた。この3年間、彼はいつもベッドの奥側で眠るのが習慣だった。手前側のスペースは、紬のために空けてあったのだ。夜中にふと目を覚ましたとき、無意識に腕を伸ばすと、紬の柔らかくて温かい体に触れることができた。それだけで不思議と安心し、また深い眠りにつけるのだった。だが今、まどろみの中でいつものように寝返りを打ち、隣へと手を伸ばすと――指先に触れたのは、いつものぬくもりではなかった。冷え切った、誰もいないシーツの手触りだけだった。航はハッとして跳び起き、勢いよく目を開けた。窓の外の白い月光が、誰もいなくなった冷え切ったベッドの半分を、ハッキリと照らし出していた。いつもならそこにいるはずの姿はなく、枕は綺麗に整えられ、布団にも温もりはなかった。紬は……本当に出ていってしまったのだ。深夜のしっとりした冷たい月光に照らされて、頭から氷水を被せられたかのように、航は改めてその事実に気づかされた。その瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように鋭く痛み……それと共に襲い掛かってきたこの胸騒ぎ、まさか自分は動転しているだろうか?そう思うと、航は苛立ち紛れに起き上がった。ひどく喉が渇いていたので、水を飲もうとリビングへ向かうことにした。だが、テーブルの上に置かれた魔法瓶を取り上げて振ってみたが、中はすっかり空っぽだった。これまでは、紬がいつも眠る前に、水をいっぱいに用意してくれていたのだ。仕方がな
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第12話

見返しのページには、紬の細く整った文字で、ある言葉が綴られていた。【今日は、航と結婚した最初の日。天気は晴れ。この結婚生活は私が盗んできたようなものだから、単純に喜ばれるようなものではないのは分かっている。それでも、私は全身全霊をかけて彼を愛し、私たちの家庭を守っていきたいと思っている。航、これから、どうぞよろしくね】ノートに残された日付は、ちょうど3年前に二人が入籍した日だった。その瞬間、航はまるで大きな衝撃を受けたように胸がドキッとした。彼は火傷をしたかのように、慌ててノートをパタンと閉じた。まるで他人のプライバシーを覗いてしまったかのような気まずさと後ろめたさが、彼の顔をよぎった。すぐに、彼は何かを隠すように、ノートを引き出しの奥深くに急いで押し戻した。だが、紬の書いた言葉は錆びたフックのように航の心に刺さり、ずっとチクチクと痛み続けた。それからの数日間、澪はすっかり妻のように航の家に居座った。紬がいなくなった隙を突きたかったのか、あるいは自分の家庭的な一面を航にアピールして認められたいと考えたのかもしれない。朝、澪は早起きしてキッチンに入り、航のために朝食の準備を始めた。しかし、今までまともに家事をしてこなかった澪にとって、キッチンはまるで戦場だった。焼いたパンは真っ黒になり、目玉焼きは崩れているか周りが焦げているかで食べられたものではなかった。さらに、焦って航のシャツにアイロンをかけようとしたものの、加減が分からず、結局、胸元に目立つ黄色い焦げ跡をつけてしまった。身支度を済ませた航は、ぐちゃぐちゃなテーブルと、澪から渡されたアイロンの跡がついたシャツを見て、思わず不機嫌そうに眉をひそめた。「ご……ごめんなさい、航」澪は申し訳なさそうに指をもじもじさせ、目を潤ませた。「私、こういうこと……一度もやったことがなくて……」その言葉を聞いて、航は一瞬ポカンとした。やったことがない……確かに、澪は親からお姫様のように甘やかされて育った。夢のために海外へ行くような自立した女性なのだから、地味な家事なんてできるはずがない。だがその一方、航の脳裏に、結婚したばかりの頃の紬の姿が、どうしても浮かんでしまうのだった。最初は紬だってドタバタしていた。ご飯をうまく炊けなかったり、料理の味付けがしょっぱすぎたり
