Todos los capítulos de 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Capítulo 251 - Capítulo 260

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第251話

「そうよ。急いでいるの」「誰のためなんだ?」その問いに、澪はふと足を止めた。征司が何かを察したのかと一瞬思ったが、すぐに違うと気づいた。おそらく――さっき宇一に送ってもらったことを気にしているのだろう。澪はあえてその流れで答えた。「好きに受け取っていいよ」また沈黙が落ちた。あたりには、二人の足音だけが響いている。どのくらい歩いただろうか。征司には、これ以上さっきの話を続ける気はないようだ。気にしていないのか、それとも澪の言葉を信じていないのかはわからない。「おめでとう」彼は何気なく言った。澪は今度こそ振り返って彼を見た。彼もその視線をまっすぐ受け止めた。「アカリ製薬の新薬のことだ」その意味を理解し、澪はふっと笑った。「そんな嫌味な言い方しなくてもいいでしょ。紗耶は名前を連ねられなくて不満なんだから、あなたが心から私を祝うはずないよね?」大切な人が悔しい思いをしたから、気に入らないのだろう。祝いの言葉というより、責められているようにしか聞こえなかった。澪は刺すような視線を征司に向けた。征司は目を細め、なぜか小さく笑った。「自分でも分かってるだろ。本当に気にしてるのか、それともただ俺に当たりたいだけなのか」彼の態度はあまりにも飄々としていて、澪がここぞとばかりに喧嘩をふっかけようとしても、そのきっかけすら掴めない。まるで綿に拳を打ち込んだようで、手応えがない。澪にしてみれば、ただ事実を口にしただけだ。それなのに征司は、まるで彼女が感情任せに食ってかかっているような言い方をする。澪はもう何も言わなかった。二人はそのまま並んで歩いた。ごく普通の夫婦が散歩でもしているように。しかし、二人の間に漂っているのは、ひどくぎこちなく冷たい空気だ。家に着くと、征司はジャケットのファスナーを下ろしながら言った。「二十九日は蓮のおじいさんの誕生日祝いだ。一緒に出席してくれ。佐伯家とは、これからビジネスでの提携があるからな」つまり、自分にも森宮家の嫁として、きちんと場をわきまえた振る舞いをしてほしいということだ。佐伯家は森宮家と昔から付き合いが深い。征司が結婚していることを知っている以上、妻である澪が顔を出さなければ失礼に当たる。美佐子も、澪が意地を張って欠席することなど、絶対
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第252話

美佐子からの電話だ。権力を持つ者にとって、何かを調べることだって容易い。例えば、自分の新しい電話番号だって、美佐子はとっくに知っている。電話に出ると、美佐子は前置きもなく尋ねてきた。「今日は何時に向かうの?」「もうすぐ出発します」「征司は今、一緒にいるんでしょうね?」澪は一瞬ためらった。いる、と答えようとしたところで、美佐子が鼻を鳴らした。「彼はまた何をしているの?今日は必ず二人そろって来なさい。別々に来たなんて、向こうに何と思われるか」澪も今ではわざわざ美佐子と正面からぶつかるような真似はせず、「分かりました」とだけ答えた。通話を終えると、澪は何度も迷った末、征司に電話をかけた。彼が自分の新しい番号を登録していないことは分かっていたが、それでも一応は連絡を入れておくべきだと思った。案の定、征司は電話に出なかった。朝もずいぶん早く家を出ていて、一緒に朝食を取ることさえなかった。本当に忙しいのか、それともただ無視しているだけなのかは分からない。連絡がつかない以上、澪は一人で会場へ向かうしかない。宗一郎の誕生日祝いは、想像以上に盛大だ。ホテル一棟を丸ごと貸し切り、宴会場だけでなく宿泊エリアや娯楽施設まで押さえており、遠いところから来る客もそのまま泊まれるようにしている。澪は自分で車を運転し、会場に着くまで一時間半近くかかった。ホテルの前には高級車がずらりと並んでいる。出入り口では、スタッフたちがひっきりなしに忙しく立ち働いている。土地勘のない澪は、まず征司がもう到着しているのかを確かめようとした。一方その頃。招待客は次々と会場へ集まり、ホテルは華やいだ空気に包まれている。控室では、宗一郎は杖を手に、冷ややかな目で蓮を見ている。「前に助けてくれたあの娘さん、知ってるって言ってたな。あの子も今日来るのか?まだきちんと礼を言えてないんだ」蓮は苦笑した。「まだ気にしてるの?じいちゃん」宗一郎は杖を振り上げ、蓮の脚を叩きつけた。「なんだその態度は!人は恩を忘れてはならんのだぞ!いつまでへらへらしているつもりだ。あの子には、うちがどれだけ大きな恩を受けたと思ってるんだ。そう簡単に返せるものじゃない。あの子がいなければ、今ごろ俺はとっくにあの世だ。こんなふうに大勢に祝ってもらえ
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第253話

