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第231話

征司は澪の横顔をゆっくり一瞥し、感情の読めない笑みを浮かべた。「そうか」すると、また沈黙が落ちた。もともと二人には話すことなどない。気まずさを紛らわせるために、無理に話題を探す気もない。車がアカリ製薬のビルの前に着いた。車を降りると、澪は窓越しに征司を見た。「おばあ様には、ちゃんと話をしておいて。このことは本気で考えてほしい。先延ばしにはしないで」澪は遠回しにせず、返事を急かした。征司は澪を見て何か言おうとしたが、そのとき、スマホが鳴った。画面には、紗耶からのビデオ通話が表示されている。征司はためらわずに応答ボタンをタップし、澪の頼みに何も答えないまま、運転手に車を出すよう命じた。マイバッハは澪を残して走り去っていった。朝からビデオ通話をつなぐほど熱々なカップルだこと。七年も人妻をやってきた澪ですら、思わず目を丸くしてしまうほどだ。恋人というのはこういうものなのか。征司の妻として七年過ごしてきたのに、澪は恋人らしいことを何ひとつ知らず、ただ待つだけだった。澪は我に返り、そのままビルに入った。知之も、澪の離婚がそう簡単には進んでいないことを知っている。「離婚届受理証明書があっても、いつひっくり返るか分からない。時限爆弾みたいなものだ。これじゃ君は、何ひとつ主導権を握れない」温厚な知之でさえ怒りで机を指先で叩かずにはいられなかった。名門のやり口とは、かくも容赦がないものか。澪に強い後ろ盾がないのを見越して、好き勝手しているのだ。「いっそ、フェイのことを公表したらどうだ。柴崎先生の最後の弟子で、和漢医学研究センターが特別に中核研究チームへ迎えようとしたほどの人材だってことも。今後順調に賞でも取れれば、国の要職に就く道すら開ける。そうなれば、森宮家の大奥様だって君を今までのようには扱えなくなるはずだ」澪は首を振った。「今、離婚届受理証明書を急いでいるのは玲衣のためよ。フェイであることは、確かに私の誇りよ。でも公にすれば、諸刃の剣にもなる。フェイは注目を集める存在だ。その正体を知られれば、世間は深く詮索してくるに違いない。フェイとして子どもを産んだ事実まで、あのような絶大な権力を持つ一族から隠し通すことなんてありえない」澪は焦っているが、危ない橋を渡るつもりはない。「今は慎
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第232話

そのことを澪は知らなかった。藤堂先生が、医学界を代表する存在であることは知っている。和漢医学の柴崎先生と、西洋医学の藤堂先生。分野は違っても、どちらもその世界を牽引してきた大御所で、政界にも影響力を持つほどの人物だ。藤堂家が各界に強い影響力を持つ家だということは澪も知っているが、まさか彰人があの藤堂先生の孫だとは思わなかった。彰人のことを思い浮かべると、澪は思わず眉をひそめた。「藤堂先生はあんなに立派なのに、どうしてその孫はああなのかしら」と、彼女は呆れたように言った。彰人の一番厄介なところは、人の話を聞かず、物事をまっとうに見ようとしないことだ。友人と、その友人が大切にしている相手を守るとなれば、周りが見えなくなる。「彰人に何かされたのか?」知之は不思議そうに尋ねた。澪は資料を手に取って立ち上がった。「どうにもそりが合わないだけよ。相性が悪いの」彰人は何度も、紗耶のために身を引いて、征司と別れるように澪を説得してきた。澪こそが傷つけられた側だということには、まるで考えてもいない。身内をかばうためなら周りが見えなくなるような相手とは、澪には話が通じない。仕事を終えて、澪はいつものように征司との家に帰った。美佐子が一度騙されたから、今は確実に監視の目が厳しくなっている。もちろん、自ら火に油を注ぐような真似をするつもりはない。 澪の予想どおり、征司もおとなしく家に帰ってきた。玄関を入ると、征司はすでに部屋着に着替えて、ソファで本を読んでいる。