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第13話

目の前に立っていたのは、確かに紬だった。紬は質素な古い服を着て、記憶の中にある姿よりもずっと痩せ細っていた。顔色は少し青白く、かつて溢れんばかりの愛情に満ちてキラキラしていた瞳も、今や波風一つ立たずどんよりしていて、自分をまるで見知らぬ他人のように見つめているのだった。その眼差しに、航が口にしようとしていた、わずかな非難と宥める言葉も、一瞬にして喉の奥に詰まってしまったかのようだ。彼は眉をひそめ、自分でも気づかないほどの不自然な口調で、ぶっきらぼうに口を開いた。「騒ぐのも大概にしろ。荷物をまとめて、一緒に帰るぞ」だが、紬は静かに航を数秒見つめ、ふいに微かな笑みを漏らした。それは温かみがなく、疲れ果てたような嘲笑いだった。「航」紬の声はひどく静かだったが、航の耳にはっきりと届いた。「私たちはもう離婚したじゃない?」それを聞いて、航はポカンとした。すぐに、紬の聞き分けのない態度に憤りを感じて言った。「紬!いい加減にしろ!」そう言われ、紬の目線は却って冷たくなっていき、まるで凍り付いたかのようだった。「何をいい加減にしろっていっているの?その言葉の意味が分からない。あなたがずっとお姉ちゃんのことを好きだったのは知っている。だから今、お二人が心置きなく一緒に居られるようにしてあげたじゃない。なのに、なぜまだ私に纏わりついてくるの?航、私がずっと、あなたが時折施してくれるわずかな情けを待ちわびているべきだと思っているの?結局、私はあなたにとって都合よく呼びつけられ、用が済めば追い払う存在ってわけ?」紬は言葉を区切り、一語一句、きっぱりと言い放った。「残念ね、もうそんなのはまっぴらだから」そう言うと、紬は航に反論する隙を一切与えず、彼の目の前で音を立てて、思い切りドアを閉めた。ドアが起こした風が、埃の匂いを伴って航の顔に吹きつける。彼はその場に凍りつき、目の前の固く閉ざされた、塗料の剥げた木製のドアを信じられない面持ちで見つめた。生まれて初めて、これほど見事な門前払いを食らったことに彼は驚いた。途端に屈辱感と怒りが、一気に湧きあがり、頭のてっぺんを突き抜けてしまうかのようだった。思わず手を上げて、ドアを叩き壊しそうになったが、わずかに残った理性と自身の社会的立場を思って、彼は衝動をなんとか抑え込んだ。だが、
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第14話

そう思ったが、航はただ必死に耐え、椅子に背を預けて痛みが通り過ぎるのを待つしかなかった。次第に冷や汗が彼の背中を濡らした。その一方、頭の中では、エプロン姿でキッチンに立つ紬の姿が勝手に浮かんでくるのだ。小皿を持ち、フーフーと息を吹きかける様子。自分が食べ終えるのを嬉しそうに見つめる笑顔……痛みが少し和らぐと、航は導かれるように早く帰宅した。そして引き出しを開け、あの薄いグレーのノートを取り出した。今回は、もう閉じようとしなかった。深く息を吸い込み、航は隠された真実を探るように、ページをめくり読み進めた。日記は毎日ではなく、とぎれとぎれだった。そこには航に嫁いでからの出来事が綴られていた。行間から溢れるのは、一人の女性の、健気でひたむきな愛情だった。さらにその愛情が日を追うごとに募る落胆に変わって行く様子だった。【3月5日。今日、航が『出汁が効いてて煮込みが美味しい』と褒めてくれた。嬉しくて、一晩中こっそり舞い上がってしまった。明日は新しく覚えたレシピを試してみよう。胃に良いらしいから】【5月12日。航がまた胃が痛くなった。すごく顔色が悪い。評判の漢方の先生に聞いて、新しい薬膳の作り方を教えてもらった。明日から作ってあげよう】【7月20日。お姉ちゃんが気に入っているクチナシの香り……私も同じ香水を買って、こっそり使ってみた。