二人はまるで結婚したばかりの夫婦のように、招待客たちと親しげに挨拶を交わしている。紗耶もインクブルーのドレスに身を包み、甘く艶やかな笑みを浮かべながら征司の腕に手を添えている。誰が見てもお似合いのカップルそのものである。こんなにも改まった席に呼んでおきながら、征司の隣に自分のための場所は最初から用意されていなかった。どうやら二人の仲睦まじさを見せつけられるためだけに、自分は呼ばれたのだ。喉に鉄の塊でも詰まったような感覚に襲われ、何度か息を飲み込み、澪は胸の奥に生まれた曖昧な屈辱を無理やり飲み下した。征司は紗耶を連れてくると決めたのなら、なぜ自分までわざわざ呼びつけたのだろう。いったい、どちらが余計な存在なのか。電話に出なかったのも当然だ。最初から紗耶と一緒に出席すると決めていたからこそ、自分のことなど放っておいたのだろう。ふと、澪は紗耶と目が合った。紗耶の目には一瞬、嘲るような色が浮かんだ。澪を上から下まで値踏みするように眺め、その視線にあからさまな軽蔑をにじませる。それから彼女は征司の耳元へ身を寄せ、何か親しげに囁いた。まるで自分こそが征司の妻であると言わんばかりの自信と余裕に満ちている。澪はうつむいて自分の姿を見た。紗耶と似たようなブルー系のドレスを着ている自分が、今はまるでピエロのようだ。澪は二人のもとへは行かなかった。今さら自分が口出しできる立場でないことは分かっている。そもそも離婚する前だって、征司と紗耶のことを問いたことなんて一度もない。離婚を控えた今になって、何を詰問できるというのか。なぜ愛人の紗耶を連れてきて、皆の前に出したことを?今は自分のほうがよほど名も立場もない女だ。澪はかすかに口元をゆがめると、そのまま背を向けて会場の奥へ歩いていった。自分は本当に甘かった。征司が離婚を目前にしてようやく、自分を妻として人前に出す気になったのかと思っていた。しかし実際に彼の隣に立っているのは、自分ではなく紗耶だ。「蓮は?」紗耶は澪のことには触れず、征司を見上げて甘く笑った。「さっきから何度も電話をかけてきてたのに、いざ着いてみたら姿が見えないのね」征司は周囲をさっと見回した。「先に中へ入ろう」紗耶は上機嫌で頷いた。佐伯家は、代々名の知れた家だ。紗耶は以前
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第254話

