Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 5

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第1話

結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つようになってきた。小さな頭の中に、ひとつ悩みができたらしい。自分は実の父親に一度も会ったことがない、ということ。その疑問は、日ごとに大きくなっている。そのせいで澪は、征司に打ち明けるべきかどうか、真剣に迷い始めている。実は五歳になる娘がいるのだと。育児で一番手のかかる時期はもう過ぎている。今さら苦労もなく父親になれるなんて、ずいぶん都合のいい話ではないか。玲衣とのトーク画面を閉じて、澪はふと日付を確かめた。気づけば、征司との結婚生活はもう残り三か月ほどだ。少し迷った末、澪は征司とのLINEを開いた。ほとんどやり取りのないトーク画面に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。【もし、私たちに子供がいたとしたら、あなたは……】送信する前に、診察室のドアが慌ただしく開いた。若い看護師が顔をのぞかせ、早口で澪を呼んだ。「澪さん、急患です!妊娠初期の患者さんで、性行為のあと強い腹痛が出たそうです。かなり無理があったようで、黄体嚢胞が破裂する疑いがあります!」澪はすぐにスマホの画面を消して、立ち上がると、眉を寄せたまま看護師の後について急ぎ足で外へ出た。「もう、何を考えてるの。妊娠初期にそんな無茶をするなんて……少しは我慢できないの?」看護師がカーテンを開けた瞬間、澪はそこで言葉を止めた。ベッドに横たわっているのは、見覚えのある女だった。二秒ほど遅れて、澪は驚きを隠せないまま相手の名を呼んだ。「紗耶さん?」白石紗耶(しらいし さや)は、征司の従弟の婚約者だ。紗耶も澪を見た瞬間、ほんのわずかに動きを止めたが、返事はしなかった。
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第2話

若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃の澪は、征司の言葉を疑わなかった。本当に仕事が忙しく、子供どころではないのだと思っていた。けれど今なら分かる。征司が子供を望まなかったのは、忙しかったからではない。子供ができれば、大切な女が傷つくかもしれない。彼はきっとそう考えているのだろう。ついさっきまで、征司に娘の存在を打ち明けようとしていた自分が馬鹿みたいだ。足音が再び近づいてきて、澪が顔を上げると、征司の底の知れない目と正面からぶつかった。征司は会計を済ませたばかりらしく、手には病院の書類を持っている。澪を見るその目は、赤の他人に向けるものよりも冷たい。さっきの「ED」という発言を、征司は聞いていたのだろうか。一瞬そんな考えがよぎったが、すぐにどうでもよくなった。彼にどう思われても、もう気にする理由がない。征司はすぐに視線を外し、何事もないように背を向けて去っていった。澪は驚かなかった。征司はいつもそうだ。澪に苛立っていることも、関心がないことも、彼女に向き合うつもりがないことも、隠そうともしない。喧嘩をしたいと思っても、そもそも喧嘩にすらならない。言いたくても言えなかった言葉だけが、毎日少しずつ彼女の胸の奥に溜まっていく。夫はいても、頼れる相手はいなく、心を預けられる場所もない。だからこそ澪は、あのとき娘を産むことを決めた。征司には何も知らせず、自分ひとりで育てると。澪は重い足取りで診察室へ戻ると、机の引き出しを開けた。奥には、二組の書類がひっそりと眠っている。征司と婚姻届を出す前に、森宮家の前会長が澪に二つの協議書を差し出した。一つは婚
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第3話

澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊娠していることに気づいた。医師である澪は、自分の体の変化にすぐ気づいたが、それでも最初は信じられなかった。今思えば、あの頃の自分はまだあまりにも甘かった。子供ができない体質だと思い込んでいる彼に、この子の存在を知らせれば、少しは自分と向き合ってくれるかもしれないと思っていたのだ。だから澪は、まず征司の反応を確かめようと、すぐN市へ飛んだ。胸いっぱいの喜びと期待を抱えたまま征司の会社へ向かい、凍えるような風の中で二時間待った末、ようやく彼と顔を合わせた。征司は、突然現れた澪に明らかに驚いた。けれど、彼女を妻として周囲に紹介することはなく、ただ秘書に指示して、澪を滞在先へ送らせた。それでもその頃の澪は、まだ征司への思いだけで動いていた。彼が人前で澪を妻として扱おうとしないことにも、その冷たさにも気づかなかった。夜になって戻ってきた征司は、シャワーを浴びるなり澪に近づいた。長旅で疲れていないかなど、気遣う言葉は一つもなく、ただ当然のように身を寄せて、彼女の耳元に唇を落とした。けれど、その仕草に甘さはなく、義務のように淡々とした触れ方だった。まるで澪が、彼に抱かれたくてここまで来たとでも思っているかのようだ。澪は胸の奥に広がる違和感に耐えきれず、征司をそっと押し返した。澪は動揺を押し殺し、緊張でこわばる声で尋ねた。「もし、私に子供ができたら、私たち……少しは変われるかな」その一言で、征司は一気に興を失ったらしい。彼はあっさり澪から身を離すと、そのまま目を閉じた。同じベッドにいながら、二人の間には埋めようのない溝
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第4話