航は……気づいていないみたい】この行の後ろは文字が少しにじんでおり、涙の跡のようだった。【12月3日。大雪が降った。航が私に贈ったネックレスをうっかり雪の中に落としてしまった。ずっと探して、手がかじかむ頃にようやく見つけた。手はとても冷たいけれど、心はぽかぽか温かかった】ここまで読んで、航は思わず指に力を込めた。あのネックレス……澪がいらなくなって、適当に紬にあげたものだ。それなのに紬は……ページをめくるにつれて、文字は乱れ、内容はどんどん重苦しくなっていった。【8月15日。洪水が襲ってきた……航は他の人を優先して助けに行った。私は特殊部隊の隊長の妻だから、自分で避難をするのが当然だと言われた……でも、水は冷たくて、本当に怖かった……】【9月10日。骨髄採取……すごく痛い……死んでしまいそうだ……航は……『そのまま続けて差し上げてください』と言った……】このページは文字が歪んでいて、ほとんど読
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第15話

「いつ出たんですか?伝言や連絡先は、本当に残してないんですか?」諦めきれない航は、さらに問い詰めた。「ないってば!何も置いてってないよ!さっさと帰ってくれ、せっかく寝てたんだ!」男は鬱陶しそうに言い放つと、すぐにドアを閉めた。残された航は薄暗く冷えきった廊下で、固まってしまった。中から鍵をかける音を聞いて、彼は味わったことのない、恐ろしいパニックで、胸を鷲掴みにされたかのように息苦しくなった。紬は、いなくなったのだ。本当に行ってしまった。どこへ向かったのかも分からない。この瞬間になって、航は何かを本当に「失う」ことの意味を初めて痛烈に味わった。ぽっかりと心に穴があき、そこから鋭い痛みが何度も何度も突き刺すように広がっていった。安宿の固く閉ざされたドアを目の前にして、さっき言われた、「昨日チェックアウトして行った」という冷たい言葉は氷水のように、航の頭に降り注いで全身を凍りつかせた。それはこれまで体験したことがない、理性を吹き飛ばすほどの恐怖だった。その恐怖は冷たい糸となって心に絡みつき、次第に広がり身動きが取れなくなるように締め付けてきたのだ。紬を失うわけにはいかない。その想いはかつてないほどハッキリとしていて、強烈だった。そして、家に戻ると、未だに紬の気配がそこら中に残っているのに、どこも寒々しく冷え切っているように感じて、航は、もはや平静を保っていられなくなった。彼は籠にとらわれた野獣のようになってリビングをウロウロとし、灰皿にはあっという間にタバコの殻が山を築いた。紬が部屋に残していった、痕跡の一つ一つすべて……例えば、彼女が育てていた観葉植物は水やりを忘れられて少し萎れていた。いつもソファで愛用していた毛布も中途半端にたたまれた形のままだった。そして部屋に残る彼女の清潔で穏やかなせっけんの香り。これらすべてが今となっては航を呵責し、責め立てて、彼の神経をすり減らしていた。今すぐに、どうしても紬を見つけ出すのだ。そう思って、航は持てるすべての人脈とコネクションを総動員し、紬を捜索しはじめた。手がかりがありそうな同僚や友人に片っ端から電話をかけた。かつて見せたことのない取り乱した声で、相手に手がかりを求めて縋った。さらに紬の交通の便の記録をチェックさせ、関係部署まで巻き込んで調べるよう働いた
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第16話