宗一郎の表情には大きな変化はない。むしろ確かめるように問いかけているだけにも見える。紗耶はその様子を注意深くうかがったが、特に不自然なところは見当たらなかった。そこで彼女はゆっくりと笑みを浮かべながら頷いた。「ずいぶん前のことですから、覚えていないのかもしれませんね。あのときは無料診療の活動で、出入りも多く、スタッフも様々でしたから。お気になさらないでください」実際、紗耶自身もこれまで診た患者を一人ひとり覚えているわけではない。あの無料診療に参加したのも、近くにマスコミが来ていると知っていて、少しでも顔を出しておけば、悪いことはないと思ったからだ。あの日は高齢の患者も大勢いて、彼女はいちいち顔など気にしていなかった。蓮がそう言っているのなら、宗一郎を助けたのは間違いなく自分なのだ。宗一郎に恩を売ったのなら、この縁を生かさない理由などないと彼女は思った。紗耶の表情はあまりにも堂々としている。それを見て、宗一郎はすぐそばに立ちながら一度も口を挟まない征司を冷たく見た。「征司、君の奥さんは大したものだな」まさか自分があの時、死にかけて意識も朦朧とし、命の恩人の顔も分からなかったとでも思っているのか?まさか森宮家の若奥様が平気で嘘をつく人間だとは思わなかった。なんのためらいもなく命の恩人を名乗り、それが事実であるかのような顔をして。まさか自分がもう呆けて、目も見えず耳も聞こえない老人とでも思っているのか。宗一郎からすれば、征司と一緒に現れ、自分のところへ挨拶に来た女だ。征司の妻以外、考えられない。征司は宗一郎の視線を受け止め、動じずに言った。「ご冗談を。本日はお祝いに伺ったまでです。何を話されているのか、よく分かりません」紗耶は、宗一郎の先ほどの言葉に引っかかりを覚えた。だが、彼がはっきりと不快感を示したわけではない。自分を征司の妻だと思い込んでいるのだと受け取り、紗耶の気分は少し明るくなり、笑顔もさらに柔らかくなった。「恩に着せるつもりはありません。お元気でいらっしゃることが、何よりですから」宗一郎は長い人生の中で、数え切れないほどの人間を見てきた。若い者の腹の内など、見抜けないはずがない。森宮家への配慮もあり、征司の立場を考え、その場で彼女を追い出すことはしなかった。だが
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第255話

宗一郎は冷たく笑った。「征司の妻だ」「……」蓮は一瞬言葉を失ったが、すぐに呆れたように笑った。「彼女か。彼女ならやりかねないね。人に嫌われるようなことばかりして、よく平気でいられるもんだ」さっきの紗耶の顔を思い出し、宗一郎は顔を曇らせた。「なるほどな。あんなに人柄の悪い娘だったのか。あの女は、俺の前に立ったときから、何か企んでいるのが丸わかりだった。森宮家の嫁だと思えば、ずいぶん偉そうにしている。やたらと抜け目がなくてな。まともな人間には見えなかった。森宮家の人間だと思ったから、今日は追い出さまかったが」八十年もの人生は、無駄に生きてきたわけじゃない。あんなにも堂々と恩を着せに来て、他人の手柄を横取りするとはな。その話を聞いて、蓮は澪に対する軽蔑をますます強めた。まさか今日、こんなことまで起こるとは思わなかったのだ。「相手にしなければいいよ。最近、離婚のことで騒いでいて、本人も焦ってるんだろ。だからじいちゃんの命の恩人だと名乗ったんだ」宗一郎は意外そうに眉を上げた。そういうことだったのか。もっとも、征司と紗耶がきた時、夫婦仲がうまくいっていないようには見えなかった。蓮はそれ以上、詳しい事情を話さなかった。澪がどういう経緯で森宮家の嫁になったのか、蓮は前から知っていた。決して褒められた話ではないのに、今回の一件で、澪への嫌悪感はさらに強まった。蓮は宗一郎を何度か宥めると、また招待客の対応を続けた。今日は、特に大事なお客様が多く来ていて、ホテルのスタッフたちも気を抜くことなく対応に追われている。千鶴子は、目立たないように裏口から会場へ入った。彼女ほどの人物が表から堂々と姿を見せれば、今日の主役が霞んでしまう。千鶴子は宗一郎よりもずっとしっかりとした足取りで部屋に入ってきた。その姿を見て、宗一郎は慌てて立ち上がった。「千鶴子姉さん、わざわざ来てくれたのか」二人は幼い頃から同じ屋敷街で育った仲だ。宗一郎は昔から千鶴子に散々叩かれてきた。千鶴子は、プレゼントをそばの者に預けて言った。「このあと会議があるから、すぐ戻らないといけないの。食事は遠慮しておくわ」宗一郎も、千鶴子が多忙なことはよく分かっている。「いいんだ。顔を出してくれただけでも、十分うれしい」長年宗一郎の
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第256話