物音に気づいて顔を上げると、彼は静かな声で言った。「おかえり」靴を脱ごうとしている澪の手がわずかに止まった。昔なら、征司はこんなによく家に帰ってくることはなかった。今は離婚できず、独身の身で紗耶を妻として迎えられないから、さすがに協力する気になるらしい。そのことに、澪は少しだけ胸をなで下ろした。離婚届受理証明書の件を、征司が本気で取り合わないのではないかと心配していたからだ。紗耶と結婚するためには、早くこの問題を片づけないといけない。征司のほうが、自分より焦っているだろう。「うん」征司は本のページをめくりながら言った。「お疲れ。食事にしよう」澪は言葉を失った。この突然の優しさに呆気に取られた。征司のほうがよっぽど演技
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第233話

澪は向こう側へ行こうと振り返ると、ちょうど入ってきた人たちと鉢合わせになった。征司はもともと人目を引く存在で、会場に姿を見せた途端、周囲はすぐに話しかける機会をうかがって群がっている。その隣では、紗耶が満面の笑みを浮かべて彼の腕に腕を絡めている。二人は何もしなくても、そこにいるだけで注目の的となっていた。澪の横を通り過ぎた女性二人が羨ましそうに話している。「ねえねえ、気づいた?森宮社長とあの白石さん、リンクコーデよ」澪も思わずそちらへ目をやった。もう一人が声を弾ませた。「森宮社長のネクタイは濃いブルーで、白石さんのスーツも青系でしょ。ネクタイはいつだって彼女のドレスの色に合わせるものって言うじゃない?素敵すぎる」そこで初めて、澪も気づいた。征司のネクタイは、確かに控えめな濃紺だ。長く連れ添ったからといって、大切にされるとは限らない。少なくとも彼の妻だった七年間、澪がこんな扱いを受けたことは一度もなかった。征司が紗耶のために曲げてきたことは数え切れないほどある。「なんで紗耶まで連れてくるんだ」知之が眉をひそめた。紗耶はもう医薬品開発チームにはいないのに、わざわざ会場まで来たのはどういうつもりなのか。「放っておけばいい」澪は視線を戻した。彼女には大体の見当がついた。最近征司は自分の相手をするために帰宅せざるを得ず、紗耶の機嫌も取らなければならない。今日はその埋め合わせなのだろう。何しろ、紗耶がアカリ製薬とK大のプロジェクトに参加していたことは、外部にもそれなりに知られている。要するに、注目を集めに来たのだ。知之も同じように考えたのか、鼻で笑った。「名前が載らないのが、よほど悔しいんだろうな」この新薬は、いずれこの分野を代表する薬になる。紗耶がどれほど悔しがっても受け入れるしかない。澪がいることに気づいたのは、後から入ってきた蓮だ。投資先を見定めるために、彼も会場に来ていたらしい。澪に気づいたと、彼は意外そうに尋ねた。「澪、臨床試験から外されたんじゃなかった?どういう立場でここに来るんだ?」征司はそちらに視線を向けた。ちょうど澪が背を向け、知之と並んで立ち去るところだった。そこで初めて、紗耶も澪が来ていることに気づき、目の奥に苛立ちがよぎった。「榊社長は、澪さんのた
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第234話

まさかこんなことになるとは思わなかった。澪が顔を上げると、紗耶は当然の顔で目の前に立っている。征司の隣に立つのは自分だと疑っていない、堂々とした態度だった。澪は思わず笑いそうになり、目の奥には隠しきれない嘲りが浮かんだ。その自信満々な態度は実に目障りだ。澪が呆れて言葉を失った。そのとき、周囲の人間もこちらの異変に気づき始めた。征司がいる場所には、いつだって視線が集まる。後ろにいる人たちは二人を見比べると、紗耶こそが征司の恋人だと思い込んだらしい。その場を取り成すように一人が口を開いた。「すみませんが、ご存じないのかもしれませんが、白石さんは森宮社長の恋人です。ここは譲ってあげたらどうですか?」