悲劇……間違っていた……自由にさせてあげて……その言葉が、まるで呪いのように、航の耳の奥で何度も繰り返された。目に見えない大きな手に心臓を力任せに握り潰されたかのように、航は胸が苦しくて呼吸もできないほどになった。かつて自分は、紬にとって見上げるほど遠い憧れだった。それなのに今では、一刻も早く逃げ出したい悲劇の源になってしまったというのか?震える手で、内ポケットからありったけの現金を取り出し、可奈の手へ無理やりつかませた。航は今にも消え入りそうな嗄れ声で哀願した。「茅野さん……もし、紬の噂を少しでも聞いたら、どんなに些細なことでもいいから教えてくれませんか?彼女の生活を惑わせたりはしません、ただ……無事で、元気に暮らしているかだけを知りたいんです……お願いします……」かつては誇り高く雲の上の存在だった航が、今はプライドを捨てて必死に懇願している。それを見た可奈はため息をつき、お金を受け取らずに、ただ静かに頷いた。「何かわかれば、必ずお伝えします」それから、疲れ果て、深い絶望を胸に抱いた航は、もはや「我が家」とは呼べなくなった場所に、フラフラと戻っていった。だがドアを開けた瞬間、彼は部屋の中に立ち込める異様な空気に勘付いた。そこには澪とその両親がいて、彼らはあからさまに不機嫌な顔で、どこか焦っている様子だった。「航くん!ここ数日、狂ったように紬を捜し回るなんて、一体どういうつもり!?」貴子が真っ先にトゲのある声を張り上げた。「彼女がいなくなってくれてちょうどよかったじゃない?これであなたはやっと澪と一緒になれるんだから。どうして今さら捜すの?まだあの恩知らずに未練があるわけ!」宗佑も眉をひそめて便乗するように言った。「そうだよ航くん、紬はいつも身勝手で、君のために何をしてくれたというんだ?いなくなってくれてせいせいしたよ。澪の方が優しくて、よっぽど君を愛しているんだから」さらに、澪も目を真っ赤にし、今にも泣き出しそうな顔で航をみつめた。「航……後悔してるの?もう……私を捨てるつもりなの?」これまでの航なら、澪がこんなか弱げな態度を見せれば、すぐに駆け寄って宥めていただろう。しかし、目の前で身勝手に紬をけなす彼らの言葉を聞いているうちに、かつてない怒りと悲しみ、後悔が胸に一気に込み上げてきた。航はぱっと顔を
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第17話

航は、白石親子3人の顔に浮かんだ隠しきれない動揺と気まずさを見て、激しい虚しさと嫌悪感が胸にこみ上げてきた。航は、紬の家族たちが隠していたおぞましい本性を、初めてまざまざと見せつけられた。そして、その裏に、すべてを黙認し、彼らの横暴を甘やかしてきた自分自身の姿があったことにも気づいた。「言ってみなさい、紬が俺に何をしてくれたって言うんですか!?」航は、声を振り絞るようにそう叫んだ。その声は深い痛みと自嘲に満ちていた。もう彼らの顔を見ることもせず、航は背を向け、よろめきながら家を飛び出した。後ろから澪の泣きじゃくる声と、白石夫婦のばつが悪そうな言い訳が聞こえたが、航はそのまま振り切って走った。その夜、航は酒に溺れ、職場のデスクでそのまま倒れ込んだ。そこへ澪がやってきた。無様な姿の航を見て、胸を痛めながらも激しい嫉妬を覚えた。澪は昔の思い出に縋ろうと航に寄り添い、涙ながらに訴えた。「航、お願いだからそんな風にならないで……前はもっと優しかったじゃない?私が傷ついていないか、それだけを心配してくれていたはずよ!どうして今になって紬のために、私のことを見てくれなくなっちゃったの?」航は、霞む視線の先にある澪の顔を見つめた。かつてはときめかせたはずの顔は、今や見知らぬ他人のように思え、強烈な吐き気が襲ってきた。航は澪を力任せに押し戻し、疲れ果てた冷たい声で尋ねた。「澪、正直に言ってくれ。あのとき……君たちが飲まされたあの薬は、一体誰が盛ったものだ?」澪の瞳が泳いだ。彼女は口を濁らせ、航の視線から目をそらした。「そ、それはもちろん……ごろつきたちの仕業よ……」その動揺した態度を見て、航はすべてを察した。体の底から怒りが這い上がってきた。言葉にできないほどの吐き気が込み上げ、これ以上一緒にいられなかった。航は踵を返し、その場から立ち去った。後ろで澪が絶望して泣き叫んでいたが、彼は二度と振り返らなかった。紬のいない日々は、終わりの見えない残酷な「罰」となった。生活のルーティンが完全に崩れ去る。家は常に静まり返り、冷え切っていた。冷蔵庫の中は空っぽで、うっすらと埃を被っていた。温かいお茶が飲みたければ自分で沸かす。スーツを綺麗に着ようとしても、しわは何度アイロンを当てても伸びない。食事が疎かになったせいで持病の胃痛がぶり返し