「お気をつけて」澪は手持ち無沙汰で、知り合いもおらず、一人で会場をうろうろしていた。そのとき、宗一郎とぶつかりそうになった。澪が反応する前に、宗一郎は興奮して彼女の手をつかんだ。「おお、あのときの子か!」澪は、目の前の老人を訝しげに見つめた。相手の顔に見覚えはない。宗一郎は澪がきょとんとしているのを見て、彼女が自分のことをまったく覚えていないのだと気づいた。「リゾートホテルの無料診療のとき、具合が悪くなった俺を、君が助けてくれただろ。覚えてないか?」そう言われて、澪も思い出した。そうだ。あのとき自分の服に吐いたおじいさんだ。澪は驚いた。「どうしてここに?」宗一郎の胸に溜まっていた苛立ちは、たちまち消えた。「今日は俺の誕生日祝いなんだよ。お嬢さん、名前は?蓮の友達か?それとも、どこかのお家の代表か?」もし蓮の客でないのなら、必ずやどこかの名家の代表として来ているに違いない。その家族のことも、自分はきっと知っているはずだと彼は踏んでいる。「私は……」澪が答えようとした、そのときだった。「旦那様、関係省庁の方がお見えです。すぐご挨拶を」と執事が足早に近づいて小声で告げた。澪の耳にも、どこかの機関の大物だという話が、かすかに聞こえた。宗一郎の表情が引き締まり、澪に改めて丁寧に言った。「お嬢さん、係の者にいい席を用意させよう。後で必ず声をかけるから、少し待っていてくれるかな」澪は頷いた。それを見て、宗一郎は足早にその場を離れた。その背中を見ながら、澪はあまりの偶然に驚いた。まさか、あの人が蓮の祖父だったとは。しかし蓮のことを思うと、澪は眉をひそめた。紗耶に夢中な、世間知らずな御曹司。澪はそのまま宴会場へ向かった。澪が去ったあと、後ろの化粧室から紗耶がゆっくりと現れた。彼女の顔は青ざめ、ティッシュを握る手が震えている。宗一郎が自分にあれほどよそよそしい理由を、ようやく分かった。まさか、本当に宗一郎を助けたのは澪だとは。それなのに自分は――紗耶は唇を強くかみしめた。その瞳の奥には、恐怖、気まずさ、そして怒りが入り混じっている。宗一郎に、最悪の印象を持たれてしまった。ひょっとすると澪は自分を困らせるために、わざとこのタイミングで現れたのではない
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第257話

「ほら、あの方もブルーのドレスだし。ドレスは替えられなくても、せめてブローチくらい外せばいいのに」こういう場では、恋人のいる男に近づく女は、女たちからすぐ敵視される。だからこういう時には、女たちはすぐに同じ側に立って、互いに肩を持つ。澪は思わず笑いそうになった。自分たちは正義の味方だと思い込んで、あろうことか不倫相手の味方をしている。普通なら、あれほど大勢に白い目で見られれば、耐えられずに逃げ出すだろう。しかし澪は違う。彼女はそのまま席に座り、静かに尋ねた。「みんなペアだって言うなら、なぜ紗耶さんにブローチがないのでしょうか」紗耶は唇をきゅっと結び、澪をじっと睨んだ。不快感がその目にあふれている。「紗耶さんは、ドレスの色を合わせてるじゃないですか。それに紗耶さんのドレスはブローチが合わないからつけてないだけですよ。森宮社長がわざわざサファイアを選んで紗耶さんの青いドレスに合わせました。それだけで十分じゃないですか。それがお二人のロマンってもんでしょ」とすぐに誰かが言い返した。自分を責め立てようとする人間は、どんな屁理屈をこねてでも反論してくるものだと澪は分かっている。澪は、女たちのやり取りに加わろうとしない征司に目を向けた。征司は姿勢一つ変えず、ただそこに座っている。自分が話題の中心になっていても、全く気にする様子もない。澪が責められ、ブローチを外すよう求められていても、征司は何の反応も示さなかった。彼もまた、周囲が言うとおり、自分が外すべきだと思っているのだろうか。しかし、そもそもこのブローチは征司とは何の関係もない。宇一が心を込めて贈ってくれたものだ。人からもらった大切な贈り物を勝手に恋愛の道具にされて、好き放題言われることなど、彼女は決して許さない。「森宮社長が気に入らないなら、ご自分のブローチを捨てればいいでしょう。そうすれば紗耶さんの顔も立つんじゃない」澪は淡々と言ったが、そのひと言は相手の痛いところを突いていた。そこで初めて、征司が澪に目を向けた。だが、征司が何か言うより先に、紗耶が何気ない仕草で手を伸ばして、征司の胸元にあるブローチのサファイアにそっと指先で触れた。彼女は笑みを浮かべ、余裕を見せるように言った。「そこまで大げさにすることないわ。このデザインは
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第258話