征司に少しでも顔を売ろうと、他の者たちも次々と同調した。「そうですよ。二人の間に割って入る必要もないでしょう?席を替わるくらい、いいじゃないですか」周囲が自分の味方をしたことで、紗耶の口元にはようやく笑みが浮かんだ。「もうすぐ始まるわ。これ以上時間を無駄にしないでいただける?」と彼女は丁寧な口調で言った。しかし、その言葉には、澪をこの場から追い出そうとする意味がはっきり滲んでいる。澪はゆっくりと足を組み直し、淡々と紗耶を見つめ返した。「席まで奪うつもり?譲ってほしいなら、ちゃんと頼んだほうがいいでしょ」紗耶の笑みが固まった。「澪さん、それ、大げさじゃない?ただの席一つでしょ」「主催者が決めた席なんだから。嫌なら、主催者に言えば?」澪は冷静に言い返した。紗耶は言葉に詰まった。何しろ主催側も軽々しく文句を言えるような相手ではない。「主催者を盾にして、私を黙らせようってわけ?」紗耶は声を落とし、釘を刺すように言った。「森宮社長とくっついていたいなら、ここより彼の膝に座ったほうが、よほど分かりやすいんじゃない?」澪は鼻で笑って、譲る気は一切ない。征司もきっとそれを許すのだろう。最初に征司を見たときは、知之と席を替わってもいいと澪は思ったが、紗耶のほうから喧嘩を売ってきた。それなら、どうしても譲るわけにはいかない。なだめられようが脅されようが、澪は引かない。澪の言葉はあまりにも露骨で、席を譲るつもりがないこともはっきり伝わった。それは皆の前で、紗耶の面目を潰したのも同然だ。
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第235話

「メディアで活躍している医師といえば、白石さんは別格ですね」紗耶を持ち上げる声は途切れることがない。ここはもう紗耶のファンイベントでも始まったのかと思うほどだ。しかし、皆が持ち上げているのは紗耶本人ではなく、その後ろにいる征司だと澪には分かっている。「そういえば、白石さんはアカリ製薬とK大の新薬開発に深く関わっておられたそうですね」紗耶は澪へちらりと目を向けた。「ええ、かなり関わらせていただきましたわ。八割方といったところです」「それなのに、どうして途中で離れたんですか?このレベルのプロジェクトなら、開発者として名前を残す価値は大きいはずですよね」紗耶は一瞬、言葉に詰まった。唇を軽く結んでから、穏やかに答える。「今は、ほかにも自分で進めている研究があります。このプロジェクトまで最後まで抱え込むのは難しいんです。私にとっては、開発者として名前を残すことより、少しでも多くの患者さんにいい薬を届けることのほうが大切ですから」その場にいる人たちはいっそう感心したように紗耶を見て、称賛の声が次々に上がった。征司は終始口を挟まなかったが、その表情は穏やかに和らいでいた。澪がそちらを見ると、ちょうど征司もこちらへ視線を向けた。顔に浮かんでいるかすかな笑みはまだ消えていない。美しくて、誰からも褒められる恋人がいれば、男なら誰だって誇らしいのだろうと澪は思った。彼女はある意味で感心した。紗耶がなぜあれほどメディアで重宝されるのか、今さらながら澪は納得した。彼女は人前で自分を飾るのが実にうまい。手柄はしっかり自分のものにしておきながら、開発者として名を残すことなど求めていないふりをする。そこまで清らかな人を演じるのが得意なら、いっそ聖女役でもやればいい。「何もない人ほど、必死に奪いたがるものよね。席ひとつで、あそこまで意地になるなんて。白石さんとはものの考え方からして違うわ」澪は周囲の視線が自分に向けられたことに気づいた。明らかに自分を指している。澪は薬の承認に立ち会うために来たのに、こんな不愉快な目に遭わなければならないなんて。元をたどれば、征司がきちんと始末をつけていないせいだ。澪は唇を結んだ。征司にひと言釘を刺して、隣にいる紗耶にもっと控えめにさせようと思った。だが、視線で合図を送