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第18話

航の心臓は、まるで巨大なハンマーで激しく殴られたようだった。口を開けたが、何の声も出せなかった。大輔はさらに続けた。「お前が眠っていたあの3日間、奥さんは寝食を忘れ、ずっとベッドのそばで看病してくれていた。泣きはらして目を腫らしながら、何度もお前の名前を呼び、体を拭いて、マッサージをして……医者にも見放されかけていた時、奥さんは正気を失ったようにただお前を見つめ、『航、お願いだから目を開けて』と懇願していた。周囲の連中もみんな胸を締め付けられた。こんな素晴らしい奥さんが、他にいるはずないだろう!?お前というやつは……」その後の大輔の言葉は、もう航の耳には入っていなかった。航は完全に抜け殻のようになり、頭の中で激しい雑音を響かせた。大輔から語られた光景だけが、焼けつくコテのように心を激しく責め立てた。そうだったか。自分が生死をさまよっていたあの瞬間、ずっと大切にしてこなかった紬が、あれほどまでに必死に、すべてを捧げて自分を愛してくれていたのだ。そして目を覚ました時、自分に見せてくれたのはただ疲れ切った作り笑いだけ。一度たりとも弱音やつらさを愚痴ることはなかったのだ。あまりの衝撃と、海の波のように押し寄せた激しい後悔が、航を呑み込んでいった。彼は思わず手で顔を覆ったが、指の隙間から涙が次々と溢れ出てくる。肩を激しく震わせ、声を殺して傷ついた野獣のように泣いた。間違っていた。あまりにも大きな過ちを犯した。失ったのはただの衣類でも道具でもない。命がけで自分を愛してくれた一人の女性だったのだ。大輔の言葉は、航を打ちのめす最後の決め手となった。つらい真実を遅まきながら知った航は、すっかり崩れ落ちた。思い出があちこちに残る、この凍えそうなほど静かな街にこれ以上留まることはできなかった。紬を失ったという痛みに毎日耐えるなど、とうてい不可能だった。所属する特殊部隊の引き留めも、澪の泣きわめく声も無視し、航は無理やり長期の休暇をとって、宛てのない絶望の捜索に乗り出した。手がかりのないまま、ただ噂を頼りにしてさまざまなところへと奔走した。電車やバス、船などを乗り継いで安宿を転々としながら、眠ることも食べることもできない日々を送った。目に見えて急激にやつれ果て、その目から光は完全に失われ、狂気にも似た執念だけがくすぶっていた。
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第19話

航の心臓は、今にも口から飛び出しそうだった。ブレーキを思い切り踏み込むと、タイヤがアスファルトと擦れて甲高い悲鳴を上げた。車が完全に止まるのも待てず、彼は勢いよくドアを押し開け、なりふり構わず走り出そうとした。だが、航が片足を車外へ踏み出した瞬間、タイミング悪く古びた路線バスが交差点からゆっくりと進んできた。それはまるで行く手を阻むように、視界を完全に遮ってしまったのだ。「どけ!」航は絶望に震える声を上げた。のろのろと進むバスはまるで動く壁のよう。ほんの十数メートル先にいる紬との距離を、無情にも遮り隔てていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。ほんの数秒の出来事なのに、まるで永遠の時間のようだった。ようやくバスが通り過ぎると、航は我を忘れて道路を飛び出し、あの老舗の書店の窓辺まで駆け寄った。だが、窓際の後ろには、もう誰もいなかった。白いワンピースを着たあの姿は、どこにもなかった。