宗一郎の声は腹の底から響くように力強く、そのため、周囲にいた者たちの耳にもはっきりと届いている。皆が驚いたように宗一郎に目を向けた。紗耶も聞き間違いかと思い、優しい笑みを引きつらせた。「えっ?」澪も戸惑っている。宗一郎は明らかに紗耶を追い出そうとしている。紗耶はいったい、何をして宗一郎の機嫌を損ねたのだろう。今日は宗一郎の長寿祝いの席で、何事も穏便に済ませるのが筋なのに、皆の面前で客を追い出すとは……これでは、紗耶の顔を完全に丸潰れにしているようなものだ。だが宗一郎は、周囲の目など気にせず言った。「田中、車を用意して、この方を送ってくれ」もちろん、彼がその理由を公に明かすことはない。これは、森宮家の事情に関わることだ。紗耶が征司の愛人だと暴けば、森宮家の評判だけでなく、株価や企業イメージにまで影響を及ぼしかねない。こういう家ほど表向きの対応に気を遣う。身内の不始末を世間の話題にさせるわけにはいかない。これはただの浮気ではなく、実際に利益を損なう問題だ。紗耶は極力感情を押し殺し、少しも慌てふためく素振りを見せないように努めた。宗一郎が怒っているのは、おそらく命の恩人の件を知ったからだと彼女は思う。彼がそれをはっきりとは口に出さない以上、こちらも根掘り葉掘り問い詰めるわけにはいかず、あんまり気にしている様子も見せられない。「申し訳ありません、佐伯会長。実は家のほうで急用ができまして、最後までお祝いできません。どうかお許しください」と紗耶は体をこわばらせながら言った。彼女の言葉に、周囲の張り詰めた空気が少し緩んだ。なるほど、追い出されたわけではなく、紗耶本人に用事ができたのか、と。紗耶は微笑みながら征司を見た。「征司はここでちゃんと佐伯会長のお祝いをしてて。私のことは心配しないで、送らなくていいから」征司がついて来ないのではなく、自分が先に帰るから、彼にはここで宗一郎の相手をしていてほしいと彼女は皆に伝えているのだ。誰が見ても、自分が征司にとって特別な存在だと疑わない女の余裕に映った。征司は紗耶の思惑を理解し、頷きながら言った。「誰かに送らせよう」彼は紗耶に助け舟を出したのだ。宗一郎がなぜ紗耶を帰らせようとしているのかも、皆の前では尋ねない。明らかに、紗耶の面子
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第259話