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第236話

会場には大勢の人がいる。それでも千鶴子には、彰人が誰を見ているのかすぐに分かった。ちょうどそのとき、澪は誰かを探すように顔を上げた。千鶴子は思わず声を漏らした。「あら。あの子、なかなかいいんじゃないか。背もすらっとしてるし。彰人、あの子が好きなのか?」彰人は思わず咳き込んだ。ちょうど征司もこちらに気づいたらしく、彰人に視線を向けている。彰人は眉をひそめ、千鶴子に真面目な顔で言った。「ばあちゃん、変なこと言うなよ。ただの知り合いだ」千鶴子は少し残念そうだ。千鶴子は昔から、人と会ったときの直感を大切にしている。澪のことが、なぜだかひどく気に入った。「ずいぶん目が高いんだね。だからいつまでたっても独り身なんだよ」千鶴子は鼻で笑い、彰人の返事も待たずに澪のほうへ歩き出した。彰人は、祖母が余計なことを口にしないかとヒヤヒヤし、慌ててそのあとを追った。会場では、製薬会社の関係者や投資家たちがそれぞれ挨拶を交わしている。その中の誰かが千鶴子に気づき、周りの人たちがほとんどが一斉に立ち上がった。皆が彼女に敬意を払っていることは、言うまでもない。その恭しい態度から、彼女の存在の大きさが嫌でも知れ渡った。澪も振り返った。千鶴子は、若々しい仕立てのジャケットをさらりと着こなし、笑みを浮かべながらも、周囲を圧するような存在感がある。澪はこれまで、報道番組や研究に関する記事、大学の特集などで千鶴子の姿を何度も目にしていたから、すぐに立ち上がった。紗耶も顔を輝かせている。今日ここに来たのは、アカリ製薬の薬が承認されると知っているからだけではなく、千鶴子が審査委員長を務めることを事前に耳にしていたからでもある。柴崎先生と肩を並べるほどの大御所と知り合えれば、損はない。征司は千鶴子とも面識があって、すぐに立ち上がり、軽く会釈した。「藤堂先生、ご無沙汰しております」千鶴子は彼に視線を向けた。彰人の友人である征司のことを、彼女は高く評価している。若い世代の中でも抜きん出た人物で、年長者を相手にしても引けを取らない。彼女は征司のそういうところをかなり気に入っている。ただ、美佐子だけは一筋縄ではいかないと彼女は思う。「今日は投資案件の選定に来たのか?」千鶴子が尋ねると、征司は淡く笑った。「まあ、
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第237話

千鶴子は目を細めて紗耶を見た。そこで初めて、彼女が征司のすぐ隣にぴったりと寄り添っていることに気づいた。わざと親しげな様子を見せているわけではないとしても、その立ち位置だけで二人の関係が特別だと周囲に伝えようとしているのは明らかだ。千鶴子は感情の読めない目で征司を一瞥し、遠慮なく尋ねた。「離婚したのか?」彰人の祖母である千鶴子は、征司が既婚者だということを当然知っている。ただ、森宮家の若奥様は一度も公の場に姿を見せたことがない。千鶴子自身も森宮家とは折り合いが悪く、これまでその結婚に関心を持つことはなかった。しかし、これまで多くの人間を見てきたから、千鶴子にはわからないはずがない。目の前の女は打算が強すぎて、人の話を遮るような無礼な振る舞いをする。こんな人が森宮家の若奥様のはずがない。その質問に、彰人と蓮は顔を見合わせた。二人の表情がわずかに変わった。周囲にいた人々もこのやり取りを聞いて、すぐに耳をそばだてた。離婚?誰と?森宮社長は独身ではないのか。紗耶の口元の笑みも固まった。まさか千鶴子がこんな大勢の前でそんなことを聞くとは思わなかった。澪は何も言わなかった。自分からわざわざ口を挟まなくても、場は十分に混乱していた。一方、征司はまぶた一つ動かさず、いつもどおり落ち着いた顔で言った。「ご冗談を」澪は思わず笑いそうになった。ずいぶん抜かりのない答え方だ。何も知らない者には、千鶴子の言葉が根も葉もない話のように聞こえる。一方で千鶴子には、征司が離婚していないと思い込ませる。その曖昧な返事で、紗耶の評判を守ろうとしているのだ。千鶴子は目を細めた。征司が用心深く、考えの読みにくい男だということは前から知っている。今の返事が、わざと曖昧にされたものだということもすぐに察した。彼女は冷たく鼻を鳴らした。それを見て、蓮はすかさず一歩前に出た。「千鶴子おばあ様、こちらは白石紗耶さんです。アメリカで医学を学び、帰国後は研究開発に携わっている若手です。以前から先生をとても憧れているそうです」彼は巧みに話題をそらし、紗耶の経歴や能力の素晴らしさに焦点を当てた。周囲も、それ以上二人の関係を探ろうとはしなくなった。皆がそれ以上探らなくなったのを見て、紗耶
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第238話

澪も、千鶴子がここまで親しげにしてくれるとは思わず、すぐにうなずいた。「はい。ぜひお願いします」澪の笑顔を横目で見て、紗耶は唇を噛み締めた。目の奥に、一瞬にして憎しみがよぎった。澪はすっかり舞い上がっているように見えた。千鶴子に特別扱いされたくらいで、ここまで得意になるなんて。知之が千鶴子と知り合いなのをいいことに、ちゃっかり乗っかろうとしているのだ。知之がいなければ、澪のような存在感のない女に千鶴子が目を向けるはずがない。彰人でさえこの展開には驚いた。 祖母の気性は彼が一番よく知っている。彼女は普段から誰かに好意を見せたり、あんなふうに穏やかな態度を取ったりすることはめったにない。知之にそこまでの影響力があるとは思えなかった。千鶴子は、そのあとも紗耶を一度も見ず、澪の返事を聞くと、すぐに審査席のほうへ向かった。まるで紗耶など、最初からそこにいなかったかのようだ。紗耶がどれほど自分をアピールしても、千鶴子の関心を引くことはできない。征司もわずかに目を細めたが、特に気にした様子はない。千鶴子は昔からああいう人間だから。「榊社長。今日ここに澪さんを連れてきたことで、アカリ製薬の研究チームから不満は出ないんですか?」紗耶は眉を寄せて知之に言った。自分の経歴に箔をつけるためだけにチームに入り、最終段階の臨床試験からも外されたような人が、こんな場に顔を出していいのか。知之は笑った。「白石さんだって、審査を受けている案件が一つもないのに、森宮社長と一緒なら来られるんでしょ?澪が来ちゃいけない理由は?」自分にだけ都合のいいことを言うのは、おかしいのではないか。紗耶は、知之が自分に対してここまで容赦ない態度を取るとは思ってもみなかったから、思わず澪に目を向けた。澪は知之にいったい何を吹き込んだのか。「まずは席に着こう。始まるぞ」と征司が言った。澪は彼らを相手にせず、知之と一緒に席についた。蓮は彰人のところに行って、低い声で尋ねた。「千鶴子おばあ様はどういうつもりなんだ?さっき紗耶はすっかり面目を潰されたし、危うく征司の結婚のことまでバレそうになった」もしあの場で、紗耶が不倫相手だと明かされていたら、これから先、どうやって人前に出られるだろう。「お前、ばあちゃんが気づいてない
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第239話

周囲から一斉に驚嘆の声が上がった。医薬品において副作用は避けられない。何かを得るためには、ある程度のリスクを受け入れざるを得ない。長く使い続ければ、肝臓や神経への負担は避けられず、一度傷めてしまえば回復も難しい。それなのに、アカリ製薬の新薬は副作用を七割も抑えていた。あまりにも衝撃的な数値で、製薬業界の投資家たちが我先にと押し寄せてくる。澪は知之と承認証書を受け取りに行こうとしていたが、投資家たちに囲まれて足止めを食うことになった。会場は、一気に騒然となった。澪と知之が人だかりの中心にいるのを見て、紗耶は思わず眉をひそめた。彼女も当初、アカリ製薬のプロジェクトが成功するだろうとは思っていたが、まさか最高ランクに指定されるとまでは予想していなかったのだ。最高ランクとなれば、その価値はまるで違う。国内でこのレベルに達しているのは、ほんの一握りの大手製薬会社による数少ない新薬だけだ。そして自分は、開発者として名を連ねるまであと一歩のところにいたというのに、それを澪の手によってまんまと台無しにされた。蓮は感心したように息をつき、紗耶に言った。「気にするな。K大との共同研究を主導して、この薬の処方を完成させたのは君なんだろう。澪がああやってチヤホヤされているのも、元は君のおかげだ。あの評価だって、君の力があってのことだ」その言葉を聞いて、周りの人々が驚いたように紗耶へ視線を向けた。紗耶はそこでようやく口元をゆるめた。「そんな、大したことじゃないわ。臨床試験には参加できなかったけれど、開発には最後まで尽力したわ」「ということは、この処方は白石さんのものなんですか!?」と、誰かが驚嘆の声をあげた。周囲の人々は目を見張り、感嘆の声を漏らした。紗耶へ向ける視線にはいつしか憧れの色まで宿っている。ちょうどそのとき、千鶴子がそばを通りかかり、紗耶の言葉を耳にして足を止めた。人だかりを抜けてまっすぐこちらへ歩いてきた。紗耶をひと目見て、千鶴子は尋ねた。「この薬の開発は、あなたが中心になって進めたの?」自分の判断が間違っていたのだろうか。なにしろ、この新薬の配合バランスは、審査委員会の内部でも大きな衝撃を巻き起こしていたのだから。千鶴子が自分に対する見方を変えたのを感じ、紗耶はチームに名を連ねていない
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第240話

そのとき、会場の大型スクリーンには審査に参加した各製薬会社のリストと、開発チームの名簿が映し出されている。征司は脚を組んだまま、ふと目を上げた。アカリ製薬は第一グループとして最上段に表示され、その下には開発チームの名前もはっきりと並んでいる。そして、澪の名前は――筆頭にある。蓮が勢いよく立ち上がり、スクリーンを指さして、信じられないといった様子で笑った。「榊さん、これ、間違ってるんじゃないですか?澪が筆頭に載ってるなんて、おかしいでしょう?」筆頭に名が載ることの重みを知らない者などいない。筆頭に名を連ねるのは、開発を率いた責任者であり、主要な開発者であり、処方づくりの中心を担った人物だ。論文でいえば、筆頭著者にほかならない。澪にはそれだけの評価に値する実績があると公に示されたのだ。彰人の目にも驚きがよぎった。彼は澪の落ち着いた横顔をじっと見つめた。千鶴子の鋭い問いを受け、紗耶は気まずそうに顔をこわばらせている。だが、澪の名前が載っているだけでなく、筆頭だと知った瞬間、針を無数に刺されたような衝撃が走った。紗耶は説明を求めずにはいられないとばかりに、冷たい顔で問いただした。「榊さん、アカリ製薬としては一体どういうつもりですか?」堂々と澪に他人の手柄を横取りさせるつもりか?アカリ製薬は、いつからそんな素人集団みたいな会社になったのか。知之は紗耶を一瞥すると、千鶴子の方へ向き直った。「先ほど白石さんへのご質問でしたら、こちらからお答えできます」目の前にいる連中が何を考えているかなど、知之にはよく分かっている。先ほど手柄を横取りしようとした紗耶の図々しさには、全く呆れるばかりだ。千鶴子はこの場の空気に流されることなく、横目で彼を見た。「聞かせてもらいましょう」知之は小さく笑った。「白石さんが開発に関わり、処方を作成したことは事実です。だが、その案はすべて却下されました。薬効だけを追い求めた結果、副作用が大きすぎだ。そこで処方は全面的に見直され、一から作り直されています。つまり、今回の新薬の成功と白石さんは微塵も関係ありません」紗耶の顔色が変わった。彼女は思わず周囲を見回し、知之の声が誰の耳にも届かなくなればいいのにと思った。彼女はてっきり、知之がなぜ澪を筆頭開発者にしたのか言い訳
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