そこにあるのはぽつんと残された椅子と、窓の向こうで燃えるような夕日だけだった。さっきの出会いは、切望しすぎて見た幻影だったのか?航は全身の力が抜けたように一歩よろめいた。しかし、すぐにまた何かに取り憑かれたように書店の中へ駆け込んだ。彼は店員の肩を掴み、身振りを交えながら激しい勢いでまくしたてた。「さっき!窓辺に座ってた白いワンピースの女性!彼女はどこへ行った!?教えてくれ!どこへ行ったんだ!?」店員は航のただならぬ様子に怯え、震える声で答えた。「えっ?あ、あの……さっき、すごく綺麗な女性が本を読んでましたけど……でも立ち読みだけで買わずに、数分前に裏口から出て行かれました……」裏口……航はもつれる足取りで裏口へ向かった。扉を開けた先は、入り組んだ細い路地だった。そこには誰もいなかった。夕暮れが路地に長い影を落とし、静寂だけが不気味に満ちていた。路地の入り口でぽつんと立ち尽くし、航は誰もいない道を眺めた。言葉にできないほどの大きな虚無感と絶望が、冷たい津波のように押し寄せ、心を飲み込んでいった。一瞬だけ灯った希望が、瞬く間に消え去った。運命の悪戯は、あまりにも容赦がない。航は無駄だと分かりながらも周囲を捜し回り、声をからして叫んだ。やがて夜の闇が完全に降りる頃、声は潰れ、力も底をついたが、紬の手がかりは二度と見つからなかった。
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第20話

時に航はひどい恐怖に襲われたように、空中を必死に手でもがいた。またある時は激しい後悔に押しつぶされ、目から溢れ出た熱い涙が枕を濡らし続けた。そばで見守る若い部下は、あんなに凛々しく冷徹だった航がここまで変わり果てた姿に、ショックを隠せなかった。苦しそうに誰かの名前を呼ぶ声に、いたたまれない気持ちになった。部下は湿ったタオルで、航の額や首筋を何度も拭うことしかできなかった。この恐ろしいほどの熱が少しでも下がるようにと、そして隊長が一日も早く回復するようにと心の中で祈り続けた。数日後、薬の効果もあってか、高熱はついに引いた。容体も少しずつ落ち着いていった。まだ体は弱り切っており顔色も白かったが、その瞳にはいくらか正気が戻っていた。しかし、その瞳の奥には、以前にも増して深い疲労と、決して消えることのない絶望が影を落としていた。航が窓越しに、見知らぬ南の港町の空を見上げて、心にぽっかり空いた穴が大きくなっていくのを感じていた。その時、病室のドアが優しくノックされた。かつて自分で目をかけ、紬の捜索を託していたもう一人の部下が姿を見せた。その表情は重く、ひどくためらっている様子だった。「隊長……」ベッドサイドへ歩み寄った部下は、カサカサに掠れた声で言った。その言葉を聞いた瞬間、航の沈んでいた目に鋭い光が宿った。体を必死に起こすと、焦りから部下の腕を掴みかかった。「妻の居場所が分かったのか!?早く言え!どこにいるんだ!?」部下は狂気を孕んだその眼差しを受け止め、ごくりと喉を鳴らすと、絞り出すように答えた。「隊長……ついに、紬さんの居場所が分かりました」「本当か!?どこにいる!?無事なのか!?」航の声は興奮で震え、青白かった頬には、赤みが不自然に差した。だが次に部下が告げた言葉は、冷酷に航が抱いたばかりの希望を打ち砕き、彼を無間の地獄へと叩き落とした。「奥さんは、さらに南へ行っていました……隊長、覚悟して聞いてください」隊員は航の目を見られず、視線を落とした。「現地で、奥さんが小林秀平(こばやし しゅうへい)という男と、ずいぶん親しそうにしているのを目撃されています。いつも一緒にいて、とても仲が良さそうで……それに、もう、結婚の準備をしているらしいのです」「結婚の……準備?」航はその言葉の意味が理解できないかのように、呟い
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