蓮は軽く頷くと、澪をちらりと見て冷たく笑った。その目に何の意味があるのか、澪には分からない。ただ、自分が何かひどいことでもしたかのように見られている気がした。まったくわけがわからない。長寿祝いは盛大に執り行われた。宗一郎はずっと招待客の相手をしていたが、途中で酒を何杯か飲んで少し酔ったのか、付き添われて部屋に戻っていった。遠くから訪れた招待客のためにホテル側の手配も全て整っており、それぞれのテーブルには割り当てられた部屋のカードキーが置かれている。慌てて帰路につく必要はなく、安心して休むことができる。澪の席にも、ルームキーが一枚置かれている。外では、いつの間にかしとしとと雨が降り始めている。帰るには二時間以上かかる。この雨の中、車で帰るのはさすがに危ない。澪は今夜、このホテルに泊まることにした。ルームキーを手に部屋へ向かい、部屋の前まで来ると、壁にもたれている征司の姿が目に入った。月明かりの下、彼は糸のように降る雨を見上げている。その底知れぬ深みのある瞳には、どこか憂いの色が浮かんでいるように見えた。だが、澪の足音に気づいてこちらを見たときには、その目から温度が消えていた。澪の視線は、どうしても彼の胸元へ向いてしまう。自分と同じデザインのブローチ。しかし、それは紗耶が選んだものだ。同じブローチが、今ではひどく皮肉に思えた。征司が自分を待っているのは明らかだった。澪は少し躊躇って尋ねた。「部屋、取ってないの?」彼は手に持っていたスマホを軽く振って見せた。「おばあさんからビデオ通話だ」澪は画面を見た。美佐子があれこれ気を回すのはいつものことだ。澪がルームキーをかざしてドアを開けると、征司はすぐに通話をつないだ。「澪は一緒か?」「ああ」征司は何のためらいもなくカメラを澪に向けた。美佐子に対しては、もう心を開く気にはなれない。それでも表面上の礼儀だけは崩さずに声をかけた。「おばあ様」美佐子は画面越しに室内を見回し、満足そうに笑った。「今夜は雨なんだから、無理に帰らずゆっくりしなさい。せっかく外に出たんだもの、二人きりで過ごすいい機会でしょう。家にいるのとは違って、少しは気分も変わるわ」「ご心配なく」と征司は辛抱強く答えた。美佐子も征司の性格はよく分かっ
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第260話

静まり返ったスイートルームに、征司の低い声が落ちた。その声は、どこか逃げ場をなくすような響きを帯びていた。澪は不意に胸騒ぎを覚え、思わず振り返った。その瞬間、目の前に大きな影が差した。征司が大股で近づいてきて、壁に手をついた。その拍子に、部屋の照明をまとめて消した。ベッドの下を囲むように灯った明かりだけが室内を照らしている。真っ暗にはならなかったが、急に薄暗くなった。澪はとっさに二歩後ずさり、かかとがベッド脇の段差にぶつかってよろめいた。征司はすぐにその腰を抱きとめた。澪が顔を上げると、征司の暗い瞳がこちらを見据えている。いつもは感情を表に出さない彼の目に、今は何かが静かにあふれ出している。彼は澪の手首をつかみ、低く言った。「気をつけて」掌の熱が伝わってきて、澪の背筋が強張った。「征司?まさか……」澪の視線が、甘い香りを漂わせる酒へと向かった。――あの酒、おかしい。征司は眉間に深いしわを寄せ、喉仏を上下させた。それでも、澪の手首を離そうとはしない。澪は慌てて彼を押しのけた。「どれくらい飲んだの?あのお酒、何か入ってるんじゃない?」今夜は、征司のところへ酒を勧めに来る客が絶えなかった。無理に飲ませようとする者はいなかったが、それなりに酒も入る。すでに酔っているところへ何かで煽られでもしたら、どうなるか分からない。「先にシャワーを浴びて。少し頭を冷やしたほうがいい」澪は青ざめたまま言った。征司は返事をしないまま、澪の前に立っている。高い背丈に圧されるような近さで、熱い息が澪の肌にかかる。その目はどこかうつろで、澪の顔をじっと見つめたあと、眉、目元、そして唇へとゆっくり視線を移していった。そして、一歩ずつ距離を詰めてきた。「征司!私が誰か、ちゃんと分かってるの!?」彼の長い指が、澪の髪にそっと触れた。「……お前は?」――もう、まともに人の見分けもつかなくなっている。澪は腹を立て、つかまれていないほうの手で征司を殴った。だがその程度の力では、征司には少しも効かなかった。征司は澪をたやすくベッドに押し倒した。背中がマットレスに沈み、彼女の体がわずかに跳ね返った。その隙を逃さず、征司が覆いかぶさってきて、そのまま澪の唇に口づけようとした。澪は顔をそらし
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