Masuk朝比奈澪(あさひな みお)の結婚には、二つだけ秘密があった。 一つ目は、森宮家が彼女を嫁として認めていないこと。そして家族ぐるみで、森宮征司(もりみや せいじ)に黙っていたまま、結婚前に離婚協議書に署名させていたこと。 この結婚は最初から七年しか続かない運命だった。 二つ目は…… 澪が征司に黙って娘を産んだこと。 結婚して七年。征司は、自分に五歳の娘がいることさえ知らなかった。 七年もそばにいて、ひたむきに尽くしていれば、いつか征司も心を開いてくれるはずだと思っていた。 けれど、離婚まであと三か月に迫った頃、澪は思いもよらない事実を知ってしまう。 ーー征司がずっと忘れられない相手は、従弟の婚約者だ。 七年も尽くしてきた自分がたまらなく惨めで、馬鹿みたいだと思えた。 澪の心は、完全に冷え切った。 もう、二人の間に子供がいることを打ち明けるつもりはない。 離婚して、征司とはきっぱり縁を切り、娘と二人で生きていく。 彼は父親なんかじゃない。ただDNAを残しただけだ。 ところが、世間からただの専業主婦と見下されていた澪は、やがて表舞台へ返り咲き、史上最年少で医学賞を受賞した。 かつて彼女を冷たくあしらい続けた征司は、そこで初めて思い知った。 澪はとっくに離婚を決めていて、もう自分なんて必要としていなかった。 そして、娘の存在までもが世間に知られることになる。 いつも冷淡で、何にも執着しないはずの征司が、大勢の前で澪を追い詰め、歯を食いしばって言った。 「離婚だって?俺を捨てて子供だけ連れていくだと?澪、お前は俺を殺す気か?」 澪は娘の手を引いたまま、静かに笑った。 「森宮社長、言っとくけど、この子は穂積(ほづみ)の子よ。森宮家の子じゃない」
Lihat lebih banyakその理由までは、誰にも分からない。彰人はまだ気が落ち着かず、フェイのことまで深く考える気にはなれない。「そういう天才は案外気にしないのかもな。名誉にも金にも興味のない奴だっているだろ」そう言われてみればそうかもしれないと紗耶は思った。あれほど充実したデータベースを一人で作れるのだから、さすがはフェイだ。業界でもトップクラスの機密とされる処方までいくつも収められている。新しい処方を簡単に考え出せるのなら、そのうちのいくつかにこだわるはずもない。それだけ価値のある内容だからこそ、使用料もここまで高いのだ。そう思うと、紗耶はいくつか腑に落ち、グラスを傾けている征司に顔を向けて微笑んだ。「征司、母さんが今度一緒に食事でもどうかって。プロジェクトが順調なのも、最初からあなたがいろいろ力を貸してくれたおかげだから」プロジェクトがまもなくいいスタートを切れそうで、蓮はすっかり上機嫌だ。グラスを持ち上げ、二人をからかった。「親への挨拶ってことか?いいじゃない」征司は淡々としていて、笑っているのかどうかも分からなかった。紗耶は思わず口元を押さえて小さく笑い、恥ずかしそうに言った。「ただ一緒に食事するだけよ」彰人も二人を見て、同じようにグラスを上げた。「おめでとう」ー藤堂家から戻って数日、澪は忙しく、あの日のことを思い返す暇もほとんどない。仕事はすべていつもどおりに進んでいる。千鶴子も澪に対して悪意を抱いているわけではないらしい。報復とまではされなくても、仕事で多少の嫌がらせは受けるかもしれないと覚悟していたが、そんなことは何も起こらなかった。むしろ澪のほうが、千鶴子を思うと胸が痛んだ。結局、孫娘が恋しくてたまらないのだろう。穂積家との婚約を守り続けることで、孫娘は必ず帰ってくると自分に言い聞かせてきたのだ。今は、その心のよりどころさえ失うのだろう。とはいえ、皆それぞれに事情がある。宇一がいつまでも待てないのも、藤堂家が諦めきれないのも分かる。どちらかが悪いと割り切れる話ではない。澪のプロジェクトはまだ初期段階にある。技術面で乗り越えなければならない課題が多く、自分で確認すべきことも山ほどある。別の医療用AI機器を開発するのなら、ここまで時間もお金もかからないのだが。昼休みになり、同僚た
澪はかすかに眉を動かした。まさか、自分が紗耶の面接を担当するなんて。目を伏せて何か考えている澪を見て、紗耶はひそかに笑った。自分との差を思い知って、すっかり自信をなくしたのだろう。ちょうどそこへ、スマホが鳴った。征司からの着信だと分かると、紗耶の口元がふと甘く緩んだ。急いで帰る気は失せたらしく、その場で電話に出た。「征司?迎えに来てくれたの?」夫を奪った女と元夫が仲よく話すところなど聞きたくもない。澪は紗耶の横を通り過ぎ、廊下へ出た。だが、紗耶の甘ったるい声が背後から追いかけてきた。「わざわざ来なくてもいいのに。忙しいんでしょう?すぐ下りるね」澪がエレベーターの前まで来たところで、紗耶が先に割り込んだ。「ごめんなさい。彼氏が迎えに来てるから、先に下りるわ。隣のエレベーターを待ってもらえる?」紗耶は澪の肩を軽く押しのけてエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。「……」それまで保っていた冷静な気持ちが、一瞬でかき乱された。しかも、あの「彼氏」という言い方に、澪は冷ややかに笑った。征司にそこまで大事にされているのか?堂々と会社まで迎えに来て、紗耶も恋人だと隠そうともしない。七年も一緒にいた自分は、あんなふうに大切にされたことなどなかった。それなのに、別れるとなった途端、ほかの女を大切にする姿を見せつけられるなんて。澪はこわばった首を揉み、黙って息を整えた。職場まで来て仲のよさを見せつけられては、避けようもない。報告書を届けてから研究室に向かうつもりだったが、もうあの二人と顔を合わせたくなくて、その気がすっかり失せた。ー征司と紗耶は、予約しておいたレストランに着いた。今日は、WAKANナビのデータベースを正式に使えるようになった記念の日だ。紗耶のプロジェクトに出資している蓮がその祝いに食事の席を設けた。紗耶が店に入るなり、蓮は拍手で迎えた。「おめでとう。これで成功はもうすぐそこだな」蓮としても、うれしいに決まっている。この投資でしっかり儲ければ、じいちゃんも自分を見直すはずで、いつも何をやっても駄目だと言われずに済むのだ。紗耶は少し照れたような顔で、後ろにいる征司を振り返った。「征司がアカリ製薬と交渉してくれたおかげよ。そうでなければ、データベースを使わせてもらえな
澪の手がぴたりと止まり、胸がどきりとした。振り向くと、宇一がじっとこちらを見つめている。澪の戸惑いを察したのだろう。普段はあまり笑わない宇一の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。彼は澪にバッグを差し出しながら、静かな声で言った。「返事はいつでもいいから、ゆっくり考えて」その一言で、気まずくなりかけた空気がすっと和らいだ。同時に、澪がとっさに断ろうとするのを、先回りして止めたようでもある。そして短く「またな」と言い、答えをせがむこともなく、宇一はそこで話を切り上げた。踏み込むべきところと、引くべきところをよくわきまえているらしい。澪は会社の入り口に立ち、目まぐるしく考えを巡らせたが、自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。前にプロポーズされたときは、お互いその話に深く踏み込まなかった。澪もその場の勢いで言っただけだと思い、いつしか気に留めなくなっていた。だが、宇一は改めてその話を持ち出した。冗談ではないと、はっきり伝えてきたのだ。澪は困り果てて、髪をくしゃりと掻き上げた。普段なら冗談で流したり、なかったことにすることもできる。しかし、こうなってもうごまかせないと悟ると、どう対処すればいいのか、途方に暮れてしまう。自分が経験した、たった一度の恋愛は散々なものだった。男にも恋愛にも、失望していないと言えば嘘になる。もう一度誰かと向き合おうと考えるだけでも、正直、気が重い。宇一は、ただ藤堂家との縁を切りたいだけなのかもしれない。これまで互いに恋愛感情を抱いていたわけでもない。今は本当に自分を好きだとしても、その気持ちがいつまで続くか分からない。自分が現実的な人間だという自覚はある。明日より先のことまで考えたくはない。そう思って、澪はため息をついた。オフィスに入ると、聡祐からメッセージが届いた。【澪、穂積社長とはいったいどういう関係なんだ?彼は藤堂家の婿になる人だぞ。少し冷静になれ。向こうが勝手に期待しないよう、早く断ったほうがいい。欲張るのもいい加減にしろ。恋人のいる森宮社長に相手にされないからって、何人もの男をその気にさせてどうするんだ】澪は眉間を押さえた。もう一度、さっさとブロックしてやりたいが、聡祐は出資者だ。それができないのが厄介だ。返信はせず、通知をオフにして、ようやく仕事に集
征司は表情一つ変えず、気にしている様子など少しもない。紗耶は胸をなで下ろし、ほっとしたように微笑んだ。――澪も本当に愚かだ。こんなやり方じゃ、結局どちらにも見放されるだけだというのに。森宮家からは追い出される。そして穂積家も、森宮家に捨てられた女など受け入れるはずがない。あまりにも浅はかだわ。だが征司はその話には乗らず、代わりに彰人に視線を向けた。「宇一の娘の母親は、いまだに分からないのか?」彰人の眉がわずかに動いた。「ああ。あいつがうまく見つからないようにしてるんじゃないか」紗耶は大したことではないというように軽い調子で言った。「そんなに落ち込まなくてもいいんじゃない?まだ互いにきちんと話し合ったわけでもないんでしょ。それに、穂積社長が澪さんを本気で好きなのか、ただ利用しているだけなのかなんて、見ればわかるわ。澪を藤堂先生の怒りの的にして、両家の関係まで悪化させたんだから、穂積家の人だって黙ってはいないはずよ。どうせ二人は、そのうち揉めて終わるんじゃない」もちろん、宇一が一方的に澪を切り捨てる側だ。宇一ほどの男なら、これまでにも魅力的な女性と大勢出会ってきたはずだ。それに、宇一は自分のこともよく知っている。自分と比べれば、澪には何ひとつ魅力も取り柄もない。宇一もビジネスの世界で生きる人間だ。どちらを取るべきか、誰よりもよく分かっているはずだ。彰人は鼻筋を指でつまんだが、苛立ちは収まらなかった。「宇一はたぶん、今日わざとああいう話をしたんだ。ばあちゃんもプライドが高いから、あそこまではっきり言われたら、無理に引き止めはしないだろう。だが、すべてを奴の思いのままにさせて、こちらが黙って引き下がるなんて、俺には到底できない」宇一が澪を本気で好きであろうと、利用しているだけであろうと、そんなことは関係ない。ただそう簡単に、思い通りにさせるわけにはいかない。このままいけば、一月も経たずに婚約は解消されるだろう。だが、その前に一度くらい、宇一に嫌な思いをさせてやらなければ、気が済まない。彼の娘の母親を探し出し、表沙汰にして結婚を迫らせればいい。そうすれば彼の計画も思惑も、すべて台無しにできる。向こうもしばらくはその対応に追われ、澪との話も自然と立ち消えになるはずだ。「元気を出してよ。そんなことでいつまでも
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か






Ulasan-ulasan