征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞かされて、断る理由などない。彼らは顔を見合わせると、すぐに笑顔でうなずいた。悠真は止める暇もなく、顔を真っ赤にして澪を指さした。「お前、何様だよ!これは母さんが紗耶さんに贈ったものなんだぞ!勝手に決めていいと思ってんのか?兄さんが絶対にお前を追い出すからな!」その一言で、澪はようやく分かった。紗耶の家具をこの家に運び込ませたのは征司だけではなく、彼の母・森宮香澄(もりみや かすみ)も最初から承知しているのだ。澪は悠真を見下ろし、はっきりと言った。「そう。じゃあ明日、あなたの学校に行って、みんなに話してあげるわ。悠真は、お兄さんと従兄の婚約者の女をくっつけるって。森宮家って、そういうことを平気で許す家なんだって。そんなに紗耶さんの味方をしたいなら、学校中に広めてあげる。……悠真は有名人になりたい?」澪の言葉は、十二、三歳の子どもに向けるには、あまりにも容赦がなかった。彼女はこれまで、悠真にこんな言い方をしたことが一度もなかった。いつもなだめ、機嫌を取り、子どもだからと許してきた。だからこそ悠真は、信じられないものを見るように目を見開いた。やがて顔をさらに赤くし、声を震わせて怒鳴った。「やっぱりお前、最低だ!そんなこと、できるわけないだろ!」澪は肩をすくめた。ほら、ちゃんと分かっているじゃない。子どもだから何も知らないわけではない。子どもの言うことだから許される、などということもない。刃が自分に向けられた途端、人はちゃんと痛みを覚える。子どもだから大目に見ろ、なんて誰が決めたのだろう。騒ぎを聞きつ
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第5話

そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰人にお茶を注ぎ、静かに差し出した。「何かあったの?彼女のことで腹を立てても仕方ないわ。気にしないで」紗耶がこんなふうに澪をかばうような言い方をしたことで、彰人はますます二人の差を感じた。彼は椅子の背にもたれ、肩をすくめて冷たく笑った。「あいつが紗耶のことを何て言ったと思う?聞くに堪えないよ。女の嫉妬って、ここまで醜くなるのかと思った」彰人はさっき聞いた話をそのまま口にした。それまで澪の話題に興味を示していなかった征司の目が冷たく変わり、眉間にしわが寄った。「それ、澪が言ったのか」征司は彰人を見た。その声からは怒っているのかどうかさえ分からない。紗耶の表情もそこで少し曇った。「彰人さんが聞いたのなら、間違いないでしょう」彼女は唇を軽く引き結び、彰人の代わりにそう答えた。蓮がすぐに声を荒げた。「それって、紗耶に下劣な噂を立ててるってことだろ?澪も女のくせに最低だな。七年も一方的に尽くして愛されなかった腹いせに、紗耶を引きずり下ろそうとしてるのか?女の嫉妬って、本当に見苦しいな」少し考えたあと、蓮はすぐに言った。「何の落ち度もないのにそんなことを言われたなら、きっちり謝らせないとな」蓮がそう言うと、紗耶は一度深く息を吸い、問いかけるように黙って征司を見た。征司は何も言わず、ただスマホを手に取り、電話に出るために席を立った。関わるつもりはないが、止めるつもりもない。蓮と彰人は顔を見合わせた。それだけで、征司の態度は十分伝わった。征司が澪に少しも関心を向けていないことに、紗耶は目を伏せ、満足そうに唇の
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