「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見透かすような目で。ガラス張りの窓の向こうに、青々とした四月の葉桜が風に揺れている。三週間前に初めて会った日は、雨だった。「本当のお名前を、教えてもらえますか?」低く、落ち着いた声だった。急かさない、追い詰める口調でもない。なのに、息が苦しい。──無理だ。この人の前では、どんな嘘も薄っぺらく見えてしまう気がした。窓の外で、鮮やかな緑の葉がひとひら、風に弾かれた。「……安心してください」私が口を開く前に、黒瀬さんが言った。「今すぐ責めるつもりはありません」そこで一度、言葉が途切れた。コーヒーカップをソーサーに置く。迷いのない動作だった。「ただ──非効率なことが、嫌いなので」黒い瞳が、まっすぐ私を捉える。「あなたが誰なのか、教えてもらった方が話が早い」背筋を、氷で撫でられたような感覚が走った。四月の嘘は、桜と一緒に静かに散るはずだった。なのに、花が落ちて鮮やかな青葉が芽吹いても、私はまだ偽物の仮面を剥がせずにいた。……こうなったのには、理由がある。三週間前。姉からかかってきた一本の電話が、すべての始まりだった。◇三週間前──四月最初の日曜日、朝七時。けたたましい着信音で目を覚ました私は、スマホの画面を見て顔をしかめた。《真帆お姉ちゃん》嫌な予感しかしなかった。「……もしもし」『ねえ。今日のお見合い、あたしの代わりに行ってきて』開口一番、それだった。「そんなの、無理に決まってるでしょう」布団から起き上がりながら、即答する。お姉ちゃんの代わりにお見合いだなんて、冗談じゃない。カーテンの隙間から見えた空は、どんよりとした曇り空だ
Last Updated : 2026-